ロシア・ウクライナ関係史:ルーシーの歴史的一体性

 

ロシアのプーチンは、ウクライナに侵攻した際、「ウクライナはロシアの一員である」と主張しました。確かに、歴史的には、現在のロシアとウクライナは、国家として、中世の「キエフ公国(キエフ・ルーシ)」を共通の起源としています。実際、キエフ・ルーシは、9世紀末から13世紀半ばにかけて今のウクライナからロシア西部を支配した当時の大国でした(首都はキエフ)。

 

ウクライナとロシアは、今もどちらがキエフ・ルーシの後継国かをめぐって対立しているそうです。ウクライナがロシアとの距離感を示し、キエフ・ルーシ(キエフ公国)はウクライナのルーツであって、ロシアのルーツではないと主張するのに対して、ロシアは一体感を強調します。

 

ただし、ロシアにとっての一体感は友好的な意味ではなく、離反をゆるさない「縄張り」の発想があったことは歴史の事実から伺えます。今回は、ロシアとウクライナは国家として共通の起源があったことの確認と、その後のロシアによるウクライナ支配の歴史を概観します。

 

なお、ここにはベラルーシも含まれますが、今回はロシアとウクライナに限定して解説します。また、キエフは現在、キーウと呼ばれていますが、歴史的にはキエフであったので、歴史の記述についてはキエフを多用します。

 

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<スラブ民族の起源>

 

民族や人種の括りにおいて、ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人は、スラブ族の中の東スラブ人に属します(言語的にはインド・ヨーロッパ語族の東スラブ語)。

 

スラヴ人発祥の地(原スラブ人の故地)は、バルト海の北の地域とされ、その後、現在のポリーシャ(北ウクライナと南ベラルーシの国境に沿って細長く広がる地域)に移住したと考えられています。スラブ人たちは、狩猟・農耕生活を行っていましたが、ゲルマン民族の大移動に影響されて、カルパティア山脈北方のヴィスワ川からドニエプル川にかけての一帯、現在のポーランド、ベラルーシ、ウクライナ北西部にまたがる地域に広がっていきました。

 

その後も、ヨーロッパ各地へと移動(移住)を繰り返す過程で、6、7世紀頃までに、スラブ人は、移住した地域にしたがって、東スラブ人・西スラブ人・南スラブ人に分化しました。

 

このうち、東スラヴ人は、ドニエプル上流域からボルガ川の上・中流地方に移住し、そこに先住していたアジア系のフィン人と混血したとみられています。さらに、ロシア北西のノヴゴロドや、ドニエプル中流域のキエフを中心に、9世紀ころまでにいくつかの小国家を建設していました。

 

 

<キエフ・ルーシ(キエフ大公国)の時代>

 

◆ ルーシ(ノルマン人)の侵入

 

そうした東スラブ地域を最初に統一支配したのは、北西から侵入してきたバイキングのノルマン人でした。ノルマン人は、インド=ヨーロッパ語族のゲルマン人に属し(北方系ゲルマン民族の一派)、古代からスカンジナビア半島(スウェーデン)やユトランド半島(デンマーク)を原住地として、狩猟や漁労で生活しており、造船や航海術にたけた民族でした。

 

また、海上に進出して海賊を兼ねながら交易に従事するようになり、船で他国に上陸しては略奪行為を繰り返していたため、ヴァイキングと呼ばれ恐れられていました。そうした中、スカンディナヴィア半島の東側(現在のスウェーデン)辺りにいたノルマン人が、8世紀ごろから、人口の増大をうけて、移動を開始しました。

 

9世紀には、このスウェーデン系ノルマン人(自らを「ルーシ」と称した)が、最初の首長リューリク(830頃~879頃)に率いられてバルト海を渡り、海から川をさかのぼって内陸に入って、ロシア草原に侵入しました。リューリクらは、ロシア北西のノヴゴロドを占領、もともとこの地域に居住していたスラヴ人を支配し、862年にノヴゴロド国を建国しました。

 

 

◆ キエフ・ルーシの建国

 

その後、ノルマン人は次第に南下し、リューリクの一族であったオレーグは、882年、ビザンツ帝国との交易の拠点となっていた、バルト海と黒海を結ぶドニエプル川中流のキエフを制圧、キエフ公国(キエフ・ルーシ)(882〜1240)を建国しました。キエフ公国はノヴゴロド国を併合し(統一国家キエフ公国の成立)、都もノヴゴロドからキエフに移されました。

