古代のメディア王国から、アケメネス朝、アレクサンダー帝国、セレウコス朝シリア、パルティア(アルサケス朝)と続いてきた最後の古代ペルシア文明(イラン文明)、ササン朝ペルシアとはどういう国だったのでしょうか?
◆ ササン朝の誕生
ササン朝ペルシア(224~651)は、ローマと抗争で疲弊したパルティアを滅ぼし、イランを430年近く治めた王朝です。アケメネス朝の根拠地であったフォールス地方のペルセポリス付近から興りました。
紀元後3世紀の初めごろ、ササン家のパーパクが、パルティア王国の臣下の地方王朝から権力を奪い、その末子のアルデシールがその地位を継承させたことに対して、アルサケス朝パルティアのアルダバーン5世はそれを認めず、軍隊を派遣しました。これを迎え撃ったアルデシールは、224年に、パルティア王を討ち、その後も西進し、226年にパルティアを滅ぼしました。
パルティアが遊牧系イラン人であったのに対し、ササン朝は農耕イラン人(農業に基礎をおくイラン人)の王朝で、都はパルティアと同じくクテシフォンに置かれました。
◆アルデシール1世の治世
自ら「王の王」として戴冠した建国の祖アルデシール1世(226~240年)は、アケメネス朝治下のペルシア帝国の復興をめざし、中央アジアからメソポタミアに至るまでの領土を獲得しました。なお、ササン(サーサーン)というのは、アルデシールの祖父の名に由来します。
また、イラン民族の伝統宗教であるゾロアスター教を国教に定めて、国家の統一と中央集権制の確立を図りました。実際、ササン家とゾロアスター教との関わりは深く、ササン家はパールス地方(ペルシア人の故郷)のイスタフルという町にあるゾロアスター教の大寺院の世襲の守護者であったとされています。
「ペルシア帝国」を再現するためゾロアスター教を国教とすることによって、ササン朝は、アルサケス朝パルティアよりも、アケメネス朝ペルシアのゾロアスター教(アフラ=マズダ信仰)を継承する正統性があると宣伝したのです。
こうした国民向けのプロパガンダを考案して、アルダシール1世を支えたのが、ゾロアスター教祭司(マギ)団の祭司長(大神官)のタンサールという宗教指導者で、アルダシール1世とタンサールによって、ゾロアスター教は体系化されていきました。
タンサールはササン朝が正統なゾロアスター教の保護者であることを示すために、地域でばらばらだった教徒集団を単一のゾロアスター教教会に統合し、各地のゾロアスターの教典「アヴェスター」を取り寄せ、聖典・外典を整備しました。また、暦を改定し、死者などの偶像を破壊して、ササン朝の認めた寺院の火のみを崇拝するようにしました(ゾロアスター教を拝火教ともよばれ、「火」を崇拝する)。
◆シャープール1世の治世
アルダシール1世の次のシャープール1世(在位:241~272)は、「イラン人および非イラン人の諸王の王」と称し、「ペルシア帝国」を再現の目標を実現に移しました。
ササン朝は、パルティア同様、西方のローマ帝国と激しく争いました。260年には、シリアに侵入(遠征)して、エデッサの戦いでローマ軍を破り、皇帝ヴァレリアヌス(253~260)を捕虜としました。以後ササン朝とローマは、とくにアルメニアの帰属をめぐって一進一退の戦いを繰り返していくことになります。また、シャープール1世は、東方ではインドの王朝であるクシャーナ朝を圧迫し、インダス川西岸にいたる広大な地域を統合しました。
さらに、東西交易の利益の独占をねらって、海陸で積極的な政策がとられました。インド洋では、ギリシア系ローマ商人が撤退したあとの商権を巡って、ペルシア商人とエチオピアのアクスム商人が争っていたことから、ペルシア商人のために、ペルシア湾からインドにいたる航路が整備されました。
マニ教の登場
一方、ゾロアスター教を国教とした宗教政策に関しては、3世紀半ば、ササン朝ではマニ教が興り、混乱が生じました。
