ティグリス川・ユーフラテス川流域のメソポタミア地域には、アラビア半島や周辺の高原から、セム語系やインド=ヨーロッパ語系の遊牧民が、豊かな富を求めて移住し、複雑な歴史を繰り広げてきました。今回は、世界最古の文明とされるメソポタミア文明を紐解いていきます。
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<メソポタミア文明の勃興>
メソポタミア地方では、ティグリス川・ユーフラテス川の定期的な増水を利用して、一説には紀元前9000年頃から、農耕が行われていたとみられています。南メソポタミア南部のシュメール地方でも、紀元前5000年頃から、大規模な灌漑農耕が始まりました。前3500年頃から、大規模な定住が進み、神官、戦士、職人、商人などの数が増えると、神殿を中心に数多くの大村落が成立していきました。そこでは、大河を利用した治水・灌漑を行うために、集団の形成が促進され、早くから宗教の権威によって統治する強力な神権政治が行われていたそうです。
さらに、前3000年頃までには、人口が急激に増え、大村落はやがて都市へと発展し、青銅器や文字などを使用した高度な(都市)文明が栄えていきました。この文明の担い手になって世界最古の古代文明を築いたのが、シュメール人です。シュメールという名称そのものは、メソポタミアの南東端のバビロニア南部(現イラク南部の平原)をさす地名で、シュメール人(スメル人とも)は、シュメール地方の住民をさします(シュメールの語源はアッカド語シュメルムに由来する)。
シュメール人は、メソポタミアの原住民ではなく、前3500年前後に来住したと考えられていますが確かではなく、言語の系統や、原住地,来住経路,来住時期なども不明で謎に包まれています。
シュメール人の都市文明では、楔形 (くさびがた) 文字・治水技術・金属文化・宗教・社会形態などがのちの民族に伝えられていきました。中でも、粘土板に刻んで使用された楔形文字は、多くの民族のあいだで普及し、様々な記録も残されるようになりました。この過程で文字の表音化がすすみ、やがて、アルファベット文字が生まれています。
また、60進法や太陰暦の使用、これに閏年を設けて実際の季節とのずれを修正した太陰太陽暦の誕生など、天文・歴法・数学・農学をはじめとする実用の学問も発展したと伝えられています。
<シュメール人の初期王朝時代>
(前2900年頃~2335年)
シュメール人の都市文明は、前 2900年頃に、ウルク、ウル、キシュ、ニップル、アダブ、シュルッパク、ウンマ、ラガシュなどの独立した都市国家に進化し、当時、それらの都市国家群が覇を競う初期王朝時代を迎えました。
この初期王朝時代においては、これらの都市国家の中から、当初はキシュ(前2900~2750年頃)、次にウルク(前2750~2600年頃)、ウル(前2600~2500年頃)が覇権を握り、前2500年以降、ラガシュが台頭する中、キシュ、ニップル、アダブ、シュルッパク、ウンマ、ウルクの七都市による抗争と合従連衡をくり広げ、都市国家群は地域国家化するようになりました。
前2370年頃には、ウンマ王となったルガルザゲシ王は、ラガシュを滅ぼしウルクを征服して、自らウルク王に即位、シュメール諸都市の統一に成功すると、その後、メソポタミア統一王権成立へ向けて動きだしました。
<アッカド王国>
(前2334年~前2112年頃)
一方、南メソポタミアの北部地方には、前3000年紀頃から、セム語族が定住するようになり、初期王朝時代からの有力都市キシュ一帯に勢力を誇りました。彼らはセム語系のアッカド語を話したので、アッカド人と呼ばれ、やがて、キシュ市から独立してアッカド王国を建国しました(アッカド市を拠点とする)。
アッカド王サルゴン1世は、キシュ王位を簒奪し、勢力を拡大すると、前 2350年頃、シュメール地方を統一したウルク王、ルガルザゲシ王と戦い、これに勝利し、広大な領域国家を形成しました。この結果、シュメール人による初期王朝時代は終わり、アッカド王によるメソポタミア初の統一国家が誕生(実現)し、アッカド王朝時代(前2334年~前2112年頃)を迎えました。
アッカド王朝は、四代目ナラム・シン王(在位:前2254~2218年頃?)の時代に最大版図を実現して最盛期を迎え、王は、「四方世界の王」を称するとともに、自らを「アッカドの神」と神格化しました。しかし、5代王以降、王の権威の失墜し、前2150年頃、バビロニアの東北、ザグロス山脈方面から興ったグティ人(グティウム族)の侵略を受けて、181年続いたアッカド王朝は滅亡しました。