 

このキエフ公国こそが、ロシア、ウクライナ、ベラルーシにとって、共通の国家のルーツ(起源)となります。キエフ公国の 正式な国号が、「ルーシ」(「キエフ・ルーシ」)で、やがて、ルーシからロシアという名が起こってきます。この過程で、ノルマン人たちは、この地に住んでいたスラヴ民族(東スラブ人)を征服し、彼らと同化・混血しながら後のロシア人・ウクライナ人・ベラルーシ人共通の祖先となったのです(彼らはルーシ人とも呼ばれた)。

 

なお、後に、ロシア人とウクライナ人は、キエフ・ルーシの後継者の地位を巡って争うのですが、自分たちをルーシの後継者であるとする主張する場合、キエフ・ルーシを、それぞれ、キエフ・ロシア、ウクライナ・ルーシと呼びました。

 

キエフ公国は、ドニエプル川流域を支配し、ビザンツ帝国との交易によって栄えました。とりわけ、キエフ(キーウ)は、バルト海と黒海を結ぶ商業ルートの中心都市として、毛皮などの交易の中継地として発展しました。

 

オレーグの死後、912年、リューリクの子のイーゴリが「大公」として治めることになり、キエフ・ルーシも正式にキエフ大公国となりました(正式に公国(大公国)となった)。以後、キエフ大公位は、歴代、リューリクの血筋の者が公位を継承したことから、キエフ大公国(キエフ・ルーシ)はリューリク朝とも呼ばれます。

 

 

◆ ウラジミール大公の洗礼

 

そうしたキエフ大公国(キエフ・ルーシ)は、ウラジミール1世(ウラジーミル大公)(在980〜1015)と息子のヤロスラフ1世(在1016〜1054.2)のときに最盛期を迎えました。

 

ウラジミール1世(キエフ大公)は、988年、ビザンツ皇帝バシレイオス2世の妹を后に迎えると同時に、キリスト教の正教会(ギリシャ正教)に改宗し、国教に定めました。キエフ公国はキリスト教国となったことで、後に、ビザンツ帝国に征服されたブルガリアの聖職者が多数亡命してスラヴ語典礼を伝え、キエフ公国のキリスト教の進展に大きな影響を与えました。

 

これによって、キエフ公国(キエフルーシ)には、ビザンツ文化が流入し、スラブ人の文化との統合が始まりました。これは、キエフ公国が文化的にビザンツ化したことを意味します。統治においても、ビザンツ風専制支配が行われるようになり、国家支配の強化が図られました。

 

さらに、この時、ギリシア正教のみならず、キリル文字(9世紀、スラヴ人への布教のためにギリシア人宣教師キュリロスが考案したとされている文字)も受容し、これを基礎にロシア文字(語)やウクライナ文字(語)が形成されていきました。

 

このように、キエフ・ルーシ(キエフ大公国)は、9世紀末から13世紀半ばにかけて、今のウクライナからロシア西部を支配した当時の大国で、11世紀半ばの最大時には、北は白海(ロシア北西部で北極海の一部を構成)から、南は黒海、西はヴィスワ川の源流から、東はクリミア半島と向かい合うタマン半島まで広がり、東スラヴ民族の大半を束ねました。

 

人種構成では、東スラヴ人だけでなく、バルト人およびフィン(フィンランド)人を含み、キエフ・ルーシは、現在のロシア、ウクライナ、ベラルーシの源流となったのです。

 

 

◆ スラブ人の分化

 

やがて、東スラヴ人は、居住地域によって、現在のロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人に分化しはじめました。ベラルーシ人はドニプル上流地方に、またウクライナ人はキエフ(キーウ)を中心とするドニエプル中流地方に、そして、ロシア人はボルガ川上・中流地域に居住しました。なお、分化以前の東スラブ人は、(13世紀ごろまで)総称して古ロシア人と呼ばれることもありました。

 

東スラブ人の分化は、キエフ大公国(キエフ・ルーシ)がモンゴルによって滅ぼされた13世紀以後の分裂期になると、さらに進み、民族的統一を失った東スラヴ人は、ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人という異なる言語と習俗をもつ三つの民族に分かれ、独自の道を歩むことになります。そのなかで、一貫して最も中心的な立場にあったのが、スラヴ人の中で最大の民族集団であるロシア人でした。ロシアの優位性は、ルーシの呼称についてもあらわれていました。

