成年式:男性皇族が成人したことを祝う儀式

 

秋篠宮家の長男悠仁さまが成年を迎えたことを祝う「成年式」が、2025年9月6日、皇居・宮殿などで行われました。筑波大1年生でこの日に19歳となられた悠仁さまは、装束姿で成人用の冠を着ける「加冠の儀」など、宮中の伝統を受け継いだ儀式に臨まれました。皇室の成人式についてまとめました。

 

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◆ 成年式とは?

 

皇室の成年式は、男性皇族が成人したことを祝う慣例儀式で、成年皇族の仲間入りを示すとともに、成年皇族としての自覚を深めるための節目の儀式と位置づけられています。

 

女性皇族の場合は、成年式ではなく、勲章の親授や祝賀といった「成年の行事」が行われます。近年の例でいえば、佳子さま(2014年成年)や愛子さま(2021年成年)が行事に臨まれました。その際、記者会見や勲章の授与などはありましたが、式は行われませんでした。

 

◆ 40年ぶりの成年式

 

今回、成年式が行われるのは1985年の父・秋篠宮さま以来40年ぶりで、悠仁さまは戦後の成年式に臨まれた8人目の皇族となります。

 

皇室典範では天皇、皇太子、それに皇太子がいないときに皇位継承順位1位となる皇孫(=天皇の孫)について、18歳で成年とすると定めています。それ以外の皇族については民法の規定を適用していて、法改正後は18歳を成年としています。

 

天皇陛下と秋篠宮さまはそれぞれ20歳の誕生日当日に成年式に臨まれました。悠仁さまは2022年の民法改正に伴い、昨年18歳で成年を迎えられましたが、当時はまだ高校在学中であったことや、大学受験を控えられていたため、学業への影響を考慮し、成年式は1年後に行われることになりました。

 

◆ 成年式の由来

 

男性皇族の成人儀礼は、通過儀礼としての「元服」がもとになっており、古来、「元服の儀」として行われ、その歴史は約1300年前の奈良時代に遡ります。(成年式は、古来の「元服の儀」に由来)

 

確かな記録として残っている最も古い事例は、奈良時代の714年、聖武天皇が皇太子だった14歳の時に実施された儀式です(聖武天皇は当時、 首(おびと) 皇子と呼ばれていた)。

元服の儀礼は、中国から伝わったとされていますが、徐々に日本ならではの形に変化しました。今も続く儀式の内容は、平安前期のころに、冠をかぶる「加冠の儀」や祝宴といった、現在に続く成年式の形式が整ったとみられています。

 

実際、788年には加冠の儀が行われた記録があり、平安時代の864年に清和天皇が成人した際、唐の制度にならって式次第が作成されました。即位後の天皇は主に11~15歳で正月の1月に、皇太子は17歳までにそれぞれ儀式が行われたと言われています。

 

明治に入り、1909年にその式次第を明文化した「皇室成年式令」が制定され、男性皇族が成年となった日に行う儀式を成年式と定めました。このとき、明治天皇の意向で、洋装化後も伝統装束が皇室に残されたと言われてます。

 

同令は戦後の1947年に廃止され、現在はあくまで慣例として、男性皇族限定で式が続いています。1952年の上皇さまの皇太子成年式からは一部の儀式を省略したかたちで実施され現在に至っています。

 

◆ 成年式の儀式と関連行事

 

成年式では、つぎの4つの儀式が行われます。

冠を賜うの儀

加冠の儀

賢所・皇霊殿・神殿に謁するの儀

朝見の儀

 

(1) 冠を賜うの儀

 

成年式は、6日午前8時45分、秋篠宮邸での「冠(かんむり)を 賜(たま) うの儀」から始まりました。この儀式は、天皇陛下が、「燕尾の纓(えい)」の付いた冠を、悠仁さまに贈られるもので、モーニングコート姿の悠仁さまは、陛下の使者から、成年の証しの冠を受け取られました。

 

冠は和紙で作られ、表面に薄い絹を張った上に、黒漆が塗られています。冠のうしろには穴があいていて、緩やかに垂れ下がった「纓(えい)」という絹織物が差し込まれます

 

「冠を賜うの儀」では、天皇陛下から冠とともに纓(えい)(冠の後ろに差して後ろに垂らす、薄い羽根状の装飾具)も贈られます。「垂纓(すいえい)」と、絹織物がツバメの尾のように左右に開いているのが特徴の「燕尾纓(えんびのえい)」の2つです。

 

直立した状態の纓は天皇のみが使用でき、それ以外の纓は位に応じて緩やかに曲がり、後ろに垂れ下がっていると言われています。

宮内庁によると、冠と纓の製作費は合わせて257万8000円で、2024年度の予算案に盛り込まれていました。

 

