ブータン(Bhutan)
正式名:ブータン王国。通称ブータン。漢字では不丹と表記し、不と略す。
ブータンは、小国で貧しい国ですが、「世界一幸福度が高い国」と評価され、物質的な豊かさ以上に精神的な豊さを重んじる国として知られています。2005年に行われたブータン政府による国勢調査によると、国民の97%が幸福であると回答したというエピソードが有名です。
<概観>
ブータンは、海に接しない南アジアの「内陸国」で、インドと中国という2大国に囲まれています。また、ヒマラヤのふもとに位置し、7,000m級の山も4座有する自然豊かな国で、国土の70%が自然に覆われています。さらに、仏教への信仰心が厚いことで知られ、文化にも富んでいます。
ブータンでは、働く人の9割が農民で、国の大半が自給自足に近い暮らしを行なっています。人々は民族衣装を身にまとい、伝統建築の家屋に住んでいます。教育費は無料です。子どもたちは幼稚園の頃から英語に接しているため、流暢に英語を話せます。病院も無料で、また都市部を除き水道代も無料です。ブータンは「幸福の国」として世界中の関心を集めています。というのも、国民総幸福(GNH)という独自の尺度を導入し、国家としてGNHを追求しているからです。
面積:約38,394平方km(九州とほぼ同じ)
人口:約77万人(高知県とほぼ同じ)
人口密度:18.2(人/km2)、日本の約20分の1程度。
首都:ティンプー(人口、約10万人)、標高は2,320m。
民族:チベット系,東ブータン先住民,ネパール系等
宗教:チベット仏教(国教),ヒンドゥー教等
チベット仏教の4大宗派の一つである「カギュ派」の仏教を国教と定めています。なお、チベットでは「ゲルク派」という宗派が主流です。ブータンは仏教国で、仏教は7~8世紀にチベットより伝来したとされています(その意味では、ブータンはチベット文化の国といえる)。今でも、人々は自然界の全ての形あるものを崇拝しており、仏教の不殺生の教えに従っています。
国旗
ブータンの国旗は、国王の世俗的な権威を示す黄色と、宗教的な精神を示すオレンジの二色が使われ、中心には国の象徴でもある龍が描かれています。
<政治体制・内政>
政体:立憲君主制
元首:ジグミ・ケサル・ナムギャル・ワンチュク国王陛下(第5代)
第4代国王(前任) ジグメ・シンゲ・ワンチュク国王
王室の人気は絶大で、空港や町中には国王夫妻の看板が至る所に立ち並ぶ。
政府(首相)
2008年3月、第1回下院選挙(総選挙)
ブータン調和党(DPT)のジグミ・ティンレイ党首
2013年7月、第2回下院選挙
国民民主党(PDP)のツェリン・トブゲイ党首
2018年10月,第3回総選挙
ブータン協同党(DNT)のロティ・ツェリンDNT党首
<政党>
ブータン調和党
国王親政を支えた閣僚や高級官僚らが中心の政党、対中接近の傾向
国民民主党:親インド政党
ブータン協同党:前回選挙時に創設された新党。
ブータンでは過去の民族対立の背景から国外に非合法政党が存在する。
<外交・国防>
非同盟中立政策を外交の基本方針としつつ,近隣諸国との関係強化を図っています。1971年に国連に加盟。以降、閉鎖的な外交政策を改め、一定の規律の下、外国人の訪問を受け入れるようになってきました。1980年代に入るとバングラデシュ,ネパールを始めとする近隣諸国のほか、日本,西欧等との間で外交関係を樹立するなど、対外関係を拡大しました。なお、中国を含む国連安保理常任理事国とは外交関係を有していません。
インドとは,1949年のインド・ブータン条約により(対外政策に関するインドの助言を受ける)特殊な関係にある。もっとも、2007年3月の改定により同助言に関する条項は廃止され,経済協力,教育,保健,文化,スポーツ及び科学技術の分野での協力関係の促進を謳った新たな規定が盛り込まれた。ただし、インドは現在も、インド軍事顧問団を派遣して、ティンプーその他主要地点に駐留し,軍事支援を提供しています。
地域協力機構において、ブータンは、1985年12月に発足したSAARC(南アジア地域協力連合)の原加盟国です。また、2004年4月には、ACD(アジア協力対話)に加盟しています。
アジア協力対話(Asia Cooperation Dialogue)
大陸レベルでのアジア各国の協力を促進し、ASEAN、SAARC、湾岸協力会議など、既存の地域枠組みを強化・補完する枠組として2002年6月18日に、タイのイニシアティブにより設立された政府間組織である。ACDの主要加盟国は、クウェート、カタール、スリランカ、トルコ、インドネシア、タイ、ウズベキスタン、中国、日本、パキスタンで、これをACD主要10か国という。
<経済・社会>