ササン朝時代は、西方のキリスト教と、東方の仏教の影響がイランにおよび、イラン本来のゾロアスター教が大きく動揺した時代でした。特にバビロンで活動したペルシア人マニ(マーニー)は、キリスト教(グノーシス派)や仏教、さらにゾロアスター教を折衷させた新たな宗教、マニ教を創始しました。しかも、シャープール1世はこのマニ教に傾倒し、一時保護したため、国教であるゾロアスター教の影響力が低下するという事態になりました。
これに対して、ゾロアスター教祭司団は危機感を強め、シャープール1世の下で、祭司長となり、その後、何代もの国王に長期にわたって使えたキルデールは、シャープール1世の死後、王となったホルミズド1世(在位:272~273年)やバハラーム1世(在位:273~276年)に働きかけて、マニを異端として捕らえさせ、マニ教を弾圧を行いました。
また、キルデールは、マニ教に対抗して、ゾロアスター教の教義を明確にするため、聖典「アヴェスター」の編纂を急ぎました。
エフタルとマズダク教
その後、5世紀から6世紀にかけて、中央アジアの遊牧民エフタル族の侵入と、マニ教の影響で生まれたマズダク教の流行で、国家と社会に再び混乱が広がりました。
エフタルは、4世紀の後半頃、ヒンドゥークシュ山脈の北麓に起こったイラン系ともトルコ系とも言われる遊牧民族で、5世紀後半には勢力を伸ばして、ササン朝に侵入してきました。484年には国王ペーローズ1世(在位:459~484年)がエフタルとの戦いで戦死するなど、ササン朝は一時危機的な状況となりました。
ペーローズ1世の死後、子のカワードが即位しましたが、そのころ、勢力を伸ばしていた新興のマズダク教に理解を示したため、カワードI世(488年-497年)は、貴族とゾロアスター教の聖職者によって廃位されました。
マズダク教は、マニ教の影響を受けた社会改革者マズダク(5~6世紀)によって創始され、所有の平等や特権の廃止、女性の共有など極端な平等思想を特徴とする原始共産主義的な宗教で、このマズダク教の影響で、租税徴収が滞るなど、社会が混乱していました。
廃位されたカワード1世は、かつて捕虜となった経験もあるエフタルに一時身を寄せ、そのエフタルの支持によって、廃位から2年後、ササン朝ペルシアの王位に復帰しました(復位:499年-531年)。なお、この時、マズダグ教支持をやめたとされています。
◆ホスロー1世の治世
(ササン朝の全盛期)
次の第21代君主で、ササン朝最大の英主といわれるホスロー1世(在位531~579)は、このエフタル族とマズダク教の問題を収拾させ、税制・軍制の改革や官僚制の整備といった内政にも力を注いだことから、ササン朝は、国力は回復し、最盛期を迎えました。
国内において、マズダク教は厳しく弾圧されました。ホスロー1世は、皇太子時代の528年、教祖マズダクを始めとする主だった信者を宮廷に呼んで殺害しており、君主になってからも、弾圧の手は緩めず、マズダク教は6世紀末には根絶したとみられています。またマニ教も同様に禁止されました。
これに対して国教であるゾロアスター教は、正統的な宗教として手厚く保護されました。とりわけ、それまで口承で伝えられ、文献としては断片として残され、かつ地域差や教えの違いもあったゾロアスター教の教えを統一し、正文をつくる筆写作業が、ササン朝創始期より行われていましたが、ホスロー1世の時代に完成され、聖典「アヴェスター」が成立したことは特筆されます。このように、ゾロアスター教を国教として熱心に保護したとして、ホスロー1世には、「アノーシラワーン」(不滅の魂をもつ、の意味)という称号が与えられました。
加えて、ホスロー1世の治世は、学芸文化の面でもササン朝の最盛期であったと評されています。529年、ビザンツ帝国のユスティニアヌス帝の異教禁圧によってアテネの学術研究機関「アカデメイア」が閉鎖されると、プラトンの哲学に関心を持っていたホスロー1世は、ギリシア人学者の亡命を受け入れ、首都クテシフォンに哲学や医学の研究機関を設立しました(ホスロー1世は「(プラトンの言う)哲人王」の異名が贈られた)。そこでは、ギリシアやインドの著作のペルシア語訳が盛んに行われ、ギリシア、ペルシア、インド、アルメニアの伝統的な学問がササン朝時代に統合されました。また、シリアから多くの職人を移住させ、金銀細工やガラス器などの優れた作品が生み出されたのもこの時代です。
