長崎:大村純忠とキリスト教

 

長崎と言えば、安土・桃山時代の南蛮貿易とキリスト教の布教、江戸時代における鎖国下の開港地、隠れキリシタン、勤王の志士の拠点など、開明的なイメージがありますが、そこに至る経緯についてはあまり知られていません。今回は、貿易都市・長崎の歴史を紐解きながら、日本におけるキリスト教の布教についてみてみたいと思います。

 

  • 「大村純忠」の誕生

 

長崎県と言えば、戦国大名での肥前大村藩の大村氏、島原藩の有馬氏、平戸藩の松浦(まつら)を思い起こすことができます。特に、大村純忠(すみただ)は、日本で初めてのキリシタン大名として全国的にも知られています。

 

大村氏の先祖は、「海賊王」藤原純友の孫・藤原直澄(なおずみ)とされ、直澄が994年に伊予から肥前に入部し、肥前大村を本拠として領主化したと言われています。ただ、大村純忠に至るまで別の説もあり、また、有馬氏も藤原純友を先祖とするという説(あるいは両家とも)があるなど、大村氏の経歴は明確ではないのが実情です。

 

大村家では、1474年、第16代の大村純伊(すみこれ)の時、島原の有馬貴純(たかずみ)との戦い(中岳の合戦)に敗れた結果、純伊は大村から追放され、唐津沖の加々良島(かからじま)へ逃れました。7年後の1480年、西肥前の豪族の力などを借り、大村の領地を取り戻すことにはなりましたが、この戦い以降、大村氏は有馬氏の従属下に置かれることとなり、次代の大村純前(すみさき)の時代も、今度は有馬晴純の圧迫を受けます。そのため、大村純前は実子の貴明を、武雄(佐賀藩の自治領)の後藤家に養子として出した上で、有馬晴純の次男・純忠を養子として迎えました。こうして、1550年、有馬純忠は18歳の時、大村家の家督を譲りうけ、大村純忠として、大村家18代当主となったのです。

 

しかし、養子の純忠にしたがわない家臣たちも多く、佐賀の龍造寺氏(竜造寺隆信)、平戸の松浦氏(松浦隆信)、武雄の後藤氏(後藤貴明)などと休みなく戦いをくりかえしました。特に、台頭してきた佐賀城主、龍造寺勢の攻勢を受けるようになりました。こうした苦境にあって、純忠はキリスト教に目をつけ、キリスト教の受け入れと外国との貿易によって富と軍事力を手に入れようと考えます。

 

 

  • 大村藩とキリスト教

 

大村純忠が家督を継いだ1550年は、イエズス会のフランシスコ・ザビエル一行が肥前国平戸(現・長崎県北に位置する)に入り、宣教活動を行うと同時に、ポルトガルの貿易船が平戸港にはじめて入港し貿易が行われた年でした。ザビエル自身は、1か月ほどしか平戸に滞在せず、宣教師のコスメ・デ・トーレスに委ね、京都へ向かいました(トーレスは平戸教会の初代、主任司祭となる)。当時の平戸領主・松浦隆信は、ポルトガルとの貿易は歓迎していましたが、キリスト教には関心を示しませんでした。そのため、平戸での布教が盛んになると、宣教師と仏僧との宗教的な争いや、ポルトガル人と日本人との間で殺傷事件まで発生するなど、ポルトガルと松浦氏と関係は悪化しました。

 

そこで、トーレスは、平戸に変わる新たな港を探すと大村領内の港に注目し、交渉を始めました。当時5つの村を統治していた領主の大村純忠は、横瀬浦(現在の西海市)の港を教会に与え、キリスト教布教を認める代わりに、横瀬浦をポルトガルとの貿易の自由港とするという提案を行いました。ポルトガルもこれに応じて交渉が成立し、1562年7月、横瀬浦で南蛮貿易(対ポルトガル貿易)が始まりました。さらに、翌年1563年6月には、純忠は横瀬浦の地で洗礼を受け、日本初のキリシタン大名となったのです。

 