IMFの統計によると、経済成長率は近年6%台で推移していますが、ブータンのGDPは約2000億円で、日本の人口6万人程度の市町村に相当する経済規模です(人口は約70万人)。一人当たりのGDPは世界平均と比較すると大幅に低い水準である。1日2ドル未満で暮らす貧困層は17万人と推定されており、国民のおよそ25%を占めている。従って、国連の基準では、後発開発途上国(最貧国)に分類されています。
ブータン政府は,1961年以降,5年ごとに策定される開発計画に基づく社会経済開発を実施。2018年7月からは,第12次5ヶ年計画が開始されています。就労人口の多くが農業に従事しており農業が重要な位置を占めていますが,近年は水力発電所の建設や周辺国への売電を含む電力セクターの開発により,工業部門のGDPに占める割合が上昇している。ブータンの対インド電力輸出額は国内総生産(GDP)の9%を占めています
ブータンの国内市場が小さく,ほとんど全ての消費財や資本財をインド及び他国からの輸入に依存しているため,慢性的な貿易赤字を抱えています。インドとの輸出入が圧倒的なシェアを占める中で,インド・ルピー以外の外貨収入を得る手段が限られています。
主要産業:農業,林業,電力(水力発電)
主要貿易品目
輸出:シリコン,電力,石類,セメント等
輸入:軽油,ガソリン,鉄製品,米等
主要貿易相手国
輸出:インド,バングラデシュ,イタリア,オランダ,ネパール
輸入:インド,韓国,中国,シンガポール,タイ,日本
通貨:ニュルタム(NU)
為替レート
1NU=1インド・ルピー=約1.53円(2018年10月30日現在)
<国民総幸福>
冒頭でも紹介したように、ブータンというと、メディアや雑誌で、「世界一幸福度が高い国」、「幸せの国」と表現されています。国民総幸福量(GNH)という独自の尺度を導入し、国家としてGNHを追求しているからです。
国民総幸福量(GNH)
国民総幸福量(Gross National Happiness)は、「国民全体の幸福度」を表す指標で、経済成長の観点を過度に重視する考え方を見直し、GNPやGDPなど、物質的な富の大きさでは測ることの出来ない「豊かさ」を測ります。国民総生産(GNP)に対置される概念です。
国民総幸福に基づいて、自然や文化を保全しながら独自の発展を進めるという概念が浸透し、「国家が幸福であるためには、国民それぞれの家庭が幸福である」ことを基本としています。そのため、産業の振興よりも自然環境を優先し、急激な近代化を望んでいません。急激な近代化は、国民の伝統的な生活を崩しかねないと考えられているからです。開発に際しても、以下の4つを柱として、国民の幸福に資する開発の重要性を唱えています。
(1)経済成長と開発,
(2)文化遺産の保護と伝統文化の継承・振興,
(3)豊かな自然環境の保全と持続可能な利用,
(4)良き統治
このことは、08年のブータン憲法にも次のように、反映されています。
・国土の60%を森林として残す
・国は文化遺産を守り、奨励するように努める
・物多様性の保全への貢献は国民の義務である
国民総幸福(GNH)は、ブータンで初めて提唱された尺度で、1970年代に前国王が打ち出しました。人口約70万人のブータンは、北に中国、南にインドと大国にはさまれ国家存続の危機感を常に抱いています。ただし、現実的には武装しても勝ち目はないので、国を守るには「人心しかない」というのが、前国王の考えでした。ブータンにとって、国民総福祉量は国家安全保障戦略でもあるのです。
美しい自然と仏教文化のなかで、経済的には決して豊かではないけれど、幸福に暮らす素朴なブータンの人々…。もちろん、近代化にともない、犯罪率も高まり、空き巣や強盗、若者による薬物濫用などの問題もでてきていると言われています。それでも、欧米の価値観とは一線を画しているブータンに注目する価値はあります。
<略史>
17世紀、チベットから移住してきた高僧ガワン・ナムゲルが,各地に割拠する群雄を征服し、聖俗界の実権を掌握したとされています。1907年、支配的郡長として台頭してきた東部トンサ郡の豪族のウゲン・ワンチュクが、ラマ僧や住民に推され初代の世襲藩王に就任し、現王国の基礎を確立しました。
1952年に即位した第3代国王は、農奴解放,教育の普及などの制度改革を行い,近代化政策を開始したが、内政が混乱したことから、1964年には、首相職が廃止され、国王にすべての権限を集約させる国王親政となりました。
しかし、1972年に16歳で即位したジグメ・シンゲ・ワンチュク第4代国王は近代化を進める一方、90年代から王政から立憲君主制(議会制民主主義)への移行準備を進め、そのめどが立ったところで、2006年に退位しました。現在、第5代、ジグミ・ケサル・ナムギャル・ワンチュク国王が就任し、前国王の意思を引き継いでいます。
