カタールの歴史と言っても、カタールという国として独立してから、まだ40年しかたっていません。この間を概観すれば、19世紀前半までに、クウェートやアラビア半島内陸部の部族が、カタール半島に移住し、1868年、現在のカタールは、サーニ家一族を君主とする首長国になりました。その後、オスマン帝国に支配され、1916年に英国の保護下に入りましたが、1971年9月に独立しました。今回は、カタールが独立するまでの経緯とその後についてまとめてみました。
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◆ 先史時代から古代のカタール
考古学的調査により、紀元前、カタール半島にも人が居住していたことが分かっており、カタールの西海岸にあるウム・アル・マ(ウンム・アル・マー)の古墳からは 6000 年前頃のものと思われる手斧などが発見されています。
また、今から5000年前には人々は漁をして生活していたといわれ、3000 年前ぐらいに作られたお墓からは、東南アジアの影響を受けたとみられる陶器が発見されています。
ペルシャ湾はメソポタミア文明と湾岸南部やインドをつなぐ重要な水路で、古代から真珠採取の産地として知られてきました。紀元前5世紀のギリシア人歴史家ヘロドトスは、航海にたけていたカナン人をカタールの住民としてその著書で言及しています。
また、紀元2世紀の地理学者プトレマイオスはアラブ世界の地図に現在のカタールのズバラと思われる町を示しており、湾岸地域の重要な貿易港であったことが窺えます。
◆ イスラムの到来
イスラムが誕生(622)した7世紀、カタール半島及びその周辺地域は、アラブ人のムンディール部族の支配下にありましたが、首長アル・ムンディール・イブン・サウィ・アル・タミームは、直ちにイスラムを受け入れ、それ以降、この土地に住む人々はイスラム教を信仰してと伝えられています。
ウマイヤ朝(661〜750)の時代、カタールもその勢力下に入り、現在のシリア、イラクと南アラビア、インド間の交易の中継地点として、また、カタール北部に設立されたダチョウの市場により活況を呈しました。
しかし、アッバース朝(750-1258)の時代、カタールは同王朝からの経済的支援を受け繁栄しましたが、アッバース朝の衰退と共にペルシャ湾交易ルートも衰えていきました。
湾岸諸国が世界で注目されるようになったのは、16世紀の初めポルトガル人がこの地域に進出した後のこととされていますが、カタールは最盛期を迎えていたオスマン・トルコ(1299-1922)と提携し、ポルトガルをこの地域から追放しました。
その後、17世紀にオランダ人が湾岸地域の支配権を確立しましたが、まもなくイギリス人がオランダ人を追放して、その後、イギリスが、カタールとその地域を支配していくことになります。
◆ カタールの形成
さて、現在のカタール人の先祖は、16世紀(主に17世紀)から19世紀にかけて、アラビア半島から移住してきたアラブ人です。カタール半島には、クウェート、アラビア半島内陸部ネジド地方出身のマアーディード族や同半島北西部出身のウトバ族が次々とカタールやバーレーンに進入したことにより、現在の部族構成が確立しました。彼らは真珠採り、貿易を盛んに行っていました。
1762年頃、今日バーレーンの王家であるハリーファ家は、カタール西部のズバラに居を構え、そこを交易や真珠採取の拠点として栄えさせました。1783年には、ペルシャとの抗争の末、ペルシャ領だった対岸のバーレーンを掌中に収め、同地に移住、その後もバーレーンを本拠地として現在のカタールとバーレーンで勢力を広げていきました。結果的にカタールは、ハリーファ家が支配する現在のバーレーンの統治下にありました。
しかし、1825年に、カタール王家のサーニー家の創始者サーニー・ビン・ムハンマド(1825〜50)がビダウ(ا現在のドーハ)を治め、カタールのハーキム(君主/首長)に選ばれると、その後、サーニー家がドーハを中心として勢力を伸ばしました。