もっとも、純忠も最初は、キリスト教の信仰は二の次で、本当の目的は貿易でした。キリスト教に入れば、イエズス会の信頼を得て貿易を拡大できると考えていたようです。しかし、やがて、純忠はキリスト教を信じるようになり、家臣や領民をキリスト教に改宗させ、領内の寺社を次々に破壊していったことから、仏教徒や一部の家臣・領民の反感を買いました。

 

一方、開港後、横瀬浦には、大阪、堺、豊後などから貿易商人らが押し寄せ、活気に満ちましたが、純忠に対する反乱がおき、1563年11月、武雄の後藤貴明が横瀬港を襲撃して焼き討ちにしてしまいました。開港からわずか1年4ヶ月後の出来事でした。しかし、貿易で力を得ていた純忠は立て直し、翌1564年、三城(さんじょう)城を築城し、そこを拠点(現大村市)として、領土を拡大していきます。のちの大村藩領のほとんどは、純忠によってまとめられたとされています。

 

後藤貴明の襲撃後、宣教師達は、横瀬浦の港を放棄し、いったん平戸に戻りますが、キリスト教に寛容な大村領で貿易を望み、新たな港を探します。1565年、ポルトガル船は、(現長崎市から北西に位置する)福田港に来航しました。しかし、外海に面し条件の悪かったため、さらに良港を求めたどり着いたのが、深い入江の穏やかな長崎港でした。

 

 

  • 南蛮貿易の街・長崎

 

大村純忠は、南蛮貿易のさらなる発展をめざし、その拠点を福田浦から隣の長崎(深江浦)の港に移しました。こうして、長崎は、1571年、南蛮貿易の港として開港し、翌年、最初のポルトガル船が入港しました。長崎の港は、大きなポルトガル船が係留するにはとても適した場所だったそうです。

 

開港する以前の長﨑は、鎌倉時代以来、肥前国御家人になった長﨑氏が支配していました。長﨑氏は、戦国時代初期には島原の有馬氏の支配のもとにあり、有馬貴純(ありまたかずみ)の子康純(やすずみ)が長崎氏の養子となって、長﨑氏を相続しました(長﨑康純)

 

この頃の長﨑は、深江浦とも呼ばれ、浜辺にはわずかの民家が点在するだけの一寒村でしたが、大村純忠は、1571年、貿易のための長崎の町づくりを開始しました。開港とともに、当時、長﨑港に突き出した岬(今の諏訪神社前辺りから長崎県庁に向かって長い岬が突き出していた)には新しく6つの町(6ヶ町)が造成され(これを内町と呼ばれた)、貿易の拠点となりました。ちなみに、「長崎」という地名の由来は、この長い岬を「長んが崎」と呼んだことによるとも言われているそうです。

 

南蛮貿易では、生糸や絹織物など輸入されたことに加えて、鉄砲などの武器や医学、天文学、音楽、美術なども伝えられました。なお、当時の領主は、大村純忠の娘婿、長崎甚左衛門純景(すみがげ)でしたが、この新しい貿易都市長崎は、長﨑氏の支配から分離され、大村氏の「直轄地」とされました。

 

また、岬の先端(現在は長崎県庁)には、イエズス会のキリシタン寺院(サン・パウロ教会:岬のサンタ・マリ ア教会)が建ちました。もっとも、長崎におけるキリスト教布教活動は、トーレスの命によって、1567年にすでに始まっており、布教の2年後には早くも長崎最初の教会堂トードス・オス・サントス教会が、ガスパル・ビレラ神父によって建てられました。場所は、長崎甚左衛門がポルトガル商人で医師の免許を持っていたルイス・デ・アルメイダに与えた土地(現長崎市夫婦川町)でした。

 

1570年、ポルトガル貿易港として開港されると、さらに市中には多くの教会や関連施設が建造されるとともに、各地から多くのキリシタンが移り住んできました。同時に、宣教師が訪れ、その布教活動により、キリスト教徒が増えていきました。

 

