ドバイ:驚異の発展とその歴史

 

ドバイ首長国は、今もアラビア湾にみることができるダウ船に、古えの雰囲気を漂わせつつも、オイルマネーによって潤う巨大都市に急成長、中東地域における近代的な商業の中心地として君臨しています。この驚異の首長国、ドバイについてまとめてみました。

 

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<ドバイの概観>

 

◆ 面積:3,885平方キロメートル(埼玉県と同程度)

 

アラブ首長国連邦(UAE)の構成国であるドバイ首長国は、アブダビ首長国とシャルジャ首長国の間に位置し、70kmの海岸線をもち、65kmまで内陸に広がり、その面積は3,885km2で、その国土の大半は砂漠です。また、海岸線には天然の運河・良港を有しています。

 

◆ 人口:約360万人(約10年で倍増)

 

面積ではUAEの1/20以下ですが、人口についてはUAE全体の約1,000万人に対して、1/3を占めています(なお、アブダビの人口は約380万人)。

 

人口構成をみると、UAE国民が約30万人に対して、外国人が約320万人居住(UAE市民が約8%、外国人が約92%)と人口の大部分を占めています。外国人の中では、インド人が最大で、パキスタン人、バングラデシュ人と南アジア系が多く、最近ではフィリピン人が増えています。

 

1960年代ころから、ドバイに住むインド人とパキスタン人の人口が増え、ドバイで織物市場が新たに活気づきました。

 

近隣国からの外国人労働者の流入が、ドバイの人口増加を支えていると同時に、外国k企業がドバイに進出し、ドバイ経済を活性化させている要因となっています。

 

◆ 宗教:イスラム教(シーア派が多い)

◆ 言語:アラビア語、英語

◆ 首都:ドバイ市

 

◆ 政体:世襲による絶対君主制

 

首長(アミール)

ムハンマド・ビン・ラーシド・アール・マクトゥーム(2006.2〜)

(ムハンマド)

マクトゥーム・ビン・ラーシド・アール・マクトゥーム(1990.10〜2006.1)

(マクトゥーム)

ラシード・ビン・サイード・アール・マクトゥーム(1971.12〜1990.10)

(ラシード)

 

ドバイ首長は、アラブ首長国連邦(UAE)において、副大統領兼首相をつとめます。

 

ドバイにおいて議会選挙は行われておらず、結党の自由も認められていません(政党が存在しない)。一方、アラブ首長国連邦の国会である連邦国民評議会(定数40)に8議席を持っています。

 

◆ 通貨:ディルハム

◆ 歳入と税制

石油収入への依存度は低く。所得税なし

 

歳入の内訳

手数料収入(土地移転・住宅登録や入管、観光、運輸等関連):76%

税収(主な税目は関税・外銀税): 16%

石油・ガス収入: 6%

 

税制

個人所得税、贈与税、相続税はなく、付加価値税(消費税に相当)は一律5%に加えて、低い物品税(たばこや飲料)と法人税が課されています。

 

 

<産業・経済>

 

アラブ首長国連邦(UAE)の中で、「石油、政治、外交のアブダビ」に対して「経済のドバイ」と言われ、ドバイはアブダビとともにUAEの両輪として機能しています。

 

ドバイ首長国は、地理的優位性を活用し、中東とアジア・アフリカ地域の経済(物流・金融・観光)のハブになるとの観点から、経済特区(フリーゾーン)設立、 観光・レジャー促進、外資の誘致、金融と不動産の自由化等の政策を通じて ヒト・モノ・カネの流れの拠点整備に注力し、産業の多角化を進めています。

 

◆ 石油に頼らぬ「貿易の国」

ドバイは中東にあることから、溢れるオイルマネーが経済発展を支えていると思われがちですが、ドバイで1966年に発見された石油の埋蔵量は多くありません。ドバイにおいて、税収に占める石油・ガス関連収入は6%、原油部門のGDPに占める割合は約2%と、他の産油国と比べて原油依存度が非常に低いことが特徴です。

 

そこで、石油から得られた収益を元手に様々なインフラ整備を進めることによって、ヒト・モノ・カネの流れの拠点化を図りました。

 

特に、①空の交通、②海の交通、③自由貿易地域を整備したことが、現在のドバイ発展の礎として大きな影響を与えたと言われています。

 

空の交通(空港開発)

