ロシア史③:ロシア革命とソ連

 

ロシアの歴史をシリーズでお届けしています。第1回と2回では、ルーシ国家の誕生から、ユーラシア大陸に君臨したロシア帝国の勃興と滅亡までの歴史をみてきました。今回は、ロシア革命によってロシア帝国が滅亡した後、社会主義国家ソ連がいかに誕生し、ソ連が第二次世界大戦をいかに戦ったのかについての歴史を紐解いていきます。ソ連の独裁的指導者スターリンとプーチンにはロシア人としての共通する思想的背景を見出すことができます。

 

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<ロシア革命>

 

◆ 3月革命

 

1914年、第一次世界大戦が勃発した際、ロシアは、イギリス、フランスとともに三国協商の一角として参戦しましたが、ドイツ・オーストリア軍に押され、国土の多くを占領されるなど、戦局は不利に展開しました。また、同時に、戦争は国内の食糧・燃料の不足、物価騰貴をもたらし、国民生活は急激に悪化しました。

 

特に、首都ペトログラード(サンクト・ペテルブルク)では、1916年頃から盛んに、食糧配給の改善などを求めるストライキが発生し出すと、ついに、1917年3月8日(ロシア暦で2月23日)、国際女性デーにあたり、女子労働者の「パンよこせ」デモを皮切りに、全市がゼネスト状態になりました。

 

これに対して、皇帝ニコライ2世は、このデモ隊の鎮圧を指示、警察隊の発砲によってデモ隊側に死傷者が出る事態になってしまいました。これに対して、民衆は「戦争反対」「専制政府打倒」という政治的スローガンを掲げて立ち上がりました。3月革命(2月革命)の勃発です。

 

 

◆ ロシア帝国の滅亡

 

首都ペトログラードで始まった暴動(民衆蜂起)は,たちまち全国に拡大しました。しかも、これに一部の軍隊が呼応し、労働者側に加わったのです。その動きはペトログラードから他の都市にも広がっていき、労働者や兵士を代表して革命を指導する「ソヴィエト」と呼ばれる評議会が各地で結成されました。こうして、3月(2月)革命が勃発し、デモを鎮圧すべき軍隊も民衆側についたことによって、ロシアは無政府状態となりました。

 

また、首都ペトログラードの機能が革命派に握られると、国会(ドゥーマ)議員の自由主義者らは、国会臨時委員会を組織しました。委員会では、ペトログラードの「ソヴィエト」と協定して、憲法制定議会を、近い将来に召集して新たな国家体制を決定することとし、それまでの暫定的政権として臨時政府を設立することを取り決めました。

 

臨時政府を目論む自由主義者らは、元々ストライキとは無関係なところで、イギリスと同じような立憲君主政に移行することを目指しており、ニコライ2世に対して、皇帝権力を守るためにも、退位を促し、体制を一新することを迫りました。事態を収拾できなくなったニコライ2世は、これを受け入れ(退位を決意)、次の皇帝に弟のミハイルを指名しました。しかし、ミハイルも混乱する政情を背負う自信がなく、即位を辞退(帝位を拒否)したため、300年近く続いたロマノフ朝はあっけなく幕を閉じることとなったのです。こうして、3月革命が達成され、ロマノフ王朝のロシア帝国は滅亡(消滅)しました。

 

 

◆ ロシア臨時政府

 

ニコライ2世が退位し、ロシア帝国が終焉したその日に、臨時政府が正式に成立しました。臨時政府の閣僚は、異なる主張を持った自由主義者などからなり、資本主義を擁護しつつ、議会制を基礎とした共和政にもとづく国家体制が目指されました。また、イギリス・フランスとの経済協力を維持するためにも、戦争を継続する方針が採られました。

 

これに対して、ペトログラードに成立した「労働者・兵士ソヴィエト」は、労働者と兵士の代表によって構成され、その決定はロシア全土の労働者・兵士に大きな影響力を持ちました(一種の政府のような機能を保持した)。帝政を打倒したソヴィエト(評議会)が目指したのは、封建的支配からの脱却に加えて、より現実的な即時平和と生活苦の解消でした。

 

三月革命後のロシアは、自由主義者らによって組織された臨時政府と、その一方で、ペトログラードなど各地の労働者・兵士(労働者大衆)が作ったソヴィエト(評議会)が並立して存在する「二重権力」状態となったのです。

 

◆ レーニンの登場

さて、3月革命成立後の1917年4月、ロシア社会民主労働党の指導者、レーニンは亡命先のスイスからロシアに戻り、党が分裂した後のボリシェヴィキ(派)の指導者として迎えられました。

 

当時、革命勃発の知らせを受け、レーニンは、ただちにロシアに戻ろうとしましたが、大戦中で、ロシア人がドイツ国内を通行することはできなかったので、極秘裏にドイツ当局と交渉した結果、ドイツ側は、一切ドイツ人と接触しない「封印列車」でドイツ領内を通行する条件で認めました。ドイツとしても、ロシアの革命が進み、戦争から離脱すれば西部戦線に全力を傾けることが出来るので、レーニンの通過を認めたものと見られています。

 

ペトログラードに戻ったレーニンは、同年4月17日、革命の綱領(運動方針)「四月テーゼ」を発表し、「すべての権力をソヴィエトへ」という指針を提起しました。四月テーゼ(「現下の革命におけるプロレタリアートの任務」という論文)では、社会主義社会の建設に向けた当面の課題として、臨時政府との対決、帝国主義戦争の否定とともにソヴィエトへの権力集中をはかることが謳われました。これがボリシェヴィキに支持され、レーニンは指導者としての地位を確固なものにしました。

 

メンシェヴィキとボリシェヴィキ

1898年(実質的には1903年)に創設されたロシア最初のマルクス主義政党であるロシア社会民主労働党内のグループで、少数派がメンシェヴィキ、多数派がボリシェヴィキとして、創設時から党の綱領・規約、党幹部の人事をめぐり対立し、1912年には実質的に、別の党として分裂しました。

 

