ロシア史⑥:プーチンの独裁国家

 

エリツィンから政権を「禅譲」され、大統領に就任したウラジミール=プーチン(1952~)は、エリツィン政権で蔓延った(はびこった)オリガルヒ政治を一掃し、ロシア帝国復活の道を歩み始めます。その行きついた先が、クリミアとウクライナ侵攻となった表れました。

 

シリーズでお届けしてきた「ロシアの歴史」の最終回は、プーチン政権による現代ロシア史をみていきます。

 

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<スパイから大統領へ>

 

KGBのスパイ(諜報員)だったプーチンはいかに大統領まで上り詰めたのでしょうか?

 

1989年11月、「ベルリンの壁」が崩壊した当時、プーチンはKGB(ソ連国家保安委員会)のドレスデン支部にナンバー2の少佐として駐在していました。当時、ドレスデンでも、東ドイツの群衆は情報機関を荒らし、KGB支部にも乱入してきたそうですが、プーチンは拳銃を抜いて群衆を制する一幕もあったと言われています。

 

後に、プーチンは、ソ連邦の消滅を「20世紀最大の地政学的大惨事」と述懐していますが、ソ連解体の導火線となった「ベルリンの壁」崩壊は、その後のプーチンを形作る屈辱の原体験となったと指摘されています。

 

◆ サンクトペテルブルク時代

 

その後、プーチンは、レニングラードに戻り、KGBの出向として、母校のレニングラード大学に、学長補佐官として勤務した後、90年5月にレニングラード市長だったサプチャークの国際関係担当顧問となりました。

(なお、プーチンは、ソ連崩壊後の 91年8月、ソ連保守派が決起したクーデター未遂事件後、KGBを退役した。)

 

92年5月には、サンクトペテルブルク市副市長、94年3月に同市第一副市長に任命され、外国企業誘致や、欧米との貿易投資の促進など市の対外経済案件のほとんどに関わりました。プーチンは、サプチャークの下で陰の実力者として活躍したため、「灰色の枢機卿」と呼ばれたと言われていますが、同時に、不正疑惑なども取りざたされました。

 

たとえば、マフィアとの癒着です。プーチンが顧問を務めたペテルブルクの不動産会社がロシアとドイツで資金洗浄をしていた疑惑で、ドイツ検察当局は2000年に不動産会社を捜索したところ、同社はロシアのマフィア組織やコロンビアの麻薬密売組織の資金を洗浄していたことが判明しました。プーチンが同社社長と親しいことが分かったことから、プーチンと闇組織の関係が示唆されました(真相はうやむやのまま)。

 

1996年8月、プーチンが仕えたサプチャークが、サンクトペテルブルク市長選挙で再選に失敗しました。選対本部長だったプーチンは、第一副市長を辞職した後、大統領府総務局長のパーベル・ボロジンの誘いをうけ、モスクワのロシア大統領府に転職しました(このモスクワ行きが、ロシアの歴史を変えることになる)。

 

◆ クレムリン時代

 

総務局次長としてクレムリンに入ったプーチンは、翌97年3月、大統領府副長官兼監督総局長、98年5月に大統領府第一副長官(地方行政担当)ととんとん拍子に出世し、98年7月、KGBの後身であるロシア連邦保安局(FSB)長官に就任しました。KGB時代は中佐止まりで、スパイとしては二流と言われたプーチンが、KGB後継機関のトップとして返り咲いたのです。

 

FSB長官時代の99 年3月、プーチンがエリツィン大統領の「セミヤー(ファミリー)」の窮地を救い、権力中枢に入り込むことになった有名なエピソードがあります。

 

それは、大統領ボリス・エリツィンとその家族のマネーロンダリング疑惑を陣頭指揮していたユーリ・スクラトフ検事総長を女性スキャンダルで失脚させたのです。スクラトフ検事総長とみられる男性が、売春婦二人とサウナで裸になって戯れる盗撮ビデオがロシア内外のテレビ局に持ち込まれて放映されました。プーチン長官は「鑑定の結果、男が検事総長であることが確認された」と発表、スクラトフは否定しましたが、退陣に追い込まれ失脚しました。

 

ロシアでは、ロシア語で不都合な情報を意味する「コンプロマット」(中傷情報)と呼ばれる攻撃が、旧ソ連で政敵やジャーナリスト、高級官僚らを追い落とす手法として繰り返し利用されてきたと言われています。情報の主流は男女の情事で、KGBは本物か捏造かを問わずにスキャンダルを探すのが日常でした。

 

この一件を機に、プーチンは、エリツィンの有力な後継者候補に名を連ねました。プーチン擁立に中心的役割を果たしたのが、エリツィン「セミヤー(ファミリー)」の主要メンバーであり、オリガルヒ(新興財閥)の代表的な存在であったボリス・ベレゾフスキーです。

 

プーチンは、1999年3月の安全保障会議書記をへて、同年8月、ロシア連邦首相に任命されました。この時、エリツィン大統領は、プーチンを自身の後継者とすることを表明していたと言われています。

 

プーチンが首相に就任した直後、チェチェンの武装勢力によるロシア高層アパート連続爆破事件が起きると、プーチンは、ロシア軍にチェチェン侵攻を命じ、第二次チェチェン紛争勃発、10年間に及ぶ戦いで、紛争の制圧に辣腕を振い、「強いリーダー」というイメージを高め国民の支持を獲得しました。

 

1999年12月31日、エリツィン大統領は、健康上の理由で、任期を半年余残して突然辞任し、これにともない、プーチンは、大統領代行に就任しました。大統領代行のプーチンは、2000年3月の大統領選挙で圧勝し、ロシア連邦第2代大統領となったのです。

 

 

<大統領1期目(2000.5–2004.4)>

 

2000年5月、正式に大統領に就任したプーチンは、「強いロシア」の再建を目標とし、「法の独裁」による秩序の強化と経済の再生をめざしました。

 

◆ 強い指導力

 

まず、中央政府の権限を強化する政策を打ち出しました。エリツィン時代のロシアは、地方政府が、中央政府の法体系と矛盾した法律を乱発するなど、地方政府への制御が利かなくなっていました。

 

そこで、ロシア全土の85地域を、連邦構成体として中央・ウラル・北コーカス・南・北西・シベリア・極東・沿ボルガの8つに分けた連邦管区(日本の都道府県に相当)を設置し、各地域の知事を、新職の「大統領全権代表」に監督させました。また、知事の上院議員兼任を禁止し、大統領に知事解任権を与えました。

 

