アラブ首長国連邦(UAE)は、1971年12月、イギリスから独立を果たしましたが、当初、湾岸地域には、カタールとバーレーンも含む、9つの首長国があって、連邦結成に向けた話し合いが進んでいました。当時は首長国が単独で独立国家となるのは難しいと考えられていたからです。
結果的に、カタールとバーレーンは単独で独立しましたが、残りの7首長国は、アブダビ首長国を中心にまとまってアラブ首長国連邦(UAE)を結成し、独立を果たしました。今回は、UAE誕生に至る経緯をまとめてみました。
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<先史時代>
現在のアラブ首長国連邦の領域で、紀元前5500年頃のものとされる、最古の人類居住遺跡が発見されています。
やがて紀元前2500年頃には、アブダビ周辺に、マガンと呼ばれる国家が成立したとみられています。メソポタミア文明とインダス文明との海上交易の中継地点として栄えましたが、紀元前2100年頃に衰退しました。
<ペルシャとイスラムの支配>
紀元前6世紀頃には現在のイランに興ったアケメネス朝ペルシアの支配を受け、その後もペルシア文明の影響を受けていきました。7世紀以降、イスラム帝国の支配を受け(イスラム教が広がる)、その後、長い間、オスマン帝国(1299〜1922)の領土となりました。
<大航海時代とイギリスの支配>
15世紀末からはじまった大航海時代になると、ポルトガルを皮切りに、ヨーロッパ諸国が湾岸地域を目指すようになりました。
ヴァスコ・ダ・ガマが、1498年にインド洋航路を発見して以降、ポルトガルはペルシア湾に進出、1508年にはホルムズ島に基地を設けました。オスマン帝国との戦いにも勝利し、以後150年間、ペルシア湾沿いの海岸地区を支配します(その他の地域は、引き続きオスマン帝国の直接統治した)。
その後、ペルシア湾にはオランダ、フランス、イギリスも相次いで進出し、ポルトガル勢力は次第に後退するなか、18世紀半ばには、イギリスがこの地域を支配するようになりました。
イギリスは、このペルシャ湾岸地域(現在のUAE)を、インドを統治するための中継地として重視しました。1622年にサファヴィー朝イランのアッバース1世と協力してホルムズ島からポルトガルを追い出し、バンダーレ=アッバースに基地を設けました。さらに1778年ペルシア湾北岸のブーシェルにも拠点を置き、インド植民地へのルート確保に成功したのです。
なお、現在のアラブ首長国連邦の構成国となる首長国は、17世紀から18世紀頃にアラビア半島南部から移住してきたアラブの部族によってそれぞれ形成され、北部のラアス・アル=ハイマやシャルジャを支配するカワーシム家と、アブダビやドバイを支配するバニヤース族とに2分されました。
ただし、油田が発見される前のペルシア湾南岸地域において、人々は、インドやペルシア向けの帆船貿易に従事するか、真珠取りと、小規模な沿岸漁業や遊牧を行うなどして、生計を立てていました。
◆ 海賊海岸
そうしたなか、ヨーロッパ諸国の台頭で、17~19世紀にかけて、伝統的な海上での生業を困難な状況に追いやられたペルシア湾岸地域の住民は海賊となっていきました。
とりわけ、1798年にエジプト遠征を行いカイロに入城したナポレオンは、さらに、イギリスのインド支配ルートの遮断を狙い、ペルシア湾岸(現在のUAE)の諸部族にイギリスに対する反乱をけしかけた19世紀初頭、西欧勢力に対抗する海賊行為がピークに達しました湾岸の部族勢力は、イギリス東インド会社の船舶に襲撃をくり返し、「アラブ海賊」として恐れられたことから、ペルシア湾岸は「海賊海岸」と言われるようになりました(当時のこの地域の7首長国のことを「海賊海岸」ともいう)
◆ 休戦海岸
しかし、その後、19世紀前半、ナポレオンが没落し、この一帯で優位な立場を得たイギリスは、湾岸地方の部族間の抗争などを利用して、一部の部族長と手を結ぶ一方、海賊行為をとりしまるという名目で、アラブ諸部族の最有力部族であったカワーシム部族の本拠地ラス・アルハイマを砲撃し破壊するなど、海賊海岸とよばれた沿岸各港を征服していきました。