1868年に、第2代ハキームのムハンマド・ビン・サーニー(1850〜1878)がイギリスと条約(イギリスと海上での戦争禁止し、イギリスとの友好を約束)を結び、独立国としての地位を認められました。これは、サーニー家が、バーレーンから独立して、イギリスの保護領の形でカタール支配を確立したことを意味し、以後、カタールはサーニー家の世襲による統治が続いています。
カタールの首長家であるサーニー家は、もともと、カタール土着の豪族で、現在のサウジアラビアの首都リヤドの南に位置するジブリン付近に定住していたタミム(バニ・タミーム)部族の分家とされています。
◆ オスマン帝国の支配
しかし、その後、オスマン・トルコが侵入し、1871年、カタールは、ペルシャ湾のほかの全ての国々と同様、オスマン帝国の支配下に入りました。
これに対して、首長ジャーシム(ジャーシム・ビン・ムハンマド)(1878〜1913)は、1893年にオスマン帝国が派遣した軍隊を撃退し、サーニー家の支配を確固たるものとしました。現在、カタールはこのジャーシムを実質的な建国者とみなし、シャーシムがハキーム(首長)として即位した12月18日を国祭日としています。
ジャーシム首長はまた、サウジのアブドルアジーズ国王と同盟関係を結び、自身もまたサウジの宗派であるワッハーブ派を受け入れました(以後、カタールは今日もワッハーブ派を信仰している)。
これは、当時宿敵であったアブダビ首長国のザーイド・ビン・ハリーファ首長(当時)とのホール・アル・オデイド(今日のUAEとカタールを結ぶ約23キロの回廊地帯)の領有権を巡る抗争において、サウジが後ろ盾となることを期待した行為でした。
その後、オスマン帝国の湾岸への影響力が弱まり始めると、1913 年、イギリスは、オスマン帝国と、イギリス・トルコ協定を結び、カタール国の自主権を認めさせました。
第一次世界大戦時、イギリスと提携したカタールは、1916年、首長アブドッラー(アブドゥッラー・ビン・ジャーシム)(1914〜1949)は、他の湾岸首長国と同様、イギリスとの間に保護条約を締結しました。カタールは再び、イギリスの保護下に入ったのです。
条約によって、イギリスはカタールを外国の攻撃から守る一方、カタールはイギリス以外にはその領土をゆずらず、イギリスの同意なしに外国政府とどんな外交関係も結ばないことを約束しました。
また、イギリスからの保護をさらに強化するために、カタールは、1935年に英蘭仏米の共同国益会社PDQに対し、カタールでの75年間の石油掘削権を承認しました。すると、その5年後の1940年に、高品質の石油がカタール半島西岸で発見されたのです。
第二次世界大戦のため1949年まで石油輸出は行われませんでしたが、1950年代から60年代にかけて、この石油がカタールに繁栄と社会進化をもたらしました。
◆ カタールの独立
1968年1月、イギリスが財政困窮を理由に、1971年までにスエズ運河以東から軍事的撤退を行うことを宣言して以来、カタールを含む9つの湾岸首長国は連邦結成の努力を続けました。当時は首長国が単独で独立国家となるのは難しいと考えており、カタールとバーレーンは、当初、イギリスの保護領で、のちにアラブ首長国連邦(UAE)となる休戦オマーン(休戦海岸)とともに連邦国家としての独立を模索していました。
しかし、カタールとバーレーンは、石油生産が好調で経済的に自立できていたことや、連邦が結成された際のアブダビ首長国の優位性を嫌い、アラブ首長国連邦(UAE)の一部になることを拒否しました。1971年8月、バーレーンが単独独立を宣言したのに続き、カタールも同年9月、カタールも単独で独立を果たしました(同時にアラブ連盟と国際連合に加盟)。
こうして、1868年に国家として誕生したサーニー家のカタールは、オスマン帝国の支配を経て、20世紀初頭にイギリスの保護領となった後の1971年に独立したのでした。
