七福神は、インド、中国、日本で生まれた神仏で、神仏習合からなる、日本的な信仰対象で、室町時代末期から民間信仰として始まり、庶民の暮らしに幸運をもたらす福の神として、現在でも親しまれています。恵比寿は正直、大黒天は有徳、毘沙門天は威光、弁財天は愛敬、布袋は大量、福禄寿は人望、寿老人は寿命を表し敬愛すれば7徳が身に備わると言われました。
七柱の神さまのうち、日本の神は恵比寿様だけで、恵比寿天以外は、インドと中国の神仏です。七福神の素顔に迫ってみましょう。
恵比寿:日本(神道)
大黒天:インド(ヒンドゥー教)
毘沙門天:インド(ヒンドゥー教)
弁財天:インド(ヒンドゥー教)
布袋(ほてい):中国(仏教)
福禄寿:中国(道教)
寿老人:中国(道教)
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<恵比寿(天)>
恵比寿さまと言えば、左手に鯛、右手に釣竿を持つ漁業・商売繁盛の神さまとして親しまれています。恵比寿天の信仰は、記紀(古事記と日本書記)神話における蛭子(ひるこ)神への信仰から始まりました(ですから、恵比寿は「夷」「戎」「蛭子」とも表記される)
蛭子神は、国造りの神、伊弊諾尊(いざなぎのみこと)、伊弊舟尊(いざなみのみこと)の間に生まれた子供なのですが、3歳になっても自分で立つことができなかったため葦の船に乗せて海に流されたと書かれています。蛭子が漂着した場所が現在の西宮(兵庫県)で、そこの浜の漁民に祭られ信仰が始まりました(現在でも西宮神社の祭神は、蛭子神=恵比寿天である)。以来、日本の漁村では、海からの漂着物を、福をもたらす遠方から来た神さま(夷様=恵比寿様)とみて祭る習俗が広まったとされています。
この恵比寿天と、日本の記紀にでてくる事代主神様が同一の神さまとされています。事代主神は、もともと海の果ての常世国に住む神とみられていました。実際、古事記における国譲り神話において、国譲りに応じた後、海の果てに奥方の神とともに去っています。ここに、海から来た事代主神と、高天原から流れてきた蛭子=戎=恵比寿が重なりあったものと推察