さらに、同年12月にソビエト連邦の国歌の歌詞を変えて新国歌に制定した。これはロシア国民に「強かった時代のロシア(ソ連)」を呼び起こすためだとされています。

 

このような強権的体質は、内外から批判される一方、ロシア国民からは総じて支持されました。というのも、プーチンの大統領就任以降、原油価格が上昇を続けたことで、98年8月のロシア金融危機で打撃を受けた経済が回復し成長を続けたからです。

 

◆ オリガルヒとの対決・プーチン閥の形成

 

エリツィン時代は、エリツィンと側近(「セミヤー(ファミリー)」)および支持基盤の新興財閥「オリガルヒ」の時代でしたが、プーチンは、財政再建のため新興財閥オリガルヒの脱税を取り締まり始め、オリガルヒと対決しました。

 

これに対して、オリガルヒたちは、所有するメディアでプーチンを攻撃しましたが、プーチンは脱税・横領などの捜査で、たとえば、金融帝国「モスト・グループ」の総帥、ウラジーミル・グシンスキーや、石油会社「ユコス」のミハイル・ホドルコフスキーといったオリガルヒを逮捕して(逮捕は05年)、この動きを止めました。

 

当時、プーチンは権力維持装置としてのテレビの威力を認識し、テレビ局の経営権掌握を進め、恭順を誓った企業と和解し、恭順企業にメディアを支配させ、そうでない場合は排除しました。

 

メディア統制と新興財閥の排除の目的のため、弾圧のメスは、自身をエリツィンの後継者に擁立してくれた、オリガルヒ(新興財閥)の筆頭で、金融・メディア部門を牛耳った政界の黒幕、ベレゾフスキーにも向けられました。

 

プーチンは2000年、ベレゾフスキーをクレムリンに呼び、テレビ局の株式譲渡を要求しましたが、拒否されると、「それでは、これでお別れだ」と短く言って、その場を退出、直後、検察によるベレゾフスキーへの追及が開始されました。ベレゾフスキーは逮捕を恐れ、英国に政治亡命しました。

 

プーチン政権の標的は主に、90年代のエリツィン時代に富を築いたオリガルヒであり、プーチン政権発足後に利権を握った、ユーリー・コワルチュクやローデンベルク兄弟などサンクトペテルブルク出身のオリガルヒなどとは異なります。

 

ユーリー・コワルチュク

「プーチンの個人銀行」ともいわれる「ロシア銀行」の会長で「銀行王」と称されるだけでなく、「メディア王」とも呼ばれ、「チャンネル1」など23社のメディアを抱える、ロシア最大規模の「ナショナル・メディア・グループ」を保有しています。

 

そのメディアグループの会長職にプーチンの愛人とされるカバエワを据えるなど、コワルチュクは、プーチンの「金の管理と愛人の面倒」をみていると言われるほど、プーチンと個人的につながりの深い人物です。保守強硬派で、ウクライナ侵攻を強く主張したとされています。

 

ローテンベルク兄弟

アルカディ・ローテンベルクとボリス・ローテンベルクの兄弟は、プーチンの柔道仲間で、建設会社SGMグループや地域銀行「SMPバンク」を経営しています。SGMは、ロシア国内のガスパイプライン建設や電力の供給網など公共事業を請け負ってきました。また、SMPバンクはロシアに全国展開しています。

 

ゲンナジー・チムチェンコ

ティムチェンコは、プーチンが政治家として頭角を現した90年代初めから友人関係にあるとされ、ロシア最大の独立ガス会社ノバルテックや、石油化学(石油商社)大手シブールを含むロシアのエネルギー企業への投資で財をなしました(大株主)。

 

このように、プーチンは、エリツィン時代のオリガルヒ企業の政治介入を排除し、脱税を取締り、恭順を誓ったオリガルヒに納税させ、国家財政を再建させました。プーチンと個人的に親しいオリガルヒ(新興財閥)には、救済・優遇措置がとられ、彼らは超富裕層になりました。ただし、プーチン政権からビジネスの恩恵を受ける見返りに、政権を資金面で支える「大統領の金庫番」の役割を果たし、後の「プーチン閥」を形成していきます。

 

政権内においても、エリツィン時代のセミヤー(側近グループ)や、オリガルヒと密接な関係にあるとされた政治家は遠ざけられました。代わりに、プーチンは、2000年の大統領就任後、東ドイツ時代のKGBやサンクトペテルブルク時代の同僚や仲間たちを政権に呼び寄せ、シロビキ、サンクト派と呼ばれる、反米、愛国主義の強烈なインナーサークルがクレムリンに形成されました。

 

このなかでも特に、大統領補佐官や連邦麻薬取締庁長官を務めたヴィクトル・イワノフや、大統領府副長官やその後ロシア最大の国営石油会社ロスネフチ会長となったイーゴリ・セーチンらが、シロビキの代表格です。後に大統領、首相となるメドベージェフもこのグループに含まれます。やがて、「サンクト派」のシロビキは、最大派閥として、ロシア政治に占める影響力は巨大なものになっていきます。

 

さらに、プーチンは、右派連合等オリガルヒ系政党を少数派に追いやり、与党・統一ロシア(「統一」と「祖国・全ロシア」が合併して結成)の支持を確立して、権力を固めました。

 

◆ 隣国のカラー革命

 

第1期目のプーチン政権において、2001年9.11後の対テロ政策などでは、アメリカと共同歩調を取りましたが、国内で発生したチェチェン紛争など民族紛争では強硬姿勢を続けました。また、旧ソ連圏の隣国では、2003年にはジョージアで「バラ革命」、2004年にウクライナで「オレンジ革命」、2005年にキルギスで「チューリップ革命」と呼ばれる民衆の反政府運動(カラー革命)が起きましたが、プーチンはこれらの民主化運動に対しては批判的でした。

 

プーチンにとって、このような下からの民衆による政権批判の行動は、西側諸国の陰謀と資金によるものであり、旧ソ連地域のカラー革命は、最終的にはロシア政権を打倒する為の反露謀略的な行動と映りました。

 

 

<大統領2期目(2004.5〜2008.4)>

 

プーチンは、2期目をかけた2004年3月の大統領選挙では70%の得票率で圧勝し再選、前年末の議会選挙での与党の勝利と合わせ権力基盤を固めました。

 

再選後の04年9月にベスラン学校占拠事件が発生したことを機に、ロシアの国家統一の必要性を理由として、2005年から連邦構成主体の首長(地方の知事)を、住民による直接選挙から、実質的に大統領による任命制に移行させる(大統領には首長の解任権も与えられた)など,より一層の中央集権化を進め、大統領権限を強化しました。

 

