帝国憲法1条(天皇主権):天皇が治す(しらす)国

 

私たちが学校で教えられてきた「明治憲法(悪)・日本国憲法(善)」の固定観念に疑いの目を向ける「明治憲法への冤罪をほどく!」を連載でお届けしています。今回から各条文に入り、第1章「天皇」の第1条について考えます。「大日本帝国は万世一系の天皇が統治する」という短い一文に、起草者である伊藤博文と井上毅の深い思想がにじみ出ています。

 

大日本帝国憲法は、略称として帝国憲法」、俗称として「明治憲法」と呼ばれますが、ここでは「帝国憲法」を活用します。

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帝国憲法 第1条(天皇の統治権)

大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之(これ)ヲ統治ス

大日本帝国は万世一系の天皇が統治する

 

大日本=日本国の美称。

 

<既存の解釈>

日本国は天皇が統治すると規定し、天皇の絶対性が謳われている。「主権」とは、国の政治のあり方を最終的に決定する権限のことで、天皇がすべてを決定することができるのである。

 

さらに、その天皇は「万世一系」の天皇と規定されていることで、天皇の絶対性が一層高められた。万世一系とは、一つの皇統(天皇の血統)が連綿と続くという意味で、日本という国の本質、すなわち国体(国柄)を表す言葉である。

 

天皇という地位は、この万世一系の一つの系統のなかで継承されてきているという考え方は、天皇という地位が一代限りということではなくて、記紀に物語られた神代にから連綿と受け継がれていることを意味し、天皇が超越的な存在として神格化され、現人神(あらひとがみ)と崇められるようになった。

 

当時の東京大学の上杉慎吉(ルソー研究家)教授(1878~1929)は、1条を「天皇は主権者たり。臣民は斉(ひと)しく皆、天皇に服従す」と解説し、天皇と臣民は、君臣の関係であると主張しました。当時の国民は、天皇の所有物であるかのごとく「臣民」(天皇の民)とされていた。

 

もともと「万世一系ノ天皇」という概念は、伊藤博文とともに大日本帝国憲法の草案作りを行なった井上毅(こわし)が、天皇が日本を統治することの根拠を、明文化しなければならないと考えて活用した言葉である。

 

加えて、江戸時代の朱子学にある「忠孝思想」とも結びついて、天皇を宗主とする家族国家観が広がり、天皇による統治が理想化された。大東亜戦争期には、日本だけでなく世界に通用する普遍的な教えであるとする「八紘一宇」という考え方にまで発展して、日本は戦火を拡大していった。

 

この反省から、日本国憲法では、主権は国民にあると規定し、天皇は主権者ではなく「象徴」とされ、しかも国政に関する機能を有しないとされたのである。

 

日本国憲法 第1条

天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く

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こうした見解に対して、帝国憲法1条にかけた伊藤博文と井上毅の真意はどこにあったのでしょうか?

 

<善意の解釈>

大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す」は、日本(大日本帝国)が万世一系の天皇が治めると宣言しているだけで、天皇の絶対性を規定した条文ではありません。

 

◆ 「統治ス」と「治ス(しらす)」

まず、「統治す(統治する)」の「統治」とは、「支配」という意味で使われていません。「統治」とは、国土と臣民を治めることですが、中世ヨーロッパ的な考えに立てば、文字通り「支配する」という意味です。欧州の支配者は、国王その人やその一族のために、領土や領民を意のままに支配することができました。例えば、西ローマ帝国を実質的に継承したフランク王国は、カール大帝の死後、あたかも遺産相続の如く、その領土は三分割されました(それが現在のフランス、ドイツ、イタリアになる)。そこで、国王は、私腹を肥やすこともできれば、邪魔な者は容赦なく殺すことも可能な、文字通り絶対的な君主なのです。

 

しかし、帝国憲法第1条の「統治」は、自分やその一族のために国を統治するのではなく、国民を公平に治めるという意味があります。

 