レーニンらボリシェヴィキ(「多数派」の意味)は、農民や労働者の前衛として活動する少数の革命家が主導する党による暴力革命を主張、民主主義の実現に止まらず、社会主義の実現をめざしました。

 

メンシェヴィキは、穏健派で西欧的な大衆政党を志向し、ブルジョア階級とも妥協しながら、大衆参加の穏健な民主主義革命を主張しました。マルトフやプレハーノフ等その代表的な指導者でした。役員人事では少数に留まったので、少数派(メンシェビキ)とされましたが、党の主力メンバーはメンシェビキで、党綱領でも彼らの主張が通り、当初、党の主導権はメンシェビキが握りました。また、党外のヨーロッパ社会主義運動では広い支持を獲得していました。

 

 

◆ ケレンスキー政権

さて、当初発足した臨時政府は、諸党派の寄せ集めだったため、閣僚間の対立などから機能せず解散、1917年の7月に、ソビエトのメンシェヴィキ(少数派)などの支持をえた社会革命党のケレンスキーを首班とする第二次連立政府が成立しました(ケレンスキーが首相に就任)。

 

ただし、ボリシェヴィキ(多数派)主体のソヴィエト政権との二重権力は解消されず、その後、臨時政府とボリシェヴィキとの対立が表面化していくことになります。実際、4月以降のロシアは、臨時政府とソヴィエトの二重政権のもとでさまざまな矛盾が表れ、農民騒擾、労働者の蜂起が相次ぐなか、「すべての権力をソヴィエトへ」のスローガンを掲げたボリシェヴィキ派が主導権を握る状況となりました。

 

一方、このメンシェビキに支えられたケレンスキーの臨時政府は、戦争を続行しましたが、労働者大衆の不満は強まりました。臨時政府に代わって、帝政復活を策した軍の反乱を抑えたボルシェビキに対する市民の支持が強まるなか、1917年11月、レーニンは、ボリシェヴィキを結集して武装蜂起しました。11月革命の勃発です。

 

 

◆ 11月革命

 

ボリシェヴィキの赤衛軍は、ペトログラードの主な輸送機関や通信機関などを制圧すると、さらに、臨時政府が置かれていた冬宮(とうきゅう)殿を占領して、閣僚は逮捕、無血のまま、権力を掌握することに成功しました。ケレンスキーは冬宮の執務室から脱出し、国外に逃亡、ロシア臨時政府は崩壊しました。

 

こうして、ボルシェビキ独裁の下、1917年11月、世界初の社会主義国となるロシア・ソビエト共和国(ソビエト・ロシア)が成立し、社会主義の労働者政権であるソヴィエト政権が樹立されました。また、政権を握ったボリシェヴィキは、翌18年3月、党名をロシア共産党に変更しました。国名は、制定された憲法によりロシア社会主義連邦ソビエト共和国(1918〜36)、ロシア・ソビエト社会主義共和国(1937〜91)と変遷しました。

 

このように、一連のロシア革命は、ロマノフ王朝のロシア帝国を倒した3月革命、その後にできたケレンスキーの臨時政府を打倒した11月革命をへて、社会主義政権ソビエトを誕生させました。なお、日露戦争後の「血の日曜日」事件を機におきた一斉蜂起を第1次ロシア革命(ロシア第一革命)、1917年の2つの革命を第2次ロシア革命とそれぞれ呼ぶ場合もあります。

 

 

<ソビエト革命政権>

 

◆ レーニンの「平和に関する布告」

 

11月革命(10月革命)成功の翌日、第2回全ロシア・ソビエト大会が開催され、レーニンの提案にもとづいて、「平和に関する布告」が採択されました。その内容は、「無賠償」・「無併合」・「民族自決」に基づいた、即時講和を、第一次世界大戦の全交戦国に提案したものであり、さらに、秘密外交の廃止と公開外交の実施,秘密条約の暴露を宣言しました。これは、社会主義国ロシア最初の対外政策となり、20世紀における戦後処理の民主的原則と外交のあり方を提示したことになりました。

 

しかし、ドイツとの戦争を継続している協商国(連合国)とアメリカは、11月末、パリで対策を協議した結果、連合国としてはソヴィエト政権を承認せず、「平和に関する布告」と秘密条約の破棄については、無視することとなりました。この呼びかけは各国政府とともに直接人民に向けられていたので,各国の支配層は革命への呼びかけとして受取り反発したことが背景にあります。

 

◆ ブレスト=リトフスク条約

 

ソヴィエト革命政権樹立後、革命前から戦争停止を主張していたレーニンは、1918年3月、ドイツなどと単独で講和する「ブレスト・リトフスク条約」を、ロシアにとっては不利な条件で締結し、第一次世界大戦から離脱しました。この条約によって、ロシア帝国領であったフィンランド、バルト3国(エストニア、ラトビア、リトアニア)、ポーランド、ウクライナ、さらにカフカスのいくつかの地域を失い、かつ巨額の賠償金を課せられることとなりました。

 

後に、1918年11月に起きたドイツ革命で、ドイツが敗北すると、ボリシェヴィキはこの条約を破棄しましたが、ウクライナを除き、これらの割譲地域は取り戻せず、独立を認めることとなりました。ボリシェビキ政権が、革命を拡大させようとして、戦争終結(講和条約)の時間稼ぎをしていた間に、独立という代償をはらうことになったのです。

 

たとえば、1917年12月6日にフィンランドは、11月革命に乗じて、12月に独立を宣言し、1918年1月にはフィンランド社会主義労働者共和国が成立しましたが、フィンランド内戦で、ドイツ帝国の支援するフィンランド軍(白軍)に敗北しました。また、バルト諸国も、1918年2月にリトアニアとエストニアが、11月にはラトビアもそれぞれ共和国として独立を果たしました。

 

ただし、ウクライナは、11月革命後に起きた、ソビエト・ウクライナ戦争(ウクライナ人民共和国と、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国およびその傀儡政権ウクライナ・ソビエト社会主義共和国との間に行われた戦争)で、結果的に敗北し、ソ連の一部となりました。

