中国の古代史:夏・殷・西周・東周(春秋戦国)

 

前回の投稿、「中国の先史時代:三皇五帝、伏羲から舜堯まで」では、上古中国の神話の世界を含む三皇五帝の時代をまとめました。今回は、その後の夏・殷(商)・周の三代の時代を取り上げます。とりわけ、周(西周)は、孔子が理想とする政治体制が敷かれ、儒教(儒家思想)の基盤を与えたともいえる重要な時代であり、古き良き中国を知ることができるでしょう。

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概観

これまで、古代中国で、夏王朝は、史書に記されていたものの、その実在が疑われていましたが、考古学上の発見が相次ぎ、中国では、夏王朝が、紀元前16世紀に興った殷王朝に先立つ最古の王朝として実際に存在したことが明らかになりました。もっとも、日本においては、夏王朝の存在は甲骨文字などの文字資料が出土していないことから、伝説上の最古の王朝(史書に記された中国最古の王朝)と位置づけています。

(本投稿では、中国説をとり、実在した最古の王朝ととらえます)

 

その後、夏から殷(商)(前16世紀〜前11世紀)を経て、周(前11世紀〜前256)が成立しましたが、やがて周の衰えとともに多くの小国家が分裂し、諸侯が互いに争う春秋(前770〜前403)・戦国時代(前403〜前221)とつながります。

 

 

<夏王朝>

(紀元前2070年頃- 紀元前1600年頃)

 

夏(か)は、司馬遷の「史記」では、三皇五帝に次いで出現し、殷(商)に先立つ王朝です(夏后(かこう)または夏后氏ともいう)。初代の禹(う)から末代の桀(けつ)まで、14世17代471年間続いたと記されています。

 

禹(う)王は、夏王朝の始祖で、中国古代の伝説上の聖王です。尭の時代、中国に大洪水が起きた際、治水のために、初め、禹の父である鯀(こん) が起用されましたが失敗し、後を継いだ子の禹が13年かけて成功させました。その功によって、禹は、尭を継いだ舜から天子の位を譲られ(禅譲を受け)、夏王朝を創始しました。

 

禹は、即位後、免税や行政の簡素化など善政を行ったとされ、禹王の死後、夏の祖神とされる子のが諸侯から推されて帝位につき、これが中国における世襲王朝の先例となりました。その後、伝承では、夏王朝、最後の天子のは暴君であったため人心が離れ、前16世紀中頃、殷(商)の湯王によって、夏は滅ぼされました。夏王朝の実態調査・研究はこれからですが、この時代、各地の宗教祭祀を統合して、宮廷における「礼制」が整備され、新たに階層秩序も形成されたと推察されています。

 

(参考)(こん)

鯀は禹王(うおう)の父で、堯帝に命ぜられ、黄河の洪水を治めようとしたが失敗し、舜帝によって羽山に追放、誅殺されました。その際、死体は3年腐らず,刀で腹をさくと禹(う)が生まれたと伝えられています。禹王と同じく伝説上の人物で、多くは人面魚身(魚形)で描かれています。

 

 

<殷(商)王朝>

(前17世紀頃〜前1046年)

 

は、夏の存在が明らかにされるまで、中国最古の王朝として知られていました(甲骨文の発見によって殷の存在は確認)。当初はであったが、これを滅ぼした周が殷と称しました(現在、中国の歴史教科書では、商を正式な国号としている)。 紀元前1600年頃、夏王朝の桀王の治世が乱れたので、殷の湯王が立って、夏を滅ぼし、殷(商)王朝を建て、黄河中流域を支配しました(このような武力による政権交代を、放伐という)。

 

湯王(とうおう)

中国古代の殷王朝の創始者で、殷を建国後、亳(はく)(現在の河南省)に都をおき,伊尹(いいん)などの賢臣を宰相として用い,異民族をも心腹させる善政を行ったと評されています。殷王の支配した殷(商)は一つの都市であり、周辺の邑(ゆう)(古代の集落の総称)と言われる都市国家との連合体(邑制国家)を形成していました(邑の中で、殷は最有力であったので大邑(たいゆう)と言われた)。

 

