ウクライナ史③:独立の失敗とソ連編入

 

ウクライナの歴史をシリーズでお届けしています。前回は、「タタールのくびき」を脱したのち、リトアニア、ポーランドの支配を経て、ロシア帝国によって実質的に併合されるまでのウクライナの歴史を概観しましたが、今回は、そのロシア帝国が滅亡し、ロシア革命からソ連邦が生まれる激動のロシア史の中で、ウクライナがどのようにロシアに翻弄されたかをみていきます。

 

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<ロシア革命とウクライナの独立>

 

1914年に第一次世界大戦が勃発しましたが、大戦の末期の1917年3月、ロシア革命が勃発し、ロシア帝国が滅亡し、社会主義のソビエト政権が樹立されました。革命によって、ウクライナには独立の機会が訪れましたが、最終的には実現できませんでした。まず、この経緯からみていきましょう。

 

◆「ウクライナ人民共和国」建国宣言

 

ロシアで三月革命が起きると、ウクライナではただちに諸勢力の代表がキエフに集まり、3月4日(旧暦)「ウクライナ中央ラーダ」を結成しました(ラーダはウクライナ語で会議を意味し、ロシア語のソビエトに相当)。社会主義を標榜するウクライナ民族主義者からなるウクライナ中央ラーダは、ロシアからの完全独立をめざすのではなく、ロシアの枠内での広範囲な自治権の確立をめざすことで一致しました。

 

1917年11月、十月革命でボリシェヴィキ独裁政権がロシアで成立すると、ウクライナの中央ラーダは、ボルシャビキの暴力的な権力奪取を認めず、「ウクライナ人民共和国」の成立を宣言しました(翌18年1月に独立を宣言)。ウクライナ人民共和国は社会主義を標榜するウクライナ民族主義者によって建国されました。

 

しかし、ロシアのボリシェヴィキ政権は、この宣言を民族主義的なものとして否定し、同年12月、軍事侵攻を決定し、「ソビエト・ウクライナ戦争」が始まりました。キエフ大学の若者を中心とした中央ラーダ軍は、1918年1月、ソビエトの赤軍とキエフ近郊のクルーティで衝突しましたが、決定的な敗北を喫し、キエフを占領されました(ウクライナ人民共和国軍はキエフ西方のジミートルに逃れた)。

 

「クルーティの戦い」と呼ばれるこの戦いでは、4000人のボルシェビキ軍(赤軍)に対して、400人のウクライナ軍(中央ラーダ軍)(そのうち300人が学生)が応戦しました。この時のウクライナの若者の英雄的行為は、多くのウクライナ人の心の中で特別な意味を獲得し、ウクライナ史の転機となった出来事として語り継がれました。

 

◆ 独自のブレスト=リトフスク条約

 

ロシアのボリシェビキ政権は革命政権を守るためにドイツとの講和を急ぎ、1918年3月にブレスト=リトフスク条約を締結しました。この協議が行われている間、ウクライナ人民共和国は、ロシアのボリシェビキ政権をウクライナ代表とは認めない立場から独自に代表を送り、1918年2月にドイツ・オーストリア側との間で、ロシアとは別個の講和条約としてブレスト=リトフスク条約を、ロシアよりも先に締結しました。これは、ウクライナ・ラーダが主権政府として交渉に当たったことから、ウクライナ人民共和国の独立が初めて世界に認められたことを意味しました。

 

講和の主な内容は、ドイツはウクライナ政府を支援してボリシェヴィキと戦い、その見返りとしてウクライナは食糧100万トンを供給するというものでした。この条約に基づいてドイツ軍はウクライナ政府軍とともにキエフを攻撃、ボリシェヴィキ軍は全面対決を避けてキエフを一時撤退しました。

 

しかし、ドイツとの約束であった食糧調達を巡って対立が起こり、ドイツは1918年4月、実力で中央ラーダを解散させ、ドイツの軍事力を背景としたヘトマン(ヘーチマン)政権を誕生させました(ヘトマンとはコッサクの頭領の意)。国名は、ウクライナ人民共和国から「ウクライナ国」に改められました(ウクライナ人民共和国はいったん滅亡)。

 