 

◆ ロシアの内戦

 

一方、ソヴィエト国内をみれば、革命に反対する政党や旧帝政派の軍人などが反革命軍として、ボルシェビキ(ソビエト政権)に対する武装闘争を開始したことから、ロシアは、1918年5月以降、激しい内戦に陥りました。反革命勢力が、社会主義的な政策や、ブレスト・リトフスク条約で支配地を失ったことに対して反発したのです。

 

反革命軍は、総称して「白軍」と呼ばれ、革命派は、トロツキーが「赤軍」を組織して戦いました(赤は共産主義のシンボルカラーで、赤軍は共産軍のこと)。なお、この内戦期間中、退位後、監禁されていたニコライ2世とその家族は、1918年7月、反革命側に奪還されるおそれが生じるとされたため、銃殺されました。

 

この内戦のさなか、レーニンは世界各国の社会主義者を集めて、1919年3月、コミンテルン(第三インターナショナル)を結成し、ロシア同様の社会主義革命の実現を目指すことを呼びかけました。ソビエト政権にとっても、ロシア革命の持続・拡大を保障するものは、抑圧された階級の人々であり、抑圧された民族との同盟であったのです。

 

こうした動きに対して、ロシア革命が波及することを恐れた、イギリスやフランス、(カナダ)、アメリカ、イタリア、日本などの国々は、白軍(反革命軍)を支援するだけでなく、自ら、シベリア出兵という形での干渉戦争を仕掛けてきました。資本主義各国は、社会主義革命に恐怖し、なんとか潰そうとしたというわけです。

 

◆ シベリア出兵

 

当時のチェコスロヴァキアはオーストリア帝国の一部であったので、チェコ兵(チェコスロヴァキア軍団)は同盟軍として動員され、東部戦線で、ボリシェヴィキと衝突した結果、その多数がロシア軍の捕虜となっていました。そこで、このシベリアに抑留されていて反乱を起こしたチェコ兵捕虜を救出するという「大義名分」を掲げて、1918年5月、イギリス・フランス・アメリカ・日本の4ヶ国は、シベリア出兵(~1922)を実施しました。

 

しかし、1918年11月には、ドイツ軍が降伏し、第一次世界大戦が終結したため、ドイツ軍との戦争を継続するためのチェコ兵捕虜の救出という干渉目的は意味がなくなってしまいました。このため、イギリス、フランスの干渉軍はそれぞれ1919年中に撤退、アメリカも1920年までには撤兵した。日本軍は事後処理のためとして駐留を続けましたが、1922年10月にシベリア本土から干渉軍を引き揚げました。しかも、内戦そのものも、連合軍の支持した反革命軍は、ロシアの民衆の支持を得ることはできず、1920年までに赤軍によってほぼ制圧され敗北し、各国の干渉も終わりました。

 

この内戦と対ソ干渉戦争の結果、ボリシェヴィキ(1918年3月、「ロシア共産党」に名称変更)は、権力を強め、一党支配体制を確立しました。ボリシェヴィキ以外のすべての政党は非合法化されました。同じく1918年春に秘密警察のチェーカーが創設され、裁判所の決定なしに逮捕や処刑を行う権限が与えられました。

 

レーニンは、革命後の戦時共産主義による産業の減速や、数百万人の餓死者まで出した深刻な食糧不足を克服するために、1921年、新経済政策(ネップ)を一時的に導入しました。具体的には、国有化政策を緩め、中小企業に私的営業を許すとともに、穀物徴発をやめて、農民には余剰農産物の自由販売を認めるという内容でした。この結果、国民経済は回復に向かい、生産は第一次大戦の水準に回復しました。

 

 

<ソビエト連邦の誕生>

 

◆ ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)

 ロシア帝国が解体したのち、レーニンが率いるボリシェヴィキ(共産党)が旧帝国領のかなりの部分を支配下に収めていくなか、各地でソヴィエト共和国が形成され、共産党の支配が拡大していきました。

 

1922年12月、旧ロシア帝国領の再統合を企図したボリシェヴィキ(共産党)は、ロシア、ウクライナ、ザカフカース、白ロシア(ベラルーシ)の4つのソビエト共和国から成る、連邦制の共和国、ソビエト社会主義共和国連邦(ソビエト連邦、通称「ソ連」)を結成しました(第二次世界大戦後には、15の共和国から構成されることになる)。建国を主導したレーニンは、ソ連人民委員会議議長に就きました。

 

ロシア・ソビエト社会主義共和国

ベラルーシ・ソビエト社会主義共和国

ウクライナ・ソビエト社会主義共和国

ザカフカース・ソビエト社会主義共和国

 

ソ連の中心は、最初に社会主義共和国になったロシア共和国(ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国)で、西のバルト海岸から極東地方まで,面積で旧ソ連全土の75%以上,人口で約55%を占めました。

 

ソビエト体制でのロシア共和国は、他の連邦加盟共和国と同格とされましたが、面積・人口とも他の共和国を圧倒していたため、事実上、連邦政府と一体となった統治が行われました。ソビエト連邦とロシア共和国の首都も同じです。なお、ザカフカース・ソビエト社会主義共和国は、1936年にもとのジョージア(グルジア)・アゼルバイジャン・アルメニアの三国に分離し、消滅しました。

 

ソビエトとは、ロシア語で「評議会」という意味です。ソビエトという国名の由来も、この評議会による国家というもので、革命を指導したレーニンは、議会ではなく、労働者や農民、兵士による自主的な革命組織である評議会を軸に武力革命を達成させたことから命名されました。

 

ソビエト連邦の首都は、ペトログラードから再びモスクワに移転されました。ペトログラードはロシア革命の時の首都で、もともとは、サンクト・ペテルブルクというドイツ語風の名前でした。1905年の第一次ロシア革命が始まったのもサンクト・ペテルブルクでした。しかし、第一次世界大戦でドイツが敵となったため、ロシア語風のペトログラードに改められ、ソ連時代には革命の指導者レーニンにちなんでレニングラードと改名されました(ただし、ソ連崩壊の直前の1991年秋に実施された住民投票によって、サンクト・ペテルブルクに戻され、現在に至っている)。