殷王は、歴代の王の霊や神霊に対する祭祀と、甲骨文字を使った占卜(せんぼく)(占い)によって政治を行っていたとされ、その政治手法は、祭政一致による神権政治でした。湯王の後、何度か遷都を繰り返しながら、次第に黄河中流中原に支配権を拡大していきました。後期(前14世紀)の19代の王の盤庚(ばんこう)の時に、殷墟の地(現河南省安陽市)に遷都し、湯王の頃の政治を復活させたと言われています。都の殷墟は、大邑商と言われ、最後まで続きました。後に、殷墟からは、甲骨文字や青銅器とともに、巨大な殷王の地下墓が発見されています。

 

盤庚の死後、王朝は衰え、殷王朝の最後の(ちゅう)王は前11世紀に周の武王に倒され、殷(商)は滅亡しました。紂王は、美貌の妃妲己(だっき)を溺愛し、いわゆる「酒池肉林」の贅沢、放蕩、暴政を極めたと言われ、後世に暴君の代名詞にされました。

 

 

<周王朝(西周)>

(紀元前1046年頃〜紀元前771年)

 

周は西周と東周に区分され、紀元前771年、都を鎬京(こうけい)(西安)から洛邑(洛陽)に遷すまでを西周(せいしゅう)、遷都から前256年に秦に滅ぼされるまでを東周と呼ばれます(周王朝、全体で言えば、前1046〜前256年)。

 

(西)周は黄河の支流渭水流域にあった邑(ゆう)(古代の都市国家)の一つで、はじめ渭水(いすい)盆地(渭水は黄河最大の支流)にあって、殷の支配を受けていましたが、文王の時に有力となり、紀元前1046年に武王が、殷の紂王を倒して、周王朝を開きました。都は渭水盆地の鎬京(現西安付近)に置かれ、殷と同様、諸邑の盟主として華北一帯に君臨しました。

 

(西)周は前771年に一度滅びますが,前770年に、洛邑(洛陽)に遷都して再興されました。(遷都以前を西周、以後を東周という)。しかし、東周の時代は周王の支配力は弱まり、春秋戦国時代(前770〜前221)となり、前256年、赧王(たんおう)のとき秦によって完全に滅ぼされました。

 

  • 文王の時代

文王(ぶんおう)は、後世の儒家から、古代の理想的な聖天子と称された名君で、子の武王によって殷は滅びましたが,王朝の基礎は、文王(前1152年〜前1056年)が徳によって築いたと評されています。中国中央部の陝西(せいせい)地方で、「虞芮の訴え」の逸話で有名な虞(ぐ)と芮(ぜい)2国の争いを裁くなど、諸侯の信頼を得て、周囲の蛮族を従えながら、領土を拡大させました。

 

(用語)

虞芮の訴え(ぐぜいのうったえ)

昔、中国で虞・芮の2国が、その田地の所有権(田)を争い、何年経っても解決しなかったため、 周の文王の裁決を求めて周に向かいました。すると、周では、耕す者はあぜを譲り合い、道行く者は道を譲り合っているのを見て、大いに恥じて、文王に会わずに、訴えをやめました。

 

こうして、宰相・太公望(呂尚(りょしょう)などの補佐も受けながら、文王は、周を殷に対抗できる勢力に伸長させましたが、これを警戒した殷の紂王(ちゆうおう)によって幽閉され、一時、囚われの身になりました。それでも、反逆を実行することなく最期まで臣下であり続けたことは、儒教の名分・忠義の観点から評価されています。

 

文王は、易の三聖の一人にも数えられますが、この捕囚の間に、易(占い)の基本図象の一つである六十四卦の卦辞(かじ)を整備したと言われています(易については別投稿を参照)。

 

 

  • 武王の時代

武王(ぶおう)(生没年不明)は、周王朝の開祖、初代の王であり、徳による政治を継承したことから、文王とともに聖人君主とされています。後に、夏の禹、殷の湯王、父の文王に並び、尭・舜以降、古代中国の聖王として後世に崇められ、禹湯文武(うとうぶんぶ)という 併称も残されました。

 

周の軍師・太公望ら賢臣の補佐をうけた武王は、周族の勢力をさらに伸ばし、前1024年頃、殷の紂王を牧野(ぼくや)の戦いで破り、周王朝を創設しました。都は渭水流域の鎬京(こうけい)に置き、華北一帯を支配しました。殷を滅ぼした後、武王は、もう戦いはしないことを示すために、武器をすべて廃して、兵士を故郷に返したという逸話も残されています。

 

