帝国憲法28条 (信教の自由):伊藤博文は国家神道を否定!

 

私たちが学校で教えられてきた「明治憲法(悪)・日本国憲法(善)」の固定観念に疑いの目を向ける「明治憲法への冤罪をほどく!」を連載でお届けしています。今回は、第2章「臣民権利義務」の「信教の自由(28条)」について考えます。一般的には、戦前、国家神道を強制され、現在のような信教の自由は保障されなかったとみなされていますが、実際はどうだったのでしょうか。

 

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第28条(信教の自由)

日本臣民ハ安寧(あんねい)秩序ヲ妨(さまた)ケス及(および)臣民タルノ義務ニ背(そむ)カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス

日本臣民は、安寧秩序を乱さず、臣民の義務に背かない限り、信教の自由を有する

 

<既存の解釈>

本条は、信教の自由を保障した規定だが、他の人権規定と異なっていることは、「法律の範囲内において」とか「法律に定めたる場合を除く外」といったような法律の留保がないことである。

 

では、この点で、法律で自由に制約できなくなるので、信教の自由がより認められているのかというと、そうではなく、むしろ法律の留保すらなく、法律の根拠なしにいくらでも制限できる、すなわち行政による恣意的な制約が可能となるなど極めて不十分なものであった。

 

逆に、本条には、「法律の留保」がない代わりに、「安寧(あんねい)秩序ヲ妨(さまた)ケス及臣民タルノ義務ニ背(そむ)カサル限ニ於テ」という留保(制限)が付けられている。「安寧秩序」とは「国民の完全と秩序」という意味で、「臣民たるの義務」も「人としての義務」、今日でいえば、「公序良俗に反しない限り」と同じ意味とも言えるが、公共の安全と秩序のためであれば、「法律」に依ることなく、行政府の「命令」でも制約できたのである。

 

また、戦前の国家体制下での信教については、国家神道を背景として軍国主義国家のイメージがつきまとう。実際、国家神道に対し事実上国教的地位が与えられ、神道に対する信仰が要請されるなど、軍国主義の精神的支柱となった。このため、一部の宗教団体に対して厳しい迫害が加えられた。

 

いくら個人の信教の自由が保障されていても、国家と宗教が結合すると、宗教弾圧や、国民同士でも他の宗教に対する迫害や冷遇を招き、間接的に個人の信教の自由が害される危険があることは歴史が教える通りだ。

 

このような反省から、日本国憲法は個人の信教の自由の保障をより確かなものとするために、信教の自由を保障するとともに、政教分離原則を規定した。こうして、戦後、日本国憲法の下で、政治と一切の宗教を分離させた結果、信教の自由は無条件に認められるようになったのである。

 

日本国憲法 第20条

  • 信教の自由は,何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も,国から特権を受け,又は政治上の権力を行使してはならない。
  • 何人も,宗教上の行為,祝典,儀式又は行事に参加することを強制されない。
  • 国及びその機関は,宗教教育その他いかなる宗教活動もしてはならない。

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では、こうした批判に対し、帝国憲法28条を定めた伊藤博文と井上毅の真意はどこにあったのでしょうか?

 

<善意の解釈>

帝国憲法に信教の自由が保障されたこと自体が当時からすれば画期的なことでありました。かつての欧州において、自分たちと異なった考え方した人を処罰するという考え方が一般的でした。「暗黒」と呼ばれた中世では、魔女狩りが横行し、宗教戦争など流血の惨事もしばしば引き起こされました。自分たちと異なった考え方をする人たちを殺害してきた歴史があった欧州において、信教の自由が認められるようになったということは、こうした時代が克服されことを意味します。「心の中では何を考えてもいい」ということが、人間の根源的な自由だと見なすようになったのです。

 

信教の自由の保障は、欧州発の近代憲法において、近代文明の一大成果とされました。その信教の自由が、帝国憲法においても、臣民に保障されたことだけでも評価されるべきことです。

 

