ウクライナ侵攻:ロシアがNATOこだわるわけ

 

ロシアが、ウクライナに侵攻した背景とされるのが、ロシア安全保障上の動機で、ウクライナがNATO加盟しようとしていたことがあげられています。その後、ロシア指導部の戦争目的に関する言い回しは微妙に変化してきましたが、一貫しているのはウクライナのNATO加盟阻止です。

 

今回は、ロシアとNATOとの歴史的な確執をみることで、ロシアによるウクライナ侵攻の原因についての理解を深めたいと思います。

 

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◆ 東西ドイツ統一

 

東西ドイツの統一は、1990年9月に関係6ヵ国が条約に署名して10月3日に成立しましたが、当時、東西ドイツを統一するにあたり、ソ連の合意を取り付ける必要があり、交渉が行われていました。

 

ドイツ統一に向けた協議で最も大きな問題になったのは、統一後のドイツはNATO(北大西洋条約機構)に加入するのかということでした。当時のソ連は、「ドイツの統一は、新しく生まれるドイツがNATOとワルシャワ条約機構との間で中立の立場を取る」、すなわち、米英軍が西ドイツから引き揚げ、ソ連軍も東ドイツから引き揚げる(ドイツはNATOに加入しない)という条件のもとでなら受け入れる」との考えでした。

 

そうしたなか、1990年2月9日、ソ連のゴルバチョフとアメリカのベイカー国務長官との会談で、ベイカーは、「NATOは1インチも動かさない」と発言し、東西ドイツが統一してもNATOは一切東方に拡大しないと約束しました。ベイカー発言を受け、ソ連は、「NATOが東に向けて拡大しない限り、統一後のドイツのNATO加入に基本的に同意する」方向へ傾き、同年9月、最終合意しました。

 

 

◆ 平和のためのパートナーシップ協定(PFP)

 

冷戦の終結によって、1991年にワルシャワ条約機構(WTO)が解体され,ロシアの影響力が制度的になくなったことから、東欧諸国は 、自国の安全保障のためにNATO(北大西洋条約)への加盟を相次いで表明しました。

 

これに対して、当然、ロシアは、NATOの東欧への拡大に強硬に反対すると、アメリカは、妥協案としてアメリカはPFP(平和のための協力協定)を提案し、ロシアにも参加を求めました。

 

PFPは、NATOが、旧東側諸国との間で、安全保障面での協力を、個別にはかる協定で、1994年1月の NATO首脳会議で採択されました。調印国が安全保障上の脅威にさらされた場合,NATOは、防衛義務は負いませんが,緊急協議に応じるほか、平和維持活動(PKO),捜索救援活動の要員訓練・演習などでNATOと協力・情報交換を行うなどの協力項目が規定されました。

 

ロシアはこれが実質的なNATOの東方拡大であり,ヨーロッパの安全保障におけるNATOの比重が大きくなりすぎるとして反対していましたが、最終的には合意し、ロシアも、1994年6月協定に調印しました(ロシアをはじめ,東欧,北欧諸国の 22ヵ国が参加)。

 

しかし、東欧からソ連軍が引き揚げ、ワルシャワ条約機構が解散してから8年後の1999年、NATOはロシア国境に向かって拡大を始めました。その2年前のNATOマドリード・サミットで、現加盟国が賛成するならどの国でも望めば加盟させるという門戸開放原則が掲げられたのです。これをうけ、1999年にポーランド、ハンガリー、チェコが加盟しました。

 

それでも、ロシア(エリツィン政権)は、NATO(北大西洋条約機構)の東欧への拡大に反対を表明しつつも、外交では西側との協調関係を維持しました。

 

 

◆ NATOロシア理事会

 

2000年に権力の座に就いたプーチンも、2001年の9・11同時多発テロで、G.W.ブッシュ大統領が宣言した「テロとの戦い」に協力しました。アメリカのアフガン戦争を支援するため、旧ソ連の構成国であった中央アジア諸国に米軍の駐留すら認めたのです。

 

