2022年12月28日

誤りだらけだった?NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が終わりました。人気脚本家の三谷幸喜さんが手がけただけあって、笑いあり涙ありと楽しく見させていただきましたが、小学生の時から、大河ドラマから歴史を学んできた私にとって、三谷作品にはやはり懐疑の念を持ってしまいました。それは、史実と違う内容が余りにも多かったからです。大河「ドラマ」ですから、史実をアレンジすることは一向に構わないのですが、それでも……。

 

今年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の放映期間中は、途中から番組が終わるたびに史実を確認しながらこの時代を勉強させてもらいました。「鎌倉殿の13人」の史実との違いについては、プレジデント社もネットへの投稿記事で指摘されていたので、それをいくつか紹介しながら「疑惑」を明らかにしてみたいと思います。

 

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鎌倉時代の最大の見せ場の一つは承久の乱に際しての北条政子の言葉でしょう。史上初の武家政権の基盤は「御恩と奉公」の関係です。頼朝から所領を与えてもらった御恩に対して御家人が奉公するという双務的な関係こそが、鎌倉幕府の存立と発展のキーワードです。これを如実に示すのが政子の演説(実際は代読)です。

 

このシーンを三谷幸喜さんは、御恩の「ご」の字も奉公の「ほ」の字も出すことなく、弟(義時)を思う姉(政子)に感動した御家人たちが奮い立って、朝廷軍と戦うという風に仕立てました。

 

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NHK大河ドラマとはまったく違う…尼将軍・北条政子が御家人たちの前で史実として伝えたことドラマでは弟・義時を擁護する演説をしていたが…

(PRESIDENT Online、2022年12月18日)(一部抜粋)

 

承久の乱を前に、北条政子は御家人たちに何を話したのか。歴史学者の濱田浩一郎さんは「史料によれば、源頼朝の御恩を切々と説き、朝廷側についた武将を討てというものだった。大河ドラマで描かれたような、弟・義時についての発言はなかったはずだ」という――。

 

史料に残る政子の行動

鎌倉時代後期に編纂された歴史書『吾妻鏡』には、政子の演説の言葉が掲載されていますが、自ら語りかけたわけではありません。安達景盛(頼朝に仕えた安達盛長の子)に代読させています。政子は御簾の中にいたと思われます。

 

ドラマの政子演説であったような「この人(義時)は生真面目なのです。すべてこの鎌倉を守るため。一度たりとも私欲に走ったことはありません」「選ぶ道は二つ。未来永劫、西のいいなりになるか、戦って坂東武者の世をつくるか。ならば、答えは決まっています」との文句は『吾妻鏡』には当然ありません。

 

「鎌倉殿の13人」では、姉・政子が弟・義時を守るため、演説したようにも見えましたが、そんなことはなかったのです。『吾妻鏡』における政子演説の軸は、源氏将軍の御恩を説き、御家人を感奮・出撃させ、院方の首謀者である藤原秀康、三浦胤義(たねよし)らを討ち取ることにありました。そこで、弟・義時の命うんぬんの言葉が出てきたら、おそらく、御家人たちは白けてしまった可能性もあります。

―――――――(一部抜粋ここまで)

 

(実際の政子の有名な「演説」内容)

皆、心を一つにしてよくお聞きなさい。これが今度の最後の命令です。頼朝様の恩は山より高く、海より深いものです。感謝の気持ちは浅いものではないはず。それなのに、逆臣の告げ口のために、道理の通らない朝廷の命令が出ました。侍としての名誉を守ろうと思う者は、足利秀康や三浦胤義を討ち取って、鎌倉を守りなさい。但し、朝廷側に付きたいと思う者は、今、この場で宣言しなさい。

 

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「鎌倉殿の13人」の中で、北条義時の最初の妻「八重」は、源頼朝との間に子をもった女性で、義時と八重の間に後の3代執権泰時が生まれたという設定でしたが、これは大半の歴史家から否定されています。三谷さんはごく少数派の説に飛びついたのだと思われます。

 