1820年、ペルシア湾南岸の諸部族の首長とイギリスの間で、海賊行為と奴隷貿易の禁止する「海賊行為停止に関する休戦条約(航海自由条約)」が締結され、また1835年には年間6か月間の真珠採取中は戦争を停止する海上休戦協定(休戦条約)が結ばれました。この結果、湾岸地域の7首長国(またはその地域)は「海賊海岸」から「休戦海岸(トルーシャル・コースト)」と言われるようになりました。
さらに、19世紀末になると、西欧列強が再びこの地域に利権を求め始めたため、イギリスは、1892年、諸外国との自由な交渉を禁止する独占協定(外交・行政権に関する排地条約)を各首長と結びました。これは、各首長国が、イギリスの保護国(保護領)となったことを意味します。
◆ オマーン休戦土侯国
保護下に置かれた湾岸の8首長国は、イギリスと休戦協定を結んで成立した国という意味で、「休戦オマーン(オマーン休戦土侯国)(トルーシャル・オマーン)(休戦海岸)」となりました。(オマーン:アラビア半島最東部、土侯国(どこうこく):首長国の別名)。
休戦オマーンは、自治権と地方統治を保持しながらも、防衛と外交は、イギリスに依存しました。なお、イギリスは、現在のオマーンに対してもスルタンを介して保護権を行使していました。
休戦オマーンの8首長国
アブダビ(1820~1971)
アジュマーン(1820~1971)
ドバイ(1835~1971)
フジャイラ(1952~1971)シャールジャから分離
カルバ(1936~1951)シャールジャに併合されて消滅
ラアス・アル=ハイマ(1820~1971)
シャールジャ(1820~1971)
ウンム・アル=カイワイン(1820~1971)
これが後のアラブ首長国連邦で、各首長国の国名はそれぞれの首都となる都市の名前に由来しています。
<石油の発見>
第二次世界大戦後、インドやパキスタンが独立し、イギリスが植民地から撤退し始め、1950年代に石油が発見されると、ペルシア湾岸地域は政治の激動時代に入っていきます。
イギリスはドバイ駐在の政治顧問を議長とし、休戦オマーン(トルーシャル・オマーン)9か国首長が集まる休戦首長評議会を組織し、将来の連邦化を目論みました。(なお、当時は首長国が単独で独立国家となるのは難しいと考えられていたことから、それまでの7首長国にカタールやバーレーンも含まれていた)。
しかし、アブダビで1959年に商業ベースにのる油田が発見され、1962年に石油生産が軌道に乗り始め、また、その後、ドバイでも石油が発見、生産され出すと、各首長間の利害関係が表面化し、連邦化への動きは難航しました。
<アラブ首長国連邦の誕生>
それでも、1968年、イギリスはスエズ以東の軍事的撤退を宣言すると、これを契機に各首長国に、連邦を結成して、独立する気運が高まりました。
1971年12月、条約関係の失効に伴い、イギリス軍が撤退した後、ラス・アル・ハイマを除く6首長国によって「アラブ首長国連邦(UAE)」が結成され、連邦国家として独立を果たしました。ラス・アル・ハイマは、翌72年2月にUAEに加盟し、カタールとバーレーンの産油国は、先に分離して独立しました。
1973年の第四次中東戦争とそれによる石油危機を契機に、まとまりが悪かったアラブ首長国連邦は結束し、強力にアラブ陣営を支持しました。1974年以降、莫大なオイル・ダラーが流れ込み、連邦体制強化と経済発展を実現していきました。
200 年前の要塞内にあるドバイ博物館を探索したり、イスラム教徒以外の訪問者も入場できるジュメイラ モスクを訪れたりしてはいかがでしょうか。
(関連投稿)
(中近東の国々を学ぶ)
(参照)
UAEについて(日本アラブ首長国連邦協会)
アラブ首長国連邦ってどんな国?(ダイヤモンド・オンライン)
アラブ首長国連邦基礎データ(外務省)
アラブ首長国連邦UAE(世界史の窓)
アラブ首長国連邦とは?(コトバンク)
アラブ首長国連邦(Wikipedia)
休戦オマーン(Wikipedia)
投稿日:2025年4月16日