ゾロアスター教②:ペルシャからの発展と衰退

 

前回はゾロアスター教の教義全般を説明しました(ゾロアスター教①:ユダヤ教・キリスト教の源流)が、今回は、古代イランに誕生したゾロアスター教について、その発展と衰退の経緯をみていきたいと思います。なお、ゾロアスター教の正確な成立時期は不明でしたが、ここでは、紀元前1200年頃という推定に基づいています。

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  • 古代ペルシャとゾロアスター教

 

古代イランにおいて、ゾロアスター教が成立する前(紀元前1200年以前)から、ミトラ(ミスラ)神など、さまざまな神々が祀られていました。これらの古代ペルシアの神々は、自然への畏怖と感謝が形象になった自然神で、人々は、部族ごとのさまざまな神々を崇拝する密議や呪術を行っていました。これは、イラン人に限らず、他のアーリヤ人も同様で、オリエント(ペルシア)神話においては共通のことでした。

 

*ミトラ教は、インド=ヨーロッパ語族のアーリヤ人の諸宗教の一つで、西アジアにあったアーリヤ人の太陽神(光明神)であるミトラ神(ミスラ神)をまつる密儀宗教。ミトラ教については、以下の投稿記事を参照。

ミトラ教①:古代ペルシャの密儀宗教

ミトラ教②:キリスト教に奪われたローマの国教の座

 

*アーリア人とは、インド=ヨーロッパ語系諸族の一派でインドとイランに定住した民族のこと。

 

西アジア地域(オリエント地方)において、前2000年から1500年ごろにかけて、イラン人が鉄器と騎馬術を身につけて急速に力をつけてくると、旧来の部族的な秩序が崩れ、イラン社会の混迷が広がってきました。そうした社会の混乱期にあって、前1200年ごろにゾロアスターが現れ、当時の古代イラン人(アーリア人)の間で信仰されていた多神教の神々を否定し、一神教の最高神を信仰するゾロアスター教を創設しました。

 

ゾロアスター教では、唯一絶対神への信仰に加えて、人に恵みを与える「善」の神と、人に害を与える「悪」の神の存在(「善悪二元論」)が説かれ、それまで地域ごと部族ごとに信仰されていた神々は一つの大きな宗教体系に再編成されました。

 

その過程で、善神の象徴として火を崇拝する儀式を守る祭司団が成立し、前1200年代から前7世紀頃までの長い経緯のなかで原始ゾロアスター教団が形成されていったと考えられています。その後、アケメネス朝ペルシアの時代になって、現在私たちが知っているゾロアスター教の教義が確立されたとみられています(原初のゾロアスター教と区別して後期ゾロアスター教という場合もある)。では、ゾロアスター教の宗祖、ゾロアスターについてみてみましょう。

 

 

  • ゾロアスターの一生

 

伝承によれば、ゾロアスターは西北イラン(現・アゼルバイジャン共和国)で生まれたとされ、二十歳の頃から、彷徨の旅に出て隠遁生活に入り、三十歳の時に次のような天啓を受けて預言者となったとされています。

 

「春の季節祭を祝う日の夜明けに近い時刻、ゾロアスターは儀式に用いる水を汲むために近くの川に出かけました。水を汲んで引き返そうとした時、土手に光の神が現われ、その光明に導かれて天上の最高神(賢明なる主なる神)の世界に到達しました。ここで神々の大光明に包まれたゾロアスターは、己の魂が開かれるのを覚えたのです。」
(「ゾロアスター教の教えと神の名について」から引用)

 

このような経験を幾度か重ねたゾロアスターはアフラ・マズダによって神に仕える預言者に選ばれ、その教えを広める役を与えられました。

 

最高神で唯一神アフラ・マズダが、ゾロアスターに啓示した内容とは、この世界は、善の神であるアフラ・マズダーと悪の神アンラ・マンユ(アーリマン)が闘争する場であること、この善悪の戦いも、世界の終末が訪れるとき、救世主が現れアフラ・マズダが勝利すること、善神に味方した人間は、最後の審判により天国(楽園)に入ることができるというものでした。

 

ゾロアスターは、伝道に力を尽くしましたが、イラン中心部ではミトラ教などのイラン在来の宗教に阻まれて受け入れられませんでした。そこで四十二歳の頃、東方に赴きバクトリアの大守ヴィーシュタースパの帰依を得て、ようやく足場を固め、念願のイラン全土への教えの普及が実現したのでした。