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NHK大河ドラマだから描けること…源頼朝の最初の妻「八重」をめぐる三角関係の歴史的事実ドラマでは「北条義時の初恋相手」とされているが…

(PRESIDENT Online、2022年4月24日)(一部抜粋)

 

ドラマでは、義時の初恋の相手として、八重(新垣結衣)という女性が登場する。

八重の父親は、伊豆国伊東荘の豪族・伊東祐親(すけちか)とされている。当時、伊東祐親には娘は4人いたという。この三女(一説には四女)と源頼朝とが恋愛関係となり、日が経つうちに、男子が誕生。

祐親は家を守るために、非道の決断をする。娘・八重の元に使いの者を遣わし、千鶴を誘い出した上、川に沈めてしまったのである。さらに祐親は、八重を頼朝から奪い返し、伊豆国の武士・江間次郎に嫁がせてしまったのであった。八重は…頼朝との関係を引き裂かれ、子供を親に殺され、再嫁した夫も戦死する。

それまでに、義時と八重に面識があったか否かは分からない。

少なくとも、ドラマあるような幼い頃からの親密な関係であったとは、史料には全く書かれていない。

さらに義時が八重のことを好きだったという証拠もない。

義時と八重が結婚し、鎌倉幕府第2代執権となる北条泰時を生んだというが…2人の間に子供が生まれた史実はない。

もちろん、ドラマである。例えば、義時が八重と結ばれて、泰時が生まれるという設定にするのは何も問題はない。

ただ、毎回番組の終わりに放送される「鎌倉殿の13人紀行」(4月3日)のなかで「義時の妻となった八重」とのナレーションがあったのには驚いた。このコーナーはドラマではなく、あくまで史跡探訪。そこにおいて「義時の妻となった八重」と確立された史実のように話すのは、いかがなものかと感じた。

――――――(一部抜粋はここまで)

 

では、実際の八重はその後どうなったかというと、千鶴丸を殺されたことや頼朝が政子と結婚したことを嘆き悲しんだあまりに入水自殺したとみられています。ですから、大河ドラマで描かれていたように、八重が義時と結婚したとか、頼朝の御所に勤めたという事実は限りなくなかったと思われます。なお、「鎌倉殿の13人」において、北条義時の妻・八重は、川に流されそうになっている鶴丸という男の子を助けようとして、急流に足を取られ、溺死しています。

 

一方、3代執権泰時の母は誰かというと、阿波局という御所に仕える官女だと広く認められています。つまり、三谷幸喜さんは、八重と阿波局を同一人物と見立てて描いたいのです。

 

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次の紹介する「史実と違うのではないか」と疑われる点は、今回、三谷幸喜さんが採用した、三浦義村・実朝暗殺黒幕説と、後妻・のえによる義時毒殺説です。これまでの2点と違って、歴史的にも確かに存在した説なのですが…

 

NHK大河ドラマは史実とはあまりに違う…北条義時の盟友・三浦義村が本当に考えていたこと、幕府の乗っ取りを狙っていたとは考えにくい

(PRESIDENT Online、2022年12月18日)(一部抜粋)

 

鎌倉幕府2代執権・北条義時を支えた三浦義村とはどんな人物か。歴史評論家の香原斗志さんは「史実をみれば、一族の存続を第一に考えていた武将だ。そのために、義時に近づき、どんな仕事でもこなした。NHK大河ドラマで描かれたように、打倒北条の機会ばかりをうかがっていたとは考えにくい」という――。

 

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、山本耕史演じる三浦義村に存在感があった。ドラマで印象的だったのは、北条義時の盟友として(血縁上も従兄弟だ)、ともに幕府を支えながら、あわよくば三浦が北条にとって代わろうとチャンスを狙っている姿だった。しかし無理はせず、まずは三浦一族が存続することを優先する。

 

大河ドラマでは、義村は2代将軍頼家の遺児である公暁から事前に、実朝を暗殺して自分が将軍になるという計画を相談されていた。しかも、それに協力する旨を伝えていた。いわば、公暁の黒幕に義村がいたように描いていたが、現実には、これまで危ない橋をことごとく避けてきた義村が、そんな計画に乗ったとは到底思えない。

