アレクサンダー大王の東征:ヘレニズム世界の統一

 

アレクサンダー大王の東方遠征によりギリシアから北西インドまでがひとつに統合された時代をヘレニズム時代といいます。具体的には、アレクサンダー大王の東征からはじまって、アレクサンドロスの死後(紀元前323年)、「アレクサンダー帝国」を継承したマケドニア、シリア、エジプトのうち最後のプトレマイオス朝エジプトの滅亡(紀元前30年)までの約300年間を指すのが一般的です。ここでは、「アレクサンダー帝国」の成立から発展、継承の流れを追ってみたいと思います。

 

<アレクサンダー大王>

 

  • アレクサンダー大王の生い立ち

(在位336-323 B. C.)

(アレクサンダー/アレキサンダーは英語での読み方で、ギリシャ語ではアレクサンドロスと読む)

 

アレクサンダー大王は、紀元前356年、ギリシア北方のマケドニア王国のフィリップ(フィリッポス)2世の子として、王国のペラに生まれました。若きアレキサンダーは、12歳の時から3年間、アテネから招かれた著名な哲学者アリストテレスから、文学、倫理学、哲学、医学等を学ぶなど、英才教育を受けました(アリストテレスはアレキサンダーの家庭教師だった!)

 

フィリップ2世は、ギリシア先進文化を積極的に取り入れ、国政の改革や国力の増強に努めました。そして紀元前338年、カイロネイアの戦いでアテネ・テーべ連合軍に勝利し、翌紀元前337年にはスパルタを除く全ギリシアを統一するコリントス同盟を結成し、その盟主となりました。

全ギリシャを支配したフィリッポス2世はペルシャ遠征を計画しましたが、紀元前336年に暗殺され、アレクサンダーは20歳で、アレクサンドロス3世として王位に就き、父の志を継いでペルシャを含めた東方遠征を行いました。

 

  • アレキサンダー大王の東征

(BC334~BC323年)

 

アレクサンドロスは東方遠征に先立ち、前335年に北方のドナウ川方面(トラキア)を平定し、離反した南方のテーベを制圧、ギリシア諸国との同盟関係を固めた後、前334年、マケドニアを発ち、ペルシアに攻め込みました。

 

紀元前333年、小アジア(現在のトルコ)のイッソスの戦いにおいて、最強を誇ったダレイオス3世の軍を破ると、翌年、無抵抗のエジプトを占領、ナイル河口にアレクサンドリア市を建設しました。その後、シリアへ戻り、BC331年10月、アルベラの戦いでペルシア軍に勝利し、同年末、バビロンに入城すると、前330年には、首都のペルセポリスを陥落させ、一気にアケメネス朝ペルシャ帝国を滅亡させました。

その後も、中央アジアからバクトリア地方などを制圧しながら、インダス川(パンジャブ地方)まで東進を続け、アレクサンダー大王は、わずか12年間で、マケドニア、エジプトからインド北西部に広がる空前の大帝国を建設したのです。

 

もっとも、アレクサンダー大王は、「世界の果て」に到達せんと、紀元前326年、インダス川上流を越えてインドに侵攻を開始しましたが、多くの部将の要求により引き返すこととなり、インダス河口から方向を西に転じ、前323年、バビロンに戻りました。

 

アレクサンダー大王は、この後、南進しアラビアへの侵攻や、西進し地中海方面への遠征を考えていたとされていますが、ある夜の祝宴中、体調不良に落ち入り、紀元前323年6月10日、わずか32歳で急死しました。死因は、熱病(熱帯性マラリア)とも、毒殺とも言われています。

 

アレクサンダー大王の東征において、特筆すべき点は、世界征服への野望を抱いていたされる大王が、東西融合政策を行ったことなどがあげられます。

 

集団結婚

アレクサンダー大王は、民族融和、人種融合のための施策として、現地人との結婚を奨励し、前324年、アレクサンドロス大王はペルシア帝国の旧都スーサ(スサ)において、世界で最初といわれる集団結婚式を挙行しました。80人に近い側近や約1万人に及ぶ兵士たちとペルシャ人女性との結婚で、大王自身もダレイオス3世の娘を王女としました。