1985年に、エミレーツ航空が設立され、その拠点となるドバイ国際空港(DXB)が整備されました。ドバイ国際空港は中東の玄関口というだけでなく、現在ではアジア、オセアニアとヨーロッパを繋ぐ、世界最大規模のハブ空港として利用されています。

 

ドバイ国際空港の国際線旅客数(利用者数)は、2014 年に約 7 047 万人に達し、英国ヒースロー空港(当時約 6810 万人)を抜いて初めて世 界第 1 位となってから(なお、当時の成田空港は約 2900 万人、羽田空港は約 1500 万人)、現在も世界トップレベルです。2024年のドバイ国際空港の利用者は、過去最多の9230万人を記録しました。

 

さらに、ドバイは、ドバイ国際空港(DXB) から西45km離れた砂漠に位置する場所に、ドバイ第2のアル・マクトゥーム国際空港(DWC)を2005年から建設を開始し、2010年6月に貨物輸送が開業、2013年10月からは旅客便(プライベートジェット)の発着を開始しています。現在は、ドバイ国際空港の補完空港としての役割を担っていますが、2032年までにドバイ国際空港の機能を移転する計画で、拡張工事が進められています。

 

海の交通(港湾整備)

ドバイは古くから、アラビア湾やインド洋のダウ船交易で繁栄してきました。アラブ首長国連邦として独立した後、1972 年にラーシド港を整備しました、ほぼ街の中心部に位置しているという利便性から、開港当初から船の往来が盛んに行われました。

 

また、1980年代には、人工の港ジュベル・アリを建設しました。ジュベル・アリ港は、世界最大の人工港湾施設に発展し、中東地域の貿易拠点として機能しています。大きなコンテナ船が盛んに出入することが可能で、コンテナ取扱量も世界レベルです。アメリカ海軍の艦船が国外で最も頻繁に訪れる港湾であることでも知られています。

 

自由貿易地域(フリーゾーン)設立

外国企業がドバイにおいて活動しやすい環境を整えるため、ドバイ政府は 20 以上のフリーゾーンを設立されています。

 

フリーゾーンの主な特色は、外資 100%の会社設立が可能で、ローカルスポンサーの必要もありません(通常は国内外資上限が 49%で、外資企業が地元のスポンサーに支払う料金は、UAE国内に支店・駐在員事務所を設立する場合は必要です)。また、資本・利益 の 100%本国送金が可能、外国人労働者雇用の制限なしといった利点があります。

 

現在、ドバイで最も大きなフリーゾーンは、ジェべル・アリ・フリーゾーン(JAFZA)で、約 7300 の国内外企業が進出(うち日本企業は約 140 社)しています。JAFZA は中東で最大規模のジュベル・アリ港が隣接していることが強みで、一大中継貿易拠点となっています。100%外資系企業の参入を認めるほか、50年間の税金免除が確約されています。

 

このように、貿易(物流)拡大のための基盤整備がなされたうえで、貨物輸送などからの収入がこの分野をさらに成長させました。

 

◆ ドバイ経済の柱:観光

経済のハブ化に向けたドバイ経済の3つの大きな柱は、貿易、観光、金融業務です。

 

インドがイギリスの植民地だった時代(1858年から1947年)、イギリスから向かう船はドバイやシャルジャ(現在のシャルジャ首長国)を経由するなど、もともとドバイには「中継貿易の国」として栄えてきた歴史があります。

 

この伝統的な強みである貿易で「モノ」を集めることに加えて、ドバイは、特に観光に力を注ぎました。湾岸諸国のオイルマネーを潤沢に流入させ、「カネ」と「ヒト」を集めることに成功しています。

 

世界中から観光客を引き寄せるために、もともと砂漠ばかりだった土地に、世界一の高さのタワーなど超高層ビルが乱立し、世界最大規模のショッピングモールや、豪華なホテル、テーマパークまで建設されました。極めつけは、エミレーツ・ゴルフ・クラブをはじめとする砂漠の中にある多くの緑芝のゴルフ場、さらに、雪など降ることのないアラビア半島でスキーを楽しめる東京ドームの半分の面積をもつ人工スキー場さえ整備されています。

 

ジュメイラ地区

ドバイの海岸線沿いに広がるジュメイラ地区(ドバイ中心部から南)には、豪華リゾートホテルや各種マリンスポーツ施設などが充実したジュメイラビーチがあり、そこに、高級リゾート、豪華ヴィラにあるカフェやブティック、ビーチサイドレストランが立ち並ぶ観光スポットとして世界中の注目を集めるようになりました。

