ロシアの歴史をシリーズでお届けしています。今回の投稿では、モスクワ大国が、ロシア・ツァーリ国からロシア帝国へ発展し、最終的にロシア革命によって帝政が倒れるまでのロシア史を概観します。ロシアによるウクライナ侵攻は、ロシア帝国の時代に何度も起きていました。プーチンの頭の中には、ロシア帝国の復活があることは容易に理解できそうです。
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<モスクワ大公国・帝国への礎>
(イワン3世)
◆ ツァーリの称号
モスクワ大公国は、対外的にもヨーロッパの東辺に位置する重要な国家となっていきました。
イワン(イヴァン)3世(在位1462〜1504)は、1472年、ビザンツ帝国最後の皇帝コンスタンティノス11世の姪ソフィアと結婚し、ビザンツ(東ローマ)皇帝の後継者を意味するツァーリの称号を初めて名乗り(名称を継承)、さらに東方正教会(ギリシア正教会)の首長の後継者をも自認しました。
また、モスクワ大公国は、ビザンツ帝国の国章である「双頭の鷲」を受けつぎ、後継国家としての権威も獲得しました。以後、ロシア(モスクワ大公国・ロシア帝国)もローマ帝国の後継を自負し、ツァーリはロシア皇帝を意味するようになります。
これによって、後に、都のモスクワは、ビザンツ帝国が1453年に滅亡していたので、ローマとコンスタンティノープル(第二のローマ)に代わる「第三のローマ」と呼ばれることになりました。
こうして、強大な権力を握り、ウクライナを含むロシア人勢力を統一したイワン3世は、農民に対しても、自由を奪う農奴制を全国的に強化し、専君主制を確立しました。ただし、これを嫌って、南部に逃れる農民たちはコサックとなって一定の力を持つようになっていきました。
<ロシア・ツァーリ国・ルーシからロシアへ>
(イワン4世)
次のイワン4世(イワン3世の孫)(在1547〜1584)は、「ツァーリ」の称号を公式に用いた皇帝で、1547年、大公としてではなく、初めてツァーリ(王または皇帝を意味する君主号)として、正式に戴冠式を行って即位しました(初代ツァーリともされる)。「ルーシ」に代わって「ロシア」の呼称が生まれたのも、この頃(16世紀前半)とされ、これ以後、モスクワ大公国(1340~1547)はロシア・ツァーリ国(1547~1721)と自称するようになりました。
イワン4世は、農奴制を強化して増税を強行した一方、親衛隊を組織し、残虐な手法による恐怖政治で、大貴族層の力を抑えることによって、ロシアを中央集権国家として成長させました(その強権的な政治手法から雷帝と呼ばれた)。
また、イワン雷帝以来(16世紀半ば)、ロシアは領土拡張に奔走しました。1552年、ボルガ川中流域のカザン・ハン国、1554年にボルガ川下流域でカスピ海北岸にあったアストラハン=ハン国をそれぞれ併合し、ボルガ川を越えて,シベリアへ進出していきました(この併合がロシアの東方進出の第一歩となった)。
加えて、さらなる東方への拡大を目指すロシア・ツァーリ国(イワン4世)は、1581年、ウクライナに発する自治的な戦士軍団(武装集団)コサックの隊長(ドン−コサックの族長)、イェルマークを、シベリア方面に派遣しました。西シベリアのイルティシュ川中流域には、キプチャク・ハン国の分国の一つシビル・ハン国(1556〜1598)が、その領域を支配していました。
ラッコやテンの貴重な毛皮を求めて、シベリア遠征を開始したイェルマークの傭兵部隊は、1582年、シビル・ハン国の首都を占領し,イヴァン4世に献上しました。この結果、オビ川以西はロシア領となりました(ロシア・ツァーリ領がウラル以東のシベリアの地に及ぶことになった)。