 

もっとも、この集団結婚式が、民族融合策の一環という見方以外にも、征服した旧ペルシア帝国の女性を「戦利品の分配」として行為とか、征服地の支配を円滑に行うためであったとか諸説があります。

 

「アレキサンドリア」の建設

アレキサンダー大王は、遠征の途中で、征服した各地に、「アレキサンドリア」という自分の名前を冠したギリシャ風の植民都市を10近く建設しました。その第1号が、紀元前332年に建設されたエジプトのアレキサンドリアで、ペルシア帝国滅亡以降も、さらに東進を続ける過程において、バクトリアやソグディアナ方面にまで、多数のアレクサンドリアが建設されていきました。

 

例えば、バクトリアのアレクサンドリアとされる現在のアフガニスタンのヘラートやカンダハルなどの都市に加えて、アケメネス朝時代にカピサと呼ばれていた交通の要所にあった町を再建した「アレクサンドリア・カウカソス」などが有名です。ここは、「コーカサスのアレクサンドリア(カウカソス山嶺のアレクサンドリア)」とも呼ばれ、後に、グレコ・バクトリア王国やクシャーナ朝の都となるほど、発展を遂げました。

 

また、ソグディアナ地方への遠征で、ソグド人による激しい抵抗を受けた後、ソグディアナ遠征軍はタナイス川(シルダリア川)に到達すると、(現タジキスタンに位置する)ホジャンドという町に「アレクサンドリア・エスカテ」を建設しました。この場所は、当時、シルダリア川がアジアの果てと考えられていたので「最果てのアレクサンドリア」とも形容されました。

 

ソグディアナ

中央アジアのアムダリヤ(アム)川とシルダリヤ(シル)川の中間に位置し、サマルカンドを中心的な都市とする域地方の古名。西からみてオクサス川(アムダリヤ川)の向こう側にあることから、トランスオクシアナとも呼ばれる。

 

これらの植民都市は、軍事拠点として機能しただけでなく、円形劇場や競技場などを備えた街並みはギリシャ文化の伝搬にも貢献しました。また、アレクサンドリアの建設は、同時にギリシャのポリス社会の崩壊に伴い、拠り所をなくして、不安や不満を持つギリシア人を入植させるという政治的な目論見もあったと指摘されています。

 

◆大王の神格化

アレクサンドロス大王は、オリエント世界を征服する過程で、マケドニア王から、徐々にオリエント的な神格をもった王に自ら変質させていきました(この傾向を、大王の神格化・東方化と呼ぶ)。

前331年にエジプトを平定したアレクサンドロスは、エジプトの最高神アモン(アメン)を祭る神殿に参詣し、神官から自分がゼウスの子であるとの神託を受けました(古代ギリシャでは、アモン神は最高神ゼウスと同一視されていた)。そこで、アレクサンダー大王は、エジプトではファラオとしてふるまい、同胞のギリシア人に対しては、自分をアポロと呼ばせ、ゼウスの時代は終わり、アレクサンダーの「アポロの時代」が始まったと宣言したと言われています。

 

また、征服したペルシャ(イラン)でも、アケメネス朝の後継者として自らを神格化しました。アレクサンダー大王は、どの宗教にも寛容でしたが、旧敵アケメネス朝のゾロアスター教だけは徹底的に破壊・弾圧しました。特に、アレクサンドロスの遠征に最も激しく抵抗したとされるバクトリアは、イランの伝統宗教ゾロアスター教が根強かった地域であったことなども背景にあげられます。

 

逆に、ペルシャでゾロアスター教とともに信仰されていたミトラ教を支持したと言われています。新たに臣下となった西アジアの人々には、自分をミトラと呼ばせゾロアスター教が教えるアフラ=マズダとアーリマンが戦った時代は終わり、アレクサンダーの「ミトラの時代」が始まったと宣言したそうです。この意味では、宗教史の観点からみれば、ヘレニズム時代は、ミトラ教の時代という言い方も可能です。