ところが、1918年11月、ドイツ革命がおき、ドイツ帝国は降伏、敗戦によってドイツ軍もウクライナから撤退すると、解散させられていた中央ラーダは、12月、ウクライナ国に対抗するとして、政治中枢機関であるディレクトーリヤを創設、ヘーチマン政権を追放し、再び政権を奪還しました。ウクライナ人民族主義に立つディレクトーリヤ政府(ウクライナ政府)は、1918年12月、ドイツ軍と協定を結んだ上でキエフを占拠し、国号もウクライナ人民共和国に戻しました。

 

◆ ウクライナ内戦

 

これを受け、ソビエトは、その翌日、ドイツ敗戦後計画していたウクライナへの侵攻を再び開始し、翌1919年1月、ソビエトの傀儡政権としてウクライナ・ソビエト社会主義共和国樹立を宣言しました。戦いは、ウクライナ(ディレクトーリヤ政府)政府軍とボリシェビキの赤軍だけでなく、「ロシア人民族主義」の白軍(反革命軍)、無政府主義の黒軍(ウクライナ革命蜂起軍)、農民軍など多くの派が入り乱れて争い潰しあう内戦状態となりました。

 

なお、ウクライナ人民共和国は、同年1月、西ウクライナ人民共和国との統一(併合)を宣言し、軍事連携を強化しようとしました。西ウクライナ人民共和国とは、ポーランド分割後、オーストリアの支配下にあったウクライナのガリツィア(ハルィチナー)地方で、1918年11月に成立したばかりの独立国家ですが、独立宣言後、西からポーランドが進出してきたことを受け、ウクライナ人民共和国との同盟を選択したのです。

 

さて、このウクライナの内戦も、1919年3月までに、共産主義の赤軍の勝利が確定して、ウクライナ社会主義ソビエト共和国が正式に設立されました。ウクライナのディレクトーリヤ政府は、わずか3ヶ月しかキエフを維持できずに、一旦亡命政府としてポーランドに撤退しました。

 

こうした状況に対して、1920年4月、ロシアとの国境策定問題を抱えるポーランドが、ピウスツキの指導の下、大ポーランドの復興をめざし、ソビエト=ロシアとの戦いに踏みきり、ソビエト=ポーランド戦争が始まりました。ウクライナ人民共和国の亡命政府(ディレクトーリヤ政府軍)も、ポーランドに協力して、ウクライナに侵攻し、ウクライナ・ポーランド連合軍は5月に、キエフを奪還しました。

 

これに対して、ソビエトの赤軍は反撃して、6月にキエフを再奪還すると、西ウクライナを占領。さらにポーランド軍を追ってワルシャワに迫りましたが、8月のヴィスワ川の戦闘で、ポーランド軍に大敗し、10月、ポーランド政府と和議を結びました。

 

しかし、1921年3月、西欧諸国からの外交的圧力を受けたポーランドは、ウクライナ(ウクライナ人民共和国)の意に反する形で、ソビエトとリガ条約を締結し、自国の軍事的な勢力圏であった西ウクライナを正式に併合しました(西ウクライナと白ロシアの一部はポーランド領に編入された)。1921年4月、ウクライナ人民共和国の亡命政府は、ソビエトからの独立を果たすことなく、ポーランドを離れてフランスのパリへ移りました。

 

このように、ウクライナでは、ロシア革命に際し、中央ラーダ(評議会)が生まれ、ウクライナ人民共和国の建国と独立宣言がなされましたが、ソビエト・ウクライナ戦争(1918.1〜1920. 11)で実質的に敗北した結果、分断(分割)、西ウクライナは、ポーランドに奪われ(ポーランド領)、東ウクライナにソビエト=ロシアに従属的な国家(ウクライナ社会主義ソビエト共和国)が生まれたまでで終わりました。これは、第一次世界大戦後(ブレスト=リトスクフ条約後)、ポーランド、チェコスロヴァキア、ハンガリー、バルト諸国などが、ソビエト=ロシアから確固たる独立を達成したのとは対象的です。

 

しかし、ウクライナ史の中で、ウクライナは、1991年のソ連崩壊まで、独自の国家を持たなかった国と言われていますが、ウクライナ人民共和国の時代(1917.11〜1918.4、1918.12〜1920.11)に、ウクライナにも確かに独立国家が存在したことがあったという記憶として生き続け、現代のウクライナ人にとって大きな誇りと支えになっていたと言われています。