 

歴史的に、ジュメイラ地域に住んだアラブ人は漁師、真珠採取のダイバー、商人たちでしたが、1960年代以後、ドバイの外国人居住地域となりました。1995年以後、住宅開発が進み、ドバイで最上流層たちが住む、「一番富裕で排他的な」地域と評されています。

 

最高級ホテル:ブルジュ・アル・アラブ

ブルジュ・アル・アラブ(ジュメイラ・ブルジュ・アル・アラブ)のホテルとレジデンスは、ドバイで 指折りのランドマークであり、ドバイの贅沢の象徴的な存在です。世界で唯一「7つ星のステータス」を得ていることで有名です(世界唯一の最高ランクホテル)。 建設は 1994 年に開始され、1999 年に完成しました。ドバイ本土と私設の橋でつながった人工島に建っています。

 

超高層ビル「ブルジュ・ハリファ」

観光化の象徴として、2010年1月に、ドバイの大都市の上空828メートルまでそびえる世界で最も高い超高層ビル、ブルジュ・ハリファ(ブルジュ・カリーファ)(ドバイの塔)が開業しました。ドバイの中心部(ダウンタウン地区)に位置し、世界最大規模のドバイ・モールの隣にあります。ブルジュ・ハリファは主にオフィス、ホテル、住居から構成されており、展望台からは世界有数の超高層ビルが立ち並ぶ都市景観や砂漠の美しい風景など、ドバイの壮大な景色を一望することができます。

 

人工島「ザ ・ワールド」と「パーム・ジュメイラ」

ドバイは多くの人工島を造成しており、世界地図を模した「ザ ワールド・アイランズ(The World)」や、ヤシの木の形をした巨大な「パーム・アイランド」などが有名です。

 

ザ・ワールド(The World)(ザ ワールド・アイランズ)は、世界地図の形をした約300の人工島群で構成され、海岸線約232kmに異なる大陸を表す7つのセットに分かれています。ザ・ワールドの人工島は全て世界の大富豪が個人所有する計画になっており、劇場や美術館、庭園、レストラン、プールなども建設されています。

 

パーム・アイランドは、ドバイ沖合いに造られた初の人工島群で、大きく「パーム・ジュメイラ」、「パーム・ジェベル・アリ」、「デイラ・アイランド」          の3つの島から成ります(パーム・アイランドはこれらリゾート地を総称した呼び名)。全てヤシの木(パーム・ツリー)を模しており、最終的には100以上の高級ホテルと1400戸以上の別荘、商業エリアから成る一大リゾート地とする計画です。

 

現時点で利用可能な人工島は、「パーム・ジュメイラ」で、17本の葉にあたる部分と長さ11キロメートルに及ぶ三日月状の防波堤部分からなっています。ジュメイラ地区の沖合に2001年6月に建設が開始され、2007年の夏に最初の居住者を受け入れ(世界のセレブたちが土地を所有)、2008年、高級ホテルのアトランティス・ザ・パームも完成しました。

 

パーム・ジュメイラには、高級住宅地だけでなく、リゾート施設、ショッピングエリアなどが整備されており人気の観光スポットになっています。

 

他の2つの人工島は、2009年の世界的な金融危機などの影響で、計画の縮小・完成の延期を余儀なくされています(「パーム・ジュメイラ」も小規模に修正されて完成した)。

 

 

<ドバイの歴史>

 

◆ ドバイの黎明期

 

現在ドバイが位置する場所は、かつては広大なマングローブの湿地でした。紀元前3000年までにこの湿地は干上がり、居住が可能な土地となりました。

 

青銅器時代の狩猟を営む遊牧民が初めてこの地域に定住し、紀元前2500年までにナツメヤシ農園を定着させていました。

 

◆ 古代・中世:真珠の国ドバイ

 

その後、穏やかな農耕時代が数世紀続き、5世紀の時代には、オマーンと現在のイラクを繋ぐ貿易ルートに沿ったキャラバンたちの停留所となりました。

 

そこは、今日、最上流層たちが住む、ドバイの浜辺に沿ったジュメイラ地区で、オマーンからイラクまでの交易路の中継地として機能していました。当時の主な営み(交易)は、魚釣り、舟作り、真珠採取でした。

 

1095年のアラブ人地理学者の記録や、1580年のベネチアの真珠商人の日記のような手記から、当時、この地の住民たちは、変わらず、漁業、真珠採り、造船に大きく依存し、また金、香辛料そして織物を販売するためにこの道を通過する商人に宿泊施設や食物を提供して生計を営んでいたことがわかっています。