 

このようにロシア革命の結果、誕生したソ連でしたが、世界各国から警戒され、アメリカがソ連を国家として承認したのは、スターリン時代の1933年になってからのことで、国際連盟に加入が認められたのも翌1934年です(ちなみに日本のソ連承認は1925年)。

 

 

◆ スターリン体制

 

1924年1月のレーニンの死後、その後継をめぐる党内闘争の結果、スターリンが、トロツキーを制し、最高指導者となりました。世界同時革命を主張するトロツキーに対して、スターリンは一国社会主義を掲げ、激しく路線を巡って争った結果、1929年にトロツキーを国外追放し、権力を掌握しました。

 

その後、スターリンは、社会主義革命路線を堅持するために、共産党内外で反対派を弾圧し、自身が務めていた党中央委員会書記長に、強大な権力(権限)を集中させました。これがスターリンの強烈な権力志向と結びついて、スターリン体制と呼ばれる独裁制が固められていくことになるのです。

 

共産党員をはじめ、軍人、一般市民を問わず、スターリンのやり方に批判的な人々は、スターリンが自身の政治的な敵と認識すれば逮捕、投獄、シベリアでの強制労働、裁判なしに処刑される粛清が実施されました(収容所制度もこの時期に拡大された)。1929年に国外追放された政敵トロツキーも、1940年亡命先のメキシコで暗殺されました。

 

敵対者を抹殺する粛清は、1930年代から始まっていましたが、特に1937〜38年にかけて、最も激しくなりました(「大粛清」と呼ばれた)。秘密警察による監視と摘発が続き、政治行動の自由や言論の自由が奪われた結果、特にスターリンに対する個人崇拝も強まりました。これは、スターリン自身が政治的パラノイア(偏執・妄想)からくるもので病理的でした。

 

1936年、「スターリン憲法」が制定され、スターリン体制が名実ともに確立しました。これは、ソ連共産党内の権力闘争でスターリンが勝ち残ったことを意味し、党の指導者スターリン支配が揺るがないものとなったと同時に、ソ連共産党という「党の支配する国家」が完成したことを意味しました。

 

一方、経済政策においても、社会主義国として、1928年10月にネップ(新経済政策)を終了させ、計画経済の体制を「上からの革命」という形で、急速かつ強権的に実行させました。1928年と33年に第一次(1928~32)および第二次五カ年計画(1933~37)が実施され、ソ連は、農業事業の国営による集団化(コルホーズ)や、脆弱な工業力を強化するために工業重点化政策を推進しました。

 

農業集団化とは、農民のプロレタリアート(農民を労働者とすること)化のことで、コルホーズ(集団農場)は、農民が土地・家畜・道具など生産手段を共有し、収穫を分配する協同組合組織で、一定の私有地が認められることもありました。

 

これに対して、ソフホーズ(国営農場)もあります。これは、土地と生産用具、家畜・肥料などをすべて国が所有し、すべての生産物は国家の所有となり、農民は雇用労働者として給与を支給される形態の農場で、私有地は一切ありません。もとは1917年の革命で没収された大貴族や教会の所有地だったところを、国家の財産として、ソフホーズを設立した。

 

この結果、ソ連は資本主義的経済破綻である世界恐慌の影響を受けることなく、工業生産を飛躍的に増大させ、帝政時代からの課題であった農業国から工業国への転身を果たしました(ソ連が世界第2位の経済力を有する基盤を作り出したとも評される)。その一方で、急激な産業構造の変化によって、1932年から1933年にかけて人為的な飢饉を引き起こしてました。

 

◆ スターリンとヒトラー

 

1933年、ドイツにナチス政権が出現し、ナチズムが台頭してきました。総統ヒトラーは、37年頃からドイツ民族の「生存圏」の拡張を主張しはじめ、38年3月にはオーストリアを併合、さらにチェコスロヴァキアに対してドイツ人居住者が多いことを理由にズデーテン地方の割譲を迫りました。

 

そこで、38年9月、ミュンヘン会談が開催されましたが、イギリスやフランスは、宥和政策(外交上の譲歩によって戦争を極力避けて平和を維持する外交基本姿勢)をとり、ヒトラーの要求を認めたのでした。

 

こうした動きに、ソ連は、ドイツの脅威を強く感じはじめます。ヒトラーは、ロシア・東欧のスラブ民族を劣等民族とみなし、この地もまた新しい生存地域(「生存圏」)としてゲルマン化しようとする野心を持っていたからです。何より、共産主義(ボルシェヴィズム)を国際ユダヤ主義の陰謀と同一視して、ソ連を最も敵対視していたとされています。

 

そのため、トラーの野心が東方侵出にあるとみたスターリンは、1934年9月、国際連盟に加入したことに加えて、35年5月にはフランスとチェコスロバキアとの間に相互援助条約を締結,36年のスペイン内戦では、共和国側を支援するなど、西側への接近をはかりました。

 

しかし、それでも、ミュンヘン会談に招かれなかったことや、会談の結果、英仏がドイツに妥協した(宥和政策をとった)背景には、ソ連を敵視し、排除する狙いがあったとの疑念を持ち、不信を強めていました。

 

1939年3月、ヒトラーはチェコスロヴァキアを解体して西半分を占領しただけでなく、リトアニアからメーメル地方を割譲させました。さらに、ポーランドに対し、ダンツィヒのドイツ復帰とポーランド回廊の自由通過を要求したのです。宥和政策の見直しを迫られたイギリスは、ポーランドの安全を保障する声明を出し、情勢は緊迫していきました。

 

◆ 独ソ不可侵条約

 

そうしたなか、1939年8月23日、ヒトラーとスターリンの間で、独ソ不可侵条約が締結され、世界に大きな衝撃を与えました。いままで不俱戴天の敵として厳しく対立していたドイツとソ連が手を結んだ背景には、軍事戦略上、ヒトラーとスターリンの利害が一時的に一致したがあげられます。

