諏訪神社を中心とする神道の信仰を諏訪信仰と命名されるほど、諏訪神社は日本の各地に広がっており、諏訪神社と名のつく神社は、全国で約25,000社もあります。その諏訪神社の総本山が、長野県の諏訪にある諏訪大社です。その由緒(由来)が謎に満ちて興味がそそられます。
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<諏訪大社とは?>
諏訪大社は、先にできた上社(かみしゃ)と後から建てられた下社(しもしゃ)に分かれ、かつそれぞれ2つの社殿(上社に本宮と前宮、下社に秋宮と春宮)があり、全体としては4社で構成されています。
そこに祀られている神さま(祭神)は、一般に、諏訪大明神というお名前で知られていますが、実際は、出雲神話で有名な大国主命の子である建御名方神(タケミナカタノカミ)と、その妃・八坂刀売神(ヤサカトメノカミ)です。より正確には、4社の祭神(さいじん)は次の通りです。
上社本宮(ほんみや):(主祭神)建御名方神
上社前宮(まえみや):(主祭神)八坂刀売神
下社秋宮(あきみや)
(主祭神)八坂売神
(配神)建御名方神、八重事代主神(ヤエコトシロヌシノカミ)
下社春宮(はるみや):
(主祭神)八坂売神
(配神)建御名方神、事代主神(コトシロヌシノカミ)
*事代主神には、八重事代主神(ヤエコトシロヌシノカミ)、積羽八重事代主神(ツミハヤエコトシロヌシノカミ)の別称がある。
諏訪大社としての公式な見解として、「4社」の祭神は、建御名方神(タケミナカタノカミ)と八坂刀売神(ヤサカトメノカミ)、総じて「諏訪大明神=諏訪大神」としています。または、上社の主祭神は建御名方神、下社の主祭神が妻の八坂刀売神という言い方もされています。全国の諏訪神社もこの2神を主祭神としています
*主祭神(しゅさいじん):複数の神が祀られている神社で主として祀られる神のこと。
*配神(はいしん):同じ神社で主祭神のほかに祀られている神のこと。相殿神(あいどのしん)という呼び方もある。
*明神:一般的には日本の神仏習合における仏教的な神さまの称号として使用されるが、神さまを尊んで呼ぶ称号でもある。
<諏訪大社の由緒>
- 「国譲り神話」説
諏訪大社の祭神である建御名方神(タケミナカタノカミ)は出雲の神さまですので、諏訪大佐の起源は、当然、以下のような記紀(古事記・日本書記)の神話に遡ることができます。
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大国主命の国作りによって豊かになった地上の国を見て、天界の天照大御神は、武神・建御雷神(タケミカヅチノカミ)を遣わし、地上の国を自分の子に譲るように迫った。これに対して、大国主命は答えを渋り、子で建御名方神の兄の事代主神(ことしろぬしのかみ)に委ねた。
事代主神は、父の代わりに国譲りを承諾したが、建御名方命は、容易に承知せず、建御雷神(タケミカヅチノカミ)と力競べをして決することになった。結果は、タケミカヅチが勝利し、建御名方神(タケミナカタノカミ)は、信濃国の諏訪湖まで敗走します。追ってきたタケミカヅチノカミに建御名方命は、国譲りを認め、自身は諏訪湖から出ないことを約束し、許された。
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こうして、建御名方命(タケミナカタノカミ)は諏訪湖のほとりに止まり、諏訪明神となったと伝えられています。また、このとき、建御名方神は、「諏訪の地から2度と出ない」と誓いの証に、4本の柱を立て外に出ないようにしたとされ、これが諏訪大社の始まりとされています。なお、4本の柱が今も諏訪大社に伝わる御柱祭の起源となっています。
(より詳しい記紀の国譲り神話については「記紀④(国譲り):神代の政権交代、出雲からヤマトへ」を参照下さい。
一方、建御名方神の妃である八坂刀売神(ヤサカトメノカミ)は、記紀にはまったく登場せず、断片的な説話や民話が残るだけの謎の多い女神とされています。
諏訪地方では、凍結した諏訪湖の氷が堤状にせり上がる神秘的な自然現象「御神渡り(おみわたり)」が有名ですが、これは、建御名方神が妻の八坂刀売神に会いに行くために、湖を渡った跡であると伝わっています。
この諏訪大社のはじまりが、記紀の国譲り神話によるという一般的な見解に対して、地元で根強く親しまれている伝承があります。
- 甲賀三郎の物語
昔、近江の国に、甲賀に甲賀権守という者に三人の息子がいて、長男を甲賀太郎、次男を甲賀次郎、三男を甲賀三郎といいました。ある日、魔物退治に出掛けた甲賀三郎は、地面に穴が開いているところを発見し、中に入るとそこには魔物に捕われていた姫君がいました。三郎はこの姫君を助け、妻に娶りました。しかし、姫君があまりにも美しかったので、兄たちは嫉妬し、姫君をさらってしまいました。