 

 

◆ ルーシとロシア

 

ロシアの立場

ロシアの語源については、いくつか説はありますが、キエフ大公国の正式国号「ルーシ」からとられたとみられています。なぜなら「ルーシ」をギリシャ語読みすると「ロシア」となるからです。

 

ルーシ(ルスとも表記)の語源についても諸説ありますが(「船を漕ぐ人」「船の漕ぎ手」の意味とも言われるが定説はない)、スカジナビア半島東部(スウェーデン)辺りからロシア草原に侵入し、ロシア北西にノブゴロド国を建てたノルマン人が、自らをルーシと呼んでいたとされています(または、スラブ人がこのノルマン人を「ルーシ」と呼んだとも言われている)。

 

前述したように、その後、ルーシ(ノルマン人)はさらに南下し、キエフ公国を建国した際、国号をルーシ(キエフ・ルーシ)としました。さらに、キエフルーシ(キエフ大公国)を滅ぼしたモンゴル支配から脱したモスクワ大公国も「モスクワ・ルーシ」とも呼ばれていました。

 

「ルーシ」に代わって「ロシア」という呼称が生まれたのは、イワン4世(在1547〜1584)が、ツァーリの称号(皇帝を意味する君主号)を正式にえて即位し、それまでのモスクワ大公国(モスクワ・ルーシ)がロシア・ツァーリ国(1547〜1721)になった16世紀前半のことです。

 

さらに、ロシアという国名が正式に採用されたのは,ロマノフ朝のピョートル1世(在位1682〜1725)の時代の1721年で、このとき対外的な国号を「ロシア帝国」と定め、「ロシア」という国名が正式に誕生しました。逆に言えば、それ以前、現在のロシアの国名は、「ルーシ」という古形が使われていたのです。

 

ウクライナの立場

一方、ウクライナの立場からルーシをみると違った見方となります。本来、地理的には、キエフ大公国(キエフ・ルーシ)の首都はキエフで、キエフを中心にキエフ大公国は発展したことから、ウクライナが、ルーシ(ロシア)の名を引き継ぐべきところです。

 

しかも、現在のウクライナは、リューリク一族のオレーグが882年に建国した(原初の)キエフ公国をほぼ引き継いでいます。保守的なウクライナの人々は、自分たちこそが「ルーシ(ロシア)」であり、ロシア人がそれを勝手に自称するべきではないと考えています。ウクライナからすれば、自分たちがルーシ国家の本家・本流で、ロシアが傍流です。本来、ウクライナがロシア(=ルーシ)を名乗るべきところを、分家筋のモスクワにルーシ(=ロシア)の名称をとられたと解されるのです。

 

では、ロシアとウクライナは、ルーシ国家として一つとみるべきか否か、それからの歴史を通じて考えてみましょう。

 

 

<モスクワ大公国とリトアニア・ポーランドの時代>

 

◆ モスクワ大公国(ロシア史)

 

キエフ・ルーシ(キエフ大公国)は、ウラジミール大公(在位978〜1015)の治世に最盛期を迎えた後、1130年代以降、諸公の争いが頻発し、ノヴゴロド公国(1136〜1478)、ウラジーミル・スーズダリ大公国(1157〜1363)や、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国(1199〜1349)など、10〜15の公国に分裂しました(「本家」と「分家」に分裂)。

 

こうした混乱状態のなか、1240年にモンゴルの侵略によって、キエフが占領され、「本家」のキエフ大公国が滅ぼされました。その後、200年以上、キプチャクハン国が現在のロシアの大半を支配しました。この「タタールのくびき」とも呼ばれる抑圧時代、かつてのキエフーシの中から、いわば、分裂した公国(キエフ大公国の一地方政権)の中から、ウラジーミル・スーズダリ大公国が台頭し、周辺の諸公国を併合しながらモスクワ大公国(1263〜1547)に発展しました(ウラジーミル大公の位はモスクワ大公の位に兼任された)。

 

