帝国憲法22条 (経済の自由):「法律の留保」と「公共の福祉」の優越

 

私たちが学校で教えられてきた「明治憲法(悪)・日本国憲法(善)」の固定観念に疑いの目を向ける「明治憲法への冤罪をほどく!」を連載でお届けしています。今回は、第2章「臣民権利義務」の中の「居住・移転の自由(経済の自由)」です。

 

本条から具体的に人権規定が始まることになりますが、その際、帝国憲法(帝国憲法)を批判する向きが必ず問題視するのが、「法律の範囲内において」など、条文の間に挟み込まれている「法律の留保」と呼ばれ一種の但し書きです。居住・移転の自由の内容そのものも論点となる部分はありますが、それ以上に議論が高まるのが法律の留保についてです。

 

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帝国憲法 第22条(居住・移転の自由)

日本臣民ハ 法律ノ範囲内ニ於(おい)テ 居住及(および)移転ノ自由ヲ有ス

日本臣民は、法律の範囲内において、居住と転居の自由を有する。

 

<既存の解釈>

本条は、自由な経済活動の前提となる居住・移転の自由を保障しているが、日本国憲法では、居住、移転の自由だけでなく、外国移住と国籍離脱の自由も保障している。

 

日本国憲法 第22条

  • 何人も,公共の福祉に反しない限り,居住,移転及び職業選択の自由を有する。
  • 何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない。

 

明治憲法における国民の自由・権利の保障には、本条のような「法律ノ範囲内ニ於テ」という表現を用いて限定を伴っていた(このように人権を法律で制限することを「法律の留保」という)。これは、権利が法律でいくらでも制限できるということを意味し、国民(臣民)に与えられた権利保障は限定的なものでしかなかった。ゆえに、本条の居住・移転の自由も、法律でいくらでも骨抜きにできる限定的な権利保障になってしまっていたのである。

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こうした批判に対して、帝国憲法22条についての伊藤博文と井上毅の真意はどこにあったのでしょうか?

 

<善意の解釈>

伊藤博文は、「居住・移転の自由」を保障した意義について「憲法義解」の中で次のように解説しています。

 

「江戸時代(封建時代)には、藩の国境を限り、各々関所や柵を設けて、人々は許可なくその本籍以外に居住することを許されず、また、営業など自由な経済活動が束縛され、旅行をするにも許可が必要であった。しかし、維新の後、藩が廃止され、帝国憲法によって居住及び移転の自由を認め、すべて日本臣民は、国内のどこの地を問わず、定住、借り住まい、宿泊や営業する自由が与えられるようになった。」

 

居住・移転の自由は、基本的人権の中では「経済の自由(経済的自由権)」に入ります。居住・移転の自由は、まさに、資本主義経済の前提である労働力の確保が可能となったと言えるでしょう。

 

ところで、この居住移転の自由も、無制限に認められるのではありません。この点について伊藤も、「他人の土地に勝手に入り込んで、住まいを定め、営業活動する自由なども認められるなら、社会秩序が保たれない」として、居住移転の自由にも制限がかかる場合があることを指摘しています。そこで、本条では「法律ノ範囲内ニ於(おい)テ」、居住移転の自由を保障しているように、帝国憲法では、議会が定めた法律で制約しています(「法律の留保」)。

 

日本国憲法でも、帝国憲法同様に、奇しくも同じ22条で居住、移転の自由を保障していますが、両者の違いは、帝国憲法が、「法律ノ範囲内ニ於テ」と「法律の留保(制約)」があるのに対して、日本国憲法では、「公共の福祉に反しない限り」と、「公共の福祉」による制約を掲げていることです。

 

なお、帝国憲法には、日本国憲法と比べて、外国移住と国籍離脱の自由がないと批判されますが、当時、それは人権問題とはみなされていませんでした(外国に移住したいができない、国籍を離脱したいができないことが社会問題となっていない)。そもそも人権はそれが侵害されて初めてその必要性が認められるものです。

 

 

<「法律の留保」と「公共の福祉」>

 

