7月は、アメリカの独立戦争と、フランス革命が起きた月です。どちらもその後の世界の歴史に大きな影響を与えた出来事でした。今回は、世界の3大市民革命の一つに数えられるアメリカの独立革命について概観します。
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- アメリカ独立戦争
(1774年7月4日:米独立記念日)
イギリス人は、1607年のバージニア植民地を皮切りに、1732年のジョージア植民地まで、北アメリカの東海岸地帯に13の植民地を作り入植しました。1619年には、最初の植民地議会がバージニア植民地のジェームズタウンで開かれるなど、18世紀前半までに、イギリスの植民地アメリカは、それぞれ植民地議会や大学の設立といった自治的な政治体制を持っていました。
アメリカの植民地の人とその子孫には、本国イギリス国民と同じ権利が与えられるとされましたが、13の植民地それぞれの代表をイギリス本国の議会へ送ることはできませんでした。ですから、植民地の人たちは、イギリス本国の植民地政策に口をはさむことはできなかったのです。こうした状況下、イギリスは、度重なるフランスとの植民地戦争による負債を賄うために、植民地アメリカへの課税を強化しました。
「代表なくして課税なし」
イギリスは、1765年、植民地アメリカで発行される証書・新聞・広告などの印刷物に印紙税を課す(印紙を貼る)ことを定めた印紙条例(印紙法)を制定しました。これに対して、植民地側は、「代表なくして課税なし」とする反対運動を起こし、条例は翌年、撤回されましたが、1773年4月には、イギリス東インド会社に、植民地アメリカへの茶の専売権を与えた茶法(茶条例)を課しました。
これに強く反発した植民地側の貿易商人など一部の急進反対派は、同年12月、ボストン港に入港していた東インド会社の船に侵入して、茶箱342箱を海中に投棄する行動に出ました(ボストン茶会事件)。
イギリス当局は犯人を捕らえようとしましたが検挙できず、激高したイギリスは、翌1774年、報復措置として、ボストン港閉鎖法など「強圧諸法」を制定し損害賠償を求めました。しかし、反発した植民地側はイギリス製品の不買運動などに立ち上がり、これを拒否、アメリカの植民地代表は、1774年9月、フィラデルフィアで大陸会議を開き、イギリス本国に対抗することを決定しました。
「独立宣言」と「独立戦争」
そんな中、ボストン市民5人(植民地民兵)が、駐留英軍に殺傷される事件を機に、1775年4月、ボストン郊外のレキシントンとコンコードでイギリス本国と植民地民兵とが武力衝突して、アメリカ独立戦争が勃発しました。さらに、植民地側は、同年5月、第2回大陸会議を開き、ジョージ・ワシントンを総司令官とする大陸軍を創設して戦争を遂行します。
1776年1月には、トマス=ペインが政治パンフレット「コモン=センス」を発行、「万機公論に決すべし」と唱えて、独立の機運を高めさせます。13植民地の政治的立場はまちまちであったので、世論を一つにして、独立の必要性を訴えたのです。
さらに、1776年7月4日、大陸会議で、トーマス・ジェファソンらが起草した「独立宣言」を発して、東部13州の独立を宣言しました。独立宣言では、生命・財産および幸福追求の権利という自然権、主権在民などの基本的人権、社会契約論に立つ政府の役割、暴政に対する革命権などが述べられており、独立の正当性が表明されています。また、随所にジョン・ロックの啓蒙思想の影響が見られていることも特徴です。
次いで、植民地側は、1777年11月に連合規約を制定して、国名をアメリカ合衆国としました。ただし、当初のアメリカは、事実上、13の独立共和国の緩やかな連合体に過ぎず、中央政府の権限は弱い状態でしたので、戦争遂行能力に懸念がありました。
しかし、アメリカ独立戦争には、フランス、オランダ、スペインが植民地側に立って参戦しました。七年戦争敗北以来イギリスに報復の機会をねらっていたフランスは、1778年、アメリカ合衆国の独立を承認し、軍事同盟を結んで上でイギリスに宣戦を布告しました。1779年、フロリダ回復をねらっていたスペインもフランスの同盟国として対英宣戦を行いました。
さらに、アメリカ独立戦争に際して、イギリスは、イギリスを支援しない中立国の船舶を捕獲するという海上封鎖を宣言すると、これに反発したロシアの女帝ロシアのエカチェリーナ2世の提唱で、スウェーデン、デンマーク、プロイセン、ポルトガルの参加する武装中立同盟が、1780年に成立しました。また、多くの義勇兵がヨーロッパ各地から参戦するなど、イギリスは国際的にも孤立していったのです。
こうして、戦局はアメリカに有利に作用し、1781年のヨークタウンの戦いで、イギリス軍は大敗を喫すると、アメリカ側の勝利が確定しました(実質的な戦争終結)。その後、1783年にパリ条約が結ばれ、イギリスはアメリカの独立を承認し、ミシシッピ以東の広大なルイジアナを割譲しました。
合衆国憲法とワシントン大統領
独立後のアメリカ合衆国では、連邦政府の樹立を望む声が高まったことを受けて、1787年、ワシントンを議長とする憲法制定会議がフィラデルフィアで開かれ、アメリカ合衆国憲法が制定されました。連邦中央政府の権限を強化する一方、各州の大幅な自治権を認めた憲法は、1788年に9州が批准して発効しました。翌1789年、初代大統領には、植民地軍総司令官として独立戦争を勝利に導いたジョージ・ワシントンが就任し、連邦政府が発足しました。
このように、20世紀以降、世界に君臨するアメリカ合衆国が誕生したわけですが、最後に、アメリカの建国に貢献したもう一人の人物を紹介して、アメリカ独立戦争についての説明を終わりにします。その名は現在、米100ドル紙幣の肖像画にもなっているベンジャミン・フランクリンです。
フランクリンは、1774年の独立宣言の起草委員を務め、1776年には大陸会議の代表としてフランスに渡り、フランスの対英参戦に向けて尽力したとされています。1783年のパリ条約(1783)の締結交渉にも参加するなど、アメリカ合衆国の建国に向けて内外を奔走しました。
<参考>
フランス革命:民主主義の端緒か、国内テロか
<参照>
世界史の窓「アメリカ独立革命」
世界歴史マップ「アメリカ独立戦争」
Wikipedia(「アメリカ独立戦争」)など
(2020年10月18日、最終投稿日2022年6月14日)