ただし、1585年8月、シビル・ハン国は、奇襲攻撃により、コサック軍を壊滅させ、イェルマークを戦死させましたが、イワン4世の軍に攻められ、1598年に国は滅亡しました。シベリアはその後、毛皮目的だけでなく、18世紀には、鉱石採取,農奴の強制移住,罪人の流刑入植の地として利用されました。
1584年にイヴァン4世(雷帝)が死去すると、次男が継承しましたが、後継者のないまま死去し(リューリク朝は断絶)、ロシア国内は約30年近い動乱の時代となりました。
<ロシア帝国・欧州の大国へ>
(ピョートル1世)
◆ ロマノフ朝の始まり
1613年、貴族ロマノフ家の初代皇帝ミハイル・ロマノフが即位し、ロマノフ朝が成立しました、このロマノフ王朝の時代にロシアの近代史が始まったと位置づけられています。
ロマノフ王朝初期のロシアは、ヨーロッパではスウェーデンやポーランドに押されて弱小勢力でしたが、ピョートル大帝の時代(在位1682〜1725)に、西欧諸国に伍する巨大な帝国にまで発展を遂げました。(そのため、ピョートル1世は「大帝」と称される)。
ピョートル1世は、西欧諸国を模範に徹底的な欧化政策を採用しました。具体的には、プロインの軍制や税制、官僚制などを手本に近代化を進める国制改革や、農業振興、軍備拡大(ロシアで最初に徴兵制度をしき、17万の常備軍を編成、海軍も創設)によって、国力を大いに充実させ、絶対主義体制を固めました。
1721年、元老院から皇帝(インペーラトル)の称号がピョートル1世に贈られると、大帝は、国体を「帝国(インペラートルの国)」と宣言し、対外的な国号を「ロシア帝国」と称しました。ロシアという国名が正式に生まれたのはこの時で、「ツァーリ」としてもまた内外から認められました。
◆ ピョートルの対外拡張
ロシアは、国土の大半が寒冷で、冬でも凍らない港がないこと、また耕作できない土地が多いことや毛皮獣の重要が高まりなどから、ピョートル1世は、イヴァン雷帝(イワン4世)以来の膨張政策を継承し、西のバルト海進出や南下政策、さらに東方進出を企て、盛んにシベリア探検を行いました。
サンクトペテルブルクの建設
西方では、バルト海の覇権(制海権)をめぐって、強国スウェーデンと北方戦争(1700〜21)を戦い、これに勝利、親スウェーデン王権のポーランドを影響下におくとともに、バルト海への進出を果たし、同時に列強の地位を獲得しました。すでに戦いの最中の1712年には、バルト海に面する、サンクトペテルブルクを建設し、首都をモスクワから移転していました(都市名はピョートルの守護聖人である聖ペテロに由来し、「聖なるペテロが守りたもう町」の意味)。
ウクライナ東部の支配
また、ロシアは、17世紀半ば以降、ウクライナ・コサックのフリツキーがリトアニア=ポーランド王国に反乱を起こした、ボフダン・フメリニツキー乱(1648年~)を支援したのを皮切りに、ウクライナを巡ってポーランドと戦いました。
その結果、1709年のアンドルソヴォ条約により、ロシアは、ポーランド・リトアニア共和国に対し、スモレンスクの要塞および、キエフを含むドニエプル川左岸(左岸ウクライナ)、すなわち、ウクライナの東部の大半を割譲させました。
ドニエプル川左岸は、ウクライナ中央部を北から南に貫通して黒海に注ぐドニエプル川の東側に相当します(キエフは、地理的にはドニエプル右岸に位置する)。キエフは、ロシア国家の発祥の地であったので、ロシアはその故地を回復したことになります。また、この戦争で東ヨーロッパにおける覇権国の地位はポーランドからロシアに移り、ロシアは「帝国」としての威容を整えていきました。
黒海進出
ピョートル1世(在1682~1725)は、南方ではオスマン帝国が支配する黒海沿岸に進出、さらに黒海から地中海方面に勢力を拡大する、ロシアの南下政策の端緒をつくりました。