こうした内政の充実によって国力は高められ、ホスロー1世は、長年、侵入に苦しめられてきたエフタルに対しては、東方のモンゴル草原からおこり、中央アジアに進出してきたトルコ系の突厥と同盟を組んで、559年頃、挟撃して滅ぼすことに成功し、北方の国境線に平和を達成しました。
また、570年には、エチオピア・ペルシア戦争で、アラビア半島南端のイエメンを占領し、インドとの間のアラビア海貿易路を抑え、当時ここを支配していたエチオピア人を追い払うことにも成功しました。
さらに、ホスロー1世の時代、ササン朝は、ビザンツ帝国のユスティニアヌス帝とも戦い、562年に有利な和平条約を締結し、西方での戦いを優勢に進めました。しかし、その後、通商を求める突厥からの使者を殺害したことから、突厥との関係が悪化し、ビザンチン・ササン戦争 (572年-591年)の際、突厥と東ローマ帝国に挟撃されるなか、ホスロー1世は579年に死去しました。
ササン朝は、ホスロー1世の没後、宮廷や軍隊では再び党派の抗争が激化し、国内が分裂状態となり、また、対外的にも、ビザンツ帝国の圧迫も強まっただけでなく、東の国境ではトルコ人の侵入が繰り返されるようになるなど、徐々に衰退していきました。
◆ホスロー2世の治世
(ササン朝最大領域を実現)
もっとも、ホスロー1世の死後、分裂状態に陥ったササン朝も、「最後の大王」と称されるホスロー2世(在位590~628)の登場によって、態勢は一時的に建て直されました(もっとも、これは、国力が回復したというよりは、主にビザンツ帝国の混乱によるものだとみられている)。
ホスロー2世は小アジアの大部分、ロードス島、パレスチナを支配下に収め、一時はエジプトや南アラビアまでも進出するなど、ササン朝の領域は最大になりました。
614年にはエルサレムを襲撃し、イエスが磔(はりつけ)になったという十字架を持ち去りましたが、その後、ビザンツ帝国のヘラクレイオス1世(在位610~641)によって、征服地域が奪回されました。さらに、628年に一時クテシフォンも占領されるなど、ビザンツ帝国に対して劣勢となる中、この年、ホスロー2世も没しました。
◆ イスラム勢力の台頭とササン朝の滅亡
その後も、ササン朝とビザンツ帝国抗争が続いたため、レヴァント地方(東部地中海沿岸地方)とメソポタミアを結ぶ西アジアの交易ルートは衰え、その混乱を避けて、アラビア半島南部のヒジャースを通る紅海ルートの交易が盛んになっていきました。これによって、メッカやメディアの繁栄をもたらし、7世紀、イスラム教とその国家が誕生していきます。
イスラム勢力は、熱狂的な宗教的情熱から、周囲に対するジハード(聖戦)を展開する中、ペルシア領内は内乱状態にあり、ササン朝最期の王・ヤズデギルド3世(在位:632~651)は、637年のカーディシーヤの戦い、さらに642年にニハーヴァンドの戦いでイスラム軍に完敗し、651年には逃亡先のメルヴ近くで従者に殺害されて、ササン朝は滅亡しました。
以後、イランは急速にイスラーム化し、西アジア史は一変しました。アケメネス朝以来の高度なイラン文化は、イスラーム文化と融合してイラン=イスラーム文化を形成され、イラン人イスラーム教徒はその高い文化的素養から、イスラーム王朝で特に官僚として用いられるようになりました。
ペルシア(イラン)人は、イスラム教徒に征服されて、帝国の国教であったゾロアスター教からイスラム教への改宗が進みました。ただし、その速度は遅く、国民の半分がイスラム教になったのが9世紀ごろで、11世紀にようやく、ほぼ9割がイスラム教になりました。しかし、ペルシア語とペルシア文明がアラビア語やアラビア文明に替わることはなく、古代からの伝統が維持されました。
<参照>
世界史の窓
世界の歴史マップ
コトバンク
Wikipediaなど
(2022年6月11日)