前述したように、モスクワ大公国は別名、モスクワ・ルーシとも呼ばれ、ルーシ国家(リュ―リク朝)の継承国となった形です。モスクワ大公国はロシア諸公の中でも強盛を誇る大国となり、イワン3世の時代の1480年、モンゴル(キプチャク・ハーン国)から完全に自立、「タタールのくびき」から脱したのです(このモスクワ大公国からロシア帝国へと発展する)。

 

これが、ロシアがキエフ大公国(キエフ・ルーシ)の後継国となったとする、通常の「教科書」で教えられる歴史観です。しかし、ウクライナの視点に立った、この時代の歴史の見方は異なります。

 

 

◆ リトアニア・ポーランドの支配(ウクライナ史)

 

「タタールのくびき」も、モンゴルとの関係の濃淡によって、地域によって異なったことから、ロシアとウクライナは、キエフ・ルーシを共通の発祥を持つものの、キエフ・ルーシ(キエフ大公国)がモンゴルによって滅ぼされた後、ロシアとウクライナは別々の道をたどりました。

 

かつてのキエフ大公国(キエフ・ルーシ)をドニエプル川の左岸(東側)と右岸(西側)で、東ルーシと西ルーシに分けるなら、モンゴルの影響を特に強く受けたのが、東ルーシで、今日のロシアとウクライナ東部に当たり、これに対して、影響が相対的に小さかったのが西ルーシ、今日のウクライナ西部とベラルーシです。

 

ハーリチ=ヴォルイニ公国

確かに、キエフ・ルーシ(キエフ大公国)は、モンゴル帝国のバトゥの軍団に蹂躙されて滅亡し、その後、キプチャク=ハン国の支配を受けましたが、キエフルーシの中で、モンゴル(キプチャクハン国)の直接支配を回避できた国もありました。その一つが、西(南西)部のガリツィア地方にあった、かつてのキエフルーシの地方分国、ハーリチ=ヴォルイニ公国(1199~1349)で、よくモンゴル軍に抵抗した結果、キプチャク=ハン国に臣従する形になりましたが、国家としては存続しました。

 

そのため、ウクライナの歴史では、この国をキエフ大公国(キエフ・ルーシ)の後継国家として、同時にウクライナ人の最初の国家と位置づけられています。ただし、このハーリチ=ヴォルイニ公国は、長く存続することができず、1349年になって、リトアニア大公国によって征服されました。

 

 

リトアニア大公国

その後、リトアニア大公国は、さらに東進、1362年、かつてのキエフ・ルーシの首都キエフ(ドニエプル右岸/ウクライナ西部)を占領し、モンゴル(タタールのくびき)を解放しました。

 

この結果、1502年のキプチャク・ハン国の滅亡後、かつてのキエフルーシ(キエフ大公国)のうち、モスクワを含む北部をモスクワ公国が、また、キエフを含む南部をリトアニア大公国(その後、ポーランド王国)が支配するようになりました。

 

 

ポーランド王国

リトアニア大公国は、1386年、ポーランド王国と同君連合の国家、リトアニア・ポーランド王国、さらに1569年に合同し、ポーランド・リトアニア共和国(ポーランド王国)となりましたが、実質的には、ポーランドによるリトアニアの併合でした。

 

これによって、ウクライナのポーランド化が起きました。従来のカトリックの国であったリトアニア大公国では、ウクライナやベラルーシの正教会も保護されていましたが、ウクライナがポーランドの支配下に移されると、カトリック教会の影響力が強くなっていきました。ウクライナのポーランド化は、ウクライナ文化にも影響を与え、ロシアとは異なる民族意識も滋養されることになります。

 

ザポロージャ・コサック国家

ウクライナは、コサック発祥の地としても知られています。コサックとは、タタール人とスラブ人の混血種族の騎馬武装集団で、15世紀以降。ウクライナから南ロシアの各地に現われます。コサックは地域ごとに戦士集団を形成し、ウクライナでは、南東のザポロージェ=コサックの勢力が最大となりました。

 

そのザポロージェ=コサックの頭領(アタマン)、ボフダン・フメリニツキーが、1648年、ポーランド(ポーランド・リトアニア共和国)に対し大反乱を開始すると、反乱はウクライナ各地に広がり、独立運動となっていきました。フメリニツキーは、キエフに入城し、1649年、コサックのヘチマン(アタマン)(コサック共同体で選出される指導者の称号)を元首とする事実上の独立国家、へ―チマン国家(アタマン国家)を誕生させました。