黒海沿岸への進出をめざすロシアは、1696年、黒海につながる(黒海北東の内海の)アゾフ海に面したアゾフを陸海両面から攻撃して占領しました。アゾフは、オスマン帝国に服属していた(の属国である)クリミア半島のクリム=ハン国が支配していましたが、陥落し、ピョートル大帝は海への出口を手に入れました(1700年にロシア領とした)。
ただし、アゾフは、北方戦争(バルト海域の覇権をめぐるスウェーデンとロシアとの戦い)の中で、オスマン帝国と戦火を交えた1711年のプルートの戦いでロシア軍が敗れたため、いったん返還されましたが、オーストリアも巻き込んだ1735年の露土戦争の攻防の結果、1739年にロシア領と認められました。アゾフの獲得(領有)は、ロシアの黒海方面への南下政策の第一歩となった形です。
東方探検
東方では、シベリア探検が継続されました。ウクライナ・コサック(ウクライナの自治的な武装集団)との「同盟関係」も維持され、17世紀の末にロシア商人(コサック)は、カムチャツカ半島南端に至り、ついには太平洋に連なるアリューシャン列島に達しました(1706年頃にはカムチャツカはロシア帝国によって占領)。
また、毛皮商人の活動はしばしばアムール川を越えたので中国の清王朝と衝突することとなり、1689年には、清朝との間にネルチンスク条約を結んで、両国の国境を定めました。加えて、ピョートル大帝は、領土の拡大や資源の発見を狙い、デンマーク生まれの軍人ベーリングに、東方探検を命じると、ベーリングは、1728年に北極海と太平洋を結ぶ海峡である現在のベーリング海峡に到達しました。
なお、ピョートル大帝の死後、さらに探検を続けたベーリングは、1741年にアラスカの島に到達(上陸)、アラスカの存在が確認されました。
このように、18世紀の半ばまでに、ロシアは、帝国の版図(はんと)を、ユーラシア大陸東端の太平洋、果てはアラスカまで広げました。
<ロシア帝国・最盛期>
(エカチェリーナ2世)
◆ 啓蒙専制君主
ロシアでは、ピョートル1世の死後一時国政が乱れましたが、1762年、ドイツ生まれの女帝エカチェリーナ2世(1762〜96)が即位し、ツァーリズム(帝政ロシアの専制君主支配体制)を継承しながら、啓蒙専制君主として、ロシアの強大化を推進しました。
エカチェリーナ2世は、ピョートル3世の皇后となりましたが、プロイセン王フリードリヒ2世の信奉者で、ルター派を信仰し、正教会までも弾圧に動いたピョートル3世に対して、反ピョートル派の貴族と近衛部隊と結び、クーデターによって女帝となったという経緯があります。
なお、啓蒙専制君主とは、啓蒙思想(理性に基づく合理主義によって、従来の制度や慣習を批判し、人間性の解放や自由を目指す考え方)を掲げて「上からの近代化」を図った君主のことをいいます。エカチェリーナ2世は、1773年にフランスの啓蒙思想家ディドロを招き、法律の整備(国家機構の整備)や財政再建など、啓蒙思想の影響を受けた諸種の改革を行って社会体制の近代化と富国強兵を図りました。
しかし、その同じ年、コサック出身で農奴制廃止を求める農奴らによる大規模反乱、プガチョフの乱が勃発(〜75)すると、これを鎮圧した後、農奴制はむしろ強化し、反動化していきました。さらに、フランス革命が起こると、その影響を恐れ(専制君主を倒し共和政とするような革命の勃発は避けるために)、上からの改革さえも放棄し、これへの対抗から、厳しい専制政治を敷きました。
外交面では、アメリカ独立戦争において、イギリスを圧迫するために、1780年、武装中立同盟を結んで、アメリカを支持しました。その一方で、フランス革命に対しては、1793年、イギリスの呼びかけに応じて、対仏大同盟に加わり干渉しました。
◆ エカチェリーナの対外拡張
また、エカチェリーナ2世は、ポーランド分割やクリミア併合を実施するなど、ピョートル大帝に続いて、ロシア帝国の領土を拡張させました。
ポーランド分割