 

16世紀になって、ポルトガルが交易路に関心を示したことにより、この地域はヨーロッパの影響を受け始めました。自然に恵まれたこの地域には、水路と陸地しかありませんでしたが、次第に、重要な港湾都市として発展していくことになります。

 

◆ 近代:ドバイの建国とイギリスの支配

 

アブダビの支配

部族間の政治的な対立の時代となるなか、1793年、バニヤス(バニー・ヤース)族が政治的権力を獲得してアブダビに定住(アブダビを建国)し、ドバイはその属領となりました。

 

1800年初頭のドバイは城郭都市であったと記録が残っています。現在のドバイ博物館の敷地として活用されているアル・ファヒディ要塞が建築されました。当時、ポルトガル、オランダ、フランス、イギリスなどのヨーロッパ諸国の台頭で、伝統的な海上での生業を困難な状況に追いやられたペルシア湾岸地域の部族は海賊となっていたことと関係があります。

 

しかし、1820年になると、イギリスが現地の支配部族と海賊行為停止の協定を結び、、1835年に海上停戦協定も締結されました。この地域は、「休戦海岸」として呼ばれるようになり、貿易ルートが開かれ、事業が盛んになりました。これにより、世界中の国々との一貫した交流が始まり、ドバイは重要な活動の中心となっていきます。

 

ドバイの建国(アブダビからの独立)

一方、1833年は、ドバイの歴史上の節目となりました。今のドバイ首長国が建国されたのです。その年、アブダビに組み込まれていたドバイに、アブダビに定住していたバニヤス族の一部、オベイド・ビン・サイードとマクトゥーム・ビン・ブティーに率いられた800人がアブダビからドバイに移住(クリークの河口のシンダガ半島に定住)し、アブダビからの独立を宣言しました。マクトゥーム家は現在もドバイを統治しています。

 

それまで、ドバイ港は湾岸の多くの小さな貿易港の一つにすぎず、ドバイの人々は、砂漠の漁村で、アラビア湾でとれる真珠を売りながら最低限の生活をしていました。しかし、独立後の1870年ころ、ドバイは、活況を呈する真珠産業により、湾岸地域の主要港の一つとなりました。

 

イギリスの保護国

ただし、イギリスは、1892年、アブダビやドバイを含む首長国を保護国(保護領)としたことから、独立した果たしたドバイのマクトゥーム王朝もこのときいったん終焉しました。それでも、イギリスの保護下ではありましたが、アル・マクトゥムの主導のもと、その後のドバイは発展していくことになります。

 

1894年、外国人労働者の免税を認める新しい規制により、外国人労働者の数が大幅に増加したため、この地域での貿易はさらに拡大しました。インド人やパキスタン人の貿易商人が優れたビジネス環境を利用するために、ドバイへ押しかけたのです。

 

たとえば、当時、主なライバル港となったのは、160km北の、ホルムズ海峡の対岸イラン側に位置するリンゲ港でしたが、そこで活動していた商人たちは、税金も少なく、より自由な雰囲気のドバイにその活動の拠点を移すようになりました。

 

1902年頃、ドバイには、イランの貿易商人やアラブの定住者が移住し、海外と国内の貿易が繁盛するだけでなく、ドバイはアラブ圏最大の市場(スーク)を誇るようになりました。

 

当時、商業の中心地であったデイラ(ディラ)地域などには、多くの買い物客を引き付ける多くの店舗が並び、かつては人口密度の低い地域でしたが、徐々に人が定住するようになったのです。こうした影響もあってドバイの人口は、1930 年までに 20000 万人に達しました。

 

この時期は、ドバイの歴史上、かなりの成功を収めた時期でしたが、ドバイの産業といえば、まだ、貿易の中継拠点であることと天然真珠の二つが大きな柱でした。

 

その真珠産業が、1920年代に、日本の真珠産業の発展で壊滅しました。このとき、日本のミキモトが真珠養殖に成功したことや、第2次世界大戦で世界的に景気が悪くなったことから低迷したのです。その後も、1950年代に日本で人工真珠が発明されたこともあって、ドバイの真珠産業は凋落しました。

 

まさに、この地域の経済の脆弱性が露呈した形でしたが、ドバイは、経済的には大きな打撃を受けずにすみました。既に商業都市としての地位を築きつつあったことと、1950年代、近隣の首長国で石油が発見されたのです。1960年代以降のドバイをみていきましょう。