(2) 加冠の儀

 

「冠を賜うの儀」のあと、悠仁さまは皇居・宮殿の「春秋の間」に移動され、午前10時から、装束姿で、天皇陛下から授けられた成年用の冠をかぶる中心儀式,、「加冠の儀(かかんのぎ)」に臨まれました。

 

儀式には、天皇、皇后両陛下、秋篠宮ご夫妻をはじめ、両陛下の長女の愛子さまなど皇族方が参列されるほか、三権の長、それに親族や宮内庁の幹部らも参列されました。

 

悠仁さまは、未成年の装束で浅黄(あさぎ)色の「 闕腋袍 (けってきのほう)」姿で、儀式に臨まれました。

 

「闕腋袍(けってきのほう)」は、後ろに長く伸びていて、肩からの長さはおよそ6メートルに及びます。移動中は職員が裾(すそ)を持ってまっすぐに伸ばします。位が高いほど長いとされ、最も長い天皇陛下の装束ではおよそ8メートルに及びます。この装束は、脇が縫われていないため動きやすく、武官や子どもが着用し、未成年の晴れの場の装束として受け継がれています。

 

「闕腋袍(けってきのほう)」をまとわれた悠仁さまは、頭には「空頂黒幘(くうちょうこくさく)」という、絹織物に漆が塗られた、黒色の額当てを着けられています。

 

「空頂黒幘」も未成年がかぶるもので、高さ約15センチ、菊の御紋があしらわれ、頂が空いています。「空頂」には頭の頂点=頂がむなしくなっている、空いているという意味が、「幘」にははちまきという意味があると言われています。

 

加冠の儀は、平安時代からの古式にのっとり、平安絵巻さながらに行われます。天皇ご一家を支える侍従職の坂根工博侍従次長が、悠仁さまの黒色の額当て「空頂黒幘(くうちょうこくさく)」を外して、「燕尾纓(えんびのえい)」が付いた冠をかぶせます。この瞬間、悠仁さまが成年となったことが公に示されました。

 

燕尾纓は黒絹の2枚重ねで、冠の後ろから垂れ、先端は丸く、悠仁さま着用のものは長さ約57センチあります。

 

悠仁さまが冠をかぶったあとは、宮内庁御用掛が、「掛緒(かけお)」と呼ばれる和紙でできたひも(=冠の緒)をあごの下で結んで冠を固定し、余った部分を和ばさみで切ると、「パチン」という大きな音が静かな会場に、鋭く響きます。これが、儀式のハイライトで、象徴的なシーンになります。

 

かつては冠をかぶせる際、元服前の髪を結んでいたひもを切り、まげに結い直していたそうです。明治に断髪令が出された後も、掛緒をはさみで切る音が成年式の象徴として伝わっています。

 

未成年の装束「闕腋袍(けってきのほう)」、黒色の額当て「空頂黒幘(くうちょうこくさく)」、成年用の冠に付いた「燕尾纓(えんびのえい)」は、いずれも、現在では皇室の成年式でしか使われない貴重なものとなっています。今回は、秋篠宮さまが40年前に、使われたものを譲り受けて、使用されました。

 

なお、現代でも使われる言葉「冠婚葬祭」のうち、お祝いごとを表す一文字目「冠」は、「加冠の儀」からきています。

 

続いて、悠仁さまは、まず両陛下に、その後、秋篠宮ご夫妻の前に進み、お礼と「成年皇族としての務め果たす」との決意を述べられました。

 

(3) 宮中三殿への参拝

 

加冠の儀を終えると、悠仁さまは、未成年の装束から、「縫腋袍(ほうえきのほう)」と呼ばれる、脇が縫ってある黒色の成年の装束に着替えられ、垂纓の付いた冠を着けて(冠につけられていた燕尾纓は垂纓に付け替えられ、成年皇族の装いになる)、皇居内にある「宮中三殿」に向かわれました。

 

移動には、装飾が施された「儀装馬車4号」と呼ばれる儀装馬車を利用されます。宮内庁によると、「儀装馬車4号」は、1913年(大正2年)製造の国産で、全長約4.5 メートル、幅1.9メートル、高さ約2.2メートルあり、車体はえび茶色の漆塗りで、その両側には金高蒔絵の菊の紋章が、内装には桐唐草模様がそれぞれ施されています。

 

なお、「儀装馬車」は、皇室の重要な儀式に使用される特別な馬車で、現在1号から4号まで4種類あります。

「1号」は昭和天皇が即位された際に、「2号」は天皇陛下が即位された際や、上皇ご夫妻が結婚された際に、「3号」は天皇陛下の成年式で使用された際にそれぞれ使用されました。

