カトリック教会:ローマ教皇とバチカン

 

世界最大の宗教団体、ローマ・カトリック教会のトップと言えば、ローマ教皇であり、キリスト教カトリックの総本山と言えば、バチカン(ローマ教皇庁)が連想されます。今回は、世界的な宗教指導者であるローマ教皇と、世界最小国家バチカンについてまとめました。

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<カトリック教会とローマ教皇>

 

ローマ・カトリック教会は、信者数約13億人(世界人口の約18%)と、キリスト教のなかでは最大で、世界中に教会と修道会があります。このキリスト教の最大宗派、ローマ・カトリック教会の最高指導者が、ローマ教皇(法王)です。英語ではパパを意味するポープ(Pope)と呼ばれています。

現在のフランシスコ教皇は第266代目に当たります。

 

ローマ教皇は、「キリスト12使徒」(後述)の筆頭ペテロの後継者で、地上での「キリストの代理人」という位置づけです。また、教皇は、カトリック教会の精神的指導者であると同時に、独立国家バチカン市国の国家元首でもあります。

 

 

<バチカン市国>

 

バチカン市国は、キリスト教カトリックの総本山であり、世界最小の主権国家です。ローマ市内の一角に位置し、国土面積は、東京ディズニーランドより狭く、わずか0.44平方キロメートルしかありません(皇居が1.15㎢)。

 

その限られた場所に、サン・ピエトロ大聖堂を中心に、バチカン宮殿(教皇の住まい)、バチカン市国政庁(教皇庁や議場など)、庭園等があり、人口は約800人(その大半が聖職者か衛兵)しかいません。なお、イタリア領土内に治外法権を持つ施設があるなど、市国外にいくつかの直轄地を持つと言われています。

 

バチカン市国で官庁にあたるのがローマ教皇庁(法王庁)で、カトリック教会行政の最高機関です(カトリック全体の統治機構でもある)。バチカンと言えば、このローマ教皇庁を指します(バチカン=ローマ教皇庁)。筆頭の国務省のほか、9省と11評議会からなり、裁判所もあります。省のトップは長官で、全員、法王に次ぐ地位である枢機卿が務めています。

 

また、立法府として、1939年にピウス12世によって創設されたバチカン市国委員会があります。議会といっても、定数7人(任期5年)、議長も議員も枢機卿が務めます。

 

ローマ教皇は、バチカン市国において、形式的には立法、行政、司法の全てを掌握しており、巨大な教会の官僚組織のトップとしての権力も保持しています。教会組織としては、教皇、枢機卿、大司教、司教など、高位聖職者の階級がある中、約180人いる枢機卿が、行政や立法組織を実質的に動かしています。さらに、この枢機卿は教皇庁にいる「官僚枢機卿」以外にも、世界の教会の大司教区を代表する「教会枢機卿」もいます。

 

 

<ローマ教皇の権威と権力>

 

それでも、ローマ教皇は、世界のカトリック教徒のトップとしての権威で、世界に多大な影響力を保持しています。

 

教皇の力の源泉は、世界中にある教会の存在だとされています。すべての教会は必ずどこかの教区に属し、教皇が任命する司教がその長を務めます。司教を補佐する司祭と助祭は教会でミサを行い、一般信者と接します。カトリック教会の世界で、教皇をトップに末端の信者まで厳然としたピラミッド型の組織体系が出来上がっているのです。

 

教皇⇒枢機卿⇒大司教⇒司教司祭⇒助祭⇒一般信者

 

ローマ教皇は、こうした世界中の教会を通じて、強力な情報網(コネクション)を構築し、カトリック信者13億人を代表するメッセージを世界に発信しています。

 

さらに、ローマ教皇は、バチカンの国家元首でもあるため、訪問国の首脳と会って直接対話することができます。実際、バチカン市国は、世界最小の国家ですが、170以上の国と外交関係を結び、アメリカやロシアなどとも対等な外交関係を維持しています。国際連合には、中立を国是としている理由などから加盟していませんが、教皇庁が教皇聖座(Holy See)としてオブザーバー参加しています。

 

このように、ローマ教皇は、各教会・修道会、外交、信者の3ルートを通じて、世界の情報を集め、世界的に影響力を行使することができます。その意味では、ローマ教皇は、宗教的権威とともに、政治的な権力も兼ね備えていると言えます。

 

