京都三大祭、日本三大祭りの一つである「祇園祭」は、八坂神社の例祭です。今回は八坂神社についてまとめました。
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<八坂神社とは?>
京都の東山に位置する八坂神社は、牛頭天王(スサノオ)に対する信仰である祇園信仰の宗祠(そうし)で、疫病除け(やくびょうよけ)の社として知られ、古くから「祇園さん」と呼ばれ親しまれてきました。また、全国にある八坂神社(かつての祇園社)の総本社で、その分社数は現在、約2300社以上あると推定されています。
八坂神社は、創建時は薬師如来や観音を祀るお寺で、長く「祇園感神院(かんじんいん)」、「祇園寺」、「祇園社」、「祇園天神社」などと呼ばれ、現在の「八坂神社」は、明治維新の神仏分離にともなって改称されました。
<京都五社の一つ>
八坂神社は、京の都を守る京都五社の一つとして知られています。京都(平安京)は、大地の四方の方角を司る「四神」が守護する四神相応(しじんそうおう)の地として造営され、千年もの間、都として栄えました。「四神」とは、中国の神話に登場する、天の四方の方角を司る霊獣(都の東西南北を守る神獣)の事で、東の青龍(蒼龍)、西の白虎、南の朱雀、北の玄武のことをいいます。
八坂神社は、この陰陽道による四神相応の東方・青龍の位置に鎮座し、京都(平安京)の東方を守護する神社の役割を担ってきました。現在も、八坂神社の本殿を見上げると、鮮やかな青色の龍(青竜)の木彫りを見ることができます。
なお、四神に対応して、東西南北とその要所に鎮座し、京の都を守るお社は次の通リです。
・北(玄武):上賀茂神社
・東(青龍):八坂神社
・南(朱雀):城南宮
・西(白虎):松尾大社
さらに中央に平安神宮が鎮座しています(この5社を「京都五社」と呼ぶ)。
<現在の八坂神社の祭神>
本殿(十三座)
八坂神社の御本殿には、主祭神、配神合わせて13柱の神が、中御座、東御座、西御座に祀られています。主祭神は、素戔嗚尊(スサノヲノミコト)と、妻の「櫛稲田姫命(クシイナダヒメノミコト)」と子供の「八柱御子神(ヤハシラノミコガミ)」です。
素戔鳴尊は、記紀(古事記や日本書紀)でも伝えられているように、出雲で八つの頭を持った大きな蛇である八俣大蛇(ヤマタノオロチ)を退治し、櫛稲田姫命を救って結婚した神さまです。八柱御子神 とは、素戔嗚尊の8人の子供(五男三女神)の総称で、記紀ではスサノオノミコトが自身の潔白を証明するために天照大神と誓約(ウケヒ)した際に生まれました。
- 主祭神
中御座:素戔嗚尊 (スサノヲノミコト)(以下スサノオと表記)
東御座:櫛稲田姫命 (クシ(イ)ナダヒメノミコト)
西御座:八柱御子神 (ヤハシラノミコガミ)
八柱御子神
八島篠見神 (ヤシマジヌミノカミ)
五十猛神 (イタケルノカミ)
大屋比売神 (オオヤヒメノカミ)
抓津比売神 (ツマツヒメノカミ)
大年神 (オオトシノカミ)
宇迦之御魂神 (ウカノミタマノカミ)
大屋毘古神 (オオヤビコノカミ)
須勢理毘売命 (スセリビメノミコト)
- 配神
また、主祭神以外にも、配神(主祭神以外の神のことで相殿神ともいう)として、東御座と西御座に、それぞれ二柱のスサノオの妻と、櫛名田比売命の父が祀られています。
東御座
神大市比売命 (カムオオイチヒメノミコト)
佐美良比売命 (サミラヒメノミコト)
西御座
稲田宮主須賀之八耳神(イナダノミヤヌシスガノヤツミミノカミ)
