レオという名のローマ教皇

 

2025年5月、ローマ教皇を決める選挙「コンクラーベ」の結果、アメリカのロバート・フランシス・プレボスト枢機卿(69)が第267代の教皇に選出され、同時にレオ14世を名乗ることが発表されましたが、新しいローマ教皇の名前は、どのようにして決められるのかと疑問を持たれた方も多いのではないでしょうか?今回は、教皇名についてまとめてみました。

 

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<教皇名の決定ルール>

 

新しいローマ教皇の名前は、どのようにして決められるのかという問いに対する答えは、意外なことに、教皇名を選ぶ際に厳密な決まりはほとんどなく、教皇に選出された人は、好きな名前を選ぶことができます。

 

もっとも、名前は熟慮のうえで、通常は、過去の同名の教皇と自分を関連づける場合や、たとえば、200年前に同じ名前の教皇がいたなど、歴史的に重要な意味を持たせて選ばれている場合が多くあります。前者の過去の教皇との関連性とは、教会の危機を乗り越えた、改革を促したなどで、歴代教皇に自身の豊富などを関連づけることは、教皇名の選択に影響を与えると考えられています。

 

レオ14世の前任の教皇フランシスコとその前代のベネディクト16世はそれぞれ、「アッシジの聖フランチェスコ」と「聖ベネディクト」ならびに「教皇ベネディクト15世」に敬意を表し、自らの教皇名を選んだと言われています。

 

では、レオ14世の場合はどうだったのでしょうか?新教皇は5月10日に行われた、枢機卿たちに向けた演説の中で、教皇としての名に「レオ」を選んだことについて、「私自身、この同じ道を歩み続けるよう召されていると感じ、レオ14世という名前を選ぶことにした」と説明しています。

 

レオという名はラテン語でライオンを意味し、王の威厳や気高さ、指導者としての統率力のような意味合いを持ち、教皇名としては、カトリックの長年の歴史が詰まった伝統のある名前で、ローマカトリック教会において重要な存在と解されています。

 

数字が示すように、プレボスト枢機卿はレオを名乗る14人目の教皇です。そこで、その名前が示す意義を、これまでの教皇レオの偉業をみることによって、考えてみましょう。

 

 

<歴代の教皇レオ>

 

◆ レオ1世:カルケドン公会議と教皇権の拡大

 

最初にレオを名乗ったレオ1世(在位440〜461)は、教会初期の歴史において、教皇の権威を高めた最も影響力のある教皇の1人と評されています。

 

レオ1世が教皇になった頃は、ローマカトリック教会の形成期(カトリックが広まり、教義が作りあげられていく時期)で、教義に関して、新しい見解や疑問が出て、異説を唱える数々のグループも発生する不安定の時期でもありました。

 

就任したレオ1世は、そうした異説をなくそうと努め、451年に、カルケドン公会議(小アジアのカルケドンで開かれた第4回公会議)を開催しました。

 

この公会議によってローマカトリック教会は、単性説を異端と裁定し、キリストの神性と人性について両性論を採用(カルケドン信条)、アタナシウス派の三位一体説の正統性が改めて確認されました。

 

両性論は、キリストが神性・人性の両性を完全に、混ざらず,変わらず,分かれず,離れない形でそなえるという教義です。

 

単性論とは、キリスト教の教義において、イエス・キリストが神性と人性という二つの性質ではなく、単一の性質(神性)のみを認める教説で、神性と人性が混ざり合って1つのものになったという考え方です。カルケドン公会議で異端とされましたが、非カルケドン派として、コプト教会、アルメニア教会などに継承されています。

 

キリスト教の教義を固めていくという役割に合わせ、レオ1世は、異民族のローマへの侵入を防ぎました。

 

5世紀前半に中部ヨーロッパに建国されたフン人の帝国(*フン帝国)の王、アッティラは、ゴート族などとともに、ヨーロッパを征服しようと、イタリアに入り込んできました。しかし、中世の文書によれば、レオ1世は、アッティラと452年に直接面会し、侵攻をやめるよう説き伏せ、アッティラはローマから去ったという伝説が残されています。

 

*フン帝国

パンノニア(現在のハンガリー)を中心に、西はライン川、東はカスピ海にいたる広大な領土を支配していた。

 

また、ゲルマン諸部族の一つであるヴァンダル族が、455年にローマに攻撃を仕掛けてきた時も、その王ガイセリック(389年頃~ 477年)と交渉してローマの略奪を防いだとされています。

 

こうしたレオ1世の活躍もあってか、「教皇(パパ)」という称号はローマ司教だけに特別に認められるものであるという観念がヨーロッパ世界に定着していきました。

 

その意味でも、ゲルマン民族の大移動による西ローマ帝国の崩壊(476年滅亡)が近づく、政治的不安定の時代を生き抜いたレオ1世は、教権の拡大に最も貢献したローマ教皇と言われ、461年の死後、教会内で特別な影響力を持っている聖人に贈られる教会博士という大きな栄誉を得ました。

 

 

◆ レオ3世:神聖ローマ皇帝カールの戴冠

 