 

このザポロージャ・コサック国家(へ―チマン国家)の範囲はキエフを中心とした数州に限られ、現在のウクライナの面積には及びませんが、最初の実質的なウクライナの独立国家と、ウクライナでは位置づけられています。(後に1654年、法律上承認され、「ザポロージャのコサック軍」(へ―チマン国家)(1649~1782)という正式な国号を有した)

 

ウクライナでは、この時期、自分たちのことを「ルーシ」だけでなく、「ヘトマン(へ―チマン)(コサックの頭領)の地」と呼んでいたと言われています。ウクライナ人の愛国主義者たちは、モンゴル人やポーランド人、そしてロシア人に決して屈することのなかった誇り高いコサックこそが、自分たちの民族の原点であると主張します。

 

このように、モンゴル支配ののちに、ロシアとは異なる独自の歴史と民族の精神性を持ちながら、ルーシを継承してきたウクライナでしたが、ここから、ロシアによる侵攻が始まります。

 

 

<ロシア帝国の時代>

 

◆ ロシアによるウクライナ支配

 

ウクライナ東部割譲

このウクライナ・コサックのフメリニツキーが創立したコサック国家は、1654年、ポーランドとの対抗上、ロシア帝国の保護下に入る選択をしてしまいました。この結果、その後のロシア・ポーランド戦争(ウクライナ争奪戦争)(~1667年)で、ピョートル1世は、キエフを含むドニエプル川を挟んだ左岸ウクライナ(ウクライナ東部)をロシアに割譲させました。

 

また、ロシアのエカチェリーナ2世(在位1762~1796)は、コサックのヘーチマン国家(ザポロージェ=コサック)そのものを、1764年に消滅させ、コサック連隊(ザポロージェ=コサック)も1786年に廃止、ロシア軍に編入しました。

 

ウクライナ西部割譲

さらに、エカチェリーナ2世がプロイセンとオーストリアともに、1772年、1793年、1795年の3次にわたって行ったポーランド分割によって、ポーランド領として残されていたウクライナのドニエプル右岸(ウクライナ西部)もロシア領に編入されました(ベラルーシも吸収)。

 

これにより、オーストリア領となったウクライナの西部のガリツィア地方を除き、現在のウクライナは、ロシア帝国によって併合されたのです。このことは、ウクライナの視点では、かつてのキーフ・ルーシは、ロシア帝国によって、乗っ取られた形となりました。しかし、ロシアにとっては、これらの地はかつて、キエフ・ルーシ(ロシア国家)の領土だったもので、それらを奪回したに過ぎないという立場でした。

 

黒海沿岸の併合

加えて、エカチェリーナ2世のロシアは、1768年にオスマン帝国と戦い(ロシア=トルコ戦争)(1768~74年)、黒海沿岸地帯を併合しました。この地域は、ザポロージャを含む黒海北岸で、エカチェリーナ2世は「ノヴォロシア」(新しいロシア)と呼びました。

 

「ノヴォロシア」は、その後も広がり、現在のウクライナでいえば、目下、係争中の東部ハリコフ、ルガンスク、ドネツクなどの諸都市が位置するドネツク州とルガンスク州(両州は通称ドンバス地域と呼ばれる)や、ヘルソン、ニコラエフ、オデッサを含む南部に該当します。

 

クリミア領有

また、同じ露土戦争の結果、エカチェリーナ2世は、キプチャク=ハン国の分国としてクリミア半島のタタール人が建国したクリム=ハンで国(1426〜1783)の独立をオスマン帝国に認めさせ、1783年に、クリム=ハン国を併合、クリミア半島を領有しました。

 

大ロシアと大ロシア主義

なお、18~19世紀、ロシア帝国がウクライナやベラルーシを併合していくなかで、自国を大ロシアとして、ウクライナを小ロシア、ベラルーシを白ロシアという呼び方が定着していきました。

 

小ロシアは、モスクワの大ロシアに対する呼称で、ウクライナをロシアの従属地域とする蔑称としての意味が込められていました。行政上でも、ザポロージャ地域を拠点としたコッサクの国家(へ―チマン国家/「ザポロージャのコサック軍」)が廃止された後の1765年に、ウクライナの国土はロシアの小ロシア県に編成され(キエフなどの三県を置かれた)、ロシア帝国の一部としました。