アッカド帝国は歴史上最初の帝国と見なされ、アッカド人の使うセム語系のアッカド語が長くメソポタミアの公用語となりました。
- シュメール人のウル第3王朝
(前2112年~前2004年)
グティ人(グティウム族)は、約125年間、アッカドの地を支配しましたが、メソポタミアではシュメール人が復興し、ウルク王ウトゥ・ヘガルが、グティ人(グティウム族)を撃退してメソポタミア南部の支配権を確立しました。前2112年、ウトゥ・ヘガル王から独立したウル・ナンムがウル王となり、メソポタミア南部の政治的混乱を収拾して、シュメール人初の統一王朝ウル第3王朝を成立させました。
ウル第3王朝は、英君として知られた二代目のシュルギ王(在位:前2094~2047年)の時代に領土を拡大させ最盛期を迎えましたが、その後、兄弟同士の王位争いや、フリ人、アムル人、エラム人ら周辺諸国から多くの異民族の侵入を受け出し、王権の基盤は揺らぎ出しました。
また、王朝内においても、混乱に乗じて、紀元前2025年頃、支配下にあったエシュヌンナ王国とラルサ王国のセム系アムル人王朝がそれぞれ創始され、前2017年には、将軍として登用された、同じくアムル人のイシュビ・エッラが反乱を起こして独立しイシン王朝(前2017‐前1794)を立てました。
このように、国内でも独立国が次々と誕生する中、前2004年、西アジアのイラン高原南西部を支配していたエラム人(エラム王国:都のスサ)の攻勢で、ウル第3王朝は滅亡しました。以後、約200年、イシン王朝、ラルサ王朝、エシュヌン王国、古アッシリア王国、マリ王国などメソポタミアは群雄割拠の時代となっていきます。ただし、この過程でシュメール人は歴史から消えていきました。
- イシン・ラルサと古アッシリア・マリ
その後、イシン王朝は、ウル第3王朝を滅ぼしたエラムを撃退して勢力を維持し、同じセム系アムル人が建てたラルサ王朝と、メソポタミア南部の覇権を争ったイシン・ラルサ時代を現出しました。両王朝の抗争は前1794年、ラルサがイシンを滅ぼしてことで決着をみました。
イシン・ラルサの時代、ナティグリス川の支流ディヤラ川の一帯に勢力を誇っていたエシュヌン王国は、イシン王国のエラム討伐に協力して、その地域の支配権を確保していましたが、ラルサ王国からの侵攻を受けて多くの領土を失うなど劣勢でしたが、隣国(古アッシリア王国)と同盟を結ぶことで対抗していました。
一方、メソポタミア北部では、ティグリス川中流に古アッシリア王国(首都アッシュル)とユーフラテス川中流域にマリ王国(首都マリ)が台頭していました。
古アッシリア王国は、前1950年ごろに興った都市のアッシュルが、ウル第3王朝に従属していましたが、ウル第3王朝の滅亡後に独立し、アムル人の諸族出身のシャムシ・アダド1世(在位:前1813年~1781年/1776年)の治世下で大きく勢力を拡大させました。
マリ王国も同じく都市マリを中心に栄えていたアムル系の王国で、ウル第3王朝滅亡後に独立し、近隣遊牧民を支配下において勢力を伸ばしました。しかし、古アッシリアは、マリ王家の内紛が起きたマリに介入し、バビロンも一時支配下に置くなど、メソポタミア北部をその支配下とする強国となっていきました。ただし、ウル第三王朝滅亡後のメソポタミアを再度、統一していくのは、ハムラビ王の古バビロニア王国でした。
<古バビロニア王国(バビロン第一王朝)>
(前1900年頃~前1595年)
古バビロニア王国(バビロン第一王朝)は、前1900年頃、セム語系遊牧民アムル人が西方からティグリス・ユーフラテス川中下流域のバビロニアに侵入し、バビロンを都にして創始されたと伝わる王朝です。
六代目のハンムラビ王(在位:前1792年~1750年)のとき、王国は全盛期を迎えますが、当時の古バビロニア王国は、その支配領域はバビロン周辺に留まる小国で、シャムシ・アダド1世の古アッシリア王国の従属下にありました。
その頃のメソポタミアの情勢も、マリ王国も従属させ北部を支配下としていた古アッシリア王国と、南部で勢力を拡大するラルサ王朝に対して、エシュヌンナ王国が両国の間で勢力回復を目指していました。
