アメリカ近現代史

 

イギリスからの植民者たちは、キリスト教の宗派も、植民地成立の事情もさまざまであった。

先住民を排除して領土を拡大していったが、17世紀前半(1619年)は、バージニア植民地の議会を最初として植民地議会など自治制度を作りだした。

 

1607年のバージニア植民地から1732年のジョージア植民地まで、東部海岸に建設された13の植民地に入植したイギリスからの植民地はさまざまな宗派から成り立っていた。ニューイングランド植民地(北部植民地)はピューリタン、南部植民地はカトリックの勢力が強かった。

 

中部植民地のペンシルベニアはクウェーカー教徒のウイリアム=ペンにより建設された。

 

ルイジアナ植民地は、1682年にフランス人 ラ=サールによって探検され、ルイ14世に献上されたフランス植民地である。

 

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  • アメリカ独立戦争

(1774年7月4日:米独立記念日)

 

イギリス人は、1607年のバージニア植民地を皮切りに、1732年のジョージア植民地まで、北アメリカの東海岸地帯に13の植民地を作り入植した。1619年には、最初の植民地議会がバージニア植民地のジェームズタウンで開かれるなど、18世紀前半までに、イギリスの植民地アメリカは、それぞれ植民地議会や大学の設立といった自治的な政治体制を持っていた。

 

このように、アメリカの植民地の人とその子孫に、本国イギリス国民と同じ権利が与えられるとされたが、13の植民地それぞれの代表をイギリス本国の議会へ送ることはできなかった。ですから、植民地の人たちは、イギリス本国の植民地政策に口をはさむことはできなかったのである。こうした状況下、イギリスは、度重なるフランスとの植民地戦争による負債を賄うために、植民地アメリカへの課税を強化した。

 

 

「代表なくして課税なし」

 

イギリスは、1765年、植民地アメリカで発行される証書・新聞・広告などの印刷物に印紙税を課す(印紙を貼る)ことを定めた印紙条例印紙法)を制定した。これに対して、植民地側は、「代表なくして課税なし」とする反対運動を起こし、条例は翌年、撤回されが、1773年4月には、イギリス東インド会社に、植民地アメリカへの茶の専売権を与えた茶法茶条例)を課した。

 

これに強く反発した植民地側の貿易商人など一部の急進反対派は、同年12月、ボストン港に入港していた東インド会社の船に侵入して、茶箱342箱を海中に投棄する行動に出た(ボストン茶会事件)。

 

イギリス当局は犯人を捕らえようとしたが検挙できず、激高したイギリスは、翌1774年、報復措置として、ボストン港閉鎖法など「強圧諸法」を制定し損害賠償を求めた。しかし、反発した植民地側はイギリス製品の不買運動などに立ち上がり、これを拒否、アメリカの植民地代表は、1774年9月、フィラデルフィアで大陸会議を開き、イギリス本国に対抗することを決定した。

 

 

「独立宣言」と「独立戦争」

 

そんな中、ボストン市民5人(植民地民兵)が、駐留英軍に殺傷される事件を機に、1775年4月、ボストン郊外のレキシントンとコンコードでイギリス本国と植民地民兵とが武力衝突して、アメリカ独立戦争が勃発した。さらに、植民地側は、同年5月、第2回大陸会議を開き、ジョージ・ワシントンを総司令官とする大陸軍を創設して戦争を遂行した。

 

1776年1月には、トマス=ペインが政治パンフレット「コモン=センス」を発行、「万機公論に決すべし」と唱えて、独立の機運を高めさせた。13植民地の政治的立場はまちまちであったので、世論を一つにして、独立の必要性を訴えたのである。

 

さらに、1776年7月4日、大陸会議で、トーマス・ジェファソンらが起草した「独立宣言」を発して、東部13州の独立を宣言した。独立宣言では、生命・財産および幸福追求の権利という自然権、主権在民などの基本的人権、社会契約論に立つ政府の役割、暴政に対する革命権などが述べられており、独立の正当性が表明されている。また、随所にジョン・ロックの啓蒙思想の影響が見られていることも特徴である。