稲田宮主須賀之八耳神は、大山津見神(オオヤマヅミノカミ)の子で夫婦神、櫛名田比売命(クシナダヒメノミコト)の父、足名椎(アシナヅチ)のことで、スサノオがヤマタノオロチを退治した後、宮殿(須佐之男之宮)を建て、その首長に任じた際に与えた名前です。
<かつての祇園社の祭神>
これに対して、明治以前、八坂神社が祇園社(祇園感神院)と呼ばれていた時代は、今とは異なり、牛頭天王、八王子、頗梨采女が祀られていました。
中の座(中御座):牛頭天王 (ゴズテンノウ)
東の座(東御座):八王子 (ハチオウジ)
西の座(西御座):頗梨采女 (ハリサイニョ/バリウネメ)
牛頭天王(ゴズテンノウ)は、釈迦の生誕地に立てられ釈迦が25年過ごして説法した祇園精舎の守護神とされ、仏教と共に京都に入って来ました。もっとも、牛頭天王は当初、疫病をはやらせる側の悪神、疫病神でしたが、平安時代になると、いつの間にか牛頭天王本人が疫病を除く神に変貌しました。日本には古来、災いをもたらす神や霊を丁重にお祀りすることで、災いを除ける役目を担ってもらうという逆説的な信仰形態はよく見られることです。
また、同時、神仏習合が盛んであった時代、荒々しい風貌の牛頭天王は次第に日本の荒ぶる神スサノオ(素戔嗚尊)と同一視されるようになりました(本地仏は薬師如来)。実際、日本書記によれば、神々の住む高天原から地上へと追放された素戔嗚尊(スサノオノミコト)は、最初に新羅の牛頭山(ごずさん)に、御子の五十猛神(イソタケルノミコト)とともに降りた後、船に乗って東に渡り、出雲国に着いたとされています。
なお、牛頭天王は、元はインドのインドラと言う神さまだと言われていますが、実際にはインド、中国、朝鮮において信仰された形跡はなく、日本独自の神であると見られています。
頗梨采女(ハリサイニョ)は、牛頭天王の后神で、スサノオ(素戔嗚)の后である櫛稲田姫命と同一視されました。
八王子は、牛頭天王と頗梨采女との八人の王子で、暦神の八将神(はっしょうじん)に比定(比較して推定)され、さまざまな方位の吉凶を司るとされました。八王子のそれぞれの名前にはいくつかの表記が見られます。
大歳神(たいさいじん)(太歳神)
大将軍神
大陰神(太陰神)
歳刑神(さいぎょうじん)
歳破神
歳殺神
黄幡神(おうばんしん)
豹尾神(ひょうびしん)
また、「祇園牛頭天王縁」によれば、牛頭天王は竜宮で八ヵ年の間に相光・魔王・倶魔良・徳達神・良(羅)侍(らじゅ)・達尼漢・侍神相・宅相神らの八王子を儲けた」とあります。
一方、祭神として、牛頭天王およびそれに習合した素戔嗚尊(スサノオノミコト)の名が文献上は出てこずに、当初は「天神」または「祇園天神」とだけ呼称されていた時代もあったとされています。「天神」とは、この地の先住民から農耕守護神または産土神等として崇敬されていた地母神/地主神でもある「八坂神」のことと推察されています。
そうすると、八坂神社(祇園社)の最初の祭神は、牛頭天王や素戔嗚尊とは異なる「天神」で、「八坂神」が、寺院を守護する伽藍神として観慶寺内に勧請されたのではないかとみられ、やがて、遅くとも鎌倉時代までには、牛頭天王と素戔嗚尊が相次いで習合したものと考えられています。
現在では、明治の神仏判然令で、社名は、祇園社(祇園感神院)から八坂神社となり、祭神は、牛頭天王からスサノオノミコト(素盞男尊)に、頗梨采女から櫛稲田姫命に、八王子から八柱御子神(ヤハシラノミコガミ)に変更されました。
<八坂神社にまつわる伝説>
- 蛇毒気神の不思議
祇園社の東御座にはかつて、社伝には明確な記述がない蛇毒気神が祀られていたとされています。