 

そして今回、悠仁さまが乗車された「儀装馬車4号」は、父親の秋篠宮さまも40年前の成年式で乗車された馬車で、新しく着任した外国の大使が本国からの信任状を天皇陛下に手渡す「信任状捧呈式」でも、大使の送迎に使われています。

 

悠仁さまを乗せた「儀装馬車4号」は、4人乗りで2頭の馬に引かれ、宮殿から約1キロ先の宮中三殿に、前11時30分頃に到着し、悠仁さまは、皇室の先祖などをまつる宮中三殿に拝礼されました。宮中三殿での儀式は、「賢所(かしこどころ)皇霊殿(こうれいでん)神殿に謁するの儀」と呼ばれます。

 

(4) 朝見の儀

 

宮中三殿への拝礼を終え、再び宮殿に戻った悠仁さまは、洋装( 燕尾 (えんび) 服)に着替えられ、午後2時から、宮殿の正殿松の間で、天皇皇后両陛下それぞれに挨拶される「朝見(ちょうけん)の儀」に臨まれました。

 

「朝見の儀」に続いて、戦後男性皇族の成年式で、陛下から授けられるのが恒例となっている「大勲位菊花大綬章(だいくんい きっかだいじゅしょう)」の親授式が行われました。大勲位菊花大綬章は国内最高位の勲章の一つで、皇族の受章は秋篠宮さま以来40年ぶりのことでした。

 

このあと、悠仁さまは、赤坂御用地にある上皇ご夫妻のお住まいを訪ねてあいさつされ、夜は都内のホテルで開かれる私的な祝宴に出席されました。成年式の儀式は、「朝見の儀」までですが、その後も関連行事が続きます。

 

成年式関連行事

悠仁さまは、皇室の伝統として、8日に三重県の伊勢神宮と奈良県の神武天皇陵を、9日には東京・八王子市にある武蔵陵墓地の昭和天皇陵を参拝され、皇室の祖先に儀式(成年式)の終了を報告されました。

 

10日には、東京 港区の明治記念館で、三権の長ら悠仁さまが通われた小中学校の関係者などおよそ30人を招いたお祝いの昼食会が行われ、一連の儀式や行事を終えられました。

 

◆ 成年式後の悠仁さま

 

皇族が成年になると、公務や宮中行事への参加が増えることから、悠仁さまも一連の行事終了後、皇族として活動される機会も増えていきます。

 

悠仁さまは年齢的にはすでに成年を迎えていましたが、宮内庁は「宮中行事への参加は成年式後」としていて、まさにこの成年式が大きな転換点となります。

 

晩さん会や春・秋の園遊会などの「宮中行事」や、新年祝賀の儀、正月と天皇誕生日に行われる「一般参賀」などの「皇室行事」は、成年皇族のみが参加する行事です。宮内庁によりますと、大学の授業の状況などを見ながら、学業に支障のない範囲で、これらの行事への参加を検討されるそうです。

 

悠仁さまは昨年、成年皇族となったことで、皇室に関する重要事項を審議する「皇室会議」の、皇族の代表を選ぶ手続きに参加されることなどができるようになりました。

また、皇室経済法に基づき、「宮家」の皇族方に皇族としての品位を保つ費用として支出される「皇族費」について、悠仁さまの場合、未成年のときは、1年間で305万円だったのが915万円に増額されています。これは、公的行事への参加が多くなり、必要な費用が増えるための措置です。

 

悠仁さまの皇位継承順位は秋篠宮さまに次ぐ2位です。次世代の皇室を担う存在である悠仁さまの今後のご活躍が期待されます。

 

 

(関連投稿)

皇室の他の宮中祭祀・宮中行事については以下のサイトから参照下さい。

宮中祭祀・宮中行事

 

(参照)

40年ぶりの儀「成年式」、奈良時代から1300年の歴史…悠仁さまは戦後8人目

(2025/09/06、読売)

【まとめ読み】悠仁さま成年式…天皇陛下「皇族としての務めを立派に果たされるよう願っております」

(2025/09/06、読売)

悠仁さま 成年式 「成年皇族としての責務の重さを自覚」

(2025年9月6日、NHK)

悠仁さま成年式 皇室で40年ぶりの儀式を詳しく

(2025年9月5日、NHK)

冠や装束、伝統受け継ぎ 平安絵巻さながらに―悠仁さま成年式

(2025年09月06日、時事ドットコム)

 

 

(投稿日2025.。9.12 )