しかし、前1781年、古アッシリアのシャムシ・アダド1世が亡くなると、その支配下にあった諸勢力が一気に独立の動きを見せはじめました。ハンムラビ王もアッシリアへの従属から脱すると、まずは支配領域内の内政に注力しました。前1763年からは、攻勢に転じ、合従連合(がっしょうれんごう)を繰り返しながら、再び侵入してきたエラムをイラン高原に追い返し、ラルサ王朝を征服、続いてエシュヌンナ王国、最後にマリ王国を滅ぼしました。こうして、ハンムラビ王は、ウル第3王朝以来、約250年ぶりにメソポタミア統一を実現しました。
ハンムラビ王は、メソポタミア統一の直後、社会正義を実現するという理由で、後に『ハンムラビ「法典」』と呼ばれる碑文を作らせました。その282に及ぶ条文は、起訴人・裁判官、窃盗・強盗などから、結婚・家族・相続、暴行傷害と傷害致死などに関するものまで多岐に渡る内容となっています。この中で、とりわけ知られているのは、後世「目には目を、歯には歯を」というフレーズで有名になる暴行傷害・傷害致死に関する条項でしょう。
196条:もし自由人が自由人仲間の目を損なったなら、彼らは彼の目を損なわなければならない。
200条:もし自由人が彼と対等の自由人の歯を折ったなら、彼らは彼の歯を折らなければならない。
このような同害復讐法の採用は同時代としても珍しく、過去の他の「法典」では、賠償金の支払いに留まっているそうです。
ハムラビ王は、『ハムラビ「法典」』を発布して法に基づく強力な政治を行った以外にも、メソポタミア統一後、運河の大工事を行って治水・灌漑を進め、諸都市に豊穣をもたらしました。しかし、ハンムラビ王死後、息子のサムス・イルナが王位に継きましたが、ハムラビ王の時代に栄えた文明は、周辺の諸民族にも及び、やがてその富を求めて諸外国の侵入や移住が繰り返されることとなりました。
こうして、古バビロニア王国(バビロン第一王朝)は、諸都市の反乱も相次ぎ、紀元前1740年以降、王権が弱体化していきました。そうした中、南部一帯は、「海の国第一王朝」という、民族系統不明な謎の独立勢力が台頭し、古バビロニア王国は、分裂状態となっていきました。そして、紀元前1595年、ついに、インド・ヨーロッパ語族のヒッタイト人との抗争に敗れて滅亡してしまいました。
なお、前16世紀から前15世紀にかけて、ヒッタイト人以外にも、イラン系諸部族(氏族)のミタンニ人、カッシート人、フルリ人、メディア人、パルティア人、ペルシア人、タジク人らが西アジアに侵入し、次々と国を興していきました。こうして、古バビロニア王国(バビロン第一王)が滅亡した後の前15~前⒕世紀以降、メソポタミア地方は、エジプトの新王国を含めて、諸王朝が並立する複雑な国際関係が展開されました。
<イラン系諸部族の侵入>
- ヒッタイト王国(1680BC~1200BC)
インド・ヨーロッパ語系のヒッタイト人は、前17世紀半ば頃、アナトリア高原(現トルコ)に強力な国家を建設しました。早くから馬、戦車、鉄製の武器を使用したヒッタイト王国は、アナトリア地方(小アジア)だけでなくレバノン北部と上メソポタミアの一部を含む領域を領有し、前16世紀初頭(前1595年)に古バビロニア(バビロン第一)王朝を滅ぼしました。
前14世紀に最盛期を迎え、シリアにも進出して、エジプトと戦いましたが(エジプトにも南侵)、前1200年頃、東地中海上で活動していた「海の民(系統不明の諸民族)」の移動に伴う侵攻によって滅亡したとされています。ヒッタイト王国の滅亡によって、ヒッタイトに独占されていた製鉄技術が諸地域に広がり、鉄資源を確保した諸国によるメソポタミアでの征服活動が活発になっていきました。
- カッシート王国(前1595~前1155年)
(カッシート朝バビロニア王国)
カッシート人の起源は定かではありませんが、紀元前18世紀頃(前1731年頃)に登場したとされ、メソポタミア東方ザクロス山脈方面から南メソポタミアに侵入してきました。
紀元前1595年、ヒッタイト人の侵攻によって古バビロニア王国が滅亡すると、カッシート人は、ヒッタイト軍撤退後にバビロンに入り、カッシート王国(カッシート朝バビロニア王国)(バビロン第3王朝)を建国しました。また、前1475年、カッシート軍は、メソポタミア南部を支配下としていた「海の国」を滅ぼし、バビロニアを再統一しました。
以後300年に渡りバビロニアに安定をもたらし、当時の有力な外交史料(「アマルナ文書」)からも、カッシート朝バビロニア王国は、ヒッタイト、ミタンニやアッシリアなどともに、エジプトと対等の外交関係にあり、古代オリエント世界の国際関係における大国の一つとして勢力を誇ったことが窺えます。