蛇毒気神(ダドクケノカミ)は、八俣大蛇(ヤマタノオロチ)のことだとする説もありますが、一般的には牛頭天王と、その妻である頗梨采女(ハリサイジョ)の子と言われ、平安時代後期までには祇園社で祀られていたそうです。この説によると、二人の間には七人の王子がいましたが、実は、毒蛇になった王子がもう一人いたとされ、それが、蛇毒気神(毒蛇)で、七王子が生まれたときに池に捨てた胞衣(えな)と月水(経血)から生まれたそうです。
日本にも古くから蛇神信仰というのがあり、それが龍神信仰と結びついていきました。また、牛頭天王や祇園社にイスラエルの影響が見られると一部で指摘されてきたことから、蛇毒気神も、インドよりさらに西の地方から持ち込まれた可能性があるとの見方もあります。
- 龍穴伝説
八坂神社には、「龍穴(りゅうけつ)」の上に建っているという伝説が残されています。それによれば、本殿の下に大きな池があり、そこに龍が棲むと語り継がれています。その大きな池は、大地のエネルギーが集まる場所として龍が住む「龍穴」で、そこから、清水(せいすい)とともに「気」が湧き出ているそうです。八坂神社の場合、その龍穴は青龍の穴であり、湧き出でる清水も、青々とした水で満たされ、古くから都を守ってきたと伝えられています。
(冒頭でも触れたように、八坂神社は、京都を守る京都5社の一つ)
また、その池(龍穴)の水脈は、都の中心(平安京の西)に位置する堀川御池辺りの神泉苑や、南の東寺まで続いているといわれ、伝説では竜宮城にまで繋がっていたとも伝えられています。実際の調査でも、京都の地下には琵琶湖の水量に匹敵する地下水脈があると推測されているそうです。
実際、八坂神社の境内には、神水が湧き出ている場所が実在します。それは、八坂神社の本殿東(本殿向かって右側)に位置し、龍穴から湧き出ているとされる「力水」と呼ばれる御神水(祇園の涌き水/祇園神水)を汲むことができます。また、御神水は、八坂神社の境内にある大神宮社と美御前社の前にも湧き出ています。
<八坂神社の由緒>
八坂神社の創祀(起源)には、文献により諸説が多くあって、必ずしも一定していませんが、代表的な由来をいくつか紹介します。
- 高句麗の伊利之使主・創建説
飛鳥時代の656年8月、朝鮮半島の高句麗から来日した調進副使(朝廷への使い)の伊利之使主(イリシオミ)が、新羅国の牛頭山(ごずさん)に座した、牛頭天王(ゴズテンノウ)の神霊を、山城国愛宕郡八坂郷の地に、社を建てて奉斎したのが起源とも言われています。その後、社号は感神院と名付けられました。
また、この時、伊利之は八坂造(やさかのみやつこ)の姓を賜り、子孫代々、八坂神社の神官として奉仕したとされています。
- 渡来氏族である八坂造・創建説
八坂神社は、高句麗系の渡来氏族である八坂造(やさかのみやつこ)の一族が住んでいた場所に、その地(八坂郷)の鎮守神(八坂氏の氏神ともいわれる)を祀ったのが始まりとされています。年代不詳ですが、794年の平安京建都以前とみられています。
日本書記によれば、八坂造(やさかのみやつこ)の祖は、高麗人(こまびと)の「之留川麻之意利佐(シルツマノオリサ)」と書かれています。なお、意利佐(オリサ)は伊利之(イリシ)と同一人物と考えられています。
一方、八坂造(やさかのみやつこ)に関連して、次のような説もあります。
天長6年(829)、公卿の紀百継(きのももつぐ)(764-836)は、山城国愛宕郡八坂郷丘一処を賜り、神の祭祀の地としたことが、感神院(祇園社の前身)の始まりとされています。そして、八坂造の娘を妻とし、男子のなかった八坂造家の職を継承したといわれ、その後裔である行円(ぎょうえん)は、永保元年(1074)に感神院執行(大別当)となり、以後子孫代々その職を継いだと伝えられています(明治維新による世襲制の廃止まで続いた)。