ロシア経済は、原油価格の高騰に伴い2期目も実質GDP成長率で年6–8パーセント台の成長(04〜07年)を続けました。8年間のプーチン政権でロシア経済は、引き続き原油価格の高騰の恩恵をうけ、98年の危機を脱して大きく成長しました。国内総生産(GDP)は6倍に増大し、貧困は半分以下に減り、平均月給が80ドルから640ドルに増加しました。

 

また、ロシア政府は2005年に国際通貨基金(IMF)からの債務、2006年にパリクラブ(主要債権国会議)からの債務を完済し、ロシア経済は安定して国際的な信用を取り戻しました。

 

この対外債務返済に大きく貢献したのが、2004年に創設した政府系ファンドの「安定化基金」です。この基金は、原油価格下落のリスクに備えるのを目的とし、原油の輸出関税と採掘税の税収を原油価格の高いときに基金に繰り入れ、資金を積み立てる構造になっていました。当初、対外債務の繰り上げ返済を主目的として運用され、原油高による潤沢なオイルマネーの注入によって、早期の完済を実現しました。

 

しかし、プーチン政権の2期目は経済成長の達成の裏で、その政治手法が強権的・独裁的・謀略的だとして、1期目に続き、欧米諸国から、強い非難を浴びました。

 

ロシア経済についても、KGB出身で元ロシア鉄道社長のウラジーミル・ヤクーニンのような、プーチンと親密な関係にある人物(大統領の盟友)や側近グループによって、統制されているのが実態です(ヤクーニンは、今もプーチン政権内に隠然たる勢力を持つと言われている)。

 

また、プーチンに恭順しないオリガルヒが逮捕・投獄された後に、彼らが所有していた企業は政府の強い影響下に置かれました。たとえば、2003年にユコス社の社長ミハイル・ホドルコフスキーがプーチン大統領批判を開始すると、05年に、脱税などの疑いで逮捕、収監されました。逮捕された後、ユコス社は脱税による追徴課税などの影響で、06年8月に破産に追い込まれ、07年5月に資産が競売により国営企業のロスネフチに落札、吸収されました。

 

さらに、プーチン政権を批判していた人物が次々と不審な死を遂げ、ロシア政府による暗殺説が浮上しました。

 

アンナ・ポリトコフスカヤ

チェチェン戦争に関する政権の暗部を暴いた、ロシアの独立系新聞「ノーヴァヤ・ガゼータ」の記者でジャーナリストのアンナ・ポリトコフスカヤ記者は、2006年10月、自宅エレベーター内で射殺されました。ポリトコフスカヤは、反プーチンで、ホドルコフスキーとユコスとの「連帯」を表明していました。

 

アレクサンドル・リトビネンコ

イギリスに亡命して反プーチン運動に参加していたアレクサンドル・リトビネンコ元KGB (FSB)中佐が、2006年11月、亡命先のイギリスで写真が公開された後、放射性物質で毒殺されました。イギリス警察は、「多量の放射能物質ポロニウムを食事などに混合されて摂取したため」と死因を発表しました。

 

ボリス・ベレゾフスキー

2007年6月には、新興財閥(オリガルヒ)であるボリス・ベレゾフスキーへの暗殺計画が発覚し、その容疑者がロシアに強制送還される事件が起きました。前述したように、ベレゾフスキーは、エリツィン政権時代の最大のオリガルヒで、エリツィンの「ファミリー(側近グループ)」にもいた人物で、プーチン擁立にも尽力しましたが、その後、プーチンと対立し、イギリスへ亡命していました。99年のモスクワなどでのアパート連続爆破事件が特殊部隊による自作自演だったと主張するなどプーチン批判を展開し、ロシアの元スパイ、暗殺されたリトビネンコと協力関係にあったと言われています(そのベレゾフスキーも2013年3月亡命先の英国で変死しました)。

 

◆ 大統領から首相へ

 

さて、2期目のプーチンの任期が終わりに近づくと、プーチンの去就が注目されました(当時、ロシア連邦大統領は連続3選が憲法により禁止されていた)。2007年10月に開かれた与党・統一ロシアの第8回党大会で、プーチンは、大統領退任後、首相に就任して政界にとどまることに意欲を示しました。

 

実際、プーチンは、07年12月に、大統領退任を表明,後継者に第一副首相のメドベージェフを指名しました。この結果、2008年3月の大統領選で、プーチンから支持を受けたメドベージェフが、70パーセント以上の得票を集め大勝(当選)しました。2008年5月、メドベージェフは、大統領に就任すると,プーチンを首相に指名(翌日連邦議会下院で承認)しました(プーチンは、与党統一ロシアの党首にも就いた)。

 

このように、プーチンは、ロシア連邦憲法の規定により、大統領を2期で退陣しましたが、首相に横滑りし、権力を維持することになったのです。なおこの年、最初の憲法改正が行われ、大統領任期、4年から6年に延長されました。

 

 

<連邦首相(2008.5〜2012.4)>

 

首相就任によりメドベージェフとのタンデム体制(二頭体制/双頭体制)となりましたが、プーチンは大統領を退いた後も、事実上最高権力者として影響力を行使しました(首相として、過去8年間のプーチン路線は継承された)。

 

◆ 首相の権限強化

 

2008年5月には、首相を議長として、副首相だけでなく、大統領が管轄する外相や国防相も参加する「政府幹部会」を設置し、この会が事実上の最高意思決定機関となりました。

 

また、2000年5月に制定していた連邦管区大統領全権代表は、各首長を牽制するため大統領の代理として各地域へ派遣されていましたが、代表権を失って首相のコンサルタント的な地位にとどまりました。さらに、大統領による任命制に改められていた地方の知事は、国家公務員とされ、首相の管轄下に置かれました。

 

◆ ジョージアへの軍事侵攻

 

プーチンは、大統領職1期目において、旧ソ連圏の隣国では、2003年にはジョージアで「バラ革命」、2004年にウクライナで「オレンジ革命」など民衆の反政府運動(カラー革命)が起きたことを受けて、旧ソビエト諸国でロシアの影響力を取り戻すための手段として、外交と経済的圧力よりも、軍事力の行使を選択するようになりました。

 

2008年8月、ジョージア国内の非政府支配地域である南オセチアにおいて、分離独立を主張する親ロシア派の勢力とグルジア系住民と対立、武力衝突に発展すると(南オセチア紛争)、ロシアは、ロシア系住民の保護を名目に、ジョージア(グルジア)に軍事侵攻しました。事実上この二地域をグルジアから分離させ、国家として承認し(国際的にはまだ認知されていない)、今もロシア軍の駐留が続いています。

