出雲の国は、神の国、神話の国として知られ、今も古の神社が多くあります。その中心が「大国主命(オオクニヌシノミコト)」をお祀りする出雲大社です。今回は出雲大社についてまとめました。
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- 出雲大社の本殿
出雲大社は、通常、「いずもたいしゃ」と呼ばれますが、正式名称は「いずもおおやしろ」と言います。ただし、明治時代初期まで、杵築大社(きづきたいしゃ)と呼ばれていました。
御本殿は、「大社造」と呼ばれる日本最古の神社建築様式で、その高さは24メートルにも及びます。その御本殿内には、「主祭神」の大国主命(オオクニヌシノミコト)以外に、客神(まろうどがみ/きゃくじん)として、以下の「御客座五神」が祀られています。(客神とは、「神社の主祭神に対して、他の地域から来訪し、その土地で信仰されるようになった神」と定義される)。
<祭神>
主祭神
大国主大神(オオクニヌシノオオカミ)
御客座(きゃくざ)五神
天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)
高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)
神産巣日神(カミムスヒノカミ)
宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂノカミ)
天之常立神(アメノトコタチノカミ)
これら五柱(いつはしら)の神々は、記紀神話の「天地開闢(創造)」にでてくる「別天津神」(ことあまつかみ)のことで、高天原に坐(ま)します神々です。
ただ、不思議なことに、(参拝者からみて)御本殿の正面には、主祭神の大国主大神ではなく、「御客座五神」が鎮座しています。大国主大神はというと、一番奥の「御客座五神」の少し前の(正面に向かって)右側の奥に鎮座しています。御本殿は南向きであるのに対して、大国主大神の御神座は西向きになります(参拝者からみたら横向きに鎮座している)。
ですから、私たちは、このことを知らずに普通に拝んだら、祈り方によっては大国主大神ではなく、「御客座五神」を拝んでいることになります。
御拝殿左手にある「神楽殿」には、長さ13m、重さ4.5トンの日本最大級の注連縄(しめなわ)が張ってあります。
本殿遷座
現在の御本殿は1744年に造営され、これまで3度の遷宮が行われました。遷宮(せんぐう)とは、神さま(ご神体)をそれまでの御社殿(お宮)から新しい御社殿へお遷しすることをいい、出雲大社では、2013年に、60年ぶりに遷宮事業(「平成の大遷宮」)が実施されました(実際は、屋根の修造などを16年まで続いた)。
なお、「遷宮」の中でも、定期的な遷宮を式年遷宮(しきねんせんぐう)といいます。「式年」とは「定められた年」の意で、現在では、「式年遷宮」という時、20年毎に社殿を遷しかえる伊勢神宮(三重県伊勢市)の式年遷宮を指す場合が多いようです。出雲大社の場合、確かに、60〜70年毎に建て替えられてきましたが、必ずしも定期的ではないので「式年遷宮」に該当しないと解されています。
- 大国主神さまについて
記紀神話によれば、大国主命(オオクニヌシノミコト)は、素戔鳴尊(スサノオノミコト)の子で(スサノオの6世の孫とも言われる)、最初は大己貴命(オオナムチノミコト)という名前でした。ほかにも多くの名前があり、大物主神(おおものぬしのかみ)や八千矛神(やちほこのかみ)なども、ご神命の一つで、神話のなかで物語が展開するたびに呼び名が変わっています。
また、大国主大神は、後に、小づちを持って俵の上に乗った姿が有名な大黒さまとして「福の神」の信仰を受けています。それは、大国主大神には、所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)(天の下造らしし大神)というご神命があることとも関連しています。
大国主神は、国造りの神として広く知られ、国土を開拓しながら、国々をまわり、稲や粟の栽培方法など農耕・漁業の殖産の方法を教えていかれました。鳥獣や昆虫の害から穀物を守るためのまじないの法までも定められたと言われるなど、人々が生きてゆく上で必要な多くの知恵を授けられました。また、因幡の白ウサギを助けた話しに象徴されるように、医薬の業を始め、広められたことから、医薬の神としても信仰されています。
- 「少彦名神」という神さま
一方、大国主神の所造天下大神(天の下造らしし大神)としての仕事は、少彦名神(スクナビコナノカミ)の協力の下に行われました。少彦名神は、出雲大社の祭神「御客座五神」の中の神さまで、造化三神の一柱でもある神産巣日神(カミムスヒノカミ)の子です。
神産巣日神が、少彦名神のことを、「私の手のひらの指の間から生まれた子ども」と紹介しているように、少彦名神は、その名前の通り小さな神さまで、「御伽草子」の一寸法師のモデルとなったとされています。