しかし、前13世紀以降、勢力を強くしてきたアッシリアや、東からエラム人の侵攻が相次ぎ、弱体化が露呈していきました。前1155年、エラムの侵攻によって、国王とバビロンの守護神マルドゥク神像がともにエラム王国に連れ去られるという事件がおき、カッシート朝バビロニア王国(バビロン第3王朝)は滅亡しました。
カッシート王朝後、イシン第二朝が成立し、エラム王国からマルドゥク神像を奪還しましたが、短命に終わり、「海の国第二王朝」など、いくつかの王朝が乱立したのち、前12世紀末にはアッシリアが有力となってきました。
◆ ミタンニ王国
(B.C.1500頃~B.C.1250頃)
ミタンニ(ミッタニ)王国は、古バビロニア時代の末期の頃に当たる前16世紀(前二千年紀後半)に北メソポタミア(イラク北部)に建国されたフルリ(フリ)人の王国(帝国)と見られています。なお、フルリ(フリ)人そのものは、前三千年紀後半(前25世紀頃)から古代オリエント世界に進出してきた民族集団です。
建国後、ミタンニ王国は西方の地中海東岸(シリア)へと領土を広げ、前1440年頃の王サウシュタタルの時代には、ティグリス川東岸、北シリア、アナトリア南東部を支配下に収めるなど強国となり、エジプト新王国、ヒッタイト、アッシリアなどと争いました。特に、エジプト王家と婚姻関係を結び、エジプトとの同盟関係を背景にオリエントでの勢力拡大を図りました。(サウシュタタル王から3代後のトゥシュラタ王の王女は、後にアメンホテプ4世と再婚している)。
しかし、前⒕世紀半ば頃から、トゥシュラタ治世下では、内紛が勃発したことを受け、ヒッタイトが侵攻を繰り返し、ミタンニ王国は急速に弱体化していきました。その後、アッシリアとヒッタイトという二大国の緩衝地帯となったミタンニは、勢力を拡大したアッシリアの攻勢を受け、前13世紀半ば頃までに滅亡しました。
◆「海の国」
(前1740年頃~前1475年)(前1025年~前1005年)
「海の国」とは、メソポタミア南部の海に面したシュメール地方を地盤とした勢力のことをいい、海の国第1王朝(前1740年頃~前1475年)、海の国第2王朝(前1025年~前1005年)の二度に渡ってバビロニア王朝を樹立しました。
「海の国第1王朝」(バビロン第2王朝)
ハンムラビ王の死後、古バビロニア王国(バビロン第一王朝)が弱体化したことを受けて、前1740年頃に、イルマ・エルという人物が反乱を起こし、メソポタミア南部に王朝を樹立しました(「海の国」の人々の民族系統等は不明)。この結果、メソポタミアの北半分を支配する古バビロニア王国、その後のカッシート朝と並立する形でその地域を支配する形となりました。
前1595年ヒッタイト王国により、古バビロニア王国(バビロン第1王朝)が滅ぼされ、カッシート人がバビロンを占領してカッシート朝バビロニア王国(バビロン第3王朝)が成立すると、カッシート朝は、前1475年頃、メソポタミア南部に攻め込み、海の国第1王朝を滅亡させました(バビロニア王国の再統一)。
海の国第2王朝(バビロン第5王朝)
前1155年頃、エラムの侵攻によってバビロンが陥落しカッシート朝バビロニア王国が滅亡すると、エラムを駆逐し、イシン第2王朝が興りました。
しかし、イシン朝も、前11世紀末、アッシリアやアラム人の侵攻で滅亡するという混乱の中、前1025年頃、「海の国第1王朝」の末裔と見られるシンバル・シパクがバビロン王に即位して「海の国第2王朝」(バビロン第5王朝)を樹立しました。しかし、わずか20年で滅亡し、メソポタミアはアラム人、カルデア人などの諸部族が勢力争いを繰り広げる混乱時代が続きました。
紀元前8世紀ごろ、強大となったアッシリアがエジプトを含む全オリエントを統一すると、メソポタミア南部の「海の国」もアッシリアに服属しました。アッシリア支配の中、「海の国」反アッシリア勢力として、たびたび反乱を起こし、「バビロニア王」に就きますが、最終的には、鎮圧されました。「海の国」はイラン系民族の国ではありませんが、当時、ペソポタミア地方の歴史を形成したので、ここで取り上げました。
<アッシリア帝国>
(前1950年頃~前612)
アッシリア帝国は、セム語系のアッシリア人が建てた国で、紀元前8世紀ごろ、エジプトを含む全オリエントを統一した先史以来、最初の「(世界)帝国」でした(帝国と呼ばれる所以は、その支配下に多くの異民族を含んでいたことによる)。