 

グルジアのミヘイル・サアカシヴィリ政権は、バラ革命(2003年)の当時は人気がありましたが、07年にトビリシでのデモを力で弾圧して人気を落としたこともあり、翌08年8月に、分離独立の動きを強める南オセチア自治州へ軍事侵攻したことから、ロシアとの戦争を招いた形となりました。

 

◆ 反プーチン抗議運動

 

08年の世界的な金融危機にともなう、景気後退にもかかわらず、有権者の間ではプーチンの人気は衰えませんでしたが、2010年1月末、カリーニングラードにて、9,000人から12,000人に及ぶ人々が、反プーチンの抗議集会を行いました。この抗議運動には、「連帯」、「ヤブロコ」、「ロシア連邦共産党」、「ロシア自由民主党」など様々な団体が参加しました。

 

また、2011年12月4日投開票の下院選挙において、プーチン率いる統一ロシアの不正を示す動画がYouTubeに投稿されたことを受け、不正疑惑をめぐって政権を批判するデモが開かれ(2011年ロシア反政府運動)、デモには主催者側は12万人(警察発表3万人)が参加しました。ただし、反プーチン・反政府運動は、ロシア全土には広がらず、弾圧をうけて下火となっていきました。

 

◆ 大統領選挙へ再出馬

 

ロシアの憲法にはいったんやめた大統領が間を置いて再任されることは禁止されていないことから、首相のプーチンは、2011年9月、モスクワで開催された統一ロシアの党大会で2012年ロシ連邦大統領選挙に立候補を表明しました。

 

2012年3月実施のロシア連邦大統領選挙で、プーチンが圧勝し、大統領に返り咲きました。首相には、大統領であったメドベージェフを指名しました(なお、 4月には大統領就任後に統一ロシア党首を辞任する意向を示した)。

 

 

<大統領3期目(2012.5〜2018.4)>

 

プーチンは、2012年5月、クレムリンで行われた就任式典を経て、正式に第4代ロシア連邦大統領に就任しました(通算では3期目)。また、08年の憲法改正により、今任期からロシア連邦大統領の任期が6年となったため、任期満了は2018年となりました。

 

大統領の任期の拡大は、大統領の権限強化の一環であり、就任後の2014年には、2度目の憲法改正を行い、経済紛争を扱う最高仲裁裁判所の廃止、大統領に検事任免権を与えるといった、司法や検察機関への大統領権限の拡大を図りました。

 

◆ シロビキ・チェキストの台頭

 

3度目のプーチンは、ロシアのナショナルアイデンティティー(国民の共通の価値観)の保持を強調しつつ内政重視の姿勢を打ち出しました。ロシアのナショナルアイデンティティーの保持とは、プーチンの世界観・歴史観が形成・浸透されていくことを意味します。再登板を果たした2012年以降、“ルースキーミール(ロシアの世界)”というプーチンのイデオロギーが徐々に表に出てくることになります。

 

この背景にはプーチン体制の権力構造の変化も影響しています。前述したように、2000年のプーチン大統領の誕生によって、エリツィン時代に政権に巣づいたオリガルヒ(新興財閥)やセミヤー(エリツィン親族と側近)が排除された後、プーチン体制は大統領府を中心として、主にサンクトペテルブルグ出身者による諸エリート集団によって支えられるようになりました。

 

具体的には、警察・軍出身者の「シロビキ」や、旧KGB(ソ連国家保安委員会)出身の勢力である「チェキスト」といった武力省庁関係者を中心とする勢力と、対欧米協調を志向するやや穏健な「リベラル」勢力とによって構成されました。

 

プーチンが大統領に再登板される2012年ころまで、対欧米協調の「リベラル」勢力が、影響力を保持していましたが、2011年末から始まった反政府・民主化運動が弾圧されてから、「シロビキ」「チェキスト」と総称される強硬派が完全に主導権を握っていったのです。ロシアの伝統的な価値観を重視する彼らは、ロシアの国益を第一に考え(最優先し)、強いロシアの再興(復活)を目論みました。プーチンはこのグループを代表する顔で、ロシアの政治エリートに占めるシロビキやチェキストの割合は年々増加しつつあるとみられています。

 

◆ クリミア併合

 

プーチンは、2014年3月、ウクライナ領のクリミア半島を併合しました。国際的にウクライナの領土と見なされているクリミア半島を構成するクリミア自治共和国・セヴァストポリ特別市を、一方的に、ロシア連邦の領土に加えたのです。これは、1991年のソビエト連邦崩壊・ロシア連邦成立後初の、ロシアにとって本格的な領土拡大となりました。

 

2013年11月、隣国ウクライナで、ユーロマイダン革命と呼ばれる政変が起こり、親露のヤヌコヴィチ政権が倒れました。これは、EUとウクライナの連合協定調印を、その直前になって取りやめた当時のヤヌコヴィチ大統領に対する抗議運動を機に、暴動にまで発展したもので、ヤヌコヴィチ大統領が国外逃亡、親西欧政権が成立し、ウクライナのNATO加盟も現実的になっていったのです。

 

こうした動きに,ウクライナのロシア系住民が強く反発,ロシア系住民が大半を占めるクリミアでは、クリミア自治共和国の独立の動きが一気に浮上しました。プーチンもこれを強力に支持し、クリミア半島のロシア系住民がロシアへの編入を掲げていることを理由に、一方的にロシア軍を侵攻させ、クリミア半島を制圧したのです。ロシアで開催されたソチ冬季オリンピック閉幕直後のタイミングでした。

 

侵攻は2014年2月27日、クリミアの親露派武装集団(実際はロシア軍の特殊部隊)によるウクライナ南部クリミアの議会と地方政府庁舎を占拠して、始まりました。プーチンは、2014年3月1日、ロシア系住民の保護を理由に、ウクライナへのロシア軍投入の承認を上院に求め、上院がこれを全会一致で承認した後、半島の軍事占領を開始しました(ロシア軍が事実上クリミア半島に侵攻するかたちとなった)。

 

3日には、籠城するウクライナ軍はロシア軍に降伏すると、7日、クリミア自治共和国議会とセバストポリ市議会は独立宣言を採択し,16日、住民投票で圧倒的な賛成を得て,クリミア共和国として独立しました。

 

これを受け、プーチンは直ちにクリミアとセバストポリ特別市をロシア領に編入する条約を、クリミア、セヴァストポリ両市と結び、編入を宣言しました。正式名称「クリミア共和国をロシア連邦に編入し、ロシア連邦に新たな連邦構成主体を設立することに関するロシア連邦とクリミア共和国との間の条約」が4月1日に発効しました。こうして、クリミアは「クリミア共和国」に、セヴァストポリは「セヴァストポリ連邦市」としてロシアの連邦構成主体(クリミア連邦管区)となったのです。