ロシアとスウェーデンが戦った北方戦争(1700〜1721)では、ポーランドもロシアと結び参戦しましたが、スウェーデンの侵入を受け、親スウェーデンの王権が成立しました。しかし、北方戦争に勝利したロシアによって、親スウェーデンの王権が倒されると、ポーランドはロシア帝国の影響力の下に置かれるようになりました。
また、1572年にヤゲウォ朝が断絶した後、選挙王政(国王を選挙で選出する制度)に移行していたポーランドでは、国王の選出をめぐり周辺のロシア、プロイセン、オーストリアなど近隣列強の干渉を受けるようになっていました(1733年にはポーランド継承戦争も発生)。
こうした状況をうけ、エカチェリーナ2世は、プロイセン(フリードリヒ2世)とオーストリア(ヨーゼフ2世)とともに、1772年、1793年、1795年の3次にわたるポーランド分割を行いました。最終的にポーランド(ポーランド=リトアニア共和国)は消滅し、その状態は、第一次世界大戦終結までの約120年間続くことになります。
具体的に、ロシアは、第1回目の分割で国境に隣接するドヴィナ川(ロシア北部)とドニエプル川以西のベラルーシの一部を獲得し、また、2回目の分割で、ドニエプル川以西のウクライナの大部分と、ベラルーシの東半分を奪取、3回目の分割で、ヴィリニュス(現リトアニアの首都)を含むロシア西部地域と、ベラルーシの残部とウクライナの一部を併合しました。
ポーランド分割の結果、ポーランド王国は消滅し、ベラルーシはほぼ全域が、また、ウクライナの地は、ドニエプル川以西(ドニエプル右岸)の約8割がロシア帝国領に編入されたことになりました(それぞれ白ロシア、小ロシアと呼ばれた)。(2割はオーストリアへ)
もっとも、ロシアにとっては、歴史的にはこの地はかつて、ロシア国家の領土だったと主張し、それを奪回したとの意識が強く、事実、後にポーランドが復活してもこの地はポーランドに戻ることはありませんでした。なお、ポーランド分割により、ウクライナの西部のガリツィア地方は、オーストリア領とされましたが、現在はウクライナ領となっています。
クリミア併合
エカチェリーナ2世(在位1762~1796)は、南下政策を具体化して、1768年にトルコと開戦(ロシア=トルコ戦争)すると、キプチャク=ハン国の分国としてクリミア半島のタタール人が建国したクリム=ハン国(1426〜1783)を83年に滅ぼし、クリミア半島を領有しました
黒海を舞台とした奴隷交易で繁栄していたクリム=ハン国は、15世紀後半、オスマン帝国の保護下に入っていました。しかし、1774年、エカチェリーナ2世は、キュチュク=カイナルジ条約をオスマン帝国との間で締結し、クリム=ハン国の独立を認めさせ、黒海沿岸地帯を獲得しました。
さらに、オスマン帝国の干渉を排除した上で、1783年に軍隊を派遣してクリム=ハン国を併合しました(87年のロシア=トルコ戦争でオスマン帝国にクルミア併合を承認させた)。
なお、18世紀後半にエカテリーナ2世が征服した、ザポロージャを含む黒海北岸の領域は「ノヴォロシア」(新しいロシア)と呼ばれます。現在のウクライナでいえば、東部のハリコフ、ルガンスク、ドネツクなどの諸都市が位置するドネツク州とルガンスク州(両州は通称ドンバス地域と呼ばれる)や、ヘルソン、ニコラエフ、オデッサを含む南部に該当します。
クリミア半島は、黒海の制海権を握る上で重要な戦略拠点でした。ロシアがクリミア半島を得たことで、ウクライナ支配を完成させました。これによって、北のバルト海と南の黒海をつなぐ物流動脈が形成され、交易が活発になり、国力を急速に増大させることができるようになったのです。
このように、エカチェリーナ2世は、オスマン帝国を圧迫して黒海まで進出する事に成功するなど、その版図を一気に拡げ、モスクワ大公国の独立以降領土は、19世紀には南は黒海、カスピ海沿岸から、北は北極海まで、西はポーランドから東は極東、アラスカにまで拡大させました。