◆ 独立後のカタール
英国から独立後のカタールは、無血クーデターが相次ぎました。
アフマド首長(1971〜72)
アフマド首長(アフマド・ビン・アリー)を中心に国造りを始めましたが、アフマド首長の行政手腕に対する不信感が王族の間に広まり、1972年2月、アフマド首長の従兄弟のハリーファが首長の外遊中に、無血クーデーターを起こし政権を奪取、サーニー家の支持を取り付け新首長に就任しました。
ハリーファ首長(1972〜95)
ハリーファ首長(ハリーファ・ビン・ハマド)は、第1次石油危機以後、急増した石油収入を資金源に、製鉄・石油化学などの産業基盤の建設による工業化を進める一方、一定の国内工業化が一段落すると、農業・漁業の振興や天然ガス開発など国内経済の多様化を目指しました。さらに、膨大な石油収入を福祉や教育面で国民に還元しました。今もカタールでは、国民の医療や教育費は無償です。
外交面では、1988年に、ソビエト連邦および中華人民共和国とそれぞれ外交関係を結ぶなど成果をあげました。
しかし、1992年以降は、ハリーファ首長の長男であるハマド皇太子が、ハリーファ首長に代わり国政全般を取り仕切るようになると、1995年6月、ハリーファ首長の外遊中にハマド皇太子が政権奪取し、新首長に就任しました。自らクーデーターで政権に就いたハリーファ首長は、今度は自分がクーデーターによって、退位を迫られることになったのは皮肉な結果です。
ハマド首長(1995〜2013)
新首長に即位したハマド(ハマド・ビン・ハリーファ)は、暫定憲法(基本法)を改正し、「父から息子への政権継承」を明文化し、翌96年10月、3男のジャーシム殿下を皇太子に指名しました。
ハマド首長は、経済面においては、天然ガス開発を中心とした開発プロジェクトを積極的に推し進めることによって経済基盤の強化を図るとともに、天然資源のみに頼った経済体制を危惧して、観光産業の育成などに着手しました。
その結果、かつてはハリーファの閉鎖的な政策の影響で宿泊施設すらほとんどなく、「世界一退屈な都市」とまで言われた首都ドーハにも、超高層ホテルやさまざまな娯楽施設などが建設されています。
なお、1996年11月、衛星テレビ局アルジャジーラが、ハマド首長のポケットマネー(1億5000万USドル)で設立されました。
一方、政治面では、民主化を推進し、99月3月にGCC諸国で初めて女性に参政権を付与した地方自治中央評議会選挙を実施しました。
2003年4月には、これまで議会の役割を果たしていた諮問評議会に立法権を付与することを規定した恒久憲法(基本法)を国民の信任投票で採択しました(この時、18歳以上の男女が投票した)。同基本法は05年6月に発効しました。
タミーム首長(2013〜)
その後、2013年6月、ハマド首長は退位を宣言し、タミーム皇太子への権限移譲を表明、タミーム皇太子が新首長に即位しました。サーニ家を中心とした政権基盤の強化及び円滑な世代交代が実現した形です。
なお当初、皇太子に指名されていたジャーシム殿下は退位の意向を示したことから、2023年8月、4男のタミーム殿下を新皇太子に指名していました。
33歳の若さで首長になったタミーム(タミーム・ビン・ハマド)(2013〜)は、世界の君主の中では最年少で、今も前首長である父の影響を受けながら国を統治しています。
(関連投稿)
(中近東の国々を学ぶ)
<参照>
カタールの歴史(在カタール日本国大使館)
イスラムの国カタールの歴史(ドーハ日本人学校)
世界一退屈な街?ドーハ(日本貿易会)
カタール基礎データ(外務省)
カタールってどんな国?(Diamond Online )
2022年W杯の開催地!カタールってどんな国?(アセットマネジメントone)
カタールとは?(コトバンク)
カタール(Wikipedia)
アルジャジーラ(Wikipedia)
投稿日:2025年4月16日