 

このクリミア併合の背景にはプーチン政権の「強いロシア」を志向する膨張主義によって国民的支持を得るという意図があったと見られています。プーチンにとって、クリミア半島は、エカチェリーナ2世時代以来のロシア領という歴史的経緯からも、また軍港セヴァストーポリはクリミア戦争以来のロシア艦隊の要地で、黒海から地中海方面への進出に欠かせないところでした。

 

欧米側の反発

しかし、ウクライナはもとより国際連合,日本を含む欧米諸国は、ロシアのよるクリミア併合は、ウクライナの国家主権・領土を侵害する違法行為(国際法違反)として,独立・編入を承認せず、米国とEU諸国はロシアに対して経済制裁に踏み切りました。

 

この軍事行動は国際的な非難を浴びました。ロシアは、1997年から正式メンバーとしてサミット(先進国首脳会議)に参加し、G8の一員とされていましたが、このクリミア併合により参加を拒否され、それ以後、サミットに復帰は許されていません。

 

ただし、クリミア併合の際の欧米側の対応は、遅く弱かったと批判されています。ロシアに対する制裁が導入されたのは、2014年7月17日のマレーシア航空機撃墜事件のあとでした。この事件では、オランダ・アムステルダムを離陸したマレーシア航空機が、クアラルンプールへの途上、ロシアが軍事介入するウクライナ東部ドネツク州上空で、ロシアから持ち込まれ親ロシア派支配地域から発射された地対空ミサイルによって、撃墜され、乗客乗員が全員死亡しました(乗客の大半がEU諸国の市民)。

 

また、ドイツのような主要国は、ロシアとの経済協力を強化し、ロシアから欧州へのガスパイプライン「ノルドストリーム2」の建設計画はクリミア併合のあとに立てられました。

 

実際、プーチンは,ロシアの天然ガスに依存するウクライナをはじめ,EU圏東欧諸国に対するガス供給の停止というエネルギー外交政策を切り札に使いつつ,米国と並ぶ超大国中国との関係を緊密化させて,西欧諸国の制裁に対抗するなど、したたかな外交を展開しています。

 

また、プーチンは国際社会では非難されましたが、国内での支持率は急速に高まり、それまで60~70%にとどまっていたのが、一時90%に跳ね上がりました。プーチンと同じように、かなりの数のロシア国民は、「ソビエト崩壊も西側のせいである」、「大国の地位と栄光を不当に奪われた」という感情をもっているとされ、プーチンは自分達を体現してくれたと考えているようです。これは後のウクライナ侵攻においても、ロシア社会全体にある風潮となっていると言われています。

 

◆ ドンバスの分離

 

プーチンは同じ年(2014年)、クリミア併合に続き、ドンバスと呼ばれるウクライナの東部2州(ドネツィク州とルハーンシク州)も事実上の支配下に置きました(ドンバス地域はウクライナの国土面積の10 %を占めている)。

 

ウクライナ東部には、クリミア以外にもロシア系住民が多い地域があり,ロシアによるクリミアの併合後、親ロシア武装勢力が、ウクライナ東部の分離を目指して、武装蜂起し、ウクライナ軍と全面的に武力衝突する事態となりました。ドンバス地方で分離の動きは、結果的に、ドネツク州およびルハンスク州の中に、親ロシアのドネツク人民共和国およびルハンスク人民共和国が作られる形となりました。

 

ミンスク合意

2015年2月,ロシア・ウクライナ・ドイツ・フランスによる停戦合意が成立しました。ベラルーシのミンスクで調印されたのでミンスク合意と呼ばれます。ミンスク合意は、正確には、ミンスク議定書と第2ミンスク合意という2つの合意があります。

 

ミンスク議定書は、2014年9月にウクライナ、ロシア連邦、ドネツク人民共和国、ルガンスク人民共和国が調印した、東部ウクライナにおけるドンバス地域(ウクライナのドネツィク州とルハーンシク州を指す)の戦闘(ドンバス戦争)停止について合意した文書でしたが、ドンバスでの休戦は実現できませんでした。

 

第2ミンスク合意(正式名称ミンスク合意の実施のための措置のパッケージ 、通称ミンスク2)とは、ミンスク議定書による停戦を復活させることを目的として、2015年2月に署名された、ロシアを後ろ盾とする親ロ派武装勢力とウクライナ軍によるドンバス戦争の停戦を意図した協定で、フランスとドイツが仲介して、ウクライナとロシアが署名したものです。

 

合意実行に向けた争点となったのが、親ロシア派武装勢力が占領するウクライナ東部の2地域に、「特別な地位」を与える、すなわち、「ドネツク人民共和国」と「ルガンスク人民共和国」に幅広い自治権を認める恒久法を制定するというとの内容についてでした

 

ウクライナは事実上のロシアによる実効支配につながるして、これに反対、結局、ミンスク合意は実行に移されることなく、確固とした和平が成立しませんでした。むしろ、ウクライナ軍と、ウクライナからの分離独立とロシア編入を求めるロシア系住民の民兵組織の戦闘は激化し、ウクライナ東部は内戦状態になってしまいました。

 

 

◆ アラブの春とシリア内戦

 

プーチンのロシアは、2015年9月30日、シリア内戦に介入しました。2011年(2010年12月〜)、中東アフリカに一斉に起こったアラブの春といわれた民主化運動(反体制運動)がシリアに及び、2011年3月18日、アサド政権打倒を掲げる反体制派が蜂起、シリア内戦が勃発しました(プーチンからすれば、アラブの春も西側の反露的陰謀だと解釈される)。

 

2014年には、内戦の過程で、特に過激なイスラム教スンナ派集団が、「イスラム国」(IS)と称して台頭してきました。こうした動きをうけ、ロシアは、、2015年9月30日アサド政権擁護のためにISの拠点に対する空爆を行い、シリア内戦への介入を開始しました。

 

これは中央アジア地域など旧ソ連圏のイスラム系住民の中にISなどの原理主義者の勢力が浸透することを恐れ、またテロとの戦いという国際的な連携に加わるためであるとされました(ロシアの国内向けにはプーチンの正義の戦いとして宣伝された)。ただし、アサド政権不支持を明確にしていたアメリカと対立することとなり、アラブ世界の混迷をさらに深めることとなりました。

 