しかし、帝国憲法下の日本では、信教の自由が実質的に保障されていなかったと信じている人が多くいます。帝国憲法に対する言われなき批判の一つです。曰(いわ)く、旧憲法における信教の自由は、「①法律の留保すらなく(法律の根拠なしに制限できた)、また、②国家神道に対し事実上国教的地位が与えられていて、それに対する信仰が要請された、と同時に、③一部の宗教団体に対して厳しい迫害が加えられた」というものです。そして、現行憲法では、政治と一切の宗教を分離したことで、信教の自由は無条件に認められたとします。果たしてそうでしょうか?まず、「法律の留保すらない」という批判について反論してみます。

 

「内心の自由」と安寧(あんねい)秩序

信教の自由を定めた帝国憲法第28条には、批判される通り、他の臣民の権利義務のなかにある「法律の留保」はありません。代わりに「安寧(あんねい)秩序ヲ妨(さまた)ケス 及臣民タルノ義務ニ背(そむ)カサル限ニ於テ安寧(あんねい)秩序を妨(さまた)けず、および臣民たるの義務に背(そむ)かざる限(かぎり)に於(おい)て)」認めるとしています。帝国憲法ではどうして、臣民の権利の中で「信教の自由」のみが、法律の留保ではなく、「安寧(あんねい)秩序を妨(さまた)けず、および臣民たるの義務に背(そむ)かざる限(かぎり)に於(おい)て」とされていたのでしょうか。

 

その答えは、伊藤博文の帝国憲法についての解説書である「憲法義解」に中にあります。「信教の自由の中の内心の自由(信仰の自由)は、人の内部にあるものであり、法律の干渉する範囲外にある。信教の自由のなかの、信仰(内心)の自由は、完全であり一つの制限も受けない。」つまり、伊藤は、「信教の自由」の中の「信仰の自由(内心の自由)」については、絶対無制約の人権であるので、法律による制約を行ってはならないと述べているのです。ある特定の宗教を信じるか、信じないかについては、その人の内心に留まる限り、他人に迷惑をかけることはありません。だから、「法律ノ範囲内デ」のような法律の留保がかかっていないのです。

 

一方、信仰は専ら内部の心に属するといっても、外部に向かって礼拝、儀式、布教、演説及び結社、集会を行うといった宗教活動の自由や宗教的結社の自由については、法律や警察上の安全秩序を維持するために一般の制限を受けなければなりませんし、信教の自由があるからといって、臣民の義務を怠ることは許されません。

 

具体的には、前条でも説明したように、外部に対して向かう権利は、法律規則による規制が必要になったり、他の権利と権利が衝突したりしますから、人権相互の矛盾や衝突を調整や、どちらかの権利の制約が求められたりします。その判断基準として採用された概念が、「安寧(あんねい)秩序ヲ妨(さまた)ケス 及(および)臣民タルノ義務ニ背(そむ)カサル限ニ於(おい)テ」という留保条件です。

 

「安寧秩序」とは、「国民の安全と秩序」という意味で、「臣民タルノ義務ニ背(そむ)カサル限ニ」も意訳すれば「他人の権利を侵害しない限り」となります。この考え方は、現憲法でいう「公共の福祉」そのものであり、現在の民法でいうところの「公序良俗に反しない限り」とも同じ意味といえます。

 

「公共の福祉」とは、前述したように、「社会全体の幸福や利益」という意味で、辞書では「自由や利益の相互的衝突を調整し、その共存を可能にする公平の原理(ブルタニカ国際大百科事典)とありますが抽象的です。

 

帝国憲法に書かれている「安寧秩序を妨げず及び臣民たるの義務に背かざる限り」の方が、日本国憲法の「公共の福祉に反しない限り」より具体的で、より国民(臣民)の人権を守ることができます。

 

例えば、地下鉄サリン事件などを引き起こしたオウム真理教は、一連の事件を引き起こす以前から警察からマークされていたようですが、識者の中には、「現憲法における「信教の自由」の尊重と言っているうちに、このような戦前では見られなかった宗教的惨禍をもたらした、これが、帝国憲法下であれば、『安寧秩序を妨げず及び臣民たるの義務に背いた』として、その芽が摘まれていた」と指摘する向きありますが、至言だと思います。以上が、帝国憲法の信教の自由に対する「言われなき批判」に対する反論です。

 

国家神道の強制の意思はなかった!