―――――――(一部抜粋)

 

ちなみに、大河ドラマでは、実朝を討った公暁は、義村によって首をはねられましたが、実際は、義村が遣わした家人と争った末、討たれたというのが正確な史実のようです。

 

 

NHK大河ドラマとはまったく違う…史料に書かれている2代執権・北条義時の本当の死因ドラマでは後妻・のえによる毒殺と描かれたが…

(PRESIDENT Online、2022.12.24)

 

鎌倉幕府2代目執権・北条義時の死因はなんだったのか。歴史学者の濱田浩一郎さんは「史料には、体調不良による病死と書かれている。NHK大河ドラマで描かれたような毒殺だとは考えにくい」という――。

 

史実に残された義時の本当の死因

1224年6月13日、鎌倉幕府の第2代執権・北条義時は、この世を去ります。62歳の生涯でした。

 

義時を死に至らしめたものはなんだったのか?

『吾妻鏡』は、「日者脚氣之上、霍乱計會す」と記しています。つまり、義時は日頃から脚気(かっけ)を患っていたというのです。それに「霍乱」(夏季に生ずる下痢や嘔吐を伴う体調不良)が加わる。それこそ、義時の死因だと『吾妻鏡』は記しています。

 

義時はどのような死を迎えるのか?妻・伊賀の方(ドラマでは「のえ」)による毒殺でした。

のえは、義時の嫡男・泰時ではなく、自分が産んだ義時との子・政村に家督を継がせたい。それが動機だと描かれました。

 

伊賀の方による毒殺はあり得ない

伊賀の方が我が子・北条政村を執権にしたいと考えた時、一番頼りになるのは、夫の義時だったはずです。最大の頼みの綱・義時を毒殺することは、政村の執権就任をかえって遠ざけることにつながるといえるでしょう。余談ですが、大河では毒の入手先を義時の盟友である三浦義村としていましたが、史実ではありません。

 

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最後に、そもそも、大河ドラマのタイトル「鎌倉殿の13人」にあるように、2代将軍・頼家を牽制するために、13人の有力御家人が集まって、合議制で政治が行われたのか、という根本的な問題(疑問)についてみていきます。

 

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NHK大河ドラマは根本的に間違っている…「鎌倉殿の13人の御家人」が史実としてやったこと、「日本の歴史上、初めて合議制で政治が動いた」は本当か

(PRESIDENT Online、2022年7月24日)

 

鎌倉幕府初代将軍・源頼朝が亡くなった後、幕府はどのように政治を動かしていたのか。歴史学者の濱田浩一郎さんは「NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、2代将軍・頼家と、13人の有力御家人による権力争いが描かれているが、これは史実と異なる」という――。

 

「13人の家臣が集まり、日本で初の合議制をした」は本当か

NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の第27回「鎌倉殿と十三人」(7月17日放送)で、主人公・北条義時をはじめとする御家人13人が集結し、2代将軍・源頼家に「13名でございます」と紹介した。これに対し、頼家は自らの側近衆を紹介。義時らが形成した「13人」を牽制する挙に出た。頼家と有力御家人たちの利害が対立する様子を描いている。

 

脚本を担当した三谷幸喜さんは、ドラマのPRで作品の意図を次のように書いている。

「『鎌倉殿』とは、鎌倉幕府の将軍のことです。頼朝が死んだあと、2代目の将軍・頼家という若者がおりまして、この頼家が2代目ということもあって、『おやじを超えるぞ!』と力が入りすぎて暴走してしまう。それを止めるために、13人の家臣たちが集まって、これからは合議制で全てを進めよう、と取り決めます。これが、日本の歴史上、初めて合議制で政治が動いたという瞬間で、まさに僕好みの設定です」

 

鎌倉幕府内の13人の有力御家人(これが、「鎌倉殿の13人」)が、頼家を牽制するために、皆で寄り集まって、会議をし、政治を進めていく。これが、いわゆる「十三人の合議制」なるものだ。しかし、この合議制は存在しなかったというのが私の考えだ。