 

実際、現在の独立ウクライナの国旗、国歌、国章はいずれも1918年、中央ラーダが定めた青と黄の二色旗、ヴェルビッキー作曲の「ウクライナはいまだ死なず」(1865年)、ウラジミール大公の「三叉の鉾」です。ウクライナの民族主義の人々にとって、現代のウクライナ国家(国名「ウクライナ」)は、中央ラーダの正統な後継者であり、ウクライナ人民共和国の後継国家として位置づけられているのです。

 

◆ ソ連編入

 

1922年12月、ボリシェヴィキ(共産党)は、ロシア、ウクライナ、ザカフカース(カフカス)、白ロシア(ベラルーシ)の4つのソビエト共和国から成る連邦制の共和国、ソビエト社会主義共和国連邦(ソビエト連邦、通称「ソ連」)を結成しました。これに伴い、ウクライナでは、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国ウクライナ共和国)が成立し、ソ連邦を構成する社会主義国となりました。形式的にはウクライナは独立国ですが、ソ連邦を構成する一部分でもあるという二重の存在となりました。

なお、ウクライナ共和国は、1917年12月に成立したウクライナ人民共和国(中央ラーダのウクライナ人民共和国とは同名だが別組織)を前身とし、1919年1月には、国号を「ウクライナ社会主義ソビエト共和国」に改め、同年3月には内戦に勝利したことをうけ、独立を宣言した(これに伴いロシア・ソビエトと軍事同盟を締結した)という経緯があります。

 

 

<ソ連スターリンによる圧政>

 

ソ連邦では、当初はレーニンの主張により、その内包する多くの民族の自主性が尊重され、それぞれの言語や習慣は積極的に保護されていました。ウクライナでもウクライナ語の使用が奨励され、ウクライナの独自の文化も尊重されていましたが、レーニンの死去の後、トロツキーが追放され、スターリンが権力を握ると中央集権化と共に民族文化は抑圧されました。

 

たとえば、ウクライナ語のアルファベット、語彙、文法はロシア語に近づけられ、新聞雑誌でもウクライナ語が減少し、1920年代に見られたウクライナ文化は30年代には全く姿を消してしまいました。

 

◆ 農業の集団化

 

スターリンの最大の目標は、ソ連の近代化と工業化でした。その目標を達成する上で、植民地を持たないソ連にとって、ソ連邦内部に植民地をつくるしかありません。そこで、スターリンは、穀倉地帯のウクライナをターゲットにしました。具体的には、ウクライナから安い穀物を輸出して外貨を獲得し、機械輸入の代金に充てようとしたのです。

 

そのために、進められたのが、農業集団化です。農業集団化とは、農民のプロレタリアート化(農民を労働者とすること)のことで、1930~31年にかけて、ウクライナで農業集団化が強行され、ウクライナの農民は、コルホーズ(集団農場)とソフホーズ(国営農場)に組織化されていきました。

 

コルホーズ(集団農場)は、農民が土地・家畜・道具など生産手段を共有し、収穫を分配する協同組合組織で、一定の私有地が認められることもありました。

 

ソフホーズ(国営農場)は、土地と生産用具、家畜・肥料などをすべて国が所有し、すべての生産物は国家の所有となり、農民は雇用労働者として給与を支給される形態の農場で、私有地は一切ありません。

 

これに対するウクライナ人農民の抵抗は激しかったため、スターリンは反抗する農民らを徹底的に弾圧し、1935年までに91.3%が集団化されました。しかし、ウクライナでは、1930年代の農業集団化によって農業生産は激減し、しばしば飢饉が訪れました。オデッサなどで工業化が進められ、労働力として農民の都市移住が強制された結果、天候不順にもなれば、穀物生産量は激減し深刻な飢饉に襲われることとなったのです。

 

◆ 大飢饉(ホロドモール) 

 

ウクライナにおいて、1932~33年に起きた大飢饉は「ホロドモール」といわれ、最大の悲劇を引き起こしました。その背景は、ソ連政府の五カ年計画において、引き続きコルホーズ(集団農場)による農業の集団化や、反ソ連分子としてのクラーク(富農)撲滅運動が行われたことがあげられます。

 