 

ヒトラーは、最初からポーランドへの侵攻を目論んでおり、そうなれば、イギリス・フランスと戦争状態に入ることは必然となるため、一時的にソ連との戦争を避けたかったことがあげられます。ソ連もまた当時、極東において、1939年5月のノモンハン事件で戦った日本との対立から、兵力を分散させる必要が生じていました。

 

独ソ不可侵条約は、互いに攻撃しないことを約束した軍事同盟ですが、東ヨーロッパをドイツとソ連の勢力圏に分割するという内容の秘密協定(独ソ不可侵条約に付帯する秘密議定書)(モロトフ・リッベントロップ条約の条項)も結ばれていたことが、後に明らかになっています。

 

その内容は、独ソでポーランドを(カーゾン線で)分割占領すること、バルト三国(エストニア、ラトヴィア、リトアニア)およびルーマニア東部のベッサラビア(現在のモルドバ)はソ連が併合することという領土協定でした。

 

カーゾン線

第一次世界大戦後、イギリスの外務大臣ジョージ・カーゾン卿によって提唱された、ポーランドとソビエト・ロシアの境界線のことで、1939年のナチス・ドイツとソビエト間の秘密協定でも、ポーランドの分割占領線とされ、ポーランドは両国によって、北部を除きほぼこの線で分割占領された。第二次世界大戦後のポーランドの東部国境は、ほぼこの線の位置にある。

 

 

<第二次世界大戦の開始>

 ドイツは、ソ連との不可侵条約を締結した直後の1939年9月1日、ポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まりました。

 

ポーランド分割

ドイツ軍が、ワルシャワを含むポーランド西半分を占領すると、ソ連もヒトラーとの密約に基づいて、同年9月17日、ポーランドに侵攻し、20日もかからず、その東半分を占領しました。

 

軍事占領下でのポーランドでは、軍や警察、宗教における重要人物は次々と逮捕され、裁判を経ることなく処刑されていくなど、さまざまな形でソ連の抑圧的な政策がすすめられました。1940年3月~4月には、ソ連軍が抵抗するポーランド将兵を多数虐殺したというカチンの森事件が戦後明らかとなっています。

 

ポーランド分割後、ソ連は、バルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)とフィンランドへの圧力を強めます。

 

バルト三国併合

バルト三国は18世紀以来、ロシア領となっていましたが、ロシア革命に際して1918~20年にかけてそれぞれ独立しました。

 

しかし、スターリンは、ドイツとの秘密協定にもとづき、ポーランド分割後、同年9月末から10月初めにかけて、バルド3国とそれぞれ相互援助条約を結び、軍事基地の設置とソ連軍駐留権を認めさせました。1940年6月には、バルト三国に侵攻し、占領を完了、同年8月初めには、ソ連邦に加盟させ(ソ連邦を構成する共和国となる)、実質的に併合しました。バルト三国にはそれぞれ共産党が作られ、モスクワから直接支配を受けることになったのです。

 

フィンランド侵攻

北欧のフィンランドは、スウェーデン・ロシア間の国境が画定した1323年以降、スウェーデンの支配下におかれましたが、ロシアがスウェーデンと戦って勝利した北方戦争(1700〜1721)の結果、フィンランドの一部(カレリア)がロシアに割譲されました。さらに、ナポレオン戦争の最中、ロシアとスウェーデンが戦い(第二次ロシア・スウェーデン戦争)、敗れたスウェーデンは、1809年、フィンランドをロシアへ割譲しました(1815年のウィーン議定書で正式に移譲)。

 

しかし、1917年11月、ロシア革命でロシア帝国が滅亡したことを受け、フィンランドは、12月に独立を宣言しましたが、ソ連にとって、フィンランド国境は、第2の都市であり、革命発祥の地レニングラードに極めて近いことから、重要な安全保障上の課題です。そこで、スターリンは、第二次世界大戦が始まり、ポーランドの東部を支配下に入れると、さらに北方のバルト三国に続き、フィンランドに対して、軍事基地設置とソ連軍駐留だけでなく、国境線の変更(国境地帯の領土割譲)を求めました。

 

フィンランド政府が拒否すると、ソ連は1932年に締結していた不可侵条約を破棄し、1939年11月30日、侵攻を開始、(第一次)ソ連=フィンランド戦争(別名「冬戦争」)が勃発しました。戦いは、フィンランド軍がマンネルヘイム将軍のもと、凄絶な戦闘を続けてソ連軍を阻止すると、外交上も、イギリス・フランスがソ連批判を強め、国際連盟は、ソ連の行為を侵略と断定し、ソ連は除名する措置をとりました。

 

ただし、1940年3月、平和条約(休戦協定)が締結され講和となりましたが、フィンランドはヴィープリ県やカレリア地方などの割譲を強いられました。

 

 

ベッサラビアの割譲

 

ルーマニア東部のベッサラビア(現在のモルドバ)は、1806年の露土戦争(〜12)の結果、ロシアが、オスマン帝国から獲得しました(ウィーン会議でも承認)が、ロシア革命後の1918年、ロシアから独立を宣言し、第一次世界大戦終結時にはルーマニアと合併していました。しかし、それを認めないスターリンは、1939年、ヒトラーとの独ソ不可侵条約に付帯する秘密協定でその領有をドイツに認めさせ、40年6月にベッサラビアを併合しました。

 

このように、ポーランド、バルト三国、フィンランド、ベッサラビアとソ連が侵攻した地域は、第一次世界大戦前のロシア領でした。つまり、スターリンの行動は、かつてのロシア帝国の版図を回復しようとしたということがわかります。

 

 

<独ソ戦(東部戦線)>

(1941〜45)

 

◆ ドイツの攻勢

 

一方、ヒトラーのドイツは、ポーランド侵攻後、1940年から西に戦線を転換させ、6月にはフランスを降伏させると、そのまま一気にイギリス上陸を図り、ロンドン空爆を強化しました。しかし、イギリスは頑強に抵抗したため、ドーヴァー海峡突破とイギリス上陸は出来ず戦線が膠着しました。