その後も、イラン中心部からさらに周辺のアルメニア、バビロニアなどにも帰依者の輪を広げることに成功しましたが、七十七歳の時、バルフで侵入者の遊牧民トゥラン人の攻撃を受けて死去したと伝えられています。

 

ゾロアスターの死後、ゾロアスター教は、歴代のペルシア皇帝たちが帰依したということもあり広く普及していきました。

 

 

  • ゾロアスター教の進展

 

現存する歴史の中で明らかなことは、ゾロアスター教は、アッシリア帝国滅亡後にイラン高原を支配したメディア王国支配下でイラン人のなかで広がりました。

 

さらに、そのメディア王国を滅ぼしたアケメネス朝ペルシャ(紀元前550年〜紀元前330年)の時代、ゾロアスター教は、ペルシアで王たちの保護を受けて発展しました。もっとも、アケメネス朝ペルシアが成立した時にはすでに、王家を始め、王家を支える有力なペルシャ人のほとんどが、ゾロアスター教の信者であった言われています(すでに国教となっていたする見方もあ)。ゾロアスター教は、ペルシャ帝国内に浸透し、王権を支え、権威づけていたことが伺えます。

 

しかし、アレクサンドロス大王の東方遠征によってアケメネス朝ペルシア帝国が滅亡すると、ゾロアスター教は危機的な状況に陥ってしまいます。始祖ゾロアスターの言葉は文字ではなく、口承によって伝えられていたのですが、アレクサンダー大王の東征によって、ゾロアスター教の祭司(マギ)が多数殺されてしまいました。そのため、ゾロアスター教の伝承が途絶えてしまったのです。こうしたこともあって、後世のゾロアスター教の文献では、アレクサンドロスは最大級の悪魔として非難されているそうです。

 

  • セレウコス朝からパルティア、サザン朝

 

アレクサンダー大王の死後、その帝国が崩壊し、イランを支配したギリシア系国家セレウコス朝シリアの時代には、ヘレニズム文化が流入してきました。もっとも、ギリシア文化の影響は都市部にとどまり、農村ではゾロアスター教の信仰とその伝統は根強く残ったと言われています。

 

前3世紀にイラン高原に出現したペルシア国家、アルサケス朝パルティアも、強くヘレニズムの影響を受けていたため、ゾロアスター教にもギリシア的な偶像崇拝などの影響が現れたとされています。

 

パルティア王は、他の宗教に寛容であり、ゾロアスター教を弾圧するようなことはなかったこともあって、パルティア治世のイランで、イラン文化復興の動きがでてきました。そうした環境下、ゾロアスター教は、次第に、当時の教団としての態勢をつくりあげていきました。

 

ゾロアスター教は、イランのササン朝(226~651年)の支配と結びついて体系化され、国教の地位を確立しただけでなく、その指導者(首位聖職者)は、王に次ぐ地位を得るまでになりました。アケメネス朝治下のペルシア帝国の復興をめざしたササン朝の初代の王アルデシール1世は、イラン民族の伝統宗教であるゾロアスター教を国教とすることで、自らの正当性の根拠としたうえで、国家の統一と中央集権制の確立をはかったのでした。

 

国教としての地位を確立したゾロアスター教でしたが、当初はズルワーン教やマニ教も広がりを見せるなど、盤石であったわけではありませんでした。

 

 

  • ズルワーン教

 

ズルワーン(ズルヴァン)教は、ズルワーン神を崇拝する宗教で、一説には(後期)ゾロアスター教のかつての分派(ゾロアスター教ズルワーン派)とされています。ズルワーン(ズルワーン・アラカナ)は、アヴェスタ語で(無窮の)「時間」あるいは「空間」を意味する創造神です。それゆえ、ズルワーン教は拝時教と呼ばれることがあります。

 

前回の「ゾロアスター教①:ユダヤ教やキリスト教の源流?」で比較的詳細に説明したように、本来、ゾロアスター教においては、アフラ・マズダが善悪の対立を超えた絶対神の地位にあり、アフラ・マズダの双子の善神スプンタ・マンユと悪神アンラ・マンユの戦いを最終的には裁いていく役割を担っていました。

 

しかし、後に、スプンタ・マンユがアフラ・マズダと同一視(習合)されたため、本来のアフラ・マズダのような絶対的唯一神であり創造神として、ズルワーンが定立されたと考えられています。

 

そうして、世界の始まりの時にはズルワーン(無限の時)のみが存在し、アフラ・マズダとアンラ・マンユ(アーリマン)は、ズルワーンの産まれた双子であり、スプンタ・マンユは世界の二大原理のうち「善」を、アンラ・マンユは「悪」を選択したという伝承になりました。