- 僧の円如・創建説
八坂神社は、平安時代の八坂郷・常住寺の僧、円如(えんにょ)によって創建されたと言われていますが、この円如説にもさらに諸説があります。
八坂神社は、876年6月、京の都に疫病が流行した際に、「東山の麓、祇園林に天神が垂迹(降りてきた)した」として、円如が、天神堂(祇園天神社)を建てたのが起源とされています。同時に、観慶寺(かんぎょうじ)が建立され、その薬師堂に、薬師如来像(薬師千手などの像)を合わせて安置(奉安)されたとも伝えられています(この天神堂の傍らに薬師堂を創建してこれを観慶寺と名付けたという説もある)。
なお、「天神」は、八坂の地の先住民から農耕神または産土神として崇敬されていた地主神または伽藍神(寺社を守護する神)としての「八坂の神」のこととされています。
また別の説では、876年、南都の僧、円如が観慶寺を建立し、お堂に薬師千手等の像を奉安、その年6月に、天神を観慶寺内に勧請(分霊を迎えること)し、祇園天神社(天神堂)を建てたとも言われています。
いずれにしても、神仏習合の時代、観慶寺(別名:祇園寺)の境内には薬師堂と天神堂がならび建ち、その後、天神堂が多くの崇敬を集めるようになり、祇園社(後に八坂神社)に発展していったことは共通の認識と言えます。
一方、同じ円如による創建説でも、天神ではなく、牛頭天王を勧請したという説もあります(天神が牛頭天王であるという見方もある)。
奈良時代、吉備真備(695~775)は、唐より帰朝の際、播磨国広峰に牛頭天王を祀ったとされていました。876(貞観11)年、常住寺の十禅寺円如という僧が、その牛頭天王の神託により、牛頭天王を播磨國広峰(広峰神社)から八坂郷の樹下に移し(勧請し)、一宇(一棟の家)を建てて、祇園天神社と称して祀ったことが八坂神社の起源と言われています。
やがて、元慶年間(877年~885年)(877)、都下に疫病が流行したとき、摂政右大臣藤原基経は、牛頭天王のために、己が邸宅を壊し、運んで寄進して精舎とし、感神院と称しました。その行為があたかも須達長者が釈迦のために建立した祇園精舎に似ているとてして、感神院は祇園寺、また、その天神堂は祇園社とよばれるになりました。(または、牛頭天王は、祇園精舎の守護神であるので、この神を祭った場所は、祇園の名が冠せられ、祇園感神院あるいは祇園社と呼ばれたという見方もある)。この基経の縁で、感神院(祇園社)に対する藤原氏の崇敬も厚かったことから、祇園社の地位は次第に高まっていきました。
そのほかにも、例えば次のような説も残されています。
- 陽成天皇・創建説
元慶元年(877)、疫病が流行したので、その原因を占ったところ、東南の神の祟りとされたことから、各社に祈り奉幣が行われたましが、一向に治まりませんでした。そこで、さらに占ったところ、(八坂神社のある)東山の小祠の祟りとわかり勅使を発遣、正しく祀り祈ったところ、疫病の流行が止んだというのです。その2年後の元慶3年(879)には、陽成天皇が堀川の地十二町を神領地として寄進されたことが、祇園社の始まりとなりました。
<祇園社から八坂神社へ>
八坂神社には、様々な由緒がありましたが、その後の経緯をみていこうとすると、その連続性の観点から円如創設説からの流れで、説明を続けていこうと思います。
神仏習合の時代、観慶寺(別名:祇園寺)の寺域内には、薬師堂と天神堂(感神院)がならび建ち、寺院と神社の二つの性格が併存していましたが、その後、天神堂が祇園社(祇園天神社)に発展しました。