 

白ロシアの名称の起源については定説がなく、これが現在のように定着するのは16世紀になってからと見られています。

 

大ロシアと同様に、大ロシア主義という思想もあり、これは、ロシア人が他の民族,とりわけロシア帝国(ソ連邦、ロシア連邦、ロシア共和国)の非ロシア人諸民族に対してとる特権的な立場をさします。それは統治政策の面では、ロシア化政策という形でもっとも明瞭に示されました。また、大ロシアという呼称も、広義にはウクライナ人,ベラルーシ人をも含めていう場合もあります。

 

 

◆ ロシア史観vsウクライナ史観

 

ウクライナ史観

このような歴史の流れをウクライナの視点でみれば、ルーシ国家の発祥の地であった本家のウクライナは、地方勢力に過ぎなかった分家のロシアに先を越され、「ルーシ(ロシア)」の主導権をロシアに奪われたことがわかります。とりわけ、キエフ・ルーシ滅亡後、ロシアとは一線を画して、独自の歴史を歩んでいたウクライナに対して、分家のロシアが、暴力によって、強制的に併合された経緯から、ロシアには、キエフ・ルーシの後継者を名乗る正統性がないということになります。

 

ロシア史観

これに対して、ロシア史観では、キエフ・ルーシ(キエフ大公国)を1240年に滅ぼしたのは、ロシアではなく、モンゴルであり、そのモンゴル支配から、ルーシ国家の中でいち早く勢力を回復し、「ルーシの地」を奪い返したのがモスクワ大公国(1480年に「タタールのくびき」から解放)なのだという主張がなされます。

 

また、モスクワ大公は傍系ではあるものの、リューリクの血統を引いているリューリク家(リューリク朝)の一族です。前述したように、モスクワ大公国の前身は、北東ルーシのウラジーミル・スーズダリ大公国(1157〜1363)で、スーズダリ家は、ルーシ(ロシア)唯一の支配者家系でした。

 

1598年に王朝としてのリューリク朝は断絶し、1613年からロマノフ朝の時代が始まりましたが、創始者のミハイル・ロマノフもまた女系かつ傍流ながらリューリク朝の血統を受け継いでいることから、「ルーシ」を継承する充分な正統性があるとされています(イヴァン4世の妃アナスタシア・ロマノヴナがロマノフ家の出身であった)。

 

たしかに、モスクワ公国は北東ルーシの小公国ですので、元来はキエフというよりはノヴゴロド公国の公権力を受け継ぐ国家ですが、ロシアは、国力を蓄えるに従い、モンゴル支配を脱した15世紀末以降、キエフ・ルーシ(キエフ大公国)の後継人を自認し始めました。

 

ロシア教会の優位性

その背景には、政治的な力関係だけでなく、宗教的な影響力もあります。キエフ・ルーシは、ウラジミール1世のとき、988年にキリスト教の正教会の国となり、その後、ロシア、ウクライナ、ベラルーシにそれぞれ正教会ができましたが、1453年のビザンツ帝国滅亡後は、ロシア教会(ロシアで確立した正教会)が正教会の正統を継承していくことになりました。

 

具体的には、モスクワ大公国のイワン3世は1472年にビザンツ帝国最後の皇帝の姪と結婚し、ビザンツ皇帝の後継者を意味するツァーリの称号を名乗ったのち、ロシアは、正教会(ギリシア正教会)の首長の後継者をも自認しました。まさに、モスクワ大公国が、キエフ・ルーシの後継国家としての権威も獲得したのです。

 

また、前述した、1667年のロシア・ポーランド戦争(1654~67)の勝利の結果、ドニプロ川を挟んで、キエフを含む左岸ウクライナ(ウクライナ東部)を、ロシアが領有した後、ロシアは、1686年、正教のキエフ府主教座をモスクワ総主教座の管轄下に置きました。これは、キエフ府主教座がモスクワへ遷座し、ウクライナの正教会はロシア正教会に包摂されることを意味しました。

 

このため、ロシア帝国は、ロシア人の帝国だけでなく、正教会の帝国となり、ロシア正教会は「大ルーシ、小ルーシ(ウクライナ)、ベラルーシ」というルーシ国家の国教となったのです。

 