その間、ロシア人はコサックを先頭に各地に入植し、その地の先住民を支配しながら、家父長的大家族制(ミール)を基礎にして村落をつくり、農耕を営んできましたが、モスクワ大公国がロシア帝国として発展するとともに、多くの農民が農奴化されました。これが、ロシアの社会・経済の発達を著しく遅らせることになるのです。
なお、エカチェリーナ2世は、極東にも関心を持ち続け、日本人漂流民大黒屋光太夫を送還するため1792年にラクスマンを根室に派遣し、江戸幕府に開国を迫っています。
<ロシア帝国・ナポレオンに勝利>
(アレクサンドル1世)
アレクサンドル1世の治世(在位1801〜1825)は、フランス革命戦争やナポレオン戦争の時期で、侵攻してきたナポレオンとの戦争(モスクワ遠征)に勝利し、戦後のウィーン会議で神聖同盟を提唱するなど、ウィーン体制を主導しました。ナポレオンに勝利した後、ロシアは、欧州随一の陸軍国となり,バルカン半島、カフカス地方、中東方面に対する南下政策を進めていきました。
◆ ベッサラビアの支配
ベッサラビア(現在のモルドバ)は、黒海、ドニェストル川とドナウ川またその支流プルート川にはさまれた地域で、14世紀後半から、モルダヴィア公国が支配し、15世紀からはオスマン帝国の宗主権の下におかれました。しかし、18世紀から南下政策を実行し始めたロシアが進出し、1812年の露土戦争で、ベッサラビアはロシアの保護国となりました。
◆ コーカサスの支配
コーカサス(カフカス)は、黒海とカスピ海に挟まれた地域で、カフカス山脈は、黒海からカスピ海まで東西に走っています(コーカサスは、ロシア語はカフカース)。南コーカサス(カフカス山脈の南麓)は、1795年に、イランのカージャール朝の侵攻を受け、その支配を受けてきましたが、19世紀入り、南下政策をとるロシアとイランは衝突するようになりました。
第1次イラン=ロシア戦争(1804〜1813)で、ロシアは、ジョージア(グルジア)とアゼルバイジャン北部の領有を認めさせ、また第2次イラン=ロシア戦争(1826〜28)ではアルメニアの大部分を獲得しました。1870年代にはバクー(アゼルバイジャン)の油田開発が始まり、この地域の重要度はいっそう高まりました。
コーカサス(カフカス)戦争(1817〜64)
一方、北コーカサス(コーカサス山脈の北麓)では、1817年に、この地域の支配を目論むロシア帝国と、チェチェン人・ダゲスタン人・カラチャイ人・アブハズ人等の間で、コーカサス(カフカス)戦争が勃発しました。ダゲスタンやチェチェンなどの山岳諸民族の抵抗が長く続きましたが、1864年にロシア軍に平定され、ロシアはコーカサス全域の征服を完了しました。
カザフスタン(1865)
カザフスタンにおいて、カザフ人は、3つのジューズ(ジュズ)(オルド/オルダ)(部族連合体/国家的集団の意)に分かれて遊牧し、西部(西南部)、中部(中央と北東部)、東部(南東部)で、それぞれ小ジュズ、中ジュズ、大ジュズと呼ばれていました。具体的には、小ジュズ(オルダ)はアラル海北方、中ジュズはシル・ダリヤ(川)以北のステップ地帯に位置していました。大ジュズはそれ以外の西部・南部地域です。
中央アジアへの進出を狙う帝政ロシアに対して、1731年に小ジュズがロシアに従属することに同意(忠誠を宣誓)すると、ロシアは,1735年に、ウラル山脈の南端、カザフスタンとの国境に近くに位置するオレンブルグに要塞を建設して(オレンブルグ要塞),カザフスタン経営の根拠地としました。
その後、1741年に、中ジュズも服属しましたが、18世紀後半になると,軍隊や商人,入植者によって土地を奪われたカザフの不満は次第に募り、40年にも及ぶ、反ロシア暴動がおこりました。そこで、ロシアは、19世紀前半までに、小ジュズと中ジュズ(中・小オルダ)を、直接管轄下に置きました。さらに、1840年代、ロシア軍は、西と東の両面から、大ジュズへの侵攻を開始しすると、1865年までに大ジュズが居住する全領域を併合し、全カザフスタンを支配下におさめました。