易姓革命

また、中国古来の政治思想である易姓革命は、周の武王が殷を滅ぼした頃から唱えられるようになりました。易姓革命(えきせいかくめい)とは、王朝の交代を肯定する理論で、徳を備えた君主は、天命によって天下を治めているが、徳がなくなると、革命が起き、別の有徳者が天命によって天子(君主)となり、新たな王朝が誕生します。

 

革命の本義は、「天命を革(あらた)める」という意味です。これを悟り、君主が自ら位を譲るれば「禅譲」、武力によって追放されれば「放伐」となりますが、殷は、易姓革命によって放伐され、交代(交替)した周が王朝を樹(た)てたことになります。

 

 

  • 武王の後の時代

 

さて、殷を滅ぼした後、武王は、後継者である子の成王がまだ年少であったため、周の行く末を、弟の周公(周公旦)や功臣の太公望呂尚(りょしょう)に托し、病没しました。実際、周の政治体制が確立するのは、次の成王と周公の時代であったと言われています。

 

周公(周公旦)

文王の四男、武王の弟(生没年不詳)で、武王の死後は、幼少の成王を助けて政務を執り,摂政として、周の支配を確立させました。礼をもって封建制度の規範としたことから、儒教では理想的人物とされています。のち、封建制の創設の際、曲阜(きょくふ)に封ぜられ,魯(ろ)(現山東省)を開いたとされています(曲阜は魯の郡)。

 

 

封建制

 

周は、殷時代の卜占(ぼくせん)による神権政治を脱し、封建制によって長期にわたり安定した支配秩序を維持することができました。封建制とは、周王朝の下で確立した制度で、周は、王の一族や、異姓の功臣(有力な臣下)、地方の有力な土豪(各地の土着の首長)を諸侯として、一定の領地(邑)と人民の支配権を与えて世襲させることで、各地を統治するシステム(制度)です。

 

このような世襲の支配者を「諸侯」といい、与えられた領地を「封土」といい、諸侯に与えられた地域を「国」と言います。封建とは、王族や功臣などに諸として土を与えて、てさせるという「封侯建国」の略語です。実際、殷との戦い後、周の封建制の下で、戦後,太公望(呂尚)は斉、弟の周公(周公旦)は魯(ろ)に封じられ、周王の一族では、召公(召公奭(しょうこうせき)が燕、唐叔虞が、康叔が(殷の故地に立てられた)など各地に封建されました。

 

また、周王室と血縁関係を持つ者以外にも、は、五帝の一人、顓頊(せんぎょく)の後裔と称する地方の有力者によって建国され、周に従いました。

 

さらに、周王室に従う諸侯は、周王を宗主と仰ぎ、周王から領地の大小や周王室との関係の濃さにより、公(こう)・侯(こう)・伯(はく)・子(し)・男(だん)という5ランクの爵位を授けられ、秩序立てられました(ゆえに、これらの「国」の君主はそれぞれ○公とか、△候と自称した)。

 

一方、国を支配する諸侯も、同じように国内の土地を一族や臣下に分与しました。具体的には、諸侯の家臣には、(けい)・大夫(たいふ)・(し)と呼ばれる、血縁関係にある世襲の家臣がいて、大夫は、諸侯から領地(封土)を与えられた家臣(小領主)で、そのうち大臣になったのを卿といいます。大夫までが貴族とされ、支配階級でした。士は、戦士として大夫の兵団を構成しました。なお、卿・大夫・士は、周王の直轄地における臣下でもありました。

 

このように、周の封建制では、周王を最高位として、諸侯・卿(けい)・大夫(たいふ)・士などの階層がありました。諸侯は周王に対して、また卿・大夫・士は諸侯に対して、それぞれ、封土を受けた見返りとして、周王に対し貢納と軍事奉仕の義務を負っていました。中国では、姓を同じくする父系の親族集団を宗族と言い、宗族は長子相続を原理とし、その嫡流(本家)を大宗(たいそう)と呼びました。宗族は、大宗の強力な統制のもとで、共通の祖先祭祀などを通じて、血縁的にまとまっていました。

 

一方、農民ら庶人(しょじん)(一般庶民、被支配階層)も、土地神や祖先神の祭祀を中心とした氏族共同体的な村落を形成し、こうした集落が、諸侯や家臣(卿・大夫・士)によって支配されていました。

 