 

イギリスの抵抗をうけ、ヒトラーは、イギリスの持久力をくじくためにも、本来の計画である対ソ戦を考えはじめたと言われています。もともと、ヨーロッパ大陸に残された大国ソ連を叩くことが必要とみなしていたヒトラーは(このときドイツはヨーロッパのほとんど全土に支配を及ぼしていた)、フランス降伏後間もない1940年8月、対ソ作戦計画の準備を命じ、12月には、1941年5月15日までに準備を完了させることを命令していたとされています。

 

その準備行動として、1941年4月に再び戦線を東に転じて、バルカン侵攻を開始、ユーゴスラヴィア・ギリシアを制圧しました。このとき、ヒトラーは対ソ作戦開始を6月22日と決定したとされています。

 

ドイツによるバルカン制圧は、当然、この地域に勢力圏を伸ばそうとするソ連との対立を生むこととなります。ドイツのバルカン侵攻をうけ、対独戦を警戒したスターリンは、1941年4月13日、急遽、日ソ中立条約を締結し、極東での日本との戦争を回避することで、戦力の西部(ヨーロッパ)への集中を可能にしました。ただし、独ソ不可侵条約がある以上、ドイツ軍の侵攻はすぐには行われないだろうと判断していたようです。

 

 

◆ 独ソ戦の開始

 

しかし、ヒトラーは、1941年6月22日未明、ついに独ソ不可侵条約を一方的に破棄してソ連に侵攻、独ソ戦が開始されました。独ソ戦でロシア領深くドイツ軍を侵攻させたヒトラーの意図は、ドイツ人の生存圏の拡張だけでなく、ゲルマン民族の優越を信じ、劣等民族であるスラヴ民族と共産主義を絶滅する絶滅戦争という動機があったとみられています。

 

ヒトラーは、ソ連侵攻作戦を「バルバロッサ」と命名し(バルバロッサとは、赤ひげ王の異名を持った12世紀の神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世のこと)、レニングラード、モスクワを目標に進撃させました。この作戦は,電撃戦として想定され、ロシアの冬が訪れる前に決着をつける予定でした。

 

開戦当初、不意を打たれたソ連軍は、敗北(退却)を重ねます。ドイツ軍は、1941年7月、中旬にロシア西部(モスクワから西南西360km)のスモレンスクに攻め込むと、北部では、その年の秋(9月)にはレニングラード近郊まで迫り、包囲した一方、戦線を南部にも拡散させ、ウクライナのキエフを陥落させました。10月上旬には、さらに、北部ではモスクワ近郊、南部ではスターリングラードやコーカサスに迫りました。

 

ドイツのソ連攻撃を示すいくつかの事実が明らかにあり、かつイギリス・アメリカからドイツ軍のソ連侵攻計画の情報を得ていたにもかかわらず、スターリンはほとんど無警戒であった理由は、前述したように、スターリンは独ソ不可侵条約のあるドイツが、ただちにソ連を侵攻することを信じていなかったためです(予測された日付も無視していた)。

 

そのため、6月22日のドイツ軍の侵攻はまったくの奇襲となり、ソ連軍は緒戦で大きな犠牲を払うこととなり、戦線と工業生産地域を東方に後退させながら、体制を整備しなければならなくなったのです(生産が回復したのは1942年になってから)。

 

さて、モスクワ攻防戦では、ドイツ軍は41年12月にモスクワに到達しましたが、戦線は延びきり、兵力不足や、ソ連軍にシベリア方面からの援軍の到来もあり,モスクワ入城ができませんでした。なにより、ロシアの冬のためにドイツ軍は攻撃中止を強いられてました。かのナポレオンのモスクワ遠征と同じようにドイツ軍も「冬将軍」に阻まれたのです。

 

スターリンもこのことを意識し、かつてナポレオンの侵略を退けた1812年の「祖国戦争」になぞらえ、この戦争を、ファシストの侵略者を撃退し、ロシアを守るための「大祖国戦争」と称しました。そのうえで、スラヴ民族の危機であると国民に訴えて、国民を鼓舞しながら、抵抗を続けました。

 

また、反ファシズムとして英米との協力体制も固まりつつありました。対独戦開始の直後の1941年7月、ドイツを共通の敵とすることになったイギリスと、相互援助条約(軍事同盟)を成立させ、英仏との連携に踏み切りました。イギリスも、ボリシェヴィキ=スターリン政権を敵視してきた立場を大きく転換させ、11月にはソ連への武器貸与を行いました。

 

同年8月、米英首脳(ローズヴェルトとチャーチル)が、枢軸国との戦争目的と戦後の世界秩序構想に関する共同宣言である大西洋憲章を発表すると、ソ連はただちに支持を表明しました。これにより、ソ連も連合国を構成することになるとともに、アメリカによる武器援助も開始されました。

 

翌1942年1月には、ソ連も参加して連合国共同宣言が出され、日本・ドイツ・イタリアなどの枢軸国との戦争を、「連合国」として一致して戦う態勢が成立しました。これを受けて、スターリンは、1943年5月、それまで資本主義国のソ連敵視の原因となっていた、共産主義者の国際組織コミンテルン(第三インターナショナル)を解散させ、英仏への協力姿勢を明らかにしました。

 

◆ スターリングラード攻防戦 

 

ヒトラーのドイツは、1942年春,再び攻勢に乗り出し、主力部隊をロシア南部、バクーを代表する油田地帯のカフカス地方に向けました。ソ連の補給地帯を分断しようとしたのです。ドイツ軍は、同年8月からヴォルガ河畔のスターリングラードを包囲し、独ソ戦の最大の山場となるスターリングラードの戦いが9月13日から始まりました。

 