 

頼家の権力を奪っていたわけではない

幕府を開いた源頼朝は、建久10年(1199)1月に突如、死去する。頼朝の後継者は、長男の頼家である。頼朝が亡くなった同じ年の4月、『吾妻鏡』(鎌倉時代の後期に編纂された歴史書)には次のような一文が見える。

 

「訴訟のことについて、頼家が直接、判決を下すことを停止する。今後、大小のことにおいては、北条時政、同義時、広元、康信、親能、義澄、知家、義盛、能員、盛長、遠元、景時、行政らが相談して決めること。そのほかの者は、訴訟のことを容易に頼家に言上してはならない」(『吾妻鏡』の地の文)と。

 

この文章は、それこそ、冒頭の三谷さんの言葉のように、頼家の権力を剝奪し、13人の有力御家人が合議によって政治を前に進めようとしたものと解釈されてきた。

 

しかし『吾妻鏡』の文章をよく見てみると、13人以外の者が「訴訟のことを容易に頼家に言上してはならない」とあるように、頼家の訴訟への介入を全否定したものではない。ただ、頼家に訴訟のことを言上できる対象を13人に限ったというだけの話である。

 

それを証明するかのように『吾妻鏡』には、この記述以降も、源頼家が訴訟に介入する事例が存在するのだ。

 

…この問題は、三善康信を通して、頼家のもとに持ち込まれた。頼家は、差し出された境界付近の絵図を見ると、急に筆をとり、墨で絵図の真ん中に線を引いてしまう。そして、こう言い放つのだ。

「土地の狭い広いは、その人の運不運だと思い諦めよ。わざわざ使者を出して、現地を調べる必要もない。今後、境界争いは、このように結審する。だから、そのつもりでいよ。それがダメだと思うような者は、裁判を起こさないように」と(『吾妻鏡』正治二年=一二〇〇年五月二十八日条)。

頼家の言動が正しいか否かは別にして、彼は力強く、訴訟に介入している。それどころか、「鎌倉殿の13人」の一人、三善康信が頼家に訴訟を持ち込んでいるのだ。

 

この事例を見ただけでも「頼家の暴走を防ぐために、13人の家臣たちが集まって、これからは合議制で全てを進めようと取り決めた」わけでもないし、そうした実態があったわけでもないことが窺えよう。

 

北条一門や有力御家人らが集まって、会議をすることはあったが、いわゆる「鎌倉殿の13人」全員が集まって、合議したとする史料は現時点では存在しない。よって「鎌倉殿の13人」(十三人の合議制)なるものは存在しなかったと言えよう。

――――(一部引用ここまで)

 

 

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以上、今年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の中で、史実と異なる点を指摘したプレジデント社(PRESIDENT Online)の投稿の一部を紹介しました。

 

これらの史実と異なる脚本は、歴史を楽しみたいと思ってみる人たちにとっては、ドラマですから何の問題もないのですが、歴史を学びたいという人たちにとっては、もし脚本が史実と異なるなら、正しい歴史を知っておく必要があるでしょう。

 

三谷幸喜さんは一流の脚本家ですが、歴史を扱うときには「歴史」をもう少し尊重していただきたいと思います、と大脚本家に対して、一介の大河ファンが、「苦言」のようなものを呈するに至ったのは、三谷さんが脚本された大河ドラマ「真田丸」の時の「トラウマ」があったからです。

 

「真田丸」の最終回で、真田幸村が最後、佐助の介錯で自害する場面があったのです!あれは「完全に嘘だ」、「歴史の冒涜だ」と憤慨した記憶があります。まるで、大昔、お正月の民放の歴史ドラマで、千葉真一さん扮する明智光秀が、本能寺の変で、(千葉さんの代名詞ともいえる)柳生十兵衛ばりに信長を切り捨てるというシーンをみたときと同じ感情でした。

 

大河ドラマから歴史を学びたいと思っている視聴者のために、NHKさんには、今後、大河ドラマの放送終了時に毎回、「この番組はドラマであり、史実と異なる場合があります」的なテロップを入れて頂きたいと思います。