抑圧されたウクライナの歴史

こうして、ウクライナもベラルーシも、ロシア帝国の一部となり、ロシアが政治的にも宗教的にも圧倒的な強さを持つに至ると、国際社会もまた、キエフ=ルーシ(キエフ大公国)を、ウクライナではなく、ロシア発祥の国と捉えるようになりました。

 

また、ロシアという国家がキエフから始まり、キエフは古代のロシア人(古ロシア人)にとって古都とみなされています。現在、ロシアがウクライナに執着する理由の一つです。逆に、ルーシの名称をロシアに奪われ、失ったウクライナの歴史は、近隣諸国の支配で苦しんだ「国がない」民族の歴史となったのです。実際、現在では、ウクライナは、キエフ大公国の滅亡から1991年まで政治的に独立した国家を形成したことがないとみなされています。

 

そこで、ウクライナ人(キエフの人)たちは、ロシアに実質的に併合された19世紀頃から、自分たちをロシア人と区別するため、「ルーシ」の呼称を改め、「ウクライナ」という新しい名前を用いるようになったと言われています。

 

ロシア人は「ウクライナ」を「辺境」の意味と解しますが、ウクライナ人は、「ウクライナ」が中世ルーシ語で、「国」という意味があることを、語源として解しています。これは、ロシアに事実上、併合されたウクライナの民族として自覚を持つための手段であったと解されています。

 

それでも、19世紀後半、ナポレオン以前の復古主義に基づくウィーン体制を崩壊させたナショナリズムと自由主義の高揚は、ウクライナにも影響を及ぼし、次第にウクライナ人としての民族的自覚、民族の独立と統一を求める動きが生まれていきました。

 

 

<ロシア革命の時代>

 

◆ ウクライナ人民共和国の建国

 

第一次世界大戦の末期の1917年3月、ロシア革命が勃発し、ロシア帝国が滅亡したことで、ウクライナにも独立の機会が訪れました。三月革命が起きると、ウクライナでも「ウクライナ中央ラーダ(会議)」(ラーダはロシア語のソビエトに相当)を結成しロシアからの完全独立をめざすのではなく、ロシアの枠内での広範囲な自治権の確立をめざしていました。

 

しかし、1917年11月、十月革命でボリシェヴィキ独裁政権がロシアで成立すると、ウクライナの中央ラーダは、ボルシャビキの暴力的な革命(権力奪取)を認めず、「ウクライナ人民共和国」を成立させ、翌18年1月に独立を宣言しました。

 

 

◆ ソビエト・ウクライナ戦争

 

これに対して、ロシアのボリシェヴィキ政権(ソビエト)は、1917年12月、軍事侵攻を決定し、キエフを一時、占領しました。このボリシェヴィキ軍とウクライナ民族主義者の戦いは、第一次世界大戦のドイツ敗戦後の1918年12月、再びソビエトがウクライナを侵攻したり、1920年4月、ソビエト=ポーランド戦争に乗じて、ウクライナ側も参戦したりするなど、断続的に1921年末まで続きました(これをソビエト・ウクライナ戦争と呼称することもある)。

 

その間、たとえば、ウクライナ人民共和国は、1919年1月、ポーランド分割後、オーストリアの支配下にあったウクライナのガリツィア地方に誕生した西ウクライナ人民共和国を実質的に併合し、国勢を強化しました。

 

しかし、結果的に、ソビエトとの戦いに敗れ、ウクライナには、ソビエト=ロシアに従属的な「ウクライナ社会主義ソビエト共和国」が誕生し、ソビエトからの独立を果たすことはできませんでした(西ウクライナは、ポーランド領となった)。

 

ウクライナ人民共和国政府は、1920年11月、ボリシェヴィキに敗れた後、ポーランドに逃れてウクライナ人民共和国亡命政府を立て、その後、1921年4月、亡命政府は、ポーランドを離れ、パリへ移りました。

 

ウクライナ史の中で、ウクライナは、1991年のソ連崩壊まで、独自の国家を持たなかった国と言われていますが、ウクライナ人民共和国の時代(1917.11〜1918.4、1918.12〜2020.11)に、ウクライナにも確かに独立国家が存在したことがあったと、ウクライナの人々の中には記憶されています。

 