対テロ作戦に大きく貢献したロシアと欧米との間の関係改善が一気に進み、2002年5月にローマで開かれたNATO首脳会議で、当時、NATO19カ国にロシアを加えた「NATOロシア理事会」が設置され、ロシアはNATO加盟国と対等の準加盟国になりました。

 

もっとも、ロシアが討議に参加するのは対テロ闘争や危機管理といった特定の問題のみで、全会一致が原則のNATOで、拒否権が与えられるわけではなく、NATOの集団安全保障問題など、NATOの戦略上の最重要問題については、従来通りロシアを除いたNATO理事会で討議されます。

 

それでも、将来的な正式加盟も視野に、「NATOロシア理事会」を通した協力関係は一定の進展がありました。これも、プーチンはロシアが、将来的にNATOのメンバーとなることでNATOの軍事同盟的色彩を薄め、その性格を変えさせようという戦略であったとみられています。

 

しかし、ロシアとNATOの良好な関係も、アメリカのG.Wブッシュ政権は、2002年6月にABM条約(弾道ミサイル迎撃ミサイルを制限する条約)から脱退することをロシアに一方的に通告した後、アメリカのミサイル防衛システムを東欧に配備する意向を示したこと、NATOの東方拡大がさらに続いたことから、悪化し始めました。

 

 

◆ 拡大NATOとその反動

 

2004年、東欧4カ国(スロバキア、スロベニア、ルーマニア、ブルガリア)と旧ソ連からバルト3国(エストニア、ラトビア、リトアニア)が加盟を果たし、ウクライナとジョージアの加盟も議題に上り出しました。

 

しかし、2008年春に開かれたNATOのブカレスト・サミットにおいて、ロシアは、これ以上のNATO拡大、とくに、ロシアにとって安全保障上、国家戦略上、死活的に重要な黒海に面しているウクライナとジョージアのNATO加盟は認められないとの強い態度を示し圧力をかけました。

 

ウクライナとジョージアがNATO入りすることへのロシアの反対は、旧ソ連のバルト諸国や黒海沿岸のルーマニア、ブルガリアなどに対するよりも比較にならないほど非常に強硬なものでした。当時、アメリカのG・Wブッシュ大統領は、このサミットでウクライナとグルジアを加盟候補国にしようと意図していましたが、共同宣言には将来加盟候補国になるという文言が盛り込まれるにとどめざるをえませんでした。

 

プーチンのジョージアとウクライナに対する執着がいかに強いかは、その後に起きた両国での出来事をみればわかります。、

 

ジョージア侵攻

2008年8月、ジョージア軍が、分離独立派が支配する北部の自国領・南オセチアを攻撃すると、ロシア系住民の保護を名目に、分離派の後ろ盾のロシア軍が介入し、ジョージアの首都トビリシ近郊やゴリ、黒海沿岸を空爆しました。プーチンは、南オセチアと、同様にジョージアから事実上の分離独立にあったアブハジア自治共和国をそれぞれ「独立国」として承認し、ロシア軍は現在も駐留しています。

 

また、ジョージア侵攻から6年後の2014年3月、ロシアは、ウクライナ領のクリミア半島を併合しました(後述)。

 

 

◆ ミサイル防衛システムの東欧配備

 

ロシアとNATOの緊張が高まるなか、2008年11月に、アメリカは、99年にNATOに加盟したチェコにレーダー基地を、またポーランドに長距離迎撃ミサイル基地を作る計画を発表しました。

 

ポーランドへの配備に関しては、ロシア・グルジア紛争勃発とともに交渉が一気に加速し、同年8 月に合意が成立、最終的には、2024年11月にポーランド北部のレディコボに、弾道ミサイルを迎撃する基地(イージス・アショア)が配備されたました。また、同国には、2010年にすでに可動式の地対空迎撃ミサイル「パトリオット(MIM-104)」を配備されています。

 

さらに、ポーランドへの配備以前には、2013年10月、ルーマニア南部のデベセル空軍基地で弾道ミサイルを迎撃する基地(イージス・アショア基地)の建設を開始し、2016年5月にルーマニアで稼働させています。