帝国憲法の起草者の一人である井上毅は、当初、第1条の草案として、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇ノ治ス(しらす)所ナリ」としました。違いは「統治ス」ではなく、「治ス(しらす)」となっていたことです。「治(しら)ス」とは、臣民と協力し合うことで国を治めていくという日本の伝統的な政治姿勢です。

 

日本の歴代の天皇は、民のことを宝として大切にするという意味で「おおみたから」と呼び、自分以上に大切な存在として、民に接してこられているという伝統があります。首相や大臣はその天皇からみ宝を預かっているという役割であったのです。そして、天皇は民を慈しみ、民は天皇を敬愛するという「君民共治」を理想とされてきました。仁徳天皇の「民のかまど」のエピソードなどはまさにこの「治ス」の表れです。

 

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「民のかまど」のエピソード

 

仁徳天皇の四年、天皇が難波高津宮から遠くをご覧になられて「民のかまどより煙がたちのぼらないのは、貧しくて炊くものがないのではないか。都がこうだから、地方はなおひどいことであろう」と仰せられ「向こう三年、税を免ず」と詔(みことのり)されました。それからというものは、天皇は衣を新調されず、宮垣が崩れ、茅葦屋根が破れても修理も遊ばされず、星の光が破れた隙間から見えるという有様にも堪え忍び給いました。

 

三年がたって、天皇が高台に出られて、炊煙が盛んに立つのをご覧になり、かたわらの皇后に申されました。

「朕はすでに富んだ。嬉ばしいことだ」

「変なことを仰言いますね。宮垣が崩れ、屋根が破れているのに、どうして富んだ、といえるのですか」

「よく聞けよ。政事は民を本としなければならない。その民が富んでいるのだから、朕も富んだことになるのだ」

 

天皇は、ニッコリされて、こう申されました。そのころ、諸国より

「宮殿は破れているのに、民は富み、道にものを置き忘れても拾っていく者もありません。もしこの時に、税を献じ、宮殿を修理させていただかないと、かえって天罰を蒙ります」との申し出が頻頻とあるようになりました。

 

それでも、天皇は引き続きさらに三年間、税を献ずることをお聞き届けになりませんでした。六年の歳月がすぎ、やっと税を課し、宮殿の修理をお許しになりました。その時の民の有様を「日本書紀」は次のように生き生きと伝えている。

 

「民、うながされずして材を運び簣(こ)を負い、日夜をいとわず力を尽くして争い作る。いまだ幾ばくを経ずして宮殿ことごとく成りぬ。故に今に聖(ひじりの)帝(みかど)と称し奉る。みかど崩御ののちは、和泉国の百舌鳥野のみささぎに葬し奉る」

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もっとも、「治(シラ)ス」は、対外的に理解されないことなどを理由に伊藤博文らの反対で採用されず、「統治ス」となりました。しかし、言葉の根底には「シラス=治(シラ)ス」の思いが流れています。ですから、国民は天皇の民、すなわち臣民なのです。帝国憲法を批判する人たちは、この臣民を家来と解釈していますが、それは中世ヨーロッパの発想で、日本の伝統とは相いれないものです。帝国憲法下の天皇は独裁的な人物ではなく、第1条も天皇の絶対性を規定しているわけではないのです。

 

◆ どこにもない「天皇主権」の記述

 

また、帝国憲法1条は天皇主権を宣言していると一般的には解されていますが、帝国憲法には主権という言葉は一度も使われていません。そもそも「主権」とは、16世紀のフランスで、カトリックとプロテスタントとの間でユグノー戦争(1562~1598)と呼ばれる戦争が行われていた時に、フランスの思想家ジャン・ボダンが提唱したもので、「主権」ということば、絶対君主の権力を正当化するために考え出されたある意味危険な西洋的概念です。

 

ユグノー戦争(1562~1598)は、フランスのプロテスタントのカルバン派(ユグノー)とカトリック派の間に起きた抗争で、スペインやイギリスをも巻き込んだ宗教戦争です。この戦争では両派が妥協することなく、カトリック派がユグノー数千人を虐殺する事件が起きるなど凄惨を極めました。

 