実際、現在の独立ウクライナの国旗、国歌、国章はいずれも1918年、中央ラーダが定めた青と黄の二色旗が活用されています。ウクライナの民族主義の人々にとって、現代のウクライナ国家(国名「ウクライナ」)は、中央ラーダの正統な後継者であり、ウクライナ人民共和国の後継国家として位置づけられています。

 

 

<ソビエト連邦・ロシア連邦の時代>

 

◆ 「ウクライナ共和国」

 

1922年12月、ボリシェヴィキ(共産党)は、ロシア、ウクライナ、ザカフカース(カフカス)、白ロシア(ベラルーシ)の4つのソビエト共和国から成る連邦制の共和国、ソビエト社会主義共和国連邦(ソビエト連邦、通称「ソ連」)を結成しました。

 

これに伴い、ウクライナでは、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国(ウクライナ共和国)が成立し、ソ連邦を構成する社会主義国となりました。形式的にはウクライナは独立国ですが、ソ連邦を構成する一部分でしかありませんでした。。

 

◆ 独立国家「ウクライナ」

 

しかし、1991年12月、ソ連邦の崩壊を受けて、ウクライナ国家(国名「ウクライナ」)は独立しました。かつてのキエフ=ルーシは、ウクライナとして、現代ロシアとは別の国家として歩みを始めました。キエフ・ルーシ(882〜1240)滅亡から750年後のことです。

 

ところが、ロシア連邦のプーチンは、軍隊を派遣して、2014年2月にクリミアを併合し、2022年2月にウクライナに侵攻しました。女帝エカチェリーナ2世のロシア帝国がウクライナに対して得ていた領土の回復を図っているかのようです。これからも、歴史は繰り返すのでしょうか?

 

 

<関連投稿>

ロシアの歴史

ロシア史①:キエフ・ルーシとモスクワ大公国

ロシア史②:ツァーリとロシア帝国

ロシア史③:ロシア革命とソ連

ロシア史④:冷戦とソ連崩壊

ロシア史⑤:エリツィンとオリガルヒ

ロシア史⑥:プーチンの独裁国家

 

ウクライナの歴史

ウクライナ史➀:ルーシのキエフ大公国

ウクライナ史②:リトアニア・ポーランド・ロシア支配

ウクライナ史③:独立の失敗とソ連編入

ウクライナ史④:ソ連からの独立とロシアの侵攻

 

ロシア・ウクライナ戦争を考える

スラブ民族:ロシア人とウクライナ人の起源

プーチンの歴史観:ルーシキー・ミール

ウクライナ侵攻:ロシアがNATOこだわるわけ

ロシア正教会とウクライナ正教会:もう一つの戦争

 

 

<参照>

世界最大の領土を誇った大陸国家ロシア帝国ができるまで/

(図解でわかる 14歳からの地政学、 2022年4月4日)

手にとるように世界史がわかる本

(かんき出版)

なぜプーチン氏は破滅的な決断を下したのかウクライナ侵攻の背景にある「帝国」の歴史観

(2022年2月25日、東京新聞)

「ウクライナ紛争」が発生した「本当のワケ」――ロシアを激怒させ続けてきた欧米地政学と冷戦の戦後世界史 後編

(2023.02.22、現代ビジネス)

超大国と言われていたロシア。その実像と国民性に迫る

(News Crunch 2021.10.10)

語られないロシアの歴史とアメリカとの深い関係

(2020.06.02、キャノングローバル戦略研究所/小手川 大助)

“プーチンの戦争”は歴史家への挑戦 「帝国の敗北で終わる」

(2023年8月10日、国際NHK)

「ウクライナ戦争の解明」

(金沢星稜大学)

ロシアとウクライナ「民族の起源」巡る主張の対立ウクライナと呼ぶようになったのはなぜなのか

(2023/03/24、東洋経済)

宗教の境界で三分するウクライナと「千年に一度のキリスト教世界の分裂」:ロシアとの宗教対立

(2022/3/26、ヤフーニュース、今井佐緒里)

ロシアのウクライナ侵攻(第1章):ウクライナ危機の起源歴史、安全保障、地域の特性

(NIRA総合研究開発機構、研究レポート)

ウクライナ正教会の独立とロシア正教会の抵抗、その歴史的背景

(24.09.2018 、ウクルインフォルム通信)

ウクライナ(世界史の窓)

Wikipeidaなど

 

 

投稿日:2025年4月5日

むらおの歴史情報サイト「レムリア」