ティグリス川上流の北メソポタミア地方に、人が住み始めたのは、紀元前6000年ごろだといわれ、紀元前2500年頃になると、後にアッシリア王国の最初の首都となるアッシュルに人々が移り住み始め、都市国家が建設されました(アッシリアの名はこのアッシュル、または同名の天神アッシュルに由来するとみられる)。しかし、当時メソポタミアを支配したアッカド王国(前2334年~前2112年頃)やウル第3王朝に支配されていました。
前2004年にウル第3王朝の滅亡とともに、アッシリア王国時代を迎え、前19世紀には、小アジアにアッシリア人の商業植民地が建設されるなど、アッシリア王国はこの地域との中継貿易で繁栄しました。政治的にも、北メソポタミアのほぼ全域を支配する勢いでしたが、古バビロニアのハンムラビ王(在位:前1792年~1750年)によって征服され、フルリ人の侵入も受けるようになりました。
この時代までのアッシリアは古アッシリアと呼ばれます。次の中アッシリアの時代も、前15世紀ごろはミタンニ王国(B.C.1500頃~B.C.1250頃)に服属していましたが、やがて、その支配から脱するようになります。
当時オリエント世界はヒッタイト、ミタンニ、バビロニア、エジプト等の列強諸国が争っていましたが、当時の有力な外交文書「アマルナ文書」から、(中)アッシリアが、ミタンニ王国を滅ぼし、その遺領を獲得しただけでなく、バビロニア、ヒッタイトとも戦い勝利したことが確認され、アッシリアは、オリエント世界に確固たる地位を築いていました。
アッシリアが帝国として台頭した背景は、小アジアのヒッタイト(1680BC~1200BC)から鉄器の製造技術を学び、前9世紀ごろまでに、鉄製の戦車と騎兵隊を用いて、強大な軍事力を保持したことがあげられます。
前8世紀の中ごろ、ティグラトピレセル3世(在位前745~727)は、服従した国を属国として支配し、抵抗した国は滅ぼして属州としながら、領土を拡大させました。この時代からアッシリア帝国(新アッシリア)と呼ばれるアッシリアは、前732年、シリアのダマスクスを占領してアラム人を、また、東方では前729年にバビロンをそれぞれ征服し、メソポタミアを統一しました。
さらに、サルゴン2世(在位:前722~前705)は、前722年にパレスチナ北部のイスラエル王国の都サマリアを占領して滅ぼし直轄領とし(パレスチナ南部のユダヤ人の国家ユダ王国は征服を免れたが、朝貢を義務づけられ属国となった)、前710~709年には、離反したバビロニアを再征服して、メソポタミア全域に対する支配を強めていきました。
前7世紀に入ると、アッシュール=バニパル王(在位:前668~前630年頃)は、前663年にエジプトを征服、さらにナイル川上流のヌビア地方に栄えた古代クシュ王国を攻め、南部のメロエに後退させました。
こうして、アッシリアは、イラン西部からエジプトにおよぶ全オリエント世界を統一、メソポタミアとエジプトという二つの文明圏を含む、最初の(世界)帝国を築きあげました。アッシリア帝国は、王が政治・軍事・宗教をみずから管理する中央集権体制をとり、広大な領土をいくつかの州に分けて総督を置き、交通制度として駅伝制を整備しました。
また、都としたニネヴェには、世界最初とされる図書館が作られていたことが、後の発掘調査から明らかになっています(膨大な楔形文字を記した粘土板が発見された)。それは、帝国各地からの情報を集積させるための情報センターの役割を担っていたと見られています。
しかし、アッシリアの支配は、重税と軍事力による専制的なものであったため、服属民の反発を招き、次第に国力は消耗していきました。アッシュール=バニパル王の死後(前660年頃)、バビロニアには、アラム系のカルディア人の新バビロニア(カルディア)が台頭し、東部のイラン高原にはメディアが自立すると、前612年、新バビロニアとメディアの連合軍が、首都ニネヴェを占領し、アッシリア帝国は滅亡しました。
この後、オリエントは、エジプト(第26王朝)、小アジアのリディア王国、新バビロニア(カルディア)王国、イラン高原のメディア王国の4国が分立しました。なお、アッシリア人は後に、5世紀のエフェソス公会議で異端とされたネストリウス派のキリスト教徒として、歴史に再登場します。彼らは、「東方アッシリア教会」として、ペルシャ帝国やイスラム帝国のもと、アジアで活発に宣教しました(中国では景教と呼ばれた)。
<4国分立時代>
◆ リディア王国(前7世紀~前546年)
ヒッタイト王国(1680BC~1200BC)が滅亡した後、アナトリア(小アジア)地方では、インド・ヨーロッパ語族のフリュギア(フリギュア)人が、紀元前12世紀頃移住してこの地域を支配し、紀元前8世紀にフリュギア王国を建国しました。フリュギア王国は、建築・美術・技術・音楽などでギリシア文明の先駆けをなしたとみられるなど、しばらく強力な王国として栄えました。