実際、教皇(法王)も、非核化、人権、貧困、移住、環境などグローバルな問題から、パレスチナやスーダンといった地域問題までさまざまな所見を披露し、世界に警鐘を鳴らし、各国メディアも教皇の言動を報じています。法王発言は、宗教・宗派の違いを超え、国際社会がたえず注目しているのです。各国の政治家たちがバチカンを訪れ、謁見を望むのはこのためだと言えるでしょう。

 

 

<ローマ教皇の選出>

 

では、ローマ教皇はどうやって選ばれるかというと、「コンクラーべ」と呼ばれる法王の選出会議の場で行われる投票で選出されます。投票権を持つのは、世界52ヶ国、120人いるとされる枢機卿のうち80歳未満の者(117人)で、欧州圏と非欧州圏それぞれ半数を占めています。

 

投票は無記名(投票者の名前は書かない)で、(公開されない)秘密選挙です。会場はシスティーナ礼拝堂ですが、外部を完全に遮断し、全体の3分の2を上回る票を得る者が出るまで、毎日昼と夕方の2回投票が繰り返れます。投票用紙は結果が出たらすぐに燃やされますが、礼拝堂の煙突から出る煙の色で投票結果が外部へ伝えられます。白い煙が出たら「決定」、黒い煙なら「未決」を表します。

 

現在の「コンクラーベ」方式による選出は13世紀から行われるようになったと言われています。その時、クレメンス4世の死後(1268年)、新教皇を選出しようとしたのですが、2年以上たっても決まりません。それに業を煮やした市民が会場にカギ(ラテン語でクラーベ)をかけ、パンと水だけを与えて缶詰めして、選出を迫ったという逸話が残されています。

 

 

<歴代教皇(過去3代)>

ヨハネ・パウロ2世(在位:1978.10~2005.4)

 

共産圏のポーランド出身で初の教皇に選出、455年ぶりの非イタリアの法王が誕生しました。逆の言い方をすれば、ヨハネ・パウロ2世まで450年間、ローマ教皇はイタリア人であったということになります。在任中、ポーランドはワレサ議長率いる「連帯」による民主化運動が進み、東欧改革の先駆けとなり、法王は冷戦崩壊の精神的支柱になったと言えます。ヨハネ・パウロ2世は、在任中の27年間に129カ国以上の海外訪問を精力的に行った「空飛ぶ教皇」との異名をとりました。その外遊の目的は、諸宗教との対話と和解でした。

 

1979. 6 共産政権下のポーランドに里帰り、自主労組「連帯」発足を促す。

1981. 2 広島、長崎を訪問。

1981. 5 バチカンのサンピエトロ広場で暗殺未遂

1982. 5 英国国教会を訪れ、約450年ぶりに和解

1989. 7 バチカン、ポーランドと外交関係回復。以後、次々と旧東側諸国とも。

1989.12 マルタ会談の前日にソ連のゴルバチョフ最高会議議長と会談。

1990. 3 バチカン、ソ連と外交関係樹立

1998. 1 キューバ訪問

 

2000. 3 中東の聖地巡礼、ヨルダン、イスラエル、パレスチナ自治区を歴訪

十字軍、異端審問、反ユダヤ主義など過去の教会の罪(過ち)を事実上謝罪

 

2001. 5 キリスト教会の1054年の東西分裂以来、初めてギリシャを訪問。

十字軍の迫害などについて「カトリック信徒は正教徒に対して罪を犯した」と謝罪

2001  シリア訪問、ローマ法王として初めてモスクに入る

2005. 4 死去

 

 

ベネディクト16世(2005.4~2013.2)

ドイツ出身の保守派で、キリスト教の保守的な価値観を重視し、同性愛や人工中絶などに強く反対してきた。学者肌の教皇として有名。

 

2006.11 トルコ訪問

東方正教会であるコンスタンチノープル総主教庁のバルトロメオス総主教が法王を招待。歴代法王として2人目のイスラム教モスク訪問(イスタンブール)。

2007.3  プーチン・ロシア大統領と初会談

2010.1 ローマ市内のシナゴーグ(ユダヤ教礼拝所)を訪問

「他宗教との対話」の一環で、ローマ法王によるシナゴーグ訪問 史上2人目。

 

2013.2.28 生前退位

ベネディクト16世(85)は、高齢により体力が衰え、職務遂行が困難になったことが理由に退位しました。在位は8年でした。法王の地位は絶対で、罷免は許されず、終身制が原則とされてきたため、存命中の退位は中世以来598年ぶりのこととなりました。ベネディクト16世は、バチカンの小さな修道院に移り、「名誉法王」となります。