ドイツ軍の猛攻によって、ソ連軍は、市街戦で陥落一歩手前まで追い込まれましたが、11月から反撃を開始し、市内へ突入できないでいるドイツ軍をその外側から逆に包囲しました。孤立したドイツ軍は補給が途絶えたため撤退を図ろうとしましたが、ヒトラーはそれを許さなかったため、ドイツ軍30万はせん滅、翌43年の2月、降伏しました。

 

◆ ソ連軍の反転攻勢

この東部戦線スターリングラードでの勝利が、大戦全体の画期となり、以後、ソ連軍が反撃に転じることになります。

 

北部では、第二次世界大戦の緒戦、1941年9月にレニングラード近郊に達したドイツ軍の包囲が続いていました。しかし、冬に入り、装備・食料が不足し、ドイツの現地軍は撤退を要請しましたが、ここでもヒトラーは撤退を許さず、逆に、ソ連軍の反撃により、1943年2月、ドイツ軍は降伏しました。結局、900日に及ぶドイツ軍の包囲にも耐えたソ連軍は、レニングラードの開城を許さなかったのです(これによって、ドイツ軍の進撃は止まった)。

 

東部戦線では、スターリングラード攻防戦の後、ソ連軍は西進し、1943年7月には、クルスク(ウクライナ東部)で史上最大の戦車戦が行われ、双方に莫大な犠牲をだしながらも、ソ連が勝利しました。さらに、同年(43年)秋には、ウクライナのキエフ(キーウ)を奪還し、その年の暮れまでに,ソ連はドイツによって占領された領土の2/3を解放しています。

 

 

<戦後処理の会談 ➀>

また、このころ、連合国間で、戦線や戦後処理についての話し合いも行われていました。

 

◆ モスクワ外相会談(43年)

 

1943年10月、連合国のソ連、アメリカ、イギリスはモスクワで外相会談を持ちました。第二次世界大戦後の国際平和機構樹立に合意した(初めて公式に平和機構設立の必要を声明した「一般的安全保障に関する四カ国宣言」を発表した)ほか、第二戦線を設定すること,ドイツ人の残虐行為,殺戮を厳重に処罰することなどの宣言がなされました。

 

このとき、ハル米国務長官は、モロトフ・ソ連外相に対して、ルーズベルト大統領の意向として、1905年のポーツマス条約でロシアが失った南樺太と、1875年の樺太・千島交換条約で、日本が領有した千島列島全域をソ連領として容認することを条件に、対日参戦を要請しました。これを受け、ソ連はドイツを敗戦させた後に参戦する方針と回答したとされています。

 

◆ テヘラン会議

 

1943年11月、米ルーズヴェルト、英チャーチル、ソ連スターリンの三国首脳の初会談であるテヘラン会談が行われ、前月のモスクワ外相会談で話し合われた、連合国の戦後処理構想協議の一環として、第二戦線問題、ポーランド国境策定問題、ソ連対日参戦などが協議されました。

 

この時、スターリンにとっては、初めてルーズヴェルトとチャーチルとの連合国首脳会談でしたが、ヨーロッパの西部で第二戦線を形成することを強く要求しました。第二戦線とは、敵方の戦力を分散させるために主要な作戦方面以外に設定する戦線をいいます。第二次世界大戦においては、ドイツの攻撃で苦境に立ったソ連の要求により,東側でソ連軍と戦うドイツ軍に対し、その背後からアメリカ、イギリスが攻撃を開始するための戦線のことをいいますが、上陸場所について、英ソで考え方が違っていました。

 

スターリンが北フランス(ヨーロッパ西部)を求めていたのに対して、チャーチルは、ソ連の進出を警戒し、バルカン方面を主張していました。テヘラン会談において、ソ連を対日戦に引き込みたかったルーズベルトが、スターリンの要請を受け入れる形で、1944年ノルマンディー上陸作戦後、形成される西部戦線を第二戦線とすることが最終的に決められました。この決定に対して、スターリンは、見返りにドイツ降伏後の対日参戦をルーズベルトに約束したとされています。

 

 

<ベルリン陥落 (ドイツ降伏)>

 

さて、戦局といえば、ソ連軍は、東部戦線からさらに西進して、44年6月、大攻勢を開始し白ロシア(現ベラルーシ)のドイツ軍を撃破,8月にはワルシャワ近郊にまで進軍しました(45年1月にワルシャワを解放)。

 

その後、スターリンはその主力をバルト海方面とバルカン方面に向け、9月にルーマニア,ブルガリアを解放、ハンガリーではブダペストで強硬なドイツ軍の抵抗にあいましたが、翌45年1月以降、大攻勢を強め、ブタペストを攻略し、4月にオーストリアのウィーンも解放しました(なお、ユーゴスラビアは、チトーの指導の下、独力でドイツ軍を駆逐した)。

 

このように、スターリンは、領内から完全にドイツ軍を追撃・駆逐して、東欧諸国を次々と解放しながら、その地域に進出(1945年初めにはドイツの東側 3分の1を占領)しました。東欧の国々も、ドイツの敗北が近いことを感じていたため,ソ連軍の侵攻とともに降伏しました。

 

そして、ついに、ソ連軍は、ドイツへ侵攻、4月下旬、アメリカ軍・イギリス軍に先立ってベルリンに入城(を占領)しました。ドイツの敗戦に直面したヒトラーは 1945年4月30日に自殺し,第三帝国は崩壊しました。

 

ヒトラーの死後、デーニッツが総統になり,5月7・8日、ドイツ国防軍最高司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥がドイツの首都ベルリンで無条件降伏文書の批准手続きを行い、独ソ戦は終わりました(ヨーロッパの戦争は終りを迎えました)。

 

 

独ソ戦の犠牲者

(人類史上最大の死者を出した独ソ戦)

 

独ソ戦での戦闘はドイツ・ソ連双方あわせて約3000万人を越える戦闘員・民間人の犠牲者を出したと推計され、特にソ連側の犠牲者(戦死、戦病死)は大規模で、ドイツ兵の390万人に対して、ソ連兵が1,470万人とされています。民間人の死者を入れると、ソ連は2,000 – 3,000万人が死亡し、ドイツは約600 – 1,000万人との試算があります。