しかし、紀元前8世紀から7世紀頃、アナトリアへ侵略を重ねた遊牧民族キンメリア人の攻撃を受け、前685年にフリュギア王国が滅亡すると、インド=ヨーロッパ語族系統のリディア人が、アッシリアの援助を受け、キンメリア人を撃退し、リディア王国を建てました。
4代王アリュアッテス(在位前610~560年)は、再び侵入を繰り替えしていたキンメリア人をアナトリアから追い払い、新バビロニア王ネブカドネザルやメディア王キュアクサレスと戦ったことなどが記録されています。
リディア(リュディア)王国は、エーゲ海に面したイオニア地方(アナトリア半島南西部)のギリシャ人植民都市と交易を活発に行い、商工業が発達していました。前7世紀に、世界で初めて鋳造した金属貨幣を使用(貨幣を使用)したことで知られ、ギリシアの経済にも浸透していきました。
また、首都サルディスにはギリシア人が多数住みつき、イオニア地方のギリシア都市には、東方の技術・学問・宗教が伝えられ、前6世紀、イオニアのギリシア人の間で、哲学を中心に文化の華が開き、後のギリシア思想の隆盛につながりました。
次王クロイソス(在位前560~546年)は、アナトリア西岸のすべてのギリシア都市を征服するなど、リディア王国は、経済的にも文化的にも繁栄しましたが、やがて、東方のイラン高原に起こったペルシアに次第に圧迫されるようになり、前546年にペルシアのキュロス2世と戦い、首都サルディスが陥落しました。莫大な富を築いたとされる国王クロイソスは捕虜となり、リディア王国は滅亡し、以後、リディアはペルシア帝国のサトラペイア(州)となりました。
◆ 新バビロニア(前625年~前539年)
新バビロニア王国は、前625年、セム系遊牧民カルデア人(バビロニア人)によって、バビロンを都に建国されました。カルデア王国あるいはバビロン第11王朝とも呼ばれます。前612年には、イラン高原のメディア王国と連合して、アッシリア帝国を滅ぼし、メソポタミアを支配しました。新バビロニア王国は、アッシリア帝国滅亡後の4国分立時代のリディア王国、メディア王国、エジプト末期王朝の中では最も栄えたと評されています。
ネブカドネザル2世 (在位前 605~562) は、前605年、カルケミシュの戦いで、エジプト王ネコ2世らを破り、アッシリア帝国の残党勢力も一掃しました。また、パレスチナに遠征した前586年には、エルサレムを占領、ユダ王国を滅ぼし、ユダヤ人をバビロンに連行しました(これを「バビロン捕囚」という)。この結果、新バビロニアは、シリアからパレスチナ、エジプト国境地域を支配しました。
最盛期となったネブカドネザル王の時代、首都バビロンは、「バビロンの栄華」と形容されるほど空前の繁栄を遂げました。この時代、占星術,天文学、数学をはじめとするカルデア文化がバビロンを中心として開花し、後世に大きな影響を与えました。
もともと、バビロンは、古バビロニア王国(バビロン第一王朝)の時代の都として栄えていましたが、アッシリア帝国滅亡時に破壊されていました。そこで、王はバビロンの復興に力を注ぎ、以下に説明するイシュタル門、バベルの塔、「空中庭園」などを建造したとされています。
イシュタル門
ネブカドネザル2世は、紀元前575年、バビロンの城門に、壮麗なイシュタル門や、バビロンの主神マルドゥク神殿やジッグラト(聖塔)を建設しました。
特に、イシュタル門は、青く光る釉薬瓦(ゆうやくがわら)(青いうわぐすりをかけられたかわら)に、マルドゥク神のシンボル動物である牡牛などのレリーフ(浮き彫り)が見事に施されています。もともと、イシュタルというのは、アッカドの中心的な愛と美の女神で、メソポタミアでは、戦い・狩猟・豊穣の神としても崇拝されていました。
バベルの塔
バベルの塔は、旧約聖書に登場する有名な塔ですが、ただの伝説や神話ではなく、実際に実在した建造物でした。
チグリス・ユーフラテス川流域付近には、古代バビロニア王国の時代から、「ジッグラト」と呼ばれる塔がたくさんあり、これらのどれかがバベルの塔だとされていましたが、アッシリアによって破壊された後、ネブカドネザル2世が建築した塔が「バベルの塔」と言われています。推定される塔は巨大で、「縦・横・高さともに90mの大きさの7段におよぶ四角錐の建物で、頂上へはらせん状の階段が設けられていた」と言われています(現在はその基盤の跡しか残っていない)。