さて、プーチン大統領は、2017年12月、翌年実施予定のロシア連邦大統領選挙に出馬することを表明、翌3月の大統領選挙で圧勝しました。これで、大統領選挙4度目の当選を果たしたことになります(任期満了は2024年)。

 

 

<大統領4・5期目(2018.5 〜現在)      

 

大統領通算4期目に入ったプーチンは、高い支持率を背景に長期政権を続けましたが、野党の組織的な活動を弾圧したり、反プーチンの発言をするジャーナリストをひそかに襲撃させたりするなど、その強権的体質に変化はありませんでした。むしろ、将来的な体制崩壊を防ぎ、政権を維持するため、権力を強化しようとしました。

 

◆ 大統領権限の強化

 

2020年3月に憲法改正を実施(署名し公布)、7月に国民投票が行われ可決、同月 4 日に改正連邦憲法が施行されました。ロシア憲法では、1993年の制定当初から大統領の権限が強く、プーチンは、憲法で定められた大統領権限を活用しつつ、2000年に大統領に就任してから2回、憲法改正を実施して、権力を強めてきました。

 

2020年の憲法改正においては、憲法改正前のプーチン大統領の任期は、2024年まででしたが、憲法改正によってこれまでの任期をリセットして (無かったことにした)、あと2回再選に立候補できるようにしました。そうすると、新たに最長2期12年、2036年まで大統領職に就けることになり、これはプーチンが事実上の終身大統領になることを意味します。

 

ほかにも、大統領の地位を高め、以下のような特権を増やす項目が付加されました。

・議会が承認した首相を解任する権限
・現職だけでなく大統領経験者にも不逮捕特権適用
(大統領経験者に従来の「在職中のみ」から「生涯にわたって」訴追されない不逮捕特権の免責権利を保障した)

・大統領経験者は終身上院議員とする

 

◆ ウクライナ侵攻

 

ロシアが、ウクライナ南東部のドンバス地方で、親露派分離勢力への支援を始め内戦状態となった2014年以降も、第2ミンスク合意が履行されることなく、ドンバス地域での対立・紛争が続いていました。

 

また、ウクライナでは、2019年5月に就任したゼレンシキー大統領は、2021年3月、「クリミア奪還後の『ウクライナへの再統合』方針」を定めた大統領令を出すととも、NATO(北大西洋条約機構)加盟の意向を示していました(実際、NATOとウクライナ軍の合同軍事演習も実施されていた)。

 

これに対して、ロシア軍は、2021年10月以来、国境付近に約10万人ともいわれる規模の部隊を配備し、ウクライナでの緊張は一気にエスカレートしていきました。

 

2021年12月、プーチンはウクライナをNATOに加盟させないことや、NATOに対し軍備の後退・縮小などを文書で確約する(条約を結ぶ)ようアメリカに対して要求しましたが、拒否されると、翌2月21日、プーチンは、「ドネツク人民共和国」と「ルガンスク人民共和国」への国家独立承認と友好協力相互支援協定(相互安全保障協定)へ署名し、ウクライナ東部のドンバス方面へロシア軍を派遣しました。

 

そして、ついに、北京の冬季オリンピック閉幕直後の2022年2月24日、プーチンは、ウクライナへの「特別軍事作戦」を開始すると宣言、ロシアによるウクライナ侵攻が始まりました。

 

プーチンの動機

ロシアのウクライナ侵攻の直接的な動機は、ウクライナのNATO加盟を阻止することとされています。ロシアにとって、ウクライナのNATO加盟の可能性とNATO拡大は一般的に国家安全保障上の脅威であるからです。

 

1999年以降、ポーランド、ハンガリー、チェコなど東欧諸国がNATOに加盟し、旧ソ連では、バルト3国もNATO入りしました。黒海に面していてNATOに加盟していないのは、ウクライナ、グルジア(ジョージア)だけとなり、ウクライナは、NATO拡大に対するロシアの限界線となっています。

 

特に、ウクライナは、帝国時代からいわばロシアの勢力下にあり、プーチンは、「ルースキー・ミール(ロシアの世界)」の一員であるという(ウクライナを『内』とみる)考え方を持っています。そのため、ウクライナが欧米との関係を強化しようとすることに、ロシアは拒絶反応を示しているのです。

 

プーチンは、ウクライナ、ジョージアのNATO加盟は断固阻止する構えを見せ、ロシアの首相として、実権を握り続けていた2008年のNATO-ロシアサミットでも、「もしウクライナがNATOに加盟する場合、ロシアはウクライナ東部(ロシア系住民が多い)とクリミア半島を併合するためにウクライナと戦争をする用意がある」と公然と述べていました。そして、プーチンの言葉通り、クリミア半島に続き、ロシアは、ウクライナに直接軍事介入したのです。

 

また、現在のウクライナのゼレンスキー政権は過激民族主義者とネオナチ(新たなナチズム)に動かされており、東部ウクライナにおけるロシア系住民がウクライナ政府によって迫害されている事に対し(2014年から8年にわたってジェノサイドの対象となって苦しんでいるとさえ言う)、2014年5月に建国したドンバス地域のルガンスク人民共和国とドネツク人民共和国と軍事同盟を結んで、救出にあたっていると主張しました。

 

それゆえ、プーチンはウクライナに軍を展開したことを、戦争とは言わず、ましてや侵攻したとは言わず、「特別軍事行動」だと言っています。この作戦はそれ自体,長期にわたって継続されてきたウクライナ政府軍(ネオナチ軍)による攻撃に対応し反撃することによってドンバス市民を守り解放するものであり,ロシア側からすると、「戦争」でもなく「侵略」でもないとされています(両人民共和国の依頼によっ て開始された軍事行動の名目と形式をもっている)。

 

戦況

ロシア軍は、首都キエフの制圧も目指してウクライナ北方のベラルーシからも侵攻、首都キーウをはじめ、東部のルハーンシク州やドネツィク州など、ウクライナ各地への攻撃を開始した。宣戦布告なき全面的な侵略戦争の様相を呈した。

 

プーチンは、先制攻撃によって敵は混乱し、たとえば、キーウは2〜3日で制圧できるとみていましたが、現在もウクライナを屈服に追い込めないでいます。ロシア軍のキーウへの侵攻は2022年3月に膠着状態となり、4月にはロシア軍はキーウ周辺から撤退したものの、南部攻勢および東部攻勢では、ロシア軍が3月にヘルソンを占領し(ヘルソンの戦い)、5月にはマリウポリを包囲の後占領しました(マリウポリの戦い)。

 

その後もロシア軍の攻勢は続き、7月には、ルハーンシク州全域を占領し、9月にロシアは、同州を含む、ウクライナの東・南部4州(ルハンシク州、ドネツク州、ザポロジエ州、ヘルソン州)の併合を一方的に宣言しました。