広大なカザフスタンを領有したロシア帝国は、カザフ人の遊牧する地域に州制を引いて5州を置き、草原の間に都市や要塞を築いて、ロシア人農民を大量に入植させました。また,商品貨幣経済を全般に浸透させ、畜産物など原料供給地、また穀物や工業製品の市場としてロシア経済の一環に組み込んでいきました。
<ロシア帝国・崩壊の兆し>
(ニコライ1世/アレクサンドル2世・3世)
次のニコライ1世(在位1825〜1855)の時代は、ナポレオン戦争に出征して西欧の自由思想に接した貴族出身の青年将校が、法制定・農奴解放などを要求して、1825年12月、デカブリストの乱を起こすなど、波乱含みの幕開けとなりました。乱は鎮圧され、国内の革命運動・自由思想は弾圧されましたが、社会改革の気運を促し,その後の革命運動に大きな影響を与えたとされています。
なお、反乱が12月(ロシア語でデカーブリ)に発生したことから、デカブリスト(十二月党員)の乱と呼ばれました。対外的には、オスマン帝国の弱体化に乗じ、ロシアは、黒海から地中海・中近東方面への南下政策を積極化させました。
◆ クリミア戦争
ロシアは、1853年, 聖地管理権の譲渡の問題を口実に、オスマン帝国とクリミア戦争を引き起こしました。オスマン帝国が、フランスのナポレオン3世の要求に応じて聖地エルサレムの管理権をフランスに譲渡したことに、ロシアが反発し、オスマン帝国領内の ギリシア正教徒の保護 を口実としました。
戦闘は、ロシアが、ロシア領ベッサラビア(モルドバ)から、オスマン帝国を宗主国とするモルダヴィア公国・ワラキア公国のドナウ川下流域に侵攻して開始されました。そこに、ロシアの南下を嫌うイギリスとフランスが介入し、トルコ軍とともに、クリミア半島に上陸、1855年9月、セヴァストーポリを陥落させ、ロシア軍を敗走させました。
ニコライ1世は戦争中に死去し、帝位を継いだアレクサンドル2世(在位1855〜1881)は、翌1856年、不利な内容のパリ条約の締結を余儀なくされました。オスマン帝国の領土が保全され、ロシアはベッサラビアをモルダヴィア公国に割譲し、そのモルダヴィア公国はワラキア公国と共に自治が認められました(なお、ドナウ二公国とも言われたこの二国は、後に統一され、1866年にルーマニア公国となった)。
クリミア戦争に敗れ、ロシアの後進性を克服するための近代化を痛感したアレクサンドル2世は、1861年に農奴解放令を発し、農奴に人格的自由と土地の所有を認めたほか、地方自治体の機関であるゼムストヴォや裁判機構、さらには教育・軍制の諸改革を断行しました。
◆ 露土戦争
クリミア戦争の後、南下政策をいったんは断念していたロシアでしたが、バルカンに進出する好機を伺っていたアレクサンドル2世は、1877年4月、スラブ民族の連帯と統一をめざす汎スラブ主義をかかげて、スラヴ系民族のキリスト教徒(ギリシア正教)の保護を名目に、トルコに宣戦布告しました。
この1877年の露土戦争では、ロシアが優位に戦いを進め勝利し、1878年3月にサン=ステファノ条約を締結しました。同条約によって、セルビア、モンテネグロ、ルーマニアの各公国はオスマン帝国から独立し、またロシアの影響を強く受けた広大な自治領「ブルガリア公国」(大ブルガリア)の成立など、ロシアに有利な条件を獲得しました。
しかし、バルカン半島への影響力を拡大させたロシアへの警戒を強めたイギリスやオーストリアなど列強が反発したことから、調停に乗り出したドイツのビスマルクによって、1878年6月、ベルリン会議が開催され、その結果、サン・ステファノ条約を修正して締結されたベルリン条約で、ロシア側は大幅な譲歩を余儀なくされました。