記紀によれば、神産巣日神は、「あなたたちは兄弟になって、『葦原中つ国(とよあしはらのなかつくに)(=地上の国のこと)』を治めなさい」と命じられ、大国主大神は、少彦名神とともに、国づくり、村づくりに奔走されました。しかし、大国主神との国づくりの途中、「やるべきことは終わった」として、少彦名神は、熊野の御崎から、常世(とこよ)(幽界)の国へと行ってしまったと伝えられています。
- 出雲大社創建の由緒
出雲大社の起源は、記紀(古事記・日本書記)の「国譲り」神話と密接な関係があります。古代、大国主大神は、国つ神(国津神)(地上に現れた神々のこと)として、出雲を中心にこの国を治められ、「豊葦原の瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)」と呼ばれるほど、あらゆるものが豊かな力強い国を築かれました。
そこへ、天つ神(天津神)(天界の高天原にいる神々)の天照大神(アマテラスオオカミ)が「地上の世界は自分たち、天つ神が治めることこそ望ましい」と考え、使者として建御雷神(タケミカヅチノカミ)を送り、大国主に地上の覇権を譲るように迫りました。
大国主神は、「国譲り」を同意されますが、「私の治めている、この現世の政事(まつりごと)は、皇孫(すめみま=皇孫)がお治めください。これからは、私は隠退して幽(かく)れたる神事を治めましょう」と述べ、「国譲り」に応じる代わり、自らは死後の世界である「幽世(かくりよ)」を治め、かつ自らの住まいを建立して欲しい旨を伝えました。
建御雷神(タケミカヅチノカミ)から報告を受けた天照大神は、大国主大神の住居を「天日隅宮(あめのひすみのみや)」と命名し、高天原の自分の住居と同じように、柱は高く太い木を用い、板は厚く広くして築くこと、そして自分の第二子の天穂日命(アメノホヒノミコト)を仕えさせ、末長く守らせると約束されました。
こうして大国主大神は目に見えない世界を委ねられ、天照大御神の御命令によって高天原の諸神がお集まりになり、大国主大神のために宇迦山(うがやま)の麓に壮大なる「天日隅宮」が造営されました。
この天日隅宮(あめのひすみのみや)が今の出雲大社の起源となっています。現在の本殿は、高さ24メートルと神社では異例の高さですが、古代は48メートルだったと伝えらえています。これは、技術的に不可能とされてきましたが、00年に境内から巨大な柱跡が見つかり、本当に48メートルの高さであった可能性がでてきています。
また、出雲大社の宮司の職には、記紀の言い伝えに基づいて、天穂日命(アメノホヒノミコト)の子孫とされる出雲国造(いずものくにのみやつこ)のみが就いています。現在は第84代出雲国造 千家尊祐(せんげたかまさ)宮司がその伝統を受け継がれています。
ですから、たとえ天皇であっても、出雲大社の本殿内に入り、祭祀を行うことができないしきたりになっています。出雲大社は、それほど、歴史と伝統を、今も守っている神社であると言えます。なお、「国造」は、通常、「くにのみやっこ」と読まれますが、出雲では「こくそう」と昔から読み慣らわしているそうです。
- 「縁結びの神さま」の由来
出雲大社・大国主神(大国主命)は、縁結びの神・福の神として、広く知られています。明治時代に始まったとされる神前結婚式も、出雲大社で最初に行われたそうです。
いつ頃から「縁結びの神」「福の神」と呼ばれるようになったかと言えば、中世以降、福の神が訪れるという「福の神伝承」や、近世始めに「縁結び信仰」が盛んになったころと指摘されていますが、源流はやはり記紀神話に遡ることができます。
大国主大神が天照大神に「国譲り」をなさったとき、「――これからは、私は隠退して幽(かく)れたる神事を治めましょう」と述べたと紹介しました。そこから、大国主命は「幽世(かくりよ)(あの世)」を治める神なので、目には見えない縁を結ぶ神であるという信仰が生まれたと言われています。
なお、縁結びというと、今では「男女の縁結び」が強調されがちですが、男女の縁だけでなく、人の縁にかかわる様々な縁を含みます。
さらに、「――神事を治める」ということは、その「幽れたる神事」について、神無月(旧暦10月)に、全国から神々をお迎えして、人の縁にかかわる万事諸事、収穫、酒造りなどについて、神議り(会議)をなさるとの伝承も生まれました。
実際、旧暦10月は、全国の八百万(やおよろず)の神々が出雲の国に集まり、日本中の神々が出払い留守になるので、「神無月(かむなづき)」といいますが、出雲では「神有月(神在月)(かみありづき)」と呼ばれ、様々な神事が営まれます。(この神事については、下の「参考記事」へ)
(2021年4月21日更新)
<参考記事>
<参照>
出雲大社HP
出雲観光協会HP
日本の神様事典、やおよろず
Wikipediaなど