そこでボダンは、両者を抑えこむために、中立的なフランス国王に絶対的な権力を与えることで平和を回復させようとしたのでした。実際、ボダンは主権を「最高・唯一・絶対・不可分な恒久的権力」と規定しています。こうして、「主権」という地上における神の権力を代行する強大な権限を承認された西欧の絶対君主らは、文字通り民に対して圧政を振るうことも可能になったのです(もっとも善徳を施す絶対君主もいた)。西欧では、君主や特権階級は、人民と一線を画し、人民を土地や家畜と同じような財産と考え、むしろ彼らは他国の王侯貴族を自分たちと同類と考えてきました。

 

こうした「主権」の持つ危険な意味をよく理解した伊藤博文らは、草案作成の段階でも、帝国憲法の条文に「主権」という言葉を一度も使用しなかったと言われています。天皇は、欧米流の統治権者ではありません。歴史的にみても、天皇が主権者としての人民に対して無慈悲な振る舞いをしたということは、神話の時代からほとんどありません。ただ、外国との比較で、日本の主権者は?と問われれば天皇と答えるしかなかったので、いつしか天皇=主権者とみなされるようになったと考えられています。

 

しかし、当時の東京大学の穂積八束(ほづみやつか)やその弟子の上杉慎吉といった著名な憲法学者は、ヨーロッパの思想を導入し、「天皇に主権がある」と考え、帝国憲法1条の「日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」を、「天皇は主権者たり。臣民は斉しく皆、天皇に服従する」と解釈しました。上杉慎吉氏はフランスのルソー研究の大家です。「主権」の概念を西洋風に解釈したことは頷けます。

 

この天皇主権説は、「天皇の下で臣民は一致団結して、戦争を勝ち抜こう」という気概が求められた日露戦争の時代においては都合がいい学説となり、これが後に、天皇を絶対視する思想に利用されました。

 

実際のところ天皇は、「統治権の総攬者」(4条)とされていますが、権力者としてすべてを掌握するというよりは、万世一系2676年の長きに亘り、唯ひたすら「祖霊への感謝と、国民の安寧と平安」を祈る「祭祀」の役割を果たされてきました。ですから、天皇の統治とは、国家儀礼を行われることと言っても過言ではなりません。つまり、日本の天皇は、現行の日本国憲法がいう象徴天皇という役割を果たしてこられたのです。ですから、天皇の治(し)らしめる統治の結果、天皇は日本国民統合の象徴となっているので、条文の解釈上、帝国憲法の第1条と日本国憲法の第1条というのは、本質的に同じことを述べているという言い方もできます。

 

なお、帝国憲法第1条の「大日本」という表現は、日本国の美称であって、そこに軍国主義的な意味合いはまったくありません。

 

 

◆ 本当に万世一系?

万世一系とは、一つの皇統(天皇の血統)が連綿と続くという意味ですが、天皇の血統がどれほど長く続いているかというと、紀元前660年2月11日に神武天皇が奈良県の橿原神宮で即位して以来、2019年で2679年目にも及びます(「皇紀2679年」ともいう)。もっとも、欠史八代または欠史十代という時代もあったとされ、現在の皇統は6世紀以降から続いていると主張する向きもありますが、それでも1400年以上は最低でも続いていることになります。

 

ところで、「日本」は世界で最も長い歴史を持つ国であることをご存知だったでしょうか?4000年の歴史とも称さる中国は、秦、漢、唐など王朝が変遷し、現在の中華人民共和国の建国は1949年です。これに対して、日本は太古から「瑞穂国」や「日の本の国」などの異称はありますが、ずっと変わらず「日本」なのです。

 

 

<参照>

他の条文などについては以下のサイトから参照下さい。

⇒ 明治憲法への冤罪をほどく!

日本国憲法の条文ついては、以下のサイトから参照下さい。

⇒ 知られざる日本国憲法のなりたち

 

<参考>

明治憲法の思想(八木秀次、PHP新書)

帝国憲法の真実(倉山満、扶桑社新書)

憲法義解(伊藤博文、岩波文庫)

憲法(伊藤真、弘文社)

 

(2022年10月21日)