 

◆ ヘレニズム文化の伝搬

アレクサンダーが作り上げた大帝国は短命でしたが、大王の東方遠征によって、多くのギリシア人がオリエント(西アジア)に移った結果、ギリシア文明とオリエント文明を融合させ、西アジアにヘレニズムという新たな文明の出現をもたらしました。

 

そもそもヘレニズムとは、「ギリシア化」の意で、アレクサンダー大王の東方遠征に始まる西アジアのギリシア化をさします。また、アレクサンダー大王は、前述したように、ミトラ神とアポロ神を奨励したので、ミトラ神話とギリシア神話の融合が進み、やがて地中海世界全域に広まっていきました。こうしたヘレニズム文化は、地中海周辺から西アジア、さらにインドまでおよび、後には、中国や日本まで影響を与えました。

 

このように短期間に空前の大帝国を築いたアレクサンダー大王でしたが、その死後、マケドニア人の後継者(ディアドコイ)たちの間で争いが起こり、アレクサンダー帝国は分裂、帝国の領地は、マケドニア(アンティゴノス朝)、エジプト(プトレマイオス朝) 、シリア(セレウコス朝)に三分割されました。

 

<アンティゴノス朝マケドニア>

(紀元前276〜紀元前168)

 

アレクサンダー大王の死後、ディアドコイ(後継者)の一人であったアンティゴノス1世モノフタルモス(隻眼王)は、前306年にプトレマイオス朝エジプトとの戦いで勝利し、一度はマケドニア王国を宣言しました。しかし、前301年のイプソスの戦いで、セレウコス朝シリアなどの連合軍に敗れて、アンティゴノス1世は敗死してしまいました。

 

それから四半世紀後の紀元前276年、アンティゴノス1世の孫のアンティゴノス2世が、マケドニア本国と小アジアの一部ならびにギリシアを支配領域とするアンティゴノス朝を、最終的に確立しました(首都はペラ)。

 

重装歩兵を軍事力の主力とし、ギリシア的な市民を中核としたマケドニアは、当時、西方のイタリア半島に勃興し、地中海世界に勢力を拡大させる共和政ローマとの間で、前後3回にわたる戦争(マケドニア戦争)を戦いました。

 

しかし、前168年のピュドナの戦いに敗れて、最後の王ペルセウスは捕虜となり廃位、アンティゴノス朝は滅亡すると、マケドニアは4つの共和国に分割され、紀元前148年には、ローマの属州の一つ(マケドニア属州)となりました。

 

 

<セレウコス朝シリア>

(前312年~前63年)

 

セレウコス朝シリアは、アレクサンダー大王の後継者(ディアドコイ)のひとり、セレウコス1世ニカトル(在位:前312年~前281年)が、オリエント地域に築いたギリシャ系の王国で、都は、バビロンに近いセレウキアと地中海に面したアンティオキアと2つ置かれました。

 

アレクサンダー大王の有力な部下であったセレウコス1世は、大王の死後起きた後継者(ディアドコイ)戦争で、一時、マケドニアのアンティゴノス1世と対立して追放されましたが、前312年、バビロンに帰還し、セレウコス朝を建国しました。

 

その後、セレウコス1世は、東方進出を図り、前306年からイラン高原を経てバクトリアに遠征するなどイラン支配を確立しました。さらに、翌年、インドに侵攻しましたが、当時、インド初の統一王朝として成立していたマウリヤ朝(前317~前180頃)のチャンドラグプタ王の大軍と戦って敗れ(遭遇しただけで戦っていないという説もある)、セレウコスが新たに獲得したインドの領土をすべて放棄し、その代わりに500頭の象を手にいれて帰国しました。

 

さらに、セレウコス1世は、ディアドコイ戦争最大の会戦とも言われたイプソスの戦い(現在のトルコ中西部の地域)で、マケドニアのアンティゴノス1世を破り、アレクサンダーの帝国の分裂を決定づけるとともに、アレクサンダー大王が征服したアジア部分のほぼ全域をセレウコス朝が受け継ぐことになりました。