 

次いで、植民地側は、1777年11月に連合規約を制定して、国名をアメリカ合衆国とした。ただし、当初のアメリカは、事実上、13の独立共和国の緩やかな連合体に過ぎず、中央政府の権限は弱い状態でしたので、戦争遂行能力に懸念があった。

 

しかし、アメリカ独立戦争には、フランス、オランダ、スペインが植民地側に立って参戦した。七年戦争敗北以来イギリスに報復の機会をねらっていたフランスは、1778年、アメリカ合衆国の独立を承認し、軍事同盟を結んで上でイギリスに宣戦を布告した。1779年、フロリダ回復をねらっていたスペインもフランスの同盟国として対英宣戦を行った。

 

さらに、アメリカ独立戦争に際して、イギリスは、イギリスを支援しない中立国の船舶を捕獲するという海上封鎖を宣言すると、これに反発したロシアの女帝ロシアのエカチェリーナ2世の提唱で、スウェーデン、デンマーク、プロイセン、ポルトガルの参加する武装中立同盟が、1780年に成立した。また、多くの義勇兵がヨーロッパ各地から参戦するなど、イギリスは国際的にも孤立していったのである。

 

こうして、戦局はアメリカに有利に作用し、1781年のヨークタウンの戦いで、イギリス軍は大敗を喫すると、アメリカ側の勝利が確定した(実質的な戦争終結)。その後、1783年にパリ条約が結ばれ、イギリスはアメリカの独立を承認し、ミシシッピ以東の広大なルイジアナを割譲した。

 

 

合衆国憲法とワシントン大統領

 

独立後のアメリカ合衆国では、連邦政府の樹立を望む声が高まったことを受けて、1787年、ワシントンを議長とする憲法制定会議がフィラデルフィアで開かれ、アメリカ合衆国憲法が制定された。連邦中央政府の権限を強化する一方、各州の大幅な自治権を認めた憲法は、1788年に9州が批准して発効した。翌1789年、初代大統領には、植民地軍総司令官として独立戦争を勝利に導いたジョージ・ワシントンが就任し、連邦政府が発足した。

 

このように、20世紀以降、世界に君臨するアメリカ合衆国が誕生したわけだが、アメリカの建国に貢献したもう一人の人物を紹介したい。その名は現在、米100ドル紙幣の肖像画にもなっているベンジャミン・フランクリンである。

 

フランクリンは、1774年の独立宣言の起草委員を務め、1776年には大陸会議の代表としてフランスに渡り、フランスの対英参戦に向けて尽力したとされている。1783年のパリ条約(1783)の締結交渉にも参加するなど、アメリカ合衆国の建国に向けて内外を奔走した。

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 1805年、トラファルガーの海戦でフランスが敗れると、イギリスはフランスに対してだけでなく、アメリカにも報復として海上封鎖を実施しました。

 

アメリカは、イギリスの海上封鎖解除を狙い、1807年に外国との貿易を停止したが、イギリスは海上封鎖を継続、アメリカの農産品輸出は大きな打撃を受けた。結果としてアメリカの貿易も阻害されることになり、ついに1812年6月にアメリカはイギリスに宣戦布告する。

 

1803年、フランスのナポレオンは、イギリスとの戦争資金の捻出のために、ミシシッピー川以西のフランス領ルイジアナをアメリカに売却しました。アメリカはルイジアナ買収により、広大な西部の土地を獲得し、1840年代以降に本格化する「西部開拓」の足がかりとしていくことになります。

 

ナポレオンはルイジアナ売却後、イギリスと戦争を開始、アメリカはこの戦争で中立の態度を取りました(イギリスに味方しなかった)。

1805年、トラファルガーの海戦でフランスが敗れると、イギリスはフランスに対して、海上封鎖を実施しました。イギリスの海上封鎖は結果として、当時、イギリスを中心にヨーロッパへの農産物の輸出によって外貨を獲得していたアメリカの貿易も大きく阻害されることになり、1812年6月に、アメリカはイギリスに宣戦布告するに至りました。米英戦争の始まりです。戦況は、ナポレオンの没落で英軍が増強したことから、アメリカには不利に傾き、1815年のガン条約により停戦となりました。