 

これに対して、ウクライナは、併合宣言への対抗策として、同日、米欧の軍事同盟である北大西洋条約機構(NATO)への加盟を正式に申請しました。戦線においても、ウクライナ軍による反転攻勢で、北東部ではイジュームを含むハルキウ州の大半、また、東部ではリマンを奪還しました。これを受け、11月10日、ロシア軍は侵攻後に占領した唯一の州都であるヘルソンを含むドニエプル川西岸から撤退し、以後、膠着状態となっています。

 

戦争の長期化によって、ロシア指導部の戦争目的に関する言い回しは微妙に変化してきました。一貫しているのはウクライナのNATO加盟阻止ですが、開戦当初、公然と主張していたウクライナのゼレンシキー政権の打倒については、次第にそれは述べられなくなり、表に出てきたのはクリミアとドンバスにかかわる領土問題の解決です。

 

また、当初はウクライナとの単なる紛争という位置づけだと国民は思わされていましたが、すぐに勝利しないことが明確になると、限定的な反テロ作戦や領土の統合から、文明の戦いに変化していきました。特別軍事作戦の目的も、多極世界の構築となり、ロシアは、中国やイスラム諸国や南米諸国等と同様に独立した極と主張しました。

 

プーチンは、ウクライナとの戦いを、第3次大祖国戦争にしようとしているとみられています。第1次大祖国戦争は1812年のナポレオンとの戦争で、第2次大祖国戦争は1941年~1945年の戦争です。そして、現在、「私たちは欧米との戦争に入った。勝利するまでは欧米との交渉、ましてや操り人形のウクライナとの交渉はありえない」という主張に至っています。

 

一方、国際社会はプーチン・ロシアの行動を国際法違反、国連憲章違反であるときびしく糾弾し、ただちにロシアに対する経済封鎖に踏み切りました。また3月2日、国際連合緊急特別総会もロシアの行動を侵略であるとする非難決議を賛成141カ国、反対5カ国(ロシア、ベラルーシ、北朝鮮、シリア、エリトリア)、棄権35カ国(中国、インドなど)で採択しました。

 

しかし、国連安保理は、ロシアが常任理事国であるので拒否権を行使するため、集団安全保障の行動を起こすことはできません。ヨーロッパの集団安全保障機構である欧州安全保障協力機構(OSCE)にも期待が高まっていますが、停戦監視業務以上のことはできていない状況です。

 

ロシア国内での反対派の弾圧

 

ロシア国民によるウクライナ侵攻に対する抗議運動は2月24日の侵攻直後から国内全土で始まりましたが、政府は激しい弾圧を行い、多くの市民や、反政府運動の指導者らが逮捕・弾圧されました。

 

プリゴジンの反乱

2023年6月には、民間軍事会社ワグネル・グループのエフゲニー・プリゴジンがプーチンに反旗を翻すという事件が発生しました。

 

プリゴジンは、プーチンに重用された、ロシアのオリガルヒの一人で、アフリカ、シリア内戦など、ロシアを支援する傭兵組織「ワグネル・グループ」の部隊をまとめ指揮をしていた実業家であり商業軍人でした。

 

もともとは、プリゴジンは、「プーチンの料理人」として、プーチンのインナーサークルの中の人間で、ウクライナ侵攻において、ワグネルの部隊はバフムートの戦いなどに参加していました。しかし、プリコジンは2023年5月には、弾薬補給の不足について、国防大臣と参謀総長を公然と非難し、同年6月、首都モスクワへ進軍を開始したのです。

 

プーチンはこれを「反逆」「裏切り」と非難し、両者の対立が深まりましたが、隣国ベラルーシの大統領アレクサンドル・ルカシェンコの仲介で、プリゴジンはベラルーシへ亡命することになりました。その後はふたたびロシアに戻ったとされていましたが、2023年8月23日、プリゴジンの乗った飛行機が、モスクワ北西部のトヴェリ州で墜落し、プリゴジンは死亡しました。

 

反体制指導者ナワリヌイの死

2024年2月16日、ロシアの反プーチン派政治活動家のアレクセイ・ナワリヌイ氏(47歳)が収監先の北極圏の刑務所で急死しました。ナワリヌイ氏は2000年代よりネット上でプーチンを鋭く批判する活動で注目を集めたブロガー・反政権運動の指導者で、2020年8月には秘密警察「連邦保安庁」(FSB)によって軍用毒物「ノビチョク」を使って毒殺されかけました。仲間の尽力でドイツに移送されて手当を受けて回復すると、プーチン政権への批判活動を続けることを宣言して、翌2021年1月にロシアに帰国しましたが、空港で即逮捕され、監獄を転々とさせられました。その間、急速に体調を崩し、死に至りました。

 

ネムツォフの死

反プーチンの政治家の死といえば、過去にも、2015年2月、プーチンの政敵で、野党指導者ボリス・ネムツォフ元第1副首相が、モスクワ市内の橋の上で射殺された事件は、内外に衝撃を与えました。

 

ボリス・ネムツォフは、ソ連崩壊後、ロシア改革を唱えた欧米派のリーダーで、エリツィン元大統領の政権下で副首相を務め、スト・エリツィンの指導者として、最初に名前があがるほど、人望も厚い人物でした。

 

2000年のプーチン政権発足以降は、徐々に反プーチンの行動を拡大させ、2011年12月のロシア連邦下院選挙においては、票の水増しなどの不正を暴いたことから、ロシア保安当局に目をつけられました。

 

ネムツォーフはクリミア併合を強く非難し、さらに2015年2月には、親ロシア派勢力が牛耳るウクライナ東部にロシアは軍事支援しているとプーチンを批判し、ロシア軍侵攻の秘密情報を入手したことを示唆するなど、プーチンと真っ向から対立しました。プーチン政権にとって、裏切り者となったネムツォーフは2015年2月27日の深夜、クレムリンに隣接する橋を歩いているときに背中から4発の銃弾を浴び、死亡しました。

 

恐怖政治

ソ連時代の最高指導者ヨシフ・スターリンは、政治的敵対者、批判者を徹底的に粛清し、独裁政権を確立しましたが、プーチン政権の秘密工作によって、20年以上も前から粛清が行われていると指摘されています。

 

現在も、ウクライナ侵攻と並行して、反戦のオリガルヒ(新興財閥)や、プーチンに批判的な政府高官の不審死が頻発していると伝えられています。被害者は、プーチン政権の秘密を知りうる立場の人物が多く、死因は自殺と処理されています。

 