また、後に国家神道を強制し、他の宗教が弾圧されることにつながったとする考え方は当たっていません。少なくとも、帝国憲法の起草者らに宗教の強制と弾圧の意思はなかったと言えます。

 

伊藤博文も「憲法義解」の中で、「ましてや国教を定めて信仰を強制するのは、もっとも人知の自然な発達と学術の競争や進歩の障害になるものであり、いずれの国も政治権力を用いて、特定の宗教に対して、その信仰を圧迫、干渉する権利と機能を認めていない」と述べ、国家神道への押しつけを否定しています。

 

実際、帝国憲法の起草に関係したドイツ人のグナイストが「宗教を通じて国家と国民との精神的一致をはかり、一心同体となるために国教を定めるべきである」と提言したことに対して、当時の帝国憲法起草者らは、「時代遅れの考え」即ち、政教一致や国教制度を、(欧州における)過去の遺物として拒否したと言われています。

 

このように、本条においては、憲法に書いてなくても守らなくてはならない自己の内面にとどまる信仰の自由(内心の自由)と、憲法典に書いてあること自体に意味がある信教の自由の中で外に表れる権利としての宗教行為や宗教的結社が保障されています。

 

確かに、日本国憲法では、確かに帝国憲法より詳しく信教の自由を規定しているのかもしれません。しかし、憲法典に書かれていることだけが重要ではありません。帝国憲法は意図的に簡潔にされています。現行憲法に3項に分けて書かれている信教の自由の内容が、帝国憲法では一文にすべて凝縮・簡略化されて含有しています。帝国憲法はまさに英知の結集と言えるでしょう。

 

また、そもそも、国家神道(神道=国教)そのものもが、信教の自由を侵害する形で存在していたのでしょうか?

 

神道は国教だった?>

「大日本帝国憲法設立の経緯」でも指摘したように、1868(明治元)年、政府は王政復古による祭政一致の立場から、古代以来の神仏習合を禁じて神道を国教とする方針を打ち出し(神仏分離令)、全国にわたって一時廃仏毀釈の嵐が吹き荒れました。また、1870(明治3)年、惟神の道(神道)を宣揚すべきとして、大教宣布の詔を発し、神社制度・祝祭日などを制定し、神道を中心に国民教化がめざれました。日本書記が伝える神武天皇即位の日を太陽暦に換算して、紀元節(2月11日)とし、明治天皇の誕生日である11月3日を天長節と定め、祝日としました。しかし、こうした神道の国教化の効果は上がらず、失敗しました。

 

明治政府はその後、(神社)神道は宗教ではなく国家の祭祀であるとして、神社神道に「国教的」な地位を与えました。臣民には憲法で形式的に信教の自由を認めつつ、政府は国家の祭祀儀礼としての神社神道を保護していきました。もっとも、現在、イギリスでは国教制、ドイツでは公認宗教制という形で、国家による特定宗教の保護と国民の信教の自由とを両立させているので、当時の明治政府の政策自体は問題ではありません。要するに、帝国憲法を運用する側に問題があったというべきでしょう。

 

以上、<既存の解釈>と<善意の解釈>を戦わせましたが、信教の自由について、歴史的に指摘されていることに対しても答えてみました。

 

<「信教の自由」は不平等条約改正のため?>

当初、明治政府は、江戸幕府の切支丹禁止令を受け継ぐと宣言しましたが、西洋諸国の抗議で撤回しました。もともと、明治政府が憲法の制定を急いだ理由は、西欧列強から「文明国」とみなされ、不平等条約を改正することにありました。当時の指導者は、信教の自由を認めなければ、文明国でないとみなされるという懸念が強かったようです。「文明国でない」と認定されたら、即座に戦争を仕掛けられかねない時代ですから、日本の安全保障の立場から考えても、信教の自由を規定することは重要なことでした。

 

 

<参照>

帝国憲法の他の条文などについては以下のサイトから参照下さい。

⇒ 明治憲法への冤罪をほどく!

日本国憲法の条文ついては、以下のサイトから参照下さい。

⇒ 知られざる日本国憲法のなりたち

 

 

<参考>

明治憲法の思想(八木秀次、PHP新書)

帝国憲法の真実(倉山満、扶桑社新書)

憲法義解(伊藤博文、岩波文庫)

憲法(伊藤真、弘文社)

Wikipediaなど

 

(2022年11月1 日)