 

 

18121814  米英戦争(3代トーマス・ジェファソン)

アメリカの経済的自立と資本主義の発展へ

 

1812年、アメリカは、イギリスへの宣戦布告を実施し、米英戦争となった。しかし、ナポレオンの没落で英軍が増強されてしまい、戦況はアメリカに不利となり、1815年、ベルギーで締結されたガン条約により停戦となった。米英の領土は戦前に戻された。

 

米英戦争中に、イギリスや欧州大陸との関係が途絶えたことで、アメリカ人としてのナショナリズム(国民主義)が高まりました。産業政策的には、保護関税を図って自国内の工業を発展させるなど、アメリカ国内で自前の産業が発展する端緒となったのです。こうして、アメリカはかつての植民地時代から続いたイギリスからの経済的な独立を果たしていきました。この米英戦争を、「第二次独立戦争」と呼ぶこともあります。

 

また、米英戦争以降、外交的にはモンロー宣言(1823年)、政治的には民主主義が発展、経済的には産業革命が進展していくことになります。

 

1823年、モンロー主義宣言・・・「孤立主義」米外交の基本原理

米・欧州両大陸間の相互不干渉、独立の尊重、干渉を受けた場合の実力による反抗。

 

19世紀前半、米英戦争終了を契機に、イギリスから経済的独立を果たし、モンロー宣言によって、アメリカ大陸諸国とヨーロッパ諸国との相互不可侵の外交政策を確認した。外交的には孤立主義をとった。

 

アメリカ合衆国は、1823年、ラテン=アメリカ諸国の独立に際し、ヨーロッパ諸国によるアメリカ大陸への干渉の排除を主張するモンロー宣言を行った。

 

モンロー宣言は、1823年、ラテンアメリカ諸国の独立に対するヨーロッパ諸国の介入を排除するために、第5代大統領モンロー(在1817~25)が年頭教書(モンロー教書)で宣言したものである。

 

その内容は、1)ヨーロッパ諸国がアメリカ大陸を植民の対象にすることに反対する(非植民地主義)、2)ヨーロッパ諸国のアメリカ大陸に対する干渉はアメリカへの非友好的態度と見なす、アメリカもヨーロッパも互いの国内問題には干渉しない(相互不干渉主義)というもの。これは、ヨーロッパの情勢には干渉しないという建国以来のアメリカの孤立主義政策を表明したものであり、同時にラテンアメリカ諸国の独立を支援したものでもある。

 

  

1830年代、ジャクソニアン・デモクラシー(7代ジャクソン大統領)

~民主主義と産業革命への道程~

 

1830年代のアメリカは、ジャクソン大統領(1829年3月~1837年3月)の時代で、ジャクソニアン・デモクラシーと呼ばれるアメリカ流民主主義の花が開いていきました。

 

アンドリュー・ジャクソンは1824年、米英戦争での活躍で有力な大統領候補として浮上し、一般投票でジョン・クインシー・アダムズを上回ったものの、過半数を獲得できず、下院の裁定の結果、落選してしまった。しかし、1828年の選挙で雪辱を果たし、米大統領として2期務める長期政権を実現しました。

 

ジャクソン大統領は選挙権を拡大させた一方、「官職は国民の財産」であり、「一人の人間が長期間、同じ地位にいれば権力は腐敗する、公職も同様である」、「永続的な官僚制は民主主義に反する」として、家柄にとらわれることなく、誰もが政治に参加することができる道を拓きました。

 

しかし、同時に選挙権の拡大は、大量に選挙人が出現することを意味し、選挙においても、候補者は大規模な選挙活動を行うこととなっていきました。結果として、当選した際には、選挙活動の協力者に役職を提供するという慣習で、今も残る猟官制度(スポイルズ・システム、情実任用制)が登場しました。