農業の集団化によって、農民から穀物を強制的に徴発し、ノルマを達成しない農民への弾圧や処罰が行われました。クラーク(富農)撲滅運動においては、農民が「富農」と認定されると、ソ連政府による強制移住により家畜や農地を奪われ、「富農」と認定されなくとも、少ない食料や種子にいたるまで強制的に収奪されました。中には、強制収容所(グラグ)に収容された富農もいました。

 

この結果、当時のウクライナから食糧が消えて、大規模な飢饉が発生したのです。この大飢饉(ホロドモール)による餓死者の数は、正確な統計はありませんが、300万人から600万人以上と推計されています。ホロドモールは、当時の独裁者スターリンが、人為的に引き起こした「飢えによる虐殺」と捉えられています(スターリンの指示で行われた「飢餓輸出」)。

 

 

<独ヒトラーによる蹂躙>

 

1941年6月、ドイツが独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻、人類史上最大の死者を出した独ソ戦が開始されました。バルバロッサ作戦の下、準備万端整えていたドイツ軍は、破竹の進撃を続け、ソ連軍を撃破し、11月にはウクライナ全土を占領しました(このとき、枢軸国に加わったルーマニアは南西部からウクライナに侵攻し、オデッサを落とした)。

 

ヒトラーにとって、ウクライナはドイツ第三帝国の「レーベンスラウム」(生存圏)であり、その世界観の下、ナチスは東方(ウクライナ)に拡大していったのです。それゆえ、ヒトラーもまたウクライナを、食糧(穀物供給地として)だけでなく(ドイツがソ連占領地から徴発した食糧の85%はウクライナからのもの)、労働力の供給源として重視し、ウクライナに対する空前の搾取と殺戮を実施しました。

 

ドイツは「オストアルバイター」(東方労働者)と称して、ソ連占領地域から人々をドイツ本土に強制連行して過酷な労働に従事させました。ドイツの警察はウクライナの市場や教会、映画館などで偶々(たまたま)そこに居合わせた若者を手当たり次第搔き集めてドイツに送ったと言われ、全体で280万人といわれる旧ソ連領からのオストアルバイターのうち230万人はウクライナからの労働者であったと試算されています。

 

スターリンもまた、ドイツ軍の進撃をくい止めるため、ウクライナの焦土化を図り、東ウクライナの工場地帯の住民約380万人(1000万人との説もある)と850の工場設備を、ウラル山脈を越えた遠隔地に強制的に移住させました。

 

一方、ヒトラーは、ユダヤ人絶滅政策による過酷な摘発を行い、ユダヤ人大量殺戮も繰り広げられました。強制収容所に連行され、殺されたウクライナのユダヤ人は85万~90万人と推計されています。

 

もっとも、ウクライナ人の中には、ウクライナ民族主義者のステパン=バンデラのように、ナチス=ドイツに協力してソ連からの独立を実現しようとした者もいました。バンデラは、ウクライナ人部隊を組織してドイツ軍のソ連侵攻に参加し、リヴィウで独立宣言を発しました。しかし、ドイツはそれを認めず、バンデラらはゲシュタポに逮捕、拘禁されてしまいました。

 

このようにヒトラーのドイツに蹂躙されたウクライナですが、1943年1月のスターリングラードの戦いで形勢が逆転、ドイツ軍の後退が始まり、ソ連軍がウクライナに進撃し、同年9月までに全ウクライナを奪還、占領しました。なお、クリミア半島は大戦中、二年半にわたってドイツ軍に占領されましたが、戦後奪還したスターリンはクリミア=タタール人に対独協力の嫌疑をかけ、約19万人を中央アジアに強制移住させています。

 

 

<戦後処理>

戦争の犠牲者

ウクライナは、第二次世界大戦の独ソ戦で最前線となったため、厖大な人的損害を被りました。ある資料によると、ソ連全体で独ソ戦の犠牲者は軍人と民間人合わせて2000万~3000万とされたなか(実際には最大6000万人との見方もある)、ウクライナはそのうち約1040万(軍人280万、民間人510万、間接的損失約240万)と試算され、ウクライナの損害が占める割合がきわめて高かったかが伺えます。

 