なお、旧約聖書の「バベルの塔」の話しは次のような内容でした。
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ノアの大洪水の後に、ノアの息子・ハムの孫であるニムロド(ニムロデ)が、天まで届くほど高くそびえ立つ塔を建てようとしました。当時、古代バビロンで王であったニムロドは、自身の権力を誇示しようとしたのでした。
塔は途中まで建設されましたが、神は人間の傲慢さに怒り、それまで人々が話していた言語を混乱させ、互いに意志の疎通をできないようにし、人々をバビロンの地から離散させました。以後、神の怒りにふれたバビロンの地は衰退し、世界各地に追いやられた人々は、その場所でそれぞれ異なる言語を話す民族となっていきました(世界で話す言語が異なる理由を示す逸話として知られている)。
空中庭園
バビロンの王宮にあったとされる「空中庭園」は、ネブカドネザル2世がメディア王国から嫁いできた愛妻アミティスのために建設されたと言われています。
その類まれな空中庭園は、石柱の上にヤシの梁(はり)が格子状に組まれた土台の上に、土が厚くかぶせられ、ありとあらゆる木々や花々が植えられていたと言われています。しかし、その美しく荘厳であった空中庭園がどのように作られたのかがよくわかっていないばかりか、その遺跡すら発見されないことから、バビロンの空中庭園は、古代世界の七不思議の一つにも数えられています。
バビロンの空中庭園
このように、栄華を誇ったバビロニアでしたが、ネブカドネザル2世の死後(前562年)、内紛によって急速に衰えていきました。例えば、ナボニドス王のとき、住民たちは、国王が月神シンをマルドゥクの代わりに最高神としたことに反発し、国王から離反していったという逸話があります。
イランから興ったアケメネス朝ペルシアの王キュロス2世の率いるペルシア軍は、前 539年、こうした住民や神官の反発を利用するとともに、メディア軍の力も借り、戦わずしてバビロンに入城し、新バビロニア王国を滅亡させました。なお、キュロス2世、この時、バビロンに捕らえられていたユダヤ人を解放しました。
◆ メディア王国(紀元前715年頃〜紀元前550年頃)
メディア人は、インド=ヨーロッパ語族のイラン系民族の一部族で、歴史の記録に登場した最初のイラン人です(ペルシャ人とは極めて近縁の部族)。
メディア人は、もともとは南ロシアのステップ地帯で半農半牧の共同生活を営んでいたとされますが、西暦前2000年頃に始まったイラン系諸部族(ヒッタイト、ミタンニ、カッシートなど)の移動を受けて、次第に南下してきました。
紀元前⒕~15世紀頃には、イラン高原の西北部のザクロス山中に住んでいたとされるメディア人は、前835年頃にはカスピ海の西に進出、クルディスタン全域(現トルコ東部、イラク北部、イラン西部、シリア北部とアルメニアの一部分にまたがる地域)から中央アジアにかけての地域に定住していたと見られています。
こうしたメディア人の移動については、前9世紀以降、イラン高原に軍事侵攻を繰り返していたアッシリアのシャルマネセル三世(858-824 B. C.)の時代の記録により明らかにされています(メディア人についての最古の記録)。
その後、前8世紀末(前715年)には、ギリシアの歴史家ヘロドトスによれば、ディオケスという人物が現れて、メディア人諸部族を統一し、メディア王国が建国されました。都はエクバタナ (現在のハマダン) に置かれ、イラン高原ペルセス地方のペルシア人も支配下に入れていました。もっとも、その頃、オリエント地域は、アッシリア帝国(~前612)の支配下にあり、メディア王国もアッシリアの一つの属国に過ぎませんでした。
しかし、アッシリア帝国の強圧的で支配により、各地に反乱が相次ぐなか、前612年、メディア王国は、新バビロニア王国(カルデア人)と結び、首都ニネヴェを陥れ、アッシリア帝国を滅ぼしました。
アッシリア帝国の滅亡後は、エジプト、新バビロニア、リディアとの「4国分立時代」の一角を占めたメディア王国は、イラン高原を中心に西はアルメニア、東はペルシア、さらに中央アジア方面まで支配する強国として、約60年間の栄華を誇りました。
メディア王国は、ミタンニ王国の後を継いでミトラ教を国教としました。そのため、この時期、メディア人の支配が中央アジアに及んだことによって、ミトラ教や関連するゾロアスター教が、イラン高原で遊牧生活を送っていた東方イラン系の人々にも伝わる契機となりました。