 

この政策に関しては、賛否両論があり、賛成する親ジャクソン派は民主党を結成、反ジャクソン派はホイッグ党(後の共和党)を組織し、後のアメリカの二大政党制につながっていくことになります。

 

一方、ジャクソン政権の時代、アメリカも主要国ではイギリス、ベルギー、フランスなどに次いで産業革命が本格化しました。アメリカの産業革命については、フルトンの蒸気船がハドソン河をさかのぼった1807年がきっけとなり、米英戦争以降進展していきました。

 

 

1840年代、西部開拓 ~マニフェスト・ディスティニー

 

西部開拓が盛んに行われ、その最前線の地帯(フロンティア)は時代とともに西へと移動した。さらに戦争や買収により周辺地域を併合し、19世紀半ばには大西洋岸から太平洋岸に至る広大な土地を獲得した。

 

一方、経済の発展とともに、領土としての国土も西へ拡大していきました。1845年にテキサスを併合した後、1848年には、メキシコとの戦争(米墨戦争)に勝利し、カリフォルニアとニューメキシコは1500万ドルでアメリカへ譲渡されました。こうして、アメリカの領域は太平洋岸に到達しました。

マニフェスト・ディスティニー(明白な運命、膨張の運命)とは、この頃に生まれた言葉で、「アメリカが西部へ膨張していくのは神から白人に与えられた使命だ」とする西部開拓を正当化した思想です。17C前半から始まったこの西漸(せいぜん)運動は、米英戦争後から南北戦争までの間に最盛期となりました。

 

さらに、1848年にカリフォルニアに金鉱が発見され、「ゴールドラッシュ」の時代を迎え、1850年初頭にはカリフォルニアの人口は20万人まで急増し、西部の開拓が急進展することになっていきました。

 

こうして、1890年頃までにフロンティア消滅しました。これはアメリカの全ての土地に入植者が入ったことを意味します。そして、この時には、工業生産高で、当時の覇権国イギリスを抜いて世界一になっていたのです。

 

領土的には現在のアメリカがここで生まれたと言えますが、政治的、経済的な統一は、次の南北戦争を待たなければなりません。

 

ただし、アメリカの産業革命のピークは、ジャクソン後の1840年代から50年代です。航路や鉄道網が完成、鉄鋼産業も急速に拡大していくなかで、1850年代までに北東部を中心に重工業化が進んでいきました。これが後の南北戦争における「商工業の北部」と「大農園の南部」という対立にもつながっていくのです。

 

また、都市に労働者が集まりだし、彼らが大量に暮らす大都市圏が生まれました。企業に出資する資本家や企業経営を行う経営者も台頭しだし、アメリカに資本主義経済が根づいていきました。

 

大陸の東側では、北部と南部がそれぞれ独自の発展を遂げており、北部は商工業の発展を背景に、地方分権ではなく中央集権を、自由貿易ではなく保護貿易を主張し、奴隷制に反対した。

 

北部は、国内産業保護のため保護貿易を支持し、

南部は、伝統的にイギリスの綿工業と結びついた綿花栽培と輸出を経済基盤とするため自由貿易を支持し、地方分権的指向が強かった。

 

南北戦争は4年ほどで終結し、戦後は北部が南部を国内の商品市場とする形で中央集権化が進み、奴隷が解放されて近代的な国家として歩みだした。

 

 アメリカ合衆国では、奴隷制の拡大に反対し、イギリスに対抗するため保護関税政策を推進したリンカーンが大統領に就任した(1860)ことで、南北戦争(1861~65)が勃発した。リンカーンはこの戦争中、奴隷解放宣言を発表(1863)し、激戦地のゲスティスバーグで「人民の、人民による、人民のための政治」を訴える演説を行った。

 

奴隷制廃止等をめぐる南北の利害対立が激化する中で、北部出身のリンカーンが大統領に当選すると、南部は連邦を脱退し、南北戦争が勃発した。

 