ヤルタ会談

1945年2月、連合国の戦後処理構想に関する会談が、クリミア半島のヤルタで開催され、イギリス首相チャーチル、アメリカ大統領ルーズベルト、ソ連首相スターリンが参加しました。

 

ヤルタ会談では、ソ連の西部国境についても話し合われました。その結果、ポーランド領の東ハリチナー(ガリツィア)・西ヴォルイニ・ポリッシャ地方がソ連に割譲され、さらにソ連は、ルーマニアから北ブコヴィナ地方、チェコスロヴァキアからザカルパッチャ地方を獲得し、これらは、ウクライナ・ソヴィエト共和国に編入されました。

 

獲得した地域の多くは、かつてのロシア帝国の領土で、革命政権のときに失った地域であり、第二次世界大戦後、ソ連が再び取り戻した形となりました。ソ連崩壊後に独立した「ウクライナ」にも引き継がれており、現在のウクライナ西側国境にもなっています。

 

サンフランシスコ会議

また、第二次世界大戦中の1945年4月のサンフランシスコ会議で、国際連合の創設が決まりましたが、このとき、ウクライナとベラルーシは、ソ連と共に加盟し、原加盟国としてそれぞれ一票を与えられました(国連に一議席)。この決定がなされたのも、ヤルタ会談で、ソ連のスターリンが主張し、チャーチルが認めたことによって実現したものです。

 

 

<冷戦期のウクライナ>

 

二次世界大戦後、ウクライナは、ソ連邦の一員として、社会主義体制が続きました。その間、ウクライナ人の活動はロシア人と同一視され、ソ連の歴史として語られていきました。

 

◆ フルシチョフ時代のウクライナ

 

クリミア半島ウクライナに編入

スターリンを引き継いだソ連のフルシチョフ第一書記は、1954年2月、コサックの頭領フメリニツキーが、ウクライナに対する、ロシアの宗主権を認めたペレヤスラフ協定の締結300周年記念の際、それまでロシアの一部であったクリミア半島を、「ロシアのウクライナの兄弟愛と信頼」に基づき、ウクライナ共和国に移管しました。

 

フルシチョフの頭の中には、将来ウクライナが独立するなど考えも及ばなかったとみられ、後にソ連解体にともなうウクライナ独立によって、ロシア人が愛したヤルタの保養地も、ロシア軍の歴史とともにあったセヴァストーポリも失うことになるのです。

 

しかし、この決定は、フルシチョフの単独の判断ではなく、ソビエト連邦最高会議幹部会議長のゲオルギー・マレンコフを含むソ連の幹部の共通認識でした。実際、1954年1月25日、ソ連共産党中央委員会幹部会が、クリミア半島のロシア・ソビエト連邦社会主義共和国からウクライナ・ソビエト社会主義共和国への移譲を決定し、翌2月19日にソビエト連邦最高会議幹部会で議決されるなど、正式な手続きを経たものでした。

 

また、確かにソ連の公式見解は、フルシチョフがいうように、クリミアは「ロシアとウクライナの長年の友好を記念」して移譲されたとされていますが、ウクライナへの優遇ではなく、真の理由は、経済産業によるものでした。当時のクリミア半島は荒廃していました。1944年に、スターリンの命令によってクリミア先住民であるクリミアタタール人や、他の長年クリミアに住んでいた民族は半島から追放された結果、クリミア経済は崩壊していました(追放された人々がクリミアの経済や産業を担っていた)。

 

代わりに、クリミア半島に来たロシア人の入植者は、新しい環境に慣れずに、発展させることができませんでした(入植者の中には強制的に入植させられた人々が多数いた)。クリミア半島の経済再生に悩まされたソ連幹部は、クリミアの再生をウクライナに任せたらどうかという案が出てきて、最終的に採決されたのです。

 

クリミア半島は地理的にウクライナ本土と隣接しており、インフラや物流などはウクライナの一部であり、資源や水道水、ガス、電気などもウクライナ本土から調達されていることから、クリミアを直接モスクワが管理するより、ウクライナに任せた方がよいという合理的な判断に基づいていました(実際にウクライナ移譲後、クリミア経済は再生した)。

 

もちろん、ウクライナを懐柔することと同時に、ロシア人の多いクリミア半島をウクライナに移管させることで、ウクライナのロシア人比率を高めようとしたという政治的な意図があったようですが、それが主因ではありません。