教皇レオ3世(在位795~816)は、西ヨーロッパを支配していたフランク王国のカール1世に初代神聖ローマ皇帝の戴冠を行い、西欧に新たな歴史の扉を開いたと評されている教皇です。

 

レオ3世から神聖ローマ皇帝としての権威を保障されたカール大帝は、キリスト信仰の守護者となり、カトリック教会の土地と権利は脅威から守られ、その支配下でヨーロッパ世界は栄えました。

 

もっとも、皇帝と教皇の権力関係でいえば、教皇がカール1世のローマに対する世俗的支配権を承認,皇帝を教会の指導者として、その庇護下に入ったことを意味しました。この関係は、この後、聖職者の叙任権をめぐり、教皇と皇帝の対立を深めていくことになっていきます。

 

◆ レオ9世:東西教会の分裂

 

教皇レオ9世(在位1049~1054.4)は、東西教会の分裂時の、1049年にカトリック教会の指導者となりました。

 

当時、コンスタンティノープルは、ローマ皇帝コンスタンティヌスが、ローマ帝国の首都を東のコンスタンティノープルに移した330年以降、「新しいローマ」と形容されほど、キリスト教会においてその存在感を高めていました。

 

それゆえ、コンスタンティノープル総主教は、自身をローマ教皇と同列と見なしていました(彼らにとって、ローマ教皇はローマ司教)。

 

加えて、ローマとコンスタンチノープルは、パンに酵母を入れるか否かなど異なる慣習を採用し、細かい教義についても相容れない点がありました。さらに、言語に関して、ラテン語を使うローマ教会に対し、コンスタンチノープル教会はギリシャ語を使っていました。

 

こうした、キリスト教会の主導権をめぐり、東西教会の緊張が高まっていたなか、和解を試みたレオ9世でしたが、最終的に両教会が互いに破門しあい、1054年7月、東西教会はローマを拠点とするローマカトリック教会と、コンスタンティノープルを拠点とする東方正教会とに分裂しました。

 

なお、このときレオ9世はすでに死去していましたが、コンスタンチノープル総主教ミハイル1世への破門状を持たせて、代表団をコンスタンティノープルに送っていたことから、東西教会分裂の当事者とみられています。

 

一方、レオ9世は、ローマ教皇として教会改革にはじめて着手した教皇として知られています。当時、ローマ教会や修道院では、イエスの生きていた時代の純粋な信仰からは次第に乖離し堕落・腐敗が取り沙汰されていました。そこで、本来の信仰主体の回復をめざした修道院運動が、10世紀にクリュニー修道院から始まっており、レオ9世の改革もクリュニー修道院の運動から多大な影響を受けていたと言われています。

 

教会や修道院の堕落は、神聖ローマ皇帝以下の世俗権力の聖職者叙任権にあるとみなされ、聖職者叙任権を教皇と教会の手に奪回する運動が進められました。

 

この闘争は1075年、教皇グレゴリウス7世が世俗権力の聖職叙任権を否定する決定を出し、これに反発した皇帝ハインリヒ4世を破門としたことから起こった1077年の「カノッサの屈辱」事件で頂点に達しました(このときは教皇の優位が明確となった)。

 

レオ9世自身は、1053年にローマをおびやかしたすイタリア半島南部のノルマン人勢力と戦って捕虜となり、獄中でマラリアに罹患、翌年死去しました。

 

◆ レオ10世:ルターの宗教改革

 

教皇レオ10世(在位:1513~1521)は、キリスト教会の分裂と対立の時代(宗教改革の時代)に登場し、ルターを破門した教皇として知られています。

 

教皇レオ10世、本名、ジョヴァンニ・デ・メディチで、イタリア(フィレンツェ)のルネサンス期にパトロンとして君臨したメディチ家最盛時の当主、ロレンツォ・デ・メディチの次男として生まれました。

 

1513年、最年少の37歳で即位したレオ10世は、前教皇ユリウス2世が着手した、現在のカトリック教会の総本山、サン・ピエトロ大聖堂の建設を引継ぎ、ミケランジェロ、ラファエロらの芸術家のパトロンとなるなど、文化的な功績を残し、ローマを中心とするルネサンス文化は最盛期を迎えました。

 

しかし、レオ10世は、贅沢好きで、行列や宴会等、湯水のように浪費を続け、バチカンの財産を食い潰したことなどから「最も醜男の教皇」とレッテルを貼られたとされています。

 

また、1517年にサン・ピエトロ大聖堂建設資金のためにドイツでの贖宥状(「免罪符」)販売を認めたことが、ドイツ生まれの神学者マルティン・ルターによる宗教改革を引き起こすきっかけを作りました。

 

ルターは、1517年、教会の腐敗を非難し、救いは善行や贖宥状ではなく信仰心によって来るものだと主張した「95カ条の論題」を発表し、宗教改革に乗り出しました。1521年1月、ドイツのヴォルムス帝国議会で、その主張を撤回するよう求められましたが、これを拒否したことから。レオ10世はルターおよびその一派を破門しました(破門状を発布)。

 

こうして、西のキリスト教は、ローマカトリック教会と、プロテスタント教会に分かれることになったのです。

 