 

◆ 現代➀:石油の発見とイギリスからの独立

 

石油の発見

アブダビで1959年に大規模油田が発見され、1962年に石油生産が軌道に乗り始めた一方、ドバイでも1966年に石油が発見され、69年からファテ油田で石油の生産が開始されました。

 

しかし、石油埋蔵量はそれほど多くなく、石油に依存できかったので、ドバイは、その地理的優位性と、伝統的な強みであった中継貿易のノウハウを活用し、中東とアジア・アフリカ地域の物流(貿易)のハブになることを目指し、産業の多角化を進めたのです。

 

当時のラシッド(ラシード)首長は、石油から得られた収益を資金源として、ドバイの開発(インフラ整備)を始めました。

 

貿易(物流)に欠かせないのが港です。ドバイには「クリーク」と呼ばれる入り江があり、ここに船が入るわけですが、1950 年代の中頃、クリークに沈泥が沈み始めるという問題が発生していました。そこで、その地域を浚渫(河川や港湾などで水底の土砂等を掘りあげる工事のこと)して、この問題を処理しました。さらに、1960~70年代に入ると、石油収入を投資して、大型船が入港できるようクリークをより深く掘る工事が行われました。

 

貿易事業のための基盤整備がなされたうえで、石油事業と貨物輸送からの収入がこの分野にさらに成長させました。

 

 

イギリスからの独立とUAEの建国

1971年12月には、ドバイは、アブダビ、シャルジャ、アジュマーン、ウム・アル・カイ、フジャイラの各首長国とともに、アラブ首長国連邦(UAE)を創設し、イギリスの保護領から独立しました(1年後にラス・アル・ハイマ が加盟し、UAEは7首長国で構成)。

 

独立後、UAEの構成国となったドバイは、急激に成長を遂げていきました。その成長の原動力となった三大要素として、航空機、人工港、フリーゾーンがあげられ、1979年と1985年は大きな節目となりました。

 

1979年、ドバイ世界貿易センターとジュベル・アリ港との2大拠点が開設されました。

 

ドバイ世界貿易センター(ドバイ・ワールド・トレード・センター)は、ドバイ初の高層ビルで、世界最大級のビジネスイベント(展示会、コンベンション)を開催することができます。レストラン、ホテル、ラウンジそして便利なショップが立ち並ぶこのメガ会場は、現在、ドバイのGDPに毎年3.3%以上貢献しています。

 

ジュベル・アリ港は、人工港で、中継貿易拠点として機能しています。中東最大の港湾で、大きなコンテナ船が盛んに出入することが可能となっており、貿易を飛躍的に増大させることにつながりました。

 

また、1985年は、ドバイ政府は、フリーゾーン(自由貿易地域)と自前の航空会社を設立しました。

 

フリーゾーンは、人工港ジュベル・アリ周辺に開業され、「ジュベル・アリ・フリーゾーン」と命名されました。外国企業を誘致する(多額の海外投資を集める)ため、100%外資系企業の参入を認めたほか、50年間の税金免除も確約されました。

 

自前の航空会社に関しては、当時、国際線の飛行機は航空協定により国と国との間で路線が決まっていて、UAEの代表は首都が置かれるアブダビで、主な国際便の発着はアブダビ国際空港が独占する状態でした。そこで、自ら航空会社をつくろう、と誕生したのがエミレーツ航空です。

 

ただし、フリーゾーンは、開業当初は、外国企業の参入は少なく閑散な状態でした。エミレーツ航空も、リースされた2機で運行を開始した程度でしたし、ドバイ国港空港も乗り換え便のために利用されていただけで、空港周辺は小さな寒村という状態でした。

 

◆ 現代②:湾岸戦争からドバイショックまで

 

ところが、1990~91年の湾岸戦争と、2001年の同時多発テロが、ドバイを取り巻く環境を一変させたました。

 

湾岸戦争

湾岸戦争において、アメリカのCNNは、24時間、常時、現場中継したことから、世界中の報道機関や各国政府もCNNの報道に頼るなど、世界がCNNニュースにくぎ付けとなりました。この時、CNNは拠点をドバイにおき、報道ごとに「ドバイからお送りしました」と発信したことから、ドバイの知名度が一気に上がったのです。実際、湾岸戦争の終結後には、ジュベル・アリのフリーゾーンへの外国企業の進出は加速していきました。