受洗しキリスト教会との関係を強化しながら、貿易を拡大していく大村純忠に対して、武雄領主後藤貴明、平戸領主松浦隆信(まつらたかのぶ)や、諫早領主西郷純堯(さいごうすみたか)、佐賀藩の龍造寺隆信らから攻められますが、ポルトガルからの援軍で幾度となく凌ぎます。しかし、周りの戦国大名からの圧迫によって、大村氏の勢力は徐々に衰退し、貿易都市長崎の大村氏による直轄地としての支配は崩れていきました。これを受けて、貿易都市長崎では、居住している商人たちによる自治組織が、自然発生的に組織されて、大村氏に代わり町方としての自治も始まりました。

 

 

  • イエズス会領・長崎

 

このように、大村家の長崎に対する支配は弱まり、長崎も自治都市化しつつある状況下、1580年、長崎に攻め込んできた龍造寺隆信との戦いに敗れて降伏した純忠は、貿易の定着と、自らの地位と領地を守るために、領内の長崎(長崎6ヶ町)、茂木をイエズス会に寄進するという大胆な行動にでたのです。イエズス会(ポルトガル)の軍事力を背景に、長崎・茂木は、イエズス会の領地へと瞬く間に変貌し、日本におけるキリスト教の中心地となりました。

 

1584年には、同じくキリシタン大名であった有馬晴信も、領有していた浦上を寄進し、浦上村一帯がキリシタンの村となりました。有馬晴信は、もともとキリスト教には関心がありませんでしたが、佐賀の龍造寺隆信の勢力が強くなり、有馬の地を脅かすようになると、晴信は一転して宣教師やイエズス会に支援を求め、1580年、13歳のとき自ら洗礼を受けて信者になりした。

 

1584年3月、龍造寺隆信は数万におよぶ大群を率いて島原半島に攻め込んできた沖田畷(おきたなわて)の戦いで、イエズス会は、大砲を提供して、有馬晴信を支援し、島津・有馬の連合軍に勝利をもたらしました。イエズス会への浦上村の寄進はまさに、晴信のイエズス会に対する謝意の表れでありました。

 

これにより、貿易都市・長崎、浦上村、茂木村が、イエズス会領長崎となり、長崎は実質的に、イエズス会が統治することになったのでした。イエズス会領となった長崎は武装を進めます。特に、キリシタン大名である大村純忠や有馬晴信に脅威を与えている龍造寺隆信を敵視し、イエズス会の中には、大村純忠に対して龍造寺隆信に対する挙兵を促すなど軍事路線を唱える意見もありました。

 

長崎を寄進した後の1582年には、大村純忠は、有馬晴信、豊後(大分)の大友宗麟らと共に、日本初のヨーロッパ公式訪問団である天正遣欧少年使節をローマに派遣しました。4人の少年使節の一人は、大村純忠の甥で、有馬晴信の従兄弟でもある千々石ミゲル(ちぢわミゲル)が含まれていました。彼らは1590年に帰国し、当時世界最高の技術と知識を持ち帰りました。

 

 

  • 秀吉と家康の弾圧

 

この頃、世は豊臣秀吉の時代になっていました。純忠も、1585年、秀吉に恭順の意を示し臣下になり、1587年の秀吉による九州平定の後、所領を安堵されました。純忠は、この後、嫡男の喜前(よしあき)に後を継がせ、引退し信仰の生活に入りましたが、同じ年、病死しました。

 

純忠の死を聞いた秀吉は、1587年、宣教師を国外に追放するバテレン追放令を出し、イエズス会に寄進された長崎(浦上、茂木)を没収しました。秀吉は九州平定後、長崎がイエズス会の領地になっていたことや、神社やお寺が破壊されていたことを快く思っていませんでした。さらに、宣教師たちが関わったいたとされた日本人の奴隷貿易(人身売買)の事実を秀吉が知ったことも要因と言われています。

 

また、1596年には、サン=フェリペ号事件が発生します。土佐にスペイン船サン=フェリペ号が漂着し、水先案内人の「スペイン国王がキリスト教布教により他国を征服していく」という話しを耳にした秀吉は激怒して再び禁教令を出したのです。そうして、京都にいたフランシスコ会などの教徒を捕らえ、長崎に連行し、磔の刑に処しました(26聖人の殉教)。