三郎は妻を探し回った結果、信州蓼科山(たてしなやま)の人穴で発見し、救出しますが、ここでも、追ってきた兄弟達の策略にはまり、三郎はその人穴から出られなくなってしまいました。しかたなく、穴の奥底に進んでいくと、異国の維縵国 (ゆいまこく) という地底国に行きつきました。そこで、三郎は、そこの王に気に入られて、その国の姫と結婚し、維縵国で13年暮らしました。しかし、時が経過しても、三郎は、前妻を忘れられないと、国に帰ることを希望すると、国王もやむなく認めてくれました。
三郎は、なんとか日本に帰ってくることができましたが、出てきた所は信濃の国、浅間山の大沼でした。しかも、三郎の体は、巨大な蛇(龍の姿)に変わっていたのです。そのため、道行く人々に恐れられることを嫌がった三郎は塔の下に隠れていました。すると、その塔の前に、老僧に身を変えた神が現れました。この僧(神)に導かれ、池の水を飲み、僧が呪文を唱えるとヒトの姿に戻ることができたのです。
その後、前妻と再会することができた三郎は、妻と天竺に赴き、神通力を身につけ、神となって日本に帰ってきました。こうして、信濃の国に現れた二人は、諏訪の神となり、現在、諏訪大社の上社、下社にそれぞれ祀られるようになりました。
記紀神話より、この「甲賀三郎の物語」の方が、諏訪の人々の間では伝承として親しまれているそうですが、「どちらか?」ではなく、「甲賀三郎の物語」のような伝承と折衷させた見方も根強く支持されています。
- 土着の神との融合・折衷説
この立場に立ったシナリオには、「諏訪大社の祭神は、出雲系の建御名方神(タケミナカタノカミ)ではなく、諏訪地方の先住民達が信仰する土着の神(神々)だったが、後から、建御名方神と習合した」というものがあります。
実際、諏訪には、モリヤ(洩矢)という土着の神さまがいて、そこに建御名方命(タケミナカタノカミ)がやってきて、戦いの末に諏訪の地は奪われたという伝承があります。モリヤ神は、蛇または龍の形をした神さまとされており、甲賀三郎が巨大な蛇になった話しとつながります。さらに、諏訪明神の神体は竜蛇であると古くから伝えられています。
この土着のモリヤ神と建御名方命(タケミナカタノカミ)とが折衷されたという見方は、諏訪大社上社には、モリヤ神と習合したとされるミシャグジという、諏訪地方で長く信仰されている土着の神も祀られているという事実からも、説得力があります。
また、諏訪大社の神事や祭祀の中に、他の一般的な神社のものとは異なり土着信仰に関わる様式が数多くあることなども支持要因となっています。例えば、動物の頭を供える御頭祭といった他では見られない風習、信仰が伝わっています。
(モリヤ神については、「ミシャグジ信仰:洩矢神と守矢氏とともに」を参照下さい。
<諏訪という接点>
加えて、古代の信濃国は、大和と先住民との境界に位置しており、両者が融合したという見方もあります。諏訪地方は、縄文遺跡が数多く発見されているだけでなく、最近では、稲作を中心とした弥生文化が最後に伝播した地域であることも分かってきています。
そこから、記紀の国譲り神話は、もともと諏訪にあった狩猟的=先住民文化(縄文文化)に、建御名方神(タケミナカタノカミ)の「敗走」によって、農耕的=大和文化(弥生文化)が伝えられたことを意味していたという仮説が立てられています。諏訪の地が文化の融合点だったのではないかというわけですね。
諏訪大明神とも称される諏訪の神さまは、水や風や野といった自然を司る竜神であり、狩猟・漁業だけでなく、農耕や山の守り神として、古くから信仰を集め、諏訪信仰の中心にいるのです。
<パワースポットとしての諏訪大社>
諏訪大社の鎮座する位置が、以下のように、風水的、地質学的にも特異であることから、諏訪大社は、今もパワースポットとして注目されています。
- 諏訪大社は、「フォッサマグナ(本州を東西に分割する大断層)」の西側の境界線である糸魚川・静岡構造線と、「中央構造線(南西日本を縦断する日本最大級の断層である)」の交わる場所に鎮座している。
- 諏訪大社は、日本三霊山の富士山と立山を結ぶレイライン上に鎮座している。
- 諏訪大社の真東に、鹿島神宮が鎮座し、両社で東西ラインを形成している。
鹿島神宮には、記紀で建御名方神(タケミナカタノカミ)を打ち負かせたとされる建御雷神(タケミカヅチノカミ)が祀られています。諏訪大社の地には、まだまだ明らかにされていない謎がありそうです。
(2021年3月6日更新)
<参考記事>
<参照>
諏訪大社HP
諏訪の神様ってどんな神様?今日もゼロ発信・matchy
パワースポット諏訪大社のご利益・・・日本の観光地・宿
artwiki
関東農政局HP