 

ソ連の軍人・民間人の死傷者の総計は、第二次世界大戦における全ての交戦国の中で最も多く、人類史上全ての戦争・紛争の中で最大の死者数を計上したと言われています。日本の太平洋戦争の犠牲者は約310万人(戦闘員210万~230万、非戦闘員が55万~80万)ですから、ソ連の犠牲は群を抜いていました(ソ連の犠牲者が桁違いに多かったことがわかります)。

 

ですから、ソ連には、これだけの犠牲を払ってドイツ軍を撃退し、連合国では最初に首都ベルリンに突入したことから、ドイツを降伏させたのはソ連の功績だという自負があるとともに、第二次世界大戦後(冷戦時代)、国際社会での高い地位を要求していきました。

 

 

<戦後処理の会談 ②>

その戦後処理に関しては、ベルリン陥落前の1945年2月(4日~11日)、クリミヤ半島のヤルタで、米英ソ3国の首脳会談が再び開かれていました。

 

◆ ヤルタ会談

ヤルタ会談では、ドイツの戦後処理と国際連合の設立、ソ連の対日参戦とその代償措置や、ポーランド国境に関して合意がなされました。ヤルタ協定としてまとめられた会談の内容は、テヘラン会談に続き、43年10月のモスクワ外相会談の決定内容を、以下のように具体化した形です。

 

ドイツの戦後処理問題

ドイツの無条件降伏の内容が確認され、戦後、米・英・ソ・仏の4ヶ国でドイツを分割管理すること、2年以内にその戦力排除と賠償取立てを決定すること、戦争責任者を処罰することが確認されました。

 

ポーランド問題

これまでのポーランド東部はソ連に割譲する代わりに,ドイツとの国境をオーデル川・ナイセ川まで移動させることとなりました。

 

ソ連の対日参戦

スターリンは、ドイツ降伏後3ヵ月での対日参戦を約束し、参戦の見返りに南樺太と千島列島をソ連に帰属させる秘密決定がなされました。実際、ソ連は1945年4月には、5年間の有効期間を持つ「日ソ中立条約(1941年)の延長を求めない」ことを、日本政府に通告しています。さらに、ヨーロッパ戦勝後は、シベリア鉄道をフル稼働させて、ソ連と満洲国の国境に、陸軍による軍事力の集積を行いました。

 

このヤルタ会談は、戦後の米ソの均衡による世界秩序という体制をヤルタ体制と言うほど、戦後を規定する重要な会議となったと同時に、ドイツやポーランドの分割協定が戦後の冷戦の起源とされます。

 

◆ ポツダム会談

ドイツ降伏を受けて、1945年7月17日、ベルリン郊外のポツダムで、ドイツの戦後処理方針と、対日戦を終結させるための首脳会談(ポツダム会談)が開催されました(~8月2日)。

 

参加者は、アメリカのトルーマン大統領(ルーズベルトは45年4月12日に病死)、イギリスのチャーチル(途中からアトリー)、ソ連のスターリンで、3首脳は、ドイツの分割統治などのポツダム協定に署名し、日本に対する無条件降伏の勧告であるポツダム宣言が出されました。

 

ソ連は日ソ中立条約があったので、ポツダム宣言の署名国にはなりませんでしたが、会談の中でスターリンは、日ソ中立条約を破棄して対日参戦することを約し、千島列島の占有を確認しました。

 

日本がポツダム宣言を無視する態度を取ると、アメリカのトルーマン大統領は、原爆を8月に日本の広島・長崎で使用しました。ソ連は米ソのとの約束通り、8月8日にソ満国境、樺太千島などで一斉に日本軍と交戦し、短期間で満州国を制圧しました。8月14日、日本はポツダム宣言を受諾し、第二次世界大戦は終了しました。

 

 

 

<関連投稿>

ロシアの歴史

ロシア史①:キエフ・ルーシとモスクワ大公国

ロシア史②:ツァーリとロシア帝国

ロシア史④:冷戦とソ連崩壊

ロシア史⑤:エリツィンとオリガルヒ

ロシア史⑥:プーチンの独裁国家

 

ウクライナの歴史

ウクライナ史➀:ルーシのキエフ大公国

ウクライナ史②:リトアニア・ポーランド・ロシア支配

ウクライナ史③:独立の失敗とソ連編入

ウクライナ史④:ソ連からの独立とロシアの侵攻

 

ロシア・ウクライナ戦争を考える

スラブ民族:ロシア人とウクライナ人の起源

ロシア・ウクライナ関係史:ルーシーの歴史的一体性

プーチンの歴史観:ルーシキー・ミール

ウクライナ侵攻:ロシアがNATOこだわるわけ

ロシア正教会とウクライナ正教会:もう一つの戦争

 

 

<参照>

世界最大の領土を誇った大陸国家ロシア帝国ができるまで/

(図解でわかる 14歳からの地政学、 2022年4月4日)

手にとるように世界史がわかる本

(かんき出版)

ロシア革命からつながるアメリカ民主党の社会主義化路線に迫る

新・日英同盟と脱中国

(2021.6.13 NewsCrunch)

プーチンがお手本にする「狂気の独裁者」ヨシフ・スターリン、そのヤバすぎる末路

ウクライナ戦争の根源

(週刊現代2022.03.24)

【東大名誉教授が読み解く!】なぜロシアでは「独裁者」が生まれやすいのか?

(2022.4.10、ダイヤモンドオンライン)

「コーカサスってどんな地域?」2分で学ぶ国際社会

(ダイヤモンド・オンライン)

なぜプーチン氏は破滅的な決断を下したのか?ウクライナ侵攻の背景にある「帝国」の歴史観

(2022年2月25日、東京新聞)

語られないロシアの歴史とアメリカとの深い関係

(2020.06.02、キャノングローバル戦略研究所/小手川 大助)

ロシア人(ジャパンナレッジ)

世界史の窓

コトバンク

Wikipediaなど

 

 

投稿日:2025年4月5日

むらおの歴史情報サイト「レムリア」