 

これらのミサイル防衛(MD)システムの東欧配備計画は、イランの核ミサイル開発に対抗し、同国からの短・中距離弾道ミサイル攻撃の阻止(探知・破壊)が目的と説明されていますが、ロシアは、自国の封じ込めが狙い(核戦略を無力化する意図)であるとして非難し、東欧にミサイル基地が建設されれば核攻撃力が損なわれると強く反発しました。実際、この発射システムは、モスクワを標的とする中距離弾道ミサイルの発射が可能で、ポーランドやルーマニアからモスクワまで7〜8分で着弾すると言われています。

 

なお、NATOの東方拡大は、ウクライナとジョージアを加盟候補国にすることを失敗しましたが、2009年にアルバニア、クロアチアの加盟が実現し、将来的には、ウクライナとジョージアの加盟への期待も残されました。

 

 

◆ クリミア併合とドンバス戦争

 

ロシアは、ソ連崩壊後、ジョージア(グルジア)の例からもわかるように、ロシアの影響下から逃れ、欧州に接近しようとする旧ソ連国に対し、その国の親ロシア的な分離独立派を支援して、何かあれば「自国民の保護」を口実に、地域紛争に介入してきました。

 

クリミア併合

2014年3月、ロシアは、前年の11月、ウクライナでユーロマイダン革命と呼ばれる政変が起こったことをきっかけに、ウクライナ領のクリミア半島を併合しました。ユーロマイダン革命によって、親露のヤヤヌコヴィチ大統領が国外に逃亡する事態となり、親西欧政権が成立すると、プーチンは、ロシアへの編入を掲げているクリミア半島のロシア系住民が反発していることをうけ、自国民の保護を理由に一方的にロシア軍を侵攻させ、クリミア半島を制圧したのです。

 

ドンバス紛争

さらに、クリミアの併合後の同年4月、ロシア系住民が多いウクライナ東部(ドンバス地域)のルガンスク州とドネツク州で、ロシア軍の支援を受けた親ロシア武装勢力が、ウクライナ東部の分離を目指して武装蜂起すると、これを認めないウクライナ軍と全面的に武力衝突し、内戦に突入しました。プーチンは、ウクライナに対して、ロシア語が通用しているこの二州の分離独立を認めさせて、衛生国家化を狙ったのでした。

 

このドンバス紛争では、結果的に、両州の中に、親ロシアのドネツク人民共和国とルハンスク人民共和国が作られるなど、ロシアが事実上の支配下に置く形となりました。2015年2月には、停戦合意(「ミンスク合意)」が成立しましたが、履行されないまま、事実上の戦争状態が続きました。

 

 

◆ ロシアによるウクライナ侵攻

 

2019年5月、ウクライナの大統領選挙において、国民的な知名度の高いコメディアン出身のゼレンスキーが当選しました。選挙戦でNATO加盟を公約に掲げる、東部紛争の解決に乗り出すことを表明していたゼレンスキーは、2021年3月、「クリミア奪還後の『ウクライナへの再統合』方針」を定めた大統領令を出すととも、NATO(北大西洋条約機構)加盟の意向を示していました(実際、NATOとウクライナ軍の合同軍事演習も実施されていた)。

 

なお、ウクライナでは、2019年2月に憲法改正が行われ、将来的なNATOとEU(欧州連合)加盟を目指す方針が明記されています。

 

新たにNATOへの加盟を求めるウクライナに対して、ロシア軍は、2021年10月以来、ウクライナ国境に17万5000人規模の陸上部隊を配置して軍事圧力をかけ、同年12月、アメリカに対して、ウクライナをNATOに加盟させないことやNATOに対し軍備の後退・縮小などを文書で確約せよと要求しました。これは、あの「NATOは1インチも動かさない」発言が反故にされたことが背景にあると見られていますが、アメリカは、書面で拒否を回答しました。

 