例えば、ブルガリア公国の領土は、3分の1に縮小され、オスマン帝国を宗主国とする自治国となりました。また、自治権が付与されることになっていたボスニアとヘルツェゴヴィナは、オーストリア=ハンガリー帝国が占領することとなり、マケドニアはオスマン帝国に返還されました。
◆ アロー戦争
バルカン半島への南下政策は、欧州列強によって阻まれた形となりましたが、アレクサンドル2世(在位:1855〜1881)は、東のアジアに布石を打つことに成功しました。
ロシアは、フランス人宣教師殺害を受けて英仏と清との戦ったアロー戦争後、英仏の対立を調停し、1860年に北京条約を仲介しました。これによって外満洲を清から獲得し沿海州を設置、その南端に、ロシア軍の前哨基地としてウラジオストクの街を建設しました(1872年にロシア海軍の主要基地がウラジオストックに移設された)。
このように、ロシアの膨張主義は、バルカン半島への南下は失敗したものの、ポーランドからバルト海,コーカサス(カフカス),中央アジアに続き,極東沿海地方の併合・獲得へと走らせていったのです。
◆ ナロードニキ運動とニヒリズム
この間、国内に目を向けると、前述したように、クリミア戦争の敗北後、アレクサンドル2世は農奴解放令を発する(1861年)など近代化を進めようとしましたが、これらの改革は,本質的に、地主貴族に配慮した地主本位の不徹底なもので、必ずしも農民の不満を解消するものでなく、アレクサンドル2世の改革は、農民の支持を獲得できませんでした。
また、18世紀以降、ロシアは、西欧文化の導入により近代化を進め,19世紀後半から、こうした社会改革により発展を図りましたが、なお多くの残存した封建遺制や資本主義化に伴う矛盾が露呈していったのです。
逆に、1870年代に、国内の知識人の間では革命思想が広がり、ナロードニキ(人民主義者)運動が起こりました。ナロードニキ運動とは、都市の知識人や学生が農村に入って農民を啓蒙し、革命運動を組織化することによって、帝政を打倒し、自由な農村共同体を基礎にした社会主義改革を(新社会建設)実現しようとするものです。
これに対して、アレクサンドル2世は、反動化して、これを弾圧したため、ナロードニキ(人民主義者)は、ニヒリズム(虚無主義)におちいり,過激なアナーキズムやテロリズムに走りました。アレクサンドル2世も、1881年、革命派の爆弾テロで暗殺されました。
父の暗殺によって即位したアレクサンドル3世(在位1881〜1894)は、父アレクサンドル2世の行った改革を撤廃・制限する反動政策を行い、(アレクサンドル3世の治世は反改革の時代と呼ばれる)、また革命運動を弾圧することで、社会の安定に努めました。
対外的には露仏同盟を追求して体制の安定に成功し、1891年起工のシベリア鉄道で極東への進出をはかりました(全線開通は1916年)。ロシアの産業革命は、露仏同盟締結を契機とするフランス資本の導入で本格化しますが、外資導入型の上からの急速な工業化は社会矛盾を激化させていったことも事実です。
<ロシア帝国・ロマノフ朝の終焉>
(ニコライ2世)
ロマノフ王朝、最後の皇帝となるニコライ2世(在位1894〜1917)は、父アレクサンドル3世の政策を受け継ぎ専制政治を維持、ツァーリズム(専制君主体制)の強化と、特にロシアの東アジア進出というロシアの帝国主義政策を推進しました(蔵相ウィッテが実質的に政策を進めた)。ヨーロッパではドイツ・オーストリアと対抗するため、アレクサンドル3世が追求したフランスとの同盟を強化しました(シベリア開発もフランス資本の援助によって進められた)
◆ 日露戦争と第一革命
また、極東への関心を高め,満州や朝鮮への影響力の拡大にも努めました。1895年の日本への三国干渉を行ったのち、1898年の列強による中国分割に加わったことだけでなく、1900年に北京で発生した義和団の乱(北清事変)に対応するために他の列強とともに出兵し、鎮圧しました。