 

しかし、アンティオコス2世テオス(在位:紀元前261年 – 紀元前246年)の頃、セレウコス朝が、西方に集中している間、東部の有力者達は離反の動きを強めてきます。

 

前255年、アム川上流のギリシャ人指導者ディオドトスが、北方支配地域のバクトリアを独立させてグレコ・バクトリア王国を建て、また、前247年には、遊牧イラン人の族長アルサケスも、カスピ海東南部にパルティア王国を建国し、セレウコス朝から分離・独立していきました。

 

アンティオコス3世(在位、前223~前187)の時代には、ローマとの第2回ポエニ戦争で敗れたカルタゴの名将ハンニバルが亡命してきました。ローマへの復讐戦を目論むハンニバルが、シリアやマケドニアなどと同盟し、ローマ攻撃を持ちかけると、バルカン半島南東部のトラキアをめぐりローマと対立していたアンティオコス3世は、これに応じギリシアに出兵しましたが、スキピオの率いるローマ軍との戦いに敗れてしまいました。

 

王朝の西方では、すでに前262年、小アジアのペルガモンの独立を許し、プトレマイオス朝エジプトとの戦争も続き、国は疲弊、紀元前2世紀半ばには、ユダヤ人の反乱も起きていました。

 

このように、ローマとパルティアに圧迫され大幅に領土を縮小したセレウコス朝は、最後はシリア周辺を支配するだけの小国になると、前64年にローマのポンペイウスによって滅ぼされ、ローマ帝国では、属州シリアとなりました。

 

<プトレマイオス朝エジプト> 

(前305~前31年)

 

アレクサンドロス大王の部将で、マケドニアのプトレマイオス1世が、前305年に、ギリシア系国家(ヘレニズム国家)、プトレマイオス朝を興しました。プトレマイオス1世(在位:前367~前282)は、若い頃、アレクサンドロスとともにアリストテレスに学んだとされ、アレクサンドロスの部将としてその東征を補佐し、その死後、ディアドコイ(後継者)の一人としてエジプトの地方長官(エジプト総督)となっていました。

 

前323年のアレクサンダー大王の死後、大王の遺体は、大王が希望していたとされるエジプトではなく、マケドニアの古都アイガイに移送されることになっていました。これに対して、プトレマイオス(1世)は、軍を差し向け、遺体をシリア付近で奪い取り、エジプトに持ち帰ると、首都メンフィスで、大王の葬儀を行い、大王にふさわしい墓に遺体を安置しました。

 

大王の遺体を自分の総督領に確保したことで、プトレマイオス1世は、自らの王朝の正統性を他の王朝に示し、他の後継将軍(ディアドコイ)にはない大きな威信を手にすることに成功しました。しかし、ギリシア系のプトレマイオス家の王は、次第にエジプト化し、エジプト伝統のファラオの後継者として君臨するようになり、オリエント的な専制政治を行っていきました。

 

 

◆プトレマイオス朝の全盛期

プトレマイオス3世(在位:前246年~前222年)の時代、プトレマイオス王朝は、政治、軍事、学問、芸術のすべての分野で範囲し全盛期を迎えました。

 

プトレマイオス1世の時代から、積極的な海上進出が行われ、プトレマイオス朝エジプトは、西はキュレナイカ、東はフェニキアとシリア南部、北はギリシア南部と小アジア南岸、さらにエーゲ海の島々とキプロス島に及ぶ勢力圏を確保するなど、東地中海全域をほとんど支配しました。また、これらの地域は、オリーブ、葡萄、レバノン杉、アラビアの香料などの交易の場ともなりました。

 

都のアレクサンドリアは、経済的に繁栄しただけでなく、プトレマイオス1世が建てたムセイオン(図書館兼研究機関)にはエラトステネス、アルキメデス、エウクレイデス(ユークリッド)ら、各地から招かれた100人もの研究者が、自然や人文の研究に従事するなど、文化の中心地となり、ヘレニズム三国の中で最も繁栄しました。

 