周の封建制は、周王室を大宗として、諸侯以下の宗族がつらなる氏族制であり、これを構築するにあたって、周は儀礼を重視しました。宗族内の(上下関係や)秩序を定めた宗法(そうほう)と、その道徳的規範であるが、封建制を支える支柱となっていました。殷の政治は、卜占(ぼくせん)による神権政治に基づく祭政一致でしたが、周は周王を頂点とした封建制の下での礼政一致による政治を行いました。後の孔子ら儒家の思想家はこの周の時代を「礼」の理念で統治された理想的な時代ととらえたのです。

 

 

  • (西)周の衰退と東遷

 

しかし、前9世紀頃から、周王の王位継承を巡る有力諸侯の反乱や、西北からの異民族の侵入、自然災害が繰り返されるようになって、周王の権威と支配力は次第に弱まっていきました。その結果、前771年に周王の幽王が、北方の遊牧民犬戎(けんじゅう)によって殺害され、周はいったん滅亡しました。

 

ただし、翌前770年、周王室の一人の平王は、諸侯に助けられ、都の鎬京を離れ、東の洛邑(洛陽)に逃れて周を再建しました。これを周の東遷と言います。

 

歴史的には、都を鎬京(こうけい)から東の洛邑(洛陽)に移した前770年以前を「西周」、以後を「東周」と、周王朝は区別されます。東周はその後、前256年に秦に滅ぼされるまで約550年間続きました。また、前770年の周の東遷から秦が中国を統一する前221年までを「春秋戦国時代」とも呼びます(東周≒春秋戦国時代)。

 

 

東周

(前770〜前256)

 

  • 春秋時代(東周前期)

(前770年~前403年)

 

「東周」時代は、周の王権は衰え、地方に有力諸侯が自立してそれぞれ王を称して争う分裂期でしたが、それでも、最初はまだ周王の権威は残っており、諸侯も尊王攘夷を唱えて周王を立てるか、または周王を利用しようという時代でした。この東周時代の前半(前403年まで)を春秋時代と言います。

 

有力諸侯が覇を競った春秋時代は、彼らに時代の変化に対応する新しい国家理念や道徳、世界観を提供する、孔子(前552〜前479)や老子(前6世紀頃?)など諸子百家が登場し始めた時代でした。「春秋」という名称は、孔子が編纂したという魯(武王の弟の周公旦が建てた国)の年代記である「春秋」に記録されている時代(前722~479年)とほぼ重なるからです。

 

文化的には、殷から始まった青銅器時代から、前6世紀ごろ、鉄製農具が普及し、鉄器時代への転換が始まるなど、中国の社会が大きく変わる時代でもありました。

 

春秋十二列国と春秋の五覇

春秋時代(東周時代に入ってから)、周の王権は衰え、東周の黄河流域の中原以外の各地にも有力な諸侯が現れ、諸侯は王室の統制を離れて、各自の思惑しだいで同盟や戦争を繰り返すようになり、その総数は約200国に達したと言われています。

 

その中で、弱小の都市国家を併合した有力となった国には、華北地域から台頭した山東省の(せい)や魯、山西省の、陝西(せんせい)省のや、長江中流域から出た(そ)、河北省(現在の北京近郊)の燕をはじめ、宋(そう)、鄭(てい)、衛(えい)・陳・蔡・曹がありました(これらを「春秋十二列国」と称し、その中で特に晋、斉、楚、秦の四国が有力とされた)。また、春秋末期には南方からが台頭しました。これらの黄河流域の中原以外に有力な勢力は、周王と関係がないことから、爵位にとらわれず○王と称しました(後からでたは最初から呉王、越王と「王」を称した)。

 

さらに、春秋十二列国の中から、「会盟の盟主」と呼ばれた「春秋の五覇」も現れました。「会盟の盟主」の会盟(かいめい)とは、諸侯を集めて、盟約を結ぶことですが、当初は、周王を奉じて、夷狄(いてき)を退ける尊王攘夷を実行する盟主としての地位を他の諸侯から認められていました。しかし、周の権威が失われるにつれ、諸侯を集め盟主として会盟を行うことで覇を唱えるようになりました。

 

このような(覇を競い)会盟の盟主となった諸侯(君主)は覇者と呼ばれました。一般に、会盟を主宰して覇者となった代表的な存在として、斉の桓公、晋の文公、楚の荘王、呉王闔閭(こうりょ)、越王勾践(こうせん)を「春秋の五覇」と呼びますが、斉の桓公、晋の文公以外の三人は、文献によって異なる場合もあります。「春秋の五覇(会盟の盟主)」が生まれた背景には、これら諸侯国の間に戦争や外交による接触を通じて生まれた共通の中華諸侯(諸夏、華夏)という連帯意識があったからだと見られています。