たとえば、ロシアの天然ガス独占企業・ガスプロム子会社のガスプロムバンク元副社長アバエフが2022年4月、モスクワ市内の住宅で、妻と娘とともに銃で撃たれて死亡しているのが発見されました。使用された銃は、情報機関の特殊部隊が使用する銃であったため、さまざまな憶測を呼びました。事件そのものは、アバエフが妻と娘を射殺した後に自殺したとされました。

 

こうした弾圧もあり、ロシア国内での反戦運動は下火になりましたが、開戦後、推定30万人のロシア人が、戦争反対や生活苦、ビジネス活動への支障を理由に、旧ソ連諸国などに脱出したと見られています。IT産業などに従事する若い知識層が大半とされ、有能な人材の流出につながっています。

 

プーチン再選

このようにロシア社会に閉塞感が続くなか、2024年3月17日、2024年ロシア大統領選挙において、プーチンは圧勝、5選されました。仮に2030年までの任期を全う出来れば、ソ連成立以降の国家元首の在任期間では既にブレジネフを上回っており、スターリンに並ぶことになります。

 

ロシアによる侵略戦争にまだ終わり見えません。アメリカのトランプ大統領が仲裁に乗り出そうとしていますが、その動向はいまだ不透明です。

 

 

 

<関連投稿>

ロシアの歴史

ロシア史①:キエフ・ルーシとモスクワ大公国

ロシア史②:ツァーリとロシア帝国

ロシア史③:ロシア革命とソ連

ロシア史④:冷戦とソ連崩壊

ロシア史⑤:エリツィンとオリガルヒ

 

ウクライナの歴史

ウクライナ史➀:ルーシのキエフ大公国

ウクライナ史②:リトアニア・ポーランド・ロシア支配

ウクライナ史③:独立の失敗とソ連編入

ウクライナ史④:ソ連からの独立とロシアの侵攻

 

ロシア・ウクライナ戦争を考える

スラブ民族:ロシア人とウクライナ人の起源

ロシア・ウクライナ関係史:ルーシーの歴史的一体性

プーチンの歴史観:ルーシキー・ミール

ウクライナ侵攻:ロシアがNATOこだわるわけ

ロシア正教会とウクライナ正教会:もう一つの戦争

 

 

<参照>

 

なぜ世界はここまで「崩壊」したのか…「アメリカ」と「ロシア」の戦いから見る「ヤバすぎる現代史」(2023.02.22、現代ビジネス)

「ウクライナ紛争」が発生した「本当のワケ」――ロシアを激怒させ続けてきた欧米

地政学と冷戦の戦後世界史 後編

(2023.02.22、現代ビジネス)

超大国と言われていたロシア。その実像と国民性に迫る

(News Crunch 2021.10.10)

ロシア革命からつながるアメリカ民主党の社会主義化路線に迫る

(2021.6.13 NewsCrunch)

プーチンがお手本にする「狂気の独裁者」ヨシフ・スターリン、そのヤバすぎる末路

ウクライナ戦争の根源

(週刊現代2022.03.24)

【東大名誉教授が読み解く!】なぜロシアでは「独裁者」が生まれやすいのか?

(2022.4.10、ダイヤモンドオンライン)

二流スパイ→無職→大統領…小役人のプーチンはどうやって異例の大出世を遂げたのか「忠誠と裏切り」を繰り返し、権力の中枢に入り込んだ

(2022.4.5 PRESIDENT Online)

ウクライナ危機の影の主役──米ロが支援する白人右翼のナワバリ争い

(2022年01月31日、ニューズウィーク)

ロシア人

(ジャパンナレッジ)

スターリン化するプーチン大統領 その思想を支える男がいた【報道1930】

(BS-TBS『報道1930』、2022年3月14日放送)

「ロシアを信じるな」ロシア通の日本人が断じる訳約束に要注意、現地の人々の予測不能だった現在

(2022/02/28、東洋経済オンライン)

プーチンの陰湿な性格を垣間見る、宿敵・メルケルを陥れた“侮辱的な嫌がらせ”「プーチンはにやにやとしたサディスティックな笑みを浮かべて…」

『世界最強の女帝 メルケルの謎』より、文春オンライン

ナワリヌイ氏の急死で世界が激怒する21世紀最悪の殺戮者・プーチンの暗殺の歴史…それでも日本政府が弱腰な背景とは

(2024.2.20、集英社オンライン)

すでに7人が消された…プーチン大統領を支える「オリガルヒ」続々“怪死”の真相(2022/05/08、日刊ゲンダイ)

次々とプーチンの周りから人が消えていく…8人の富豪が”謎の死”を遂げたロシア特有の事情戦争長期化で加速するロシア人エリートのプーチン離れ

(PRESIDENT Online)

「プーチンの戦争」を支えるロシア正教会キリル総主教とは

(2022年4月27日、日テレ、「深層NEWS」より)

アレクサンドル・ドゥーギン氏とは何者か、過激なロシアナショナリズムの精神的支柱

(2022.08.25 CNN)

女は拉致、残りは虐殺のモンゴル騎馬軍…プーチンの猜疑心の裏に「259年に及ぶロシア暗黒史」

(2023.11.3 19:00、Diamond online 池上彰)

世界最大の領土を誇った大陸国家ロシア帝国ができるまで/

(図解でわかる 14歳からの地政学、 2022年4月4日)

手にとるように世界史がわかる本

(かんき出版)

GDP世界第11位のロシアが、なぜ強大な軍事力を維持できるのか?

(2022年03月17日、PHPオンライン)

なぜプーチン氏は破滅的な決断を下したのかウクライナ侵攻の背景にある「帝国」の歴史観

(2022年2月25日、東京新聞)

「コーカサスってどんな地域?」2分で学ぶ国際社会

(ダイヤモンド・オンライン)

語られないロシアの歴史とアメリカとの深い関係

(2020.06.02、キャノングローバル戦略研究所/小手川 大助)

“プーチンの戦争”は歴史家への挑戦 「帝国の敗北で終わる」

(2023年8月10日、国際NHK)

「ウクライナ戦争の解明」

(金沢星稜大学)

落日のロシア新興財閥、プーチン支配 一段と

(2013年2月24日、日経新聞)

ロシアにおけるオリガルヒについて

(J-Stage 中澤孝之 著 · 2000 )

プーチン氏の精神状態に異変? ウクライナ攻撃は「密室決定」か【解説委員室から】

2022年03月02日、時事ドットコム

世界史の窓

コトバンク

Wikipediaなど

 

 

投稿日:2025年4月5日

むらおの歴史情報サイト「レムリア」