 

◆ ブレジネフ時代のウクライナ

 

ロシア人の移住 

1970年代のブレジネフ時代には、ソ連の停滞がウクライナにもおよび、穀物生産量、工業生産量がともに減少し、経済成長率の低下が続きました。それでも、穀倉地帯であるウクライナは、ソ連の他地域よりも恵まれていたため、ウクライナへのロシア人の移住が相次ぎ、1926年に、ウクライナ国内に300万人いたロシア人は、1979年には1000万人となり、ウクライナ総人口の20%を越える状態となりました。

ヘルシンキ宣言の影響 

冷戦の続く中、デタント(緊張緩和)の動きが強まり、1975年7月にヘルシンキで、米ソを含む全欧安全保障協力会議(CSCE)が開催され、国境尊重の安全保障に加え、各国が人権尊重を約束することなどを規定したヘルシンキ宣言が採択、署名されました。

 

ソ連に人権を抑圧されていたウクライナを含む東欧諸国の人々は、このヘルシンキ宣言を拠り所に、人権の回復を訴え、ソ連および共産党による政権独占、言論弾圧などに抗議するようになりましたが、ブレジネフ政権は、ヘルシンキ宣言に違反して、反体制活動の弾圧を続けました。

 

◆ ゴルバチョフのペレストロイカ

 

しかし、1985年、ソ連に登場したゴルバチョフ政権は、グラスノスチ(情報公開)とペレストロイカ(改革)を掲げ、ソ連の停滞を打破し、社会主義体制の再建を目指したことが、一つの転機となりました。情報公開の広がりによって、過去のソ連時代の大飢饉や人権抑圧が明るみになり、ウクライナにおいても、ソ連社会主義の硬直した抑圧体制に対する批判が強まっていった。

 

そこに拍車をかけたのが、チェルノブイリ原発事故でした。1986年4月26日、ウクライナ西部にあったチェルノブイリ原子力発電所が人為的なミスで爆発するという大事故が起きました。しかし。事故は3日間隠蔽され、被害を全ヨーロッパに広がる結果となり、ソ連の体制の構造的欠陥が明らかになると同時に、ウクライナのソ連に対する不信は一気に高まりました。

 

 

 

<関連投稿>

ロシアの歴史

ロシア史①:キエフ・ルーシとモスクワ大公国

ロシア史②:ツァーリとロシア帝国

ロシア史③:ロシア革命とソ連

ロシア史④:冷戦とソ連崩壊

ロシア史⑤:エリツィンとオリガルヒ

ロシア史⑥:プーチンの独裁国家

 

ウクライナの歴史

ウクライナ史➀:ルーシのキエフ大公国

ウクライナ史②:リトアニア・ポーランド・ロシア支配

ウクライナ史④:ソ連からの独立とロシアの侵攻

 

ロシア・ウクライナ戦争を考える

スラブ民族:ロシア人とウクライナ人の起源

ロシア・ウクライナ関係史:ルーシーの歴史的一体性

プーチンの歴史観:ルーシキー・ミール

ウクライナ侵攻:ロシアがNATOこだわるわけ

ロシア正教会とウクライナ正教会:もう一つの戦争

 

 

 

<参照>

ロシアとウクライナ「民族の起源」巡る主張の対立ウクライナと呼ぶようになったのはなぜなのか

(2023/03/24、東洋経済)

語られないロシアの歴史とアメリカとの深い関係

(2020.06.02、キャノングローバル戦略研究所/小手川 大助)

「クリミア半島はソ連からウクライナへのプレゼント」というウソ

(2019年12月09日、日刊SPA!グレンコ・アンドリー)

「ウクライナ紛争」が発生した「本当のワケ」――ロシアを激怒させ続けてきた欧米地政学と冷戦の戦後世界史 後編

(2023.02.22、現代ビジネス)

なぜ世界はここまで「崩壊」したのか…「アメリカ」と「ロシア」の戦いから見る「ヤバすぎる現代史」

(2023.02.22、現代ビジネス)

ウクライナ(世界史の窓)

ウクライナとは?(コトバンク)

Wikipeida(ウクライナ関連)など

 

 

投稿日:2025年4月5日

むらおの歴史情報サイト「レムリア」