 

それでも、秀吉は、南蛮貿易は奨励したのでキリスト教の禁教は不徹底でした。実際の個人の信仰については容認していました。そのため、バテレン追放令後も長崎の町は、キリシタンの町として栄え続けました。長崎には日本イエズス会本部が置かれ、外国人宣教師の指導で建てられた教会、病院、学校、福祉施設がたち並び、当時、長崎は「小ローマ」(「長崎は日本のローマなり」)とも呼ばれたそうです。

 

逆に、切支丹(キリスト教徒)たちが、長崎に古くから存在した神社や寺を放火・破壊する過激な行動もあり、長崎領内の寺院、神宮寺、神社などがほぼ全滅になったとも言われています。こうした治安の悪化や、貿易によるトラブルが各地で発生するなど、江戸幕府も看過できない事態となりました。

 

1612年、江戸幕府は、「慶長の禁教令」を全国に発します。宣教師の追放に加えて、キリスト教の信仰自体の禁止と教会の破壊が命ぜられ、2年後には、教会の破却も実施されました。長﨑でも多くの教会が破却され、1626年には、踏絵やキリシタン告発への報奨金制度を設けて、長﨑や浦上のキリシタン摘発がなされました。

 

長崎のキリシタンたちは、長崎奉行の残虐な摘発を恐れて多くのキリシタンが山林に逃げ込みました。山狩りも行われ、キリシタン信徒は捕縛されました。棄教者は直ちに釈放されましたが、拒む者は拷問によって棄教を迫られたと言われています(これ以降、キリシタンは潜伏して信仰を続けた)。

 

かつてイエズス会が領有し、秀吉が没収した長崎は、幕府直轄の天領として治められるようになり、大村領から離れていきました。その後、徳川の時代の長い鎖国の間、長崎は唯一西洋との窓口として栄え続けました。

 

 

  • それからの長崎

 

一方、純忠の死後、後を継いだ大村喜前(よしあき)は、秀吉による朝鮮出兵において、小西行長に属して戦い、武功を挙げました。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東軍に属したため、徳川家康から所領を安堵され、徳川政権下で、肥前大村藩の初代藩主となりました。

 

大村喜前は父同様、キリシタン大名でしたが、1602年に加藤清正の勧めを受けて日蓮宗に改宗し、キリシタンを弾圧しました。そのため、恨みを買った喜前は、1616年にキリシタンによって毒殺されてしまいました。しかし、その後は、大村家は大過なく明治維新まで存続し、1884年に子爵、次いで1891年には伯爵に列せられました。

 

キリスト教については、明治維新後の1873年、キリシタン禁制の高札が撤廃されると、長崎には教会が建ち並びました。現在、長崎教区は、全国6つの教区の中で最多の130を超える教会堂が存在しています。中でも、離島や農村小規模の巡回教会が60近くあります。こうした教会とその関連する施設は、2018年、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」として、世界遺産に登録されました。

 

なお、日本におけるカトリック信者数は約45万人で、このうち長崎教区の信者数は、東京教区の約9万6000人に次いで多い、6万3000人です。対人口比率では、東京教区が0.5%、長崎教区は4.3%となっており、長崎県のキリスト教人口の多さがわかります。

 

(2021年4月28日更新)

 

 

<参考記事>

諏訪神社(長崎):諏訪大神に、住吉大神も…

長崎くんち:幕府とキリスト教のつめ痕

 

<参照>

戦国時代、長崎はイエズス会の領地だった!?(web歴史街道)

大村純忠~日本最初のキリシタン大名~(鳥居正洋の日本史to長崎)

大村純忠と南蛮貿易(大村市)

博物館のオススメ- 旅する長崎学 ~たびなが~

長崎キリシタン考

浦上とキリシタン禁教令(長﨑史談会 幹事 村崎春樹)

ナガジン! – 長崎市

秀吉によるバテレン追放令とは(戦国時代のキリスト教)

Wikipediaなど