 

 

  • 戦国時代(東周後期)

(前403(453)~前221年)

 

春秋時代に続く戦国時代は、東周時代の後半で、一般的には、大国の晋が前403年に趙・韓・魏の三国に分裂したことに始まり、前221年の秦の始皇帝による中国統一までの分裂時代を言います。この時代、前5世紀末になると周王は全く有名無実化していました。この結果、強国が弱小国を併呑(へいどん)するだけでなく、諸国内での下剋上も頻発し、中国では、戦国の七雄と言われる有力諸侯が争いました(中国は七国に分割された)。

 

戦国の七雄

春秋時代の最強の諸侯とされた晋(しん)において、前453年、有力貴族(卿)だった韓(かん)、魏(ぎ)、趙(ちょう)3氏が実権を握り、前403年、名目上の中国の統治者であった周の威烈王が三氏を諸侯として公認(承認)したことで、晋は、趙・韓・魏の三国に分裂しました。(戦国時代の始まりは、日本では前403年、中国では前453年とされる)

 

また、桓公以来繁栄していた斉(せい)も、前386年、家臣(卿)の田(でん)氏が実権を奪い(これ以降を田斉という)、主君にかわって斉の国君(こっくん=君主)となりました。この韓、魏、趙、斉の4国に、西方の秦、南方(長江流域)の楚、北東方の燕(えん)を加えた有力諸侯を「戦国の七雄」といい、中国を割拠しました。

 

 

周の封建制の崩壊

春秋末期以降の中国は、諸侯の家臣である卿や大夫が各国の実権を握ったり、士の階層が進出したりと、実力をもった諸侯が覇者となろうとして競い合う下剋上の時代となりました。結果として、戦国の七雄は、もはや周王を敬って立てることをせず、それぞれが「王」を称し、隣国との国境には長城を築き、奪取した地域には郡(ぐん)を置くなど、中央集権の直接統治するなど、それぞれ富国強兵に努め、領土の拡張を競った。これによって、周の王室によって封建された諸侯の都市国家体制や、周王を中心とする諸侯と卿・大夫・士という封建制の秩序は崩壊しました。

 

諸子百家の活躍

旧来の社会秩序が崩壊する中、互いに競い合う七国は、少しでも他国に政治・経済・外交・軍事で優越するため、国籍と出身(身分や血統)を問わず、全国から人材を募集し、彼らを高官や武将、軍師に任命するなど、富国強兵に努めました。

 

こうした状況下、春秋時代に生まれた諸子百家といわれる思想家集団が、社会の変化に適応した新たな思想を提供しました。諸子百家の活動は、前4世紀に最も活発になり、政治的、社会的な動揺(社会の変革)のなかで、どうしたら中国の統一と秩序が形成されるかを、諸国を巡り(各国を遊説し)ながら積極的に発言、自由に議論しあう「百家争鳴」の状況が生まれました。

 

儒家の孔子を継承したのは孟子と荀子で、孟子(前372〜前289)は、「仁義」の心で政治を行い、農民の生活を安定させる王道政治を主張し、荀子(前313頃~前238年頃)は、君主の定めた「礼」による秩序確立を説きました。儒家に対して、墨子(前470頃〜前390年)は、兼愛の精神に基づく、博愛主義・平和主義を説き、韓非子(?-前234?)らの法家は、法治主義に基づく統治を主張し、秦に採用されました。

 

一方、老子(生没年不詳、紀元前6世紀)の思想を継いだとされる、荘子(前369年頃〜前286年頃)は、道徳や知識など人為を捨てて,無為自然に復帰することを説き、道家思想を発展させました。しかし、こうした「諸子百家」の思想活動も、秦・漢の統一帝国の成立とともに思想統制の枠が厳しくはめられるようになり、漢以降、国教(官学)に採用された儒教(儒学)だけが、正統な思想として、生き残ることになっていきます。

 

 

<関連投稿>

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中国の儒教を学ぶ

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<参照>

世界史の窓、世界の歴史まっぷ、コトバンク、Wikipedia等のサイトから関連情報をまとめました。