なお、1521年10月、レオ10世は、ルターを非難したイングランド王ヘンリー8世に「信仰の擁護者」の称号を授けましたが、ヘンリー8世は、後に離婚問題をきっかけとして、最終的にイングランド国教会を創設し、プロテスタントの一派を形成しました。

 

このように、レオ10世は、結果的に、キリスト教会の分裂と対立の時代の当時者としての役回りを果たしたことになったのです。

 

◆ レオ13

レオ14世の前に「レオ」を名乗ったレオ13世(1878~1903)は、756年にフランク王国のピピンが寄進したローマ教皇領を1870年にバチカンが失ってから初めて就任した教皇で、1891年に、歴史的な回勅「レールム・ノヴァールム」を発布したことで知られています。

 

回勅とは、教皇が全教会の司教や信徒に向けて、教会全体の重要問題について書き送る文書のことで、レールム・ノヴァールムはラテン語で「新しき事柄について」という意味になります。

 

この当時の「新しき事柄」とは、19世紀末、第二次産業革命によって資本主義の発展と新たなテクノロジーがもたらされ、それが社会の根本的な変化をもたらしたことです。

 

「レールム・ノヴァールム」において、レオ13世は、資本と労働の権利と義務を初めて取り上げ、テクノロジーに対して柔軟な姿勢を示すと同時に、労働者の権利を擁護し、階級間での協調を説きました。

 

プレボスト枢機卿がレオ14世を選択した背景として、レオ13世を引き合いに出しています。科学や近代的な考え方にオープンな心を持っていたレオ13世のように、レオ14世も、AI(人工知能)がもたらす新たな産業革命ともいうべき現代社会における諸問題について、教皇として積極的にかかわっていく決意を示しているとみられています。

 

ここまで、レオを名乗った教皇の中で、特筆すべき教皇をみてきましたが、教皇「レオ」は、ローマ教皇史の中で特に影響力の強かった人物を多く輩出しており、レオ14世にもその期待が寄せられています。

 

 

<教会史トリビア(豆知識)>

 

レオ14世は、14人目の「レオ」を名乗るローマ教皇ですが、過去には複数の教皇たちが、同じ名前を選んでいます。もっとも多い名前は「ヨハネ」で、20人以上います。そのほか「グレゴリウス」が16人、「ベネディクトゥス(ベネディクト)」が15人、「クレメンス」が14人、「インノケンティウス」が13人となっています。

 

レオ14世の前任は、フランシスコ教皇でしたが、○世がつかないのは1世をさし、初めて教皇名に使用されたことを意味します。初代である場合、通常「1世」はつきません。将来「2世」が登場した時点で、フランシスコ教皇は、フランシスコ1世と呼ばれるようになります。ちなみに、「1世」が生まれたのは、1000年以上ぶりの出来事でした。こうした名乗った教皇がひとりしかいない名前の数は、44にのぼります。

 

一方、イエスの十二使徒の一人だった初代教皇ペテロを教皇名に選んだ人は、ひとりもいません(ペテロ2世は存在しない)。ペテロはイエスが選んだ唯一の教皇とされ、聖ペテロへの敬意を表し、「ペテロ」を選ばないことは暗黙のルールだそうです。

 

もっとも、およそ5世紀の間、教皇は選出されても名前を変えず、出生名をそのまま使っていました。今回であれば、プレボスト枢機卿はプレボスト教皇となっていたのです。

 

自身の名前を変えて教皇となった初めての教皇は、533年のヨハネ2世でした。このとき、新たな教皇に選ばれた司祭のメルクリウスは、自分の名前と同じローマ神話の神メルクリウス(ギリシャ神話ではヘルメス)を教皇名にすることを望まなかったと言われています。

 

ただし、選出された枢機卿が自ら教皇名を選ぶことが伝統となったのは、11世紀に入ってからのことで、それ以後も、教皇として本名を使い続けた教皇はいました。1555年に就任したマルケルス2世がそうで、マルケルス2世は自身の名をそのまま使った最後の教皇でした。

 

(関連投稿)

カトリック教会:ローマ教皇とバチカン

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(参照)

新ローマ教皇にレオ14世 アメリカ出身のプレボスト枢機卿 選出

(2025年5月9日、NHK)

レオ14世、ペトロの後継者としての任務開始を記念するミサ

(2025.5.18、ヴァチカンニュース)

新教皇・レオ14世はなぜ「レオ」を名乗ったのか?資本主義と新技術の発展に直面したレオ13世を引き合いに出した意味

(2025.5.14、JBpress)

「米国人が教皇になることはない」との常識を覆したコンクラーベ、改革派の新教皇が「レオ14世」の名に込めた決意

(2025/5/12、JBpress)

伝統ある教皇名「レオ」、歴史を背負うレオ14世の思いとは?

(5/17/2025  ナショナル・ジオグラフィック)

意外に自由?ローマ・カトリック教会の「教皇名」の決め方とは?

(2025/05/18 婦人画報)

 

(投稿日;2025.5.24)

むらおの歴史情報サイト「レムリア」