しかし、その後も、鉄道保護の口実で満州から撤兵しなかったことから、日本と対立を深め、1904年2月、日露戦争(〜05)が勃発し、実質的な敗北を喫しました(05年9月、ポーツマス条約を締結して、ロシアは日露戦争を終結させた)。
日本との戦争中から、ロシア国内で戦争を継続する帝政への不満が高まるなか(極東での相次ぐ敗戦,戦費の増大による大衆生活が苦しめられていた)、2005年1月、ペテルスブルクで皇帝への請願書を携えた宮殿広場に近づくいた丸腰の民衆に対して、兵士が発砲し、3000人近い犠牲者を出す「血の日曜日」事件が発生しました。
これを機に、ロシア第一革命が勃発、ロシア帝国全土で反政府運動と暴動が飛び火しました。国内の騒乱はその後も収まらず、10月にはゼネストにまで発展したことから、譲歩を余儀なくされたニコライ2世は、十月詔書に署名、「十月宣言」を発布しました。これにより、国会(ドゥーマ)が開設され、ロシアは立憲君主制に移行することとなりましたが、革命が終息すると、革命運動を弾圧するなど、ほどなく反動化し、ツァーリ専制政治を復活させました。
◆ 第一次世界大戦と3月革命
日露戦争後、東アジアからは後退したロシアは、再びバルカン方面への進出をはかるようになり、バルカン問題で、オーストリアとの対立を深めました。1914年6月、サラエボ事件が起き、オーストリアがセルビアに宣戦を布告し、第一次世界大戦が始まると、ロシアは、汎スラブ主義を掲げて連合国として参戦、ドイツとの戦端を開きました。
しかし、8月のタンネンベルクの戦いで大敗したのを機に、ドイツ・オーストリア軍の侵攻を許し、広大な国土を占領されてしまいます。軍部の反対を押し切り、ニコライ2世みずから戦線を指揮するも戦況を好転させることはできませんでした。
国内においても、この時期、ニコライ2世は、怪僧ラスプーチンを重用し、政治は混乱させました。ラスプーチンは、皇后と血友病の皇太子の治療を通じて、宮廷に入り込み、ニコライ2世と皇后の信頼をえるようになると、大臣の人事にも口出しするなど、宮廷に大きな影響力を持つに至りました。このため、ロマノフ朝のツァーリを影で操る「怪僧」として、政治腐敗の象徴的な存在として、警戒されたラスプーチンは、1916年12月、一部貴族らによって暗殺されました。
こうした危機的な状況において、国内では、これまで蓄積した社会矛盾が一気に噴出したかのように、ぺトログラード(旧サンクトペテルブルク)において、暴動が発生しました。1917年3月、労働者や兵士による二月革命(三月革命)が実行され、皇帝ニコライ2世は退位し、300年にわたるロマノフ朝は事実上消滅しました(帝政ロシアの崩壊)。
その後、反動勢力に利用されることを恐れた革命政府に、家族とともに逮捕され、シベリアのエカチェリンブルク付近で、銃殺されました。なお、ロシア革命の展開については、次の投稿で詳説します。
<関連投稿>
ロシアの歴史
ウクライナの歴史
ロシア・ウクライナ戦争を考える
<参照>
世界最大の領土を誇った大陸国家ロシア帝国ができるまで/
(図解でわかる 14歳からの地政学、 2022年4月4日)
手にとるように世界史がわかる本
(かんき出版)
「コーカサスってどんな地域?」2分で学ぶ国際社会
(ダイヤモンド・オンライン)
なぜプーチン氏は破滅的な決断を下したのか?ウクライナ侵攻の背景にある「帝国」の歴史観
(2022年2月25日、東京新聞)
語られないロシアの歴史とアメリカとの深い関係
(2020.06.02、キャノングローバル戦略研究所/小手川 大助)
ロシア人(ジャパンナレッジ)
世界史の窓
コトバンク
Wikipediaなど
投稿日:2025年4月5日