◆ 法律の留保

欧米の歴史からみて、国民の人権を侵害することがあるとすると、それは政府(行政)です。通常、国家権力といえば政府の権力すなわち行政権だからです。ですから、国民の人権を守るために、国民の代表する議会で行政権(政府の行動)を拘束する法律を制定しようという考え方が「法律の留保」の背景にあります。つまり、「法律の留保」は、政府に勝手なことをさせないために、議会で行政権を拘束する法律を制定させることが趣旨で、「フランス人権宣言でも明文化されていました。

 

しかし、議会も万能ではなく議会を信頼し過ぎることは危険です。たとえ意図せざるとも、議会が不当な法律を制定してしまって、国民の人権を侵害してしまうことはありえるからです。実際そういう事例はいくつもありました。

 

◆ 公共の福祉

人権といっても、他者との権利・利益の衝突を調整するために、一定の制約を受けることは当然です。そこで、現行憲法では、居住・移転の自由も含めて、「公共の福祉に反しない限り」という留保(制約)を付す場合があります。

 

「公共の福祉」とは抽象的過ぎてわかりづらい言葉ですが、「社会全体の幸福や利益」という意味で、簡単にいえば「みんなの利益」に反しない限り、人権が認められます。二つの異なる人権の主張があった場合、人権相互の矛盾や、他者との人権が衝突した場合に制約されます。すなわち、現行憲法において、「みんなの利益に反しない限り」人権が認められると言っているのです。ですから、人権を制限できるのは、他の者の権利・利益と衝突する場合だけです。そして、その調整を最終的には裁判所が行ってくれます。

 

「法律の留保」と「公共の福祉」ではどちらの方が権利の保護に厚いかという議論は、学者に任せるべきだとは思いますが、ここでは、本HPの趣旨に合わせて、「法律の留保」を支持する立場で述べてみたいと思います。というのも、帝国憲法(明治憲法)を「悪」とみなす立場が支配的な時代にあって、「法律の留保」の否定的な面のみが強調されがちだからです。

 

「公共の福祉」という「社会全体の幸福や利益=みんなの利益」という漠然とした制約以外は等しく認められるという権利保障よりは、「法律で皆さんの人権を政府の専横から守ります」とい言った方がよりわかりやすく明確です。しかも、法律でのみ国民の権利が制限されるといっても、法律は国民の代表である議会によって制定されるので、それは民主的であるという見方もできます。

 

帝国憲法を批判する向きは、法律さえ作ればいくらでも人権を制限できる(「悪法も法なり」)として、この「法律の留保」を帝国憲法に対する攻撃材料とします。しかし、「法律の留保」は、臣民の代表者からなる議会の法律なしに、政府が行政処分などを通じて勝手に国民の権利を制限してはならないという考え方を根幹にしています。逆に言えば、国民に与えられた自由などの権利が制限されるとしたら、行政府ではなく、議会が制定した法律によらなければならないのです。

 

このように、「法律の留保」は、権利を制限するというよりも、権利保障の規定とプラス評価されるべきでしょう。実際、現行憲法下でも、行政府が国民の権利を制限するには、国会が制定した法律に基づかなければならないという「法律の留保」の考え方を「法律による行政」という難しい言葉に置きかえて採用しています。

 

とても難しい議論だったと思いますが、この後も何度もでてくるテーマですので、法律の留保、公共の福祉という文言がでてきた時に考えてみて下さい。続けましょう。

 

 

 

<参照>

帝国憲法の他の条文などについては以下のサイトから参照下さい。

⇒ 明治憲法への冤罪をほどく!

日本国憲法の条文ついては、以下のサイトから参照下さい。

⇒ 知られざる日本国憲法のなりたち

 

 

<参考>

明治憲法の思想(八木秀次、PHP新書)

帝国憲法の真実(倉山満、扶桑社新書)

憲法義解(伊藤博文、岩波文庫)

憲法(伊藤真、弘文社)

Wikipediaなど

 

(2022年11月1日)