 

法王は就任後の5年間、イスラム教の聖戦(ジハード)への否定的発言や、ナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺を疑問視した司教の破門解除などで批判を受け、前教皇の意思を受けついだ「諸宗教との対話と和解」は後退したとの見方もでていました。

 

 

生前退位したローマ教皇

1294年のセレスティン(ケレスティヌス)5世

不本意に法王に祭り上げられたことに抵抗し、在位5カ月で退位しました。

 

1415年のグレゴリオ12世

当時、複数の法王が併存し、分裂した教会を統一するために、退位に追い込まれたとされています。

 

 

フランシスコ1世(2013.3~)

 

アルゼンチン人でブエノスアイレス大司教のホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿(76)が選出、第266代目のローマ法王、フランチェスコ1世(フランシスコ)が誕生しました。伝統を誇る欧州以外から法王が選ばれるのは約1300年ぶり(8世紀以来初めて)で、初の中南米出身の教皇が誕生しました。

 

世界に13億人いるカトリック教徒の4割以上が中南米の信者で、その数は5億人を超え、世界全体の半数に迫る勢いです。例えば、ブラジルとメキシコには合計2億2000万人以上のカトリック教徒がおり、フランシスコ教皇のアルゼンチンでも、人口約4000万人の90%以上がカトリック信者が占めています。

 

本家本元の西欧ではカトリックが停滞している一方、南米やアフリカは信者の増加で貢献度が高く、地元出身の法王選出を希望する声が高まっていたと言われています。このような状況を反映して、今回初めて南米のアルゼンチンからの教皇誕生となったのかもしれません。ただし、フランシスコ教皇は、アルゼンチン人と言っても、イタリア系移民2世であり、白人です。白人ではない教皇の誕生というわけではなかったのです。

 

一方、フランシスコ教皇のもう一つの顔は、彼がイエズス会員としての顔です。ベルゴリオ枢機卿が法王名に「フランシスコ」を選択したので、13世紀のアッシジの聖フランチェスコにちなんだと思われましたが、本人はフランシスコ会出身ではなく、日本でもお馴染みのイエズス会出身だったのです。そして、フランシスコ教皇は、イエズス会出身としては初の教皇です。

 

 

イエズス会

イエズス会といえば、16世紀、日本に最初にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルの名前で日本人にもなじみ深いですね(ザビエルはイエズス会の創設メンバーの1人)。イエズス会そのものは、イグナティウス・デ・ロヨラが創設し、「戦闘的騎士団」として、アジアへの布教を推進してきた修道会です。

 

新たな修道会創設のきっかけは、1513年3月に就任したレオ10世は、教会の財源として免罪符を大々的に売り出し、これを批判したルターが宗教改革を起こしたことでした。ルター派やその後にカルバン派は結果的にプロテスタントとして、カトリック教会から分離します。ルターやカルバンとは逆に、カトリック教会の内側からの改革を目指したのがイエズス会でした(これは反宗教改革と呼ばれる)。

 

ちなみに、ヨハネ・パウロ2世が、イエズス会を毛嫌いしていたことは有名です。1960年代後半、カトリック教会内で、「キリスト教は貧しい人々の解放のための宗教である」とみなす「解放の神学」が中南米を中心にして支持を広げ、しかも共産主義に接近しました。この運動を支えたのがイエズス会だったのです。共産圏のポーランド出身で「反共」のヨハネ・パウロ2世にとっては相いれないものであったのかもしれません。

 

その当時、軍事政権による人権抑圧に苦しむ中南米を中心に、先進的なカトリック神父が「解放の神学」を唱え反政府運動を展開した。だが、バチカンはこうした運動をレーニン的革命主義として否定しました。

 

さて、フランシスコ教皇は、穏健派な保守派として知られています。近年、カトリック教会にあって、キリスト教の原理的な教義を重んじる保守派と、現代社会に即した対応を促すリベラル派の対立があるとされています。そこで、フランシスコ教皇がいかに両者にバランスよく対応できるかが注目されています。

 

 

<バチカンの歴史的経緯>

  • サン・ピエトロ大聖堂と教皇領

 