 

さらに、当初、悪とされたアンラ・マンユも、次第にその地位を上げ、スプンタ・マンユ(アフラ・マズダ)と同じように、もう一人の創造神として扱われるようになりました。善と悪の原理に基づいて万物を創造した二神は、世界の終末(最後の審判)の時まで互いの勢力を生み出しつつ争っていると考えられるようになっていったのです。

 

一方、ズルワーン(ズルヴァン)信仰は、かつてのメディア帝国の領域からアルメニア、小アジアにかけての西部イランで、古来、存在していたという見方もあります。彼らが奉じるズルワーン(ズルヴァン)神は、時間・空間の神で、この神は善と悪、光と闇、男性と女性の性質を同時にもつ神とされています。

 

アケメネス朝時代、ズルワーンは、ゾロアスター教の西漸してくる過程で、ゾロアスター教と習合し、アフラ・マズダーとアンラ・マンユ(アングラ・マインユ)両者の父であると同時に、宇宙万物を支配する最高神とされました。

 

いずれにしても、ズルワーン信仰は、アケメネス朝時代を起源として、ササン朝時代になって、国家承認を受けるだけの勢力になったとされていますが、10世紀には滅亡しました。

 

 

  • マニ教

 

同じ3世紀頃、ゾロアスター教の隆盛と同時にマニ教という新宗教が成立しました。マニ教は、バビロニアで生まれたイラン人の預言者マニ(マーニー)が、ゾロアスター教をもとに、キリスト教や仏教の要素も取り入れて折衷したもので、2代君主シャープール1世はマニ教を保護するほどでした。

 

そうすると、当然、国教であるゾロアスター教との対立することになりましたが、次のホルミズド1世は、ゾロアスター教祭司団の主張を受け入れ、マニ教を宮廷から追放しました。教祖マニも、第4代君主バフラーム(ワフラーム)1世(在273~276)によって処刑されてしまいました。その後もマニ教は異端として排除されるなど厳しく弾圧され、ゾロアスター教の優位が復活する形となりましたが、マニ教の影響力を完全に絶つことはできませんでした。

 

 

  • マズタグ教

 

5世紀末頃のササン朝ペルシアで、今度はマズダク教が興りました。ゾロアスター教の祭司であった開祖のマズダクは、マニ教に傾倒していたとされています。その教えは、非暴力、菜食主義、土地所有の平等、女性の解放などが含まれ(その思想内容からマズダクは、後に史上初の共産主義者と言われた)、マズダク教は一時流行しました。国王のカワード1世(488-531)のように、既存の貴族勢力に対抗するために、マズダクを宰相に取り立てるほど、マズダク教を受け入れる国王も現れました。

 

しかし、マズダク教は、国王の意図を超えて社会運動化していくと、信者は納税を拒否したり、中に大貴族の家を襲撃したりする急進的な者たちも出始め、社会は混乱に陥ってしまいました。そこで、即位前のホスロー1世(皇太子ホスロー)は、528年、教祖マズダクを始めとする信者を殺害し、マズダク教は徹底的に弾圧されました。

 

こうした背景下、即位したホスロー1世の治世において、ゾロアスター教の教義や教団の整備に迫られることになり、聖典「アヴェスター」の最後の編纂や、その注釈書、神学書が著わされました。その後のゾロアスター教は、国教としての態勢を強化し、その後も商人らの影響により各地に伝播していきました。

 

 

  • イランのイスラム化

 

しかし、7世紀にイスラム教がイランに侵入すると、ササン朝ペルシア帝国は、ニハーヴァントの戦いに敗れ、滅亡してしまいました。

 

イスラム教では、ユダヤ教徒やキリスト教徒を啓典の民(ズィンミー)として認め、人頭税(ジズヤ)の納付を条件にその信仰を認めていました。ゾロアスター教徒も、啓典の民とはされなかったものの、ゾロアスター教徒に一定の敬意が払われ、啓典の民と同じように扱われました。また、イスラム教に改宗すれば、税制面でも最終的には人頭税が免除され、奴隷も解放されました。ゾロアスター教を国教としたササン朝が敗れたことは、イスラムの教えが正しいからだと信じられるようにあり、多くのイラン人が改宗したと言われています。

 

こうして、イスラム教の浸透によって、ゾロアスター教は、急激に衰退の道をたどり、イランにおいてはほぼ消滅した。もっとも、ゾロアスター教徒の一部は、中央アジアを経て東方に移住する者たちもいました。

 

 

  • インドのゾロアスター教徒

 