一方、同じイラン系で、メディア王国の支配下にあったペルシア人は、メディア王国の東南部パルサ(ペルシア高原南西部)の地にいて、次第に自立し、やがて王国を形成し勢力を強めていきました。前550年、アケメネス(アカイメネス)家のキュロス2世(母はメディア王妃)が反乱を起こし、祖父の国メディアを破り、独立を獲得すると、最初のペルシア人の国家、アケメネス朝ペルシアを建国したのです。キュロス二世(在位:前550年頃 – 前529年)は、これを機に、リディアや新バビロニアを滅ぼし、ペルシア帝国の基礎を築きました。
こうして、メディア王国は、歴史から姿を消すとともに、メディア人もペルシア帝国に一体化(ペルシャ人の中に吸収され同化)していきました。
<アケメネス朝ペルシャ=ペルシャ>
(BC550頃~BC330)
アケメネス朝は、メディア王国に属していたインド・ヨーロッパ語族のペルシャ人(イラン人)の国で、前550年頃、キュロス2世によって建国されました。キュロス2世は、メディアとリディア王国を征服した後、前539年にはバビロンを開城して新バビロニアを滅ぼすと、翌年、ユダヤ人を捕囚から解放しました。
最盛期は、第3代のダレイオス1世(在位:前522 – 前486)の時代で、この時、アケメネス朝は、東はインダス川より西はエーゲ海北岸(マケドニアを含む)、南はエジプトまでの大帝国に発展しました。現在でいえば、イランを含む西アジア全体、エジプト、トルコ、バルカン半島にまたがり(オリエント世界は再び統一)、さらに中央アジア、南アジアにも及びました。世界最初の「広域王朝」と評されます。
ダレイオス1世の時に、首都として、壮大なペルセポリスが建設されました。ここには、王が居住しましたが、主として宗教的な儀式が行われました。一方、官庁が置かれ行政の中心は、前12世紀にエラム人が建設したスサで、副首都としての役割があったようです。
アケメネス朝ペルシア帝国の諸王は、ゾロアスター教やミトラ教を信仰し保護していましたが、他の宗教に対しても寛容で(キュロス2世がユダヤ人をバビロン捕囚から解放したこともその一環)、服属した異民族には寛大な政治を行いました。
ダレイオス1世は、各州に知事(サトラップ)を置いて全国を統治し、「王の目」、「王の耳」と呼ばれる観察官を巡回させて、中央集権化を図りました。もっとも、一国一制度ではなく、一国多制度と呼ばれる、地域ごとに異なる宗教・行政組織を採用したとも言われています。
また、全国の要地を結ぶ「王の道」と呼ばれる国道をつくり、スサを中心に駅伝制を整備し、経済のインフラを確立させ、金融面でも金貨・銀貨を発行し、税制を整えました。海上ではフェニキア人の交易を保護するなど、貿易によって財政の基礎を固めました。
加えて、イラン(ペルシャ)人は、楔形文字を表音化してペルシア文字を作り、領土内の異民族の文化を統合して建築や工芸などに成果をあげるなど、ペルシャ文化を体現させていきました。
このように空前の一大帝国となったアケメネス朝ペルシャでしたが、紀元前500年、小アジアのイオニア地方の植民都市の反乱を機に、ダレイオス1世は、紀元前499年から紀元前449年、3回のギリシア遠征を行い、アテネを中心とするポリス連合軍と戦いました。このペルシャ戦争と呼ばれる戦いでは、ギリシア側勝利し、ペルシャはギリシア支配に失敗しました。その後、ギリシャ内でアテネとスパルタが戦ったペロポネソス戦争(前431年~前404年)ではスパルタを支援するなど、ギリシアへの干渉を続けました。
しかし、アケメネス朝ペルシアは、ギリシャを征服することなく、逆に、前334年に始まるマケドニアのアレクサンドロス大王の東方遠征で、グラニコス河の戦い、ダレイオス3世が出陣したイッソスの戦い、アルベラの戦い(ガウガメラの戦い)と相次いで敗れました。前330年には都のペルセポリスが破壊され、アケメネス朝ペルシアは滅亡しました。
<参照>
古代メソポタミア文明~シュメール人・アッカド人の王朝の興亡まとめ
ミタンニ(ミッタニ)王国の歴史
「海の国」~古代バビロニアに二度の王朝を建てた謎多き勢力
バビロン第一王朝ハンムラビ王のメソポタミア統一
カッシート朝バビロニア王国の歴史
(以上Call of History ー歴史の呼び声)
概説世界史(山川出版)
アッシリアの歴史(マニアックアーキオ)
バベルの塔と空中庭園(楽しい世界史≫先史時代~古代地中海文明≫
世界史の窓
世界史のマップ
Wikipediaなど
(2022年6月11日)