バチカンの起源は、ローマ帝国時代(1世紀の中頃)、皇帝ネロの迫害で殉教した聖ペテロの墓所に、4世紀(349年)中頃、サン=ピエトロ大聖堂が建てられたことだとされています。その後、1626年に現在のサン・ピエトロ大聖堂が完成すると、ローマ教皇の座所としてカトリック教会の総本山となりました。

 

また、ローマ教皇は、現在、カトリック信者への絶大な権威を有する精神的指導者として位置づけられていますが、19世紀半ばまでイタリア中部に広大な教皇領を保有する大土地所有者(=領主)でした(教皇領そのものは、756年、カロリング朝ピピンが,ラヴェンナ等の都市をローマ法王に寄進したことが始まり)。

 

 

  • バチカン市国の誕生

 

しかし、1861年のイタリア王国の成立によって展開された国民国家の建設運動のなか、1870年にバチカン以外の教皇領が、イタリア王国によって接収されてしまいました(1870年のローマ併合によってイタリア統一が完成された)。この結果、ローマ教皇は、イタリアに19世紀に土地を奪われた結果、国民、産業、資源、軍隊などをすべて失いました。時の教皇ピウス9世は、これに抗議し、自らを「バチカンの囚人」と称して宮殿に立てこもり、ローマ教皇庁はイタリア政府との関係を断絶しました。

 

この難題を解決したのがファシスト党のムッソリーニでした。時の法王ピウス11世は、1929年、ムソリーニ政権とラテラノ条約を結び、バチカンの「主権国家」としての地位と、バチカンにおける法王の支配権が認められることと引き換えに、教皇領の権利放棄とイタリアに対する免税特権を保証しました。

 

こうして、60年近く緊張関係にあった伊政府と法王庁が和解し、世界最小の独立国家、バチカン市国が誕生したのです。

 

 

  • バチカン銀行とマネーロンダリング?

 

バチカンでは近年、マフィアとのつながりやそれに絡むマネーロンダリング(資金洗浄)疑惑が表面化しています。そもそも、バチカン銀行という存在に驚かれるかもしれませんが、世界最小とはいえ主権国家ですから、当然、金融機関を持っています。

 

バチカン銀行は通称で、正式には、ローマ法王庁(バチカン)の財政管理組織「宗教事業協会」のことで、1942年に設立されました。教会を通じて、世界中から寄せられた資金を、管理・運用するのが主な業務で、資産の大半は債券で運用していると言われています。少し古い情報ですが、かつて(2012年)、預かり総資産が63億ユーロ(約8200億円)、顧客数は各地のカトリック系団体や個人の合計で1万8900とされていました(バチカンのHPより)。

 

前述したラテラノ条約の際、ムッソリーニのイタリアは、バチカン市国以外の領地を放棄する代償として7億5000万リラ、現在の時価に換算して約1000億円を支払うことに合意しました。この補償金が、バチカン銀行の資本金となったと言われています。そして、当時の教皇ピオ11世は財産管理局が、バチカン銀行の前身となりました。

 

そんなバチカン銀行ですが、おカネの流れは不透明で、イタリアのマフィアなどの資金洗浄に使われているとの指摘が多く、同行を介したマネーロンダリング(資金洗浄)疑惑が絶えませんでした。例えば、82年にはバチカン関連組織に融資していたイタリアの大手銀行が破産、そこの頭取がロンドンで変死を遂げるという事件がありました。また、バチカンの高位聖職者らがスイスから不正に資金をイタリアに持ち込んだ容疑で警察に逮捕されるといった事件なども後を絶ちませんでした。

 

ただし、歴代の教皇は、カトリック教会にとって、バチカン銀行は、重要な組織であるとして、存続を表明し、情報開示による運営の透明性向上や、組織改革に取り組んでいます。ただ、その実効性については、まだ不透明な状況です。

 

 

 

*ローマ教皇かローマ法王か、またはローマ教皇庁か法王庁なのか意見が分かれるところですが、日本政府は最近、ローマ教皇、ローマ教皇庁と表記を統一すると発表しています。

 

<参考>

プロテスタント教会:ルター発の聖書回帰運動

東方正教会:ギリシャから正統性を継承

 

 

<参照>

Wikipedia(バチカン)

コトバンク(バチカン市国とは)

世界史の窓(バチカン)

BBC(バチカン)

バチカン銀行、HPで信頼回復へ

(2013年8月6日、日本経済新聞)

 

(2020年4月16日、最終更新日2022年6月19日)