また一説には、934年に、観慶寺(別名:祇園寺)の子院として感神院が建立されると、神仏習合が進んでいく中、牛頭天王が祇園精舎を守護する神であることからやがて、立場が入れ替わって、観慶寺ではなく、感神院が祇園社の別当寺(べっとうじ)(神社を管理するために置かれた寺)となり、名称も、祇園の名が冠せられ、祇園感神院とも呼ばれるようになったそうです。
観慶寺(かんぎょうじ)は、935年(927年という記録もある)に、定額寺(じょうがくじ)に列せられました。定額寺は平安時代の寺格の一種で、官大寺・国分寺に次ぐ寺格を有した仏教寺院のことで、観慶寺は私寺であっても、准官寺としての待遇を受けることになりました。
一方、観慶寺(別名を祇園寺)は、薬師仏を本尊とし、もともと、奈良・法相宗の興福寺に属していました。当時、南都北嶺(南都は興福寺、北嶺は延暦寺)の争いが絶えず、その影響で、974(天延2)年には、従来の南都(興福寺)の支配を脱し、天台宗・延暦寺の別院となり、日吉社(ひえしゃ)の末社となりました。
祇園社(祇園感神院)としては、当初、興福寺、次いで延暦寺の支配を受けていたことから、神社ではなく寺とみなされていましたが、995年、王城鎮護(おうじょうちんご)の社の21社(後に22社)に加え(列せ)られ、以後、王城鎮護の神としても尊崇されました。
王城鎮護の社とは、神社の社格の一つで、国家の重大事、天変地異の時などに朝廷から特別の奉幣を受けました。そこに祀られている神(王城鎮護の神)とは、都の守護神とされた神々で、伊勢神宮・石清水八幡のほか、賀茂上下・松尾・平野・稲荷・大原野・日吉・梅宮・吉田・北野などが含まれていました。
1072(延久4)年3月、第71代、後三条天皇が、祇園社に行幸され、以後歴代天皇の行幸が行われるようになりました。
一方、武家の時代に入ると、時の権力者から祇園社は保護されました。1384(元中元)年、室町幕府3代将軍・足利義満は、観慶寺(祇園寺/祇園社)を延暦寺から独立させたと伝えられています。
戦国時代は、寺社にとって苦難の時期でしたが、1590(天正18)年、関白・豊臣秀吉は、祇園大塔を造営し、母大政所の病気回復を祈願しました。この時、秀吉は焼失していた大塔を再建するとともに、一万石を寄進しました。これによって、戦国期に荒廃した祇園社の再興が進んだと言われています。
江戸時代には、1654(承応3)年に、4代将軍・徳川家綱が、1646年に焼失した本殿を再建しました(現存する社殿を造営)。
1871(明治4)年、明治維新後の神仏分離によって、祇園社(祇園感神院)は、現在の「八坂神社」と社名を改称され、官幣中社に列格しました(1915年には官幣大社に昇格)。また、神仏分離令に伴う廃仏毀釈により、観慶寺は廃絶され、仏事も廃止、江戸時代の頃にあった薬師堂や多宝塔をはじめ多くの僧坊もなくなるなど、仏教色は一掃されました。
1945年の敗戦後、八坂神社は、官幣大社という社格は廃され、宗教法人となり、現在に至っています。
<八坂神社の摂末社>
八坂神社の境内には、本殿を取り囲むように20社近いお社があり、さまざまな神さまが祀られています。
- 主な摂社
(主祭神と関係の深い神さまを祀っている神社)
疫(えき)神社
祭神:蘇民将来
その名の通り疫病除けのお社で、蘇民将来(そみんしょうらい)を祀っています。蘇民将来は、牛頭天王(素戔嗚尊)(別名:武塔天神)から疫病を免れる茅(ち)の輪を授けられたという伝承があります。
備後国風土記の「蘇民将来」の逸話