 

9.11同時多発テロ

また、2001年の9.11同時多発テロの前まで、中東の産油国は余剰の石油資金をアメリカやイギリスで運用していました。しかし、同時多発テロ以降は、欧米とアラブ・イスラーム諸国の関係は悪化し、中東の湾岸諸国やサウジアラビアに対して、テロリストを支援していたのではないかと、疑惑の目が向けられ、厳しい態度がとられるようになりました。

 

そのため、中東の湾岸諸国は、欧米諸国に対する投資を手控え、別の場所での資金運用を考えました。ニューヨークのウォール街やイギリス・シティから引き上げられたオイルマネーが向かった先がドバイだったのです。

 

さらに、2000年代の半ばからは原油価格も上がり、あふれかえった中東のオイルマネーは、ますますドバイへと向かうようになり、中東の湾岸産油国全体にバブル景気をもたらしました。

 

この流れをうけて、中東とアジア・アフリカ地域の経済のハブになることをめざしたドバイは、物流(貿易)に加えて、観光に力点を置いていきました。

 

このときまでに、すでに、もともと砂漠ばかりだった土地に、高層ビルや、ショッピングモール、豪華なホテル、高級レストラン、テーマパークなどの建設が進められ、1988年には、中東初となる砂漠の中にある緑芝のゴルフ場、エミレーツ・ゴルフ・クラブをオープンさせました。

 

世界中が度肝を抜いたのは、2001年に、ヤシの木の形をした3つの人工島「パーム・アイランド」、2003年に世界地図の形をした300の人工島群「ザ・ワールド」や、世界で最も高いタワー「ブルジュ・ハリファ」などの大規模なプロジェクトを着工させたことでした。

 

ドバイ・ショック

急速に発展を続けてきたドバイでしたが、2008年のリーマン=ショックに始まった世界的経済危機はドバイをも直撃し、翌年には「ドバイ・ショック」が起きました。ドバイ・ショックとは、ドバイ政府系企業の「ドバイ・ワールド」が2009年11月に590億ドルにも上る債務の返済延期を申し出て、ドバイの信用が一気に低下したことや、ドバイへの出資を積極的に行ってきた欧州の金融機関の債権焦げ付きへの懸念などから、世界同時株安となった事件です。震源地ドバイにも高級マンションの値段が急落するなど、影響が出ました。

 

危機そのものは、その後、アブダビ政府が一部資金拠出するなどして、当面の「ドバイ・ワールド」の債務不履行は回避されましたが、外国企業からの投資引き上げや地元企業の

資金繰り悪化などにより、多くの建築工事や計画が中断されました。

 

たとえば、パーム・アイランドの3つの人工島のうち、「パーム・ジュメイラ」は完成しましたが、残りの2つの人工島建設のプロジェクトは、規模の縮小を強いられたばかりか、

建設計画は遅れ、いまだ完成に至っていません。

 

ドバイの復活

ドバイ・ショックから3年余りにわたって下落・低迷が続いてきたドバイ不動産市況は2012年にようやく底を打ち、回復基調に転じてきました。

 

その間、2010年には、高さ830メートルで世界一の高い建造物ブルジュ・ハリファを完成させ、また、ショック後の2016年には、ドバイ・クリークから市街地を抜けてペルシア湾に通じるドバイ運河を開設しました。

 

2020年には、ドバイ国際博覧会を、さらに2021年10月から2022年3月まで、中東・アフリカ地域として、初の万博を開催しました。万博は、新型コロナウイルス感染症の影響を受けたものの、2,400万人余りが来場するなど成功させるなど、ドバイの潜在力を示しました。

 

(関連投稿)

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(中近東の国々を学ぶ)

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パレスチナ

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(参照)

UAEについて – ドバイ首長国

(日本アラブ首長国連邦協会)

エミレーツ、ドバイの歴史

(グローバル・パートナーズ/2018.8.5)

派手に見えて中身は堅実、ドバイの知られざる顔

(JBpress/国学院大学)

なるほど!ザ・ドバイ

(日本貿易会、2013年9月号)

ドバイの歴史と概況

(リサーチ&経営アドバイザリー/2022.08.22)

ドバイってどんな国?~石油に頼らない経済発展と都市づくり~

(アセット・マネジメントOne/2023/08/04)

アラブ首長国連邦UAE

(世界史の窓)(Wikipedia)

 

 

投稿日:2025年4月16日

むらおの歴史情報サイト「レムリア」