2007年12月に上院議員選挙が、また2008年3月に下院議員選挙が実施され、これに勝利したブータン調和党(DPT)のジグミ・ティンレイ党首が国王により首相に任命され,新内閣が発足しました。2008年5月には国会が召集され,7月に初の成文憲法が採択されました。こうしてブータンは、王政から議会制民主主義を基本とする立憲君主制に移行したのでした。
<日本との関係>
日本とブータンは、1986年3月28日に外交関係を樹立しました。実際は、1971年9月、国連にてブータンの国連加盟の共同提案国となったことにより,日本は同国に対する黙示の国家承認を行っています。国交はあるものの日本、ブータンのどちらも相手国に大使館・領事館を持たず、双方の在インド大使館が外交の窓口となっています。日本の場合は、インドのニューデリーに非常駐の在ブータン日本国大使館を設置し、ブータン側は、東京、大阪、鹿児島にブータン王国名誉総領事館を開設しています。
ブータンは、親日国として知られています。背景には日本の皇室とブータン王室との深い関わりや、半世紀以上前から日本の技術者が農業やインフラ整備などの分野で支援を継続してきたことがあると指摘されています。とりわけ、故西岡京治氏(コロンボ計画/海外技術協力事業団(現・国際協力機構JICA派遣専門家)の農業振興指導は特筆されます。西岡氏は、1964年から28年間にわたって現地で農業技術の指導にあたり、「ブータンの野菜の父」と呼ばれるなど、ブータンの近代化に大きな足跡を残しました。92年、現地で急逝した西岡氏は生前、外国人として唯一「ダショー」(高貴な人)の称号を国王から授与されたほどです。
このように、日本からブータンへの支援は1964年に遡り、日本とブータンは、1986年に国交樹立以前にも西岡氏を起点に、民間の交流、政府間または国連を通じた開発援助などの友好関係がありました。その後も、1988年から青年海外協力隊(JOCV)の派遣が始まるなど、日本は農業のほかインフラ、地方行政、医療などの分野で支援を継続し、現在、ブータンにとって日本は重要な支援国となっています。この結果、それまで数人程度だった在留日本人の数も次第に増加し、これら技術援助関係者やNGOのボランティアと国際結婚のパートナーなど、合わせて100人近い日本人がブータンで生活しています。その一方、現在、留学、研修、結婚などで、常時30人前後のブータン人が日本に滞在しています。
ブータンへの支援は、農業やインフラ分野以外にも、ブータンの王政から議会制民主主義への移行にあたり、ブータン国営放送への支援(選挙・民主主義に関する番組作成)、遠隔地におけるTVセットの設置,仮設投票所の設置・オフィス機材供与といった無償支援もなされました。また、2008年3月に下院選挙においても監視団を首都ティンプー及びプナカに派遣しています。
<皇室とブータン王室の関係>
ブータン王家と日本の皇室との交流をみると、1986年の外交関係樹立後の翌年、皇太子時代の天皇陛下が、日本の要人として初めて訪されました。また、ブータンからは、現ジグミ・ケサル国王が、1989年の昭和天皇大喪の礼、1990年の現天皇陛下即位の礼に際して来日されました。
2011年は外交関係樹立25周年にあたり、11月に東日本大震災後初の国賓としてジグミ・ケサル国王とジツェン王妃が訪日されました。お二人は、その前月、ご成婚の儀を終えられたばかりで、その若さと爽やかさで、日本にブータンブームをもたらしました。また、その年の東日本大震災に際して、ブータンでは、地震発生後の翌日に国王陛下主催による祈りの式典,13日には首相主催による祈りの式典が行われ,義捐金100万米ドルが寄付されるなど、多方面にわたる支援が寄せられました。
2017年6月,ブータン政府の招待により,眞子内親王がブータンを訪問され、「ブータン花の博覧会」開会式に主賓として参列されました。なお、佳子内親王も、1997年3月に秋篠宮様(文仁親王)とともにブータンをご訪問されています。そして、今回2019年8月、悠仁親王の初の外国ご訪問地としてブータンが選ばれたのも、日本とブータンの絆の深さが伺えます。
ご皇族のブータン訪問
1987年3月 -徳仁親王
1997年3月 -文仁親王・佳子内親王
2017年6月 -眞子内親王。
2019年8月 -文仁親王・紀子妃・悠仁親王
<参考>
日本ブータン友好協会
ブータンAll About
日本・ブータン関係
「『家族』文化に親近感 ブータン、皇室と深い関わり」(2019.8.17、産経)
’(2019年10月9日)