ウクライナでの緊張は一気にエスカレートするなか、2024年2月、プーチンは、「ドネツク人民共和国」と「ルガンスク人民共和国」への国家独立承認と相互安全保障協定へ署名した上で、ウクライナ東部のドンバス方面へロシア軍を派遣、ウクライナ侵攻を実行に移しました。

 

プーチンは、これは戦争ではなく、東部ウクライナにおけるロシア系住民を、ネオナチ勢力に支配されているウクライナ政府によるジェノサイド(大量殺害)から守るための「特別軍事行動」であると説明し、正教徒を含むロシア語話者の多い東部ドンバス2州の独立を作戦発動の口実にしました。

 

プーチンが定めた「特別軍事作戦」の対ウクライナ目標(対ウクライナ政府要求)の中には、ドンバス地域の両人民共和国の独立の承認などに加えて、将来にわたってNATO加盟を行なわないと約束すること(軍事的中立化)を要求しています。

 

 

◆ タタールのくびき

 

ロシアはなぜ、これほどまでに、NATOにこだわるのでしょうか?第二次世界大戦の独ソ戦において、多大な犠牲を払って東欧諸国を解放したソ連としては、戦後の冷戦期、東欧を、自国を守る盾として、東側ブロックを形成しました。その東欧諸国が冷戦後、ロシアを仮想敵国としているNATOに加盟していくということは、ロシアにとっては、緩衝地帯がなくなり、直接NATO諸国と国境を接することを意味し、まさに安全保障上の脅威となります。

 

ただし、周辺の国がいつ軍事介入するかわからないという恐怖は、ロシアにとって、歴史的に受け継いだトラウマを現在も引き継いでいると言われています。ロシアは世界のどの民族にも稀なほどの領土拡張欲求と征服欲を持っているとされています。これは、外敵からの恐怖や外国への猜疑心からくると言われています。

 

ユーラシア大陸の大平原は、侵略者を遮るものがなく、フィン人やモンゴル人など、強悍なアジア系遊牧民族が、東から次々にやってきては、ロシアで、収奪と破壊を繰り返したという歴史を持っています。

 

とりわけ、13〜15世紀のモンゴル人による侵略と苛酷な支配が、強烈なトラウマになっていると言われています。このとき、ロシアのルーツ国家であるキエフ大公国(キエフ・ルーシ)が、1237年、チンギス・ハンの孫バトゥが率いるモンゴル帝国の大遠征軍の襲来によって滅亡しました。バトゥの軍隊は、キエフをはじめとした諸都市を、破壊しつくし、人々は虐殺、都市そのものを瓦礫の山にしたとされています。

 

その後、200年近く、キプチャクハン国によって支配されましたが、抵抗すれば、ハン国から軍隊が送りこまれ、その町を焼き、破壊し、ときに住民を皆殺しにされたと言われています。

 

ロシア人は、この200年近く続く、モンゴル人による支配を、「タタールのくびき」と呼んでいます。タタールとはモンゴル人をさし、「くびき(軛)」とは牛や馬を御する時に首に付ける道具の意で、ロシアがモンゴルに抑圧され、停滞していた時代を意味します。この間、ロシアは、モンゴルの属国でした。

 

こんな文化遺伝を受け継いだプーチンにとっては、NATOの東方拡大は、ナポレオンのモスクワ遠征、ヒトラーのソ連侵攻と同様に、「NATOが東進してくる」という恐怖感につながっているとみられています。恐怖感の裏返しが残虐性であり、ウクライナ侵攻後、ロシア兵が行ったウクライナ住民に対する残虐行為の理由も、この点にあるのかもしれません。

 

 

 

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(参照)

女は拉致、残りは虐殺のモンゴル騎馬軍…プーチンの猜疑心の裏に「259年に及ぶロシア暗黒史」

(2023.11.3 19:00、Diamond online 池上彰)

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(2022年2月25日、東京新聞)

世界史の窓

コトバンク

Wikipediaなど

 

 

投稿日:2025年4月5日

むらおの歴史情報サイト「レムリア」