北方の海に住んでいた武塔神は、妻候補を探して南へと旅をします。その途上、一夜の宿を借りようと、土地の長者・巨旦将来(こたんしょうらい)を訪ねますが、無下に断られました。そこで巨旦の兄で貧しい蘇民を訪ねると、質素ながらも暖かく武塔神を迎え入れました。後日、妻を娶り八人の王子も儲けた武塔神は、一宿一飯の礼にと、蘇民将来を訪ね、自分を冷遇した蘇民の弟、巨旦については一族郎党、疫病に死去したこと伝え、蘇民には「茅の輪を腰の上に着けよ。私は速須佐雄(ハヤスサノオ)の神である(スサノオと牛頭天王は習合)」と自らの正体を明かしました。さらに、「後の世に、疫病が流行るなら、蘇民将来に縁のある者として、茅の輪を腰に着けていれば、疫病を避けることができる」と語りました。
こうして、疫病除けの祭礼としてはじまった有名な祇園祭では、粽(ちまき)などに、疫病退散を願って「蘇民将来之子孫也」と書かれた護符を付ける風習が生まれました。また、疫神社では、祇園祭の最終日には鳥居に取り付けられた大きな茅の輪を作り、くぐることで厄除けを祈る夏越祭(なごしさい)が行われます。
悪王子社
祭神:素戔嗚尊の荒魂
神さまには和やかな「和魂(にぎみたま)」と荒々しい「荒魂(あらみたま)」の二つの面があり、八坂神社の悪王子(あくおうじ)社には素戔嗚尊(スサノミコト)の荒魂が祀られています。現代で言う「悪」とは違い、「悪=強力」、強い、勇猛といった意味合いがあります。
- 主な末社
主祭神とはあまり関係のない、客分の神さまを祀っている神社
北向蛭子社
祭神:事代主神
八坂神社の北向蛭子(きたむきえびす)社は、事代主神(コトシロヌシノカミ)を祀る社で、七福神の蛭子神と同一視されていることから、海の神、商売の神として信仰されています。
大神宮社
祭神:天照大神・豊受大神
八坂神社の大神宮(だいじんぐう)社は、天照大神と豊受大御神(トヨウケノオオミカミ)が祀られていて、鳥居のかたわらには、前述したように、力水とも呼ばれる御神水が湧きだしています。
美御前社
祭神:宗像三女神
多岐理毘売命(タギリビメノミコト)
多岐津比売命(タギツヒメノミコト)
市杵島比売命(イチキシマヒメノミコト)
八坂神社の美御前(うつくしごぜん)社は、美人の誉れ高い三柱の女神(宗像三女神)を祀られ、財福、芸能、美貌の神さまとして信仰されてきました。その名の通り、美容美徳にご利益があり、舞妓さんや芸妓さんをはじめ、美容・理容業界の人々、そして全国の女性たちが参拝に訪れるそうです。また、美御前社には、大神宮と同様に、力水とも呼ばれる御神水が湧きだしています。
大国主社
祭神:大国主神・事代主神・少彦名命
大国主(おおくにぬし)社の祭神の大国主神いえば、出雲の神さまで俗にいう大黒様として知られ、福の神、縁結びの神さまとして親しまれています。
<参照>
八坂神社(HP)
京都・八坂神社の見どころを徹底解読!(旅・ぐるたび)
龍の棲む神社!?祇園の町を守る縁結びスポット・八坂神社 …
神様事典、名古屋神社ガイド
八坂神社,Yasaka-jinja Shrine,Kyotofukoh – 京都風光
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八坂神社 古くから「祇園さん」とよばれ、疫病除けの神 …
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牛頭天王信仰
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牛頭天王 神奈備
Wikipediaなど
2019年9月18日(最終更新日2022年4月5日)