ササン朝の滅亡後、ゾロアスター教の一部の信徒はインドに逃れ、インダス川下流域に定住しました。彼らは、パールスィーパーシー)と呼ばれて、大きく変質しながらも現在に至っています。パールスィーの名前の由来は、インドの人々からは「ペルシアから来た人々」という意味でそう呼ばれるようになったそうです。

 

伝承によれば、パールスィーの先祖は、西暦936年にインド西部のグジャラート海岸に上陸し、ゾロアスター教の教義と儀礼を守り続け、交易をしながら生計を立て、ヒンドゥー教徒とも共存していたとされています。

ただし、13世紀(1206年)、イスラム政権であるデリー=スルタン朝や、16世紀になるとポルトガル人が現れ、パールスィーに改宗を迫るなどの弾圧がありましたが、パールスィーはそのつど信仰を守り続けました。1572年には、侵入してきたムガル帝国のアクバル帝の保護下に入りました。

 

パールスィー(パーシー)は現在、約6万人いると推察されていますが数は減少しています。ヒンドゥー教徒との通婚のない族内婚を続け、他の宗教からの改宗者も受け入れていないため、宗教儀礼は色濃く独自性を保っているとされています。インドでは少数派ではありますが、パールスィーは経済活動に優れ、インドでタタ財閥を創出したタタもゾロアスター教徒です。

 

 

  • 中国のゾロアスター教   

 

ゾロアスター教は中央アジアで東西交易に従事していたイラン民族であるソグド商人によって、中国に伝えられました。ソグド人は、その地でゾロアスター教の拝火儀式を守り、イラン系住民を中心に各地で祅廟・祠堂がもうけられるなど、一時さかんな信仰を保ち流行していました。

 

最初に中国に伝えられたのは、3~4世紀の三国~南北朝時代の北魏の頃です。ゾロアスターの神は当初、天神とか胡天神(えびすてんじん)などと呼ばれ、北朝の時代には宮廷で保護されるようになったと伝えられています。隋書には、胡天神を祀る「薩甫(サッポ)」としてゾロアスター教は紹介されています。

 

唐の時代、ゾロアスター教は祆教(けんきょう)といわれ、一時、長安で広く流行しました。祆(けん)とは胡人の神のことで、信者が神を火祆とよんだことが由来とされています。これはやはり、7世紀の中ごろササン朝ペルシアがイスラム帝国に滅ぼされたときに、多くのイラン人が中央アジアを経て唐に流れこんだことが一因とされています。

 

唐の時代、ゾロアスター教(祆教)は、仏教・マニ教・回教(イスラーム教)・キリスト教とともに異教の一つとされて、多くの信者がいました。なお、ゾロアスター教は、ネストリウス派キリスト教(景教)、マニ教(摩尼教)とともに三夷教(さんいきょう)と呼ばれていました。日本の空海が、804年に唐朝を訪れた頃にも、ゾロアスター教の祆祠(けんし=祆教の寺院)は多数あったとされています。

 

しかし、845年、道教を深く信仰した唐の武宗が、仏教とともに三夷教も禁止し、弾圧したため(「会昌の法難」)、ゾロアスター教(祆教)は中国において衰退していきました。

 

 

  • 現在のゾロアスター教

 

今日、ゾロアスター教徒は、主としてイランとインドなど西アジアに分散した少数民となるなど、ゾロアスター教は少数宗教となっています。現在、統計上のゾロアスター教徒の数は正確にはわかりませんが、約10万人程度と推定されています。また、現在のゾロアスター教(インド・イラン)は、改宗者を受けいれず、信者はかならず両親(まれに片親だけでもよいことがある)が信者である家族に生まれなければならないと限定されています。

 

世界で最初の啓示宗教であったゾロアスター教も、現在では、イラン人に固有のものとなり、世界宗教から民族宗教へと変質してしまいました。ゾロアスター教がアケメネス朝の時代にギリシアに伝わる過程で、一部で魔術的な宗教と捉えられたことが、ルネサンス時代や近代にいたるまでのゾロアスター像となってしまいました。現在、最初に預言者ゾロアスターが説いた教えは、ユダヤ教やキリスト教、イスラム教によって、世界に伝えられています。

 

<参考>

ゾロアスター教①:ユダヤ教・キリスト教の源流!

ミトラ教①:古代ペルシャの密儀宗教

ミトラ教②:キリスト教に奪われたローマの国教の座

 

 

<参照>

ゾロアスター教の教えと神の名について(アイスピ)

ダエーワ(ピクシブ百科事典)

世界史の窓

Wikipediaなど

 

(2022年6月16日)