なお、1798年、ナポレオンのエジプト遠征の際、アレクサンドリアの近くで、プトレマイオス5世(在位:前204~前181)の業績を讃えた石碑の一部であるロゼッタ=ストーンが発見されています。

 

 

◆ クレオパトラのプトレマイオス朝

しかし、前1世紀ごろになると、王位継承などで内紛が生じ、社会不安から民衆蜂起も起こるようになると、当時、急速に地中海全域に進出してきたローマは、それに乗じて、エジプトの豊かな穀物生産力を狙い、エジプトに介入し始めました。

 

プトレマイオス12世の時代、アレクサンドリアの市民の暴動が起き、プトレマイオス12世はローマに亡命し、当時の実力者ポンペイウスに保護される一方、アレクサンドリアでは王の娘ベレニケが反ローマを掲げて王位に就くという事件が起きました。

これを受け、前55年、ポンペイウスは、騎兵隊長アントニウスを送り、アレキサンドリアに侵攻すると、ベレニケらを捕らえて処刑し、プトレマイオス12世を復位させました。そのプトレマイオス12世が、前51年に死去すると、その娘でベレニケの姉のクレオパトラ7世(18歳)と、プトレマイオス12世の長男でクレオパトラの弟のプトレマイオス13世(10歳と推定)が形式上の夫婦となり、エジプトを共同統治することになったのです。

 

しかし、プトレマイオス13世の後見人たちは、クレオパトラを除外して、若い13世を操り、実権を握ろうと、ほどなくクレオパトラを追放しました。シリアに亡命を余儀なくされたクレオパトラは、砂漠での野営生活を強いられたと言われています。

 

このとき、ローマの内乱でポンペイウスに勝利して実権を握ったカエサルが、エジプトに逃れたポンペイウスを追ってアレキサンドリアに入ると、急遽シリアから戻り密かにカエサルと面会したクレオパトラは、ローマへ介入を依頼し、支援の約束を取りつけました。

カエサルは、前47年、プトレマイオス13世に、クレオパトラを共同統治者として復位させることを承認させましたが、13世の後見人たちは、これを阻止しようと、海上から王宮を包囲し、攻撃しました(アレクサンドリア戦争)。

 

これに対して、劣勢だったカエサルは、何とか持ちこたえてエジプト軍を打ち破ると、クレオパトラ7世を復位させた上で、彼女のもう一人の弟をプトレマイオス⒕世として形式的に結婚させ、共同統治させることとしました。

 

クレオパトラとカエサルは親密度を増し、やがて二人の間にはカエサリオンが生まれました。クレオパトラは、カエサリオンが、やがてプトレマイオス15世となるだけでなく、カエサルの後継者ともなって、ローマからエジプトまでを支配する皇帝になることを夢みたと言われています。

 

カエサルもまた、エジプトに滞在中、ファラオの遺跡などに触れる中、強大な権力を保持する皇帝になるという意図をもつようになったとされ、帝政への移行を目指しました。しかし、これを嫌った共和主義者(元老院による共和政を維持しようとするグループ)らは、前44年、カエサルを暗殺してしまいました。

 

カエサル死後、アレクサンドリアに戻り、そこで態勢の立て直しを図ったクレオパトラは、ローマの有力者アントニウスと結びましたが、前31年、アクティウムの海戦で、ローマのオクタウィアヌスに敗れました。

 

翌年、クレオパトラは、アレクサンドリアで、毒蛇に胸を咬ませて自殺し、プトレマイオス朝は滅亡しました。この年、奇しくも、アレクサンダー大王が、アレクサンドリアを建設した前331年から、ちょうど300年が経過していました。

 

結果として、アレクサンダー帝国を継承したマケドニア、エジプト(プトレマイオス朝) 、シリア(セレウコス朝)は、最終的に、ローマ帝国によって滅ぼされ、吸収された形になりました。

 

<参考>

パルティアとバクトリア:残されたヘレニズムの余韻!

 

 

<参照>

世界史の窓

世界の歴史マップ

コトバンク

Wikipediaなど

 

(2022年6月22日)