南北戦争の背景には、奴隷制をめぐる立場の違いとともに、北部と南部の経済上の対立があった。工業化の進んだ北部はイギリスとの対抗上、保護貿易を求める一方、南部では主に綿花が栽培され、綿工業の発達したイギリスに輸出する体制がとられていたので、自由貿易を求めた。

 

地下資源が次々に開発され、大陸横断鉄道が完成し、独占資本が形成され、19世紀末の工業生産はイギリスを抜いた。

アメリカではしばしば反トラスト法が制定されているように、トラストは発達し、巨大な独占企業が形成された。イギリスを抜いて世界最大の工業国となっていた。

 

19世紀後半には、全国的な高速自動車道路網が完成して国内市場が統一され、またアジアから移民が大量に流入した。これにより、20世紀初頭には、アメリカ合衆国において自動車や家庭電化製品などの大量生産・大量消費をもとにした生活様式が出現し、大衆消費社会が到来した。

 

19世紀末にはデパートに象徴されるような「大衆消費社会」への転換期であるが、問題文にある自動車や家庭電化製品の大量生産・大量消費を背景にした大衆消費社会が始まるのは20世紀初頭である。その象徴とも言うべき、大衆車「モデルT」の大量生産にフォードが成功するのは1908年である。最初の劇映画とされる「大列車強盗」の上映は1903年、ラジオ放送の開始は1907年、蓄音機が家庭にまで普及するのは20世紀の初頭である。

 

19世紀後半に完成したのは、大陸横断鉄道である。1869年、セントラル=パシフィック鉄道とユニオン=パシフィック鉄道がプロモントリーで連結され、大陸横断鉄道が開通した。以後、1883年に南太平洋鉄道と北太平洋鉄道が開通し、19世紀末には国内市場が統一された。なお、アメリカで高速道路の建設が始まるのは1907年のニューヨーク州が最初である。

 

また、19世紀後半に、アジア系の移民が奴隷に代わる鉄道建設などの労働力(クーリー)として導入されたのは正しい。ちなみに、セントラル=パシフィック鉄道の建設には中国人労働者が使われた。

 

マッキンリー大統領は、アメリカ・スペイン戦争(米西戦争1898年)でスペインに勝利し、キューバの独立を認めさせ、フィリピン、グアム、プエルトリコをスペインから獲得した。

 

米西戦争の結果スペイン領フィリピンを植民地化し、中国との通商の機会均等を求める門戸開放宣言を行うなど帝国主義外交を展開した。

 

 アメリカ合衆国は、1929年のニューヨーク株式市場での株価の暴落から、深刻な不況に見舞われた。この間、企業の倒産が一挙に進んで工業生産は急落し、農業生産も打撃を受けた。また、1930年になると恐慌は金融機関にまで拡大し、有力な銀行などの閉鎖や倒産が起こり、預金者が銀行へ殺到する取り付け騒ぎが頻発した。

 

数年間にわたる過剰生産と異常な投機熱の中でニューヨーク株式市場が大暴落し、世界恐慌につながるかつてない大恐慌が起こった。

 

アメリカ合衆国では、大統領のフランクリン=ルーズベルトが、ニューディール政策を実施し、公共事業を実施することで、国家的な経済統制を課した。

 

FDルーズベルト大統領は1933年以来、農業調整法、全国産業復興法を中心とするニューディール政策を行い、世界恐慌の克服を図った。

農業調整法:生産制限と農産物価格の引き上げを行った法律。

全国産業復興法:生産制限と労働者の賃金引き上げを行った法律。

 

政府が積極的に経済に介入し、生産の調整による価格の安定化、大規模な公共投資、農産物価格の引き上げなどを行うニューディール政策を実施した。

 

アメリカ合衆国では、株式相場の大暴落により生じた恐慌の打開を図るため、フランクリン=ローズヴェルトが全国産業復興法や農業調整法などを中心としたニューディール政策を実施した。対外的には、中南米諸国との善隣外交を展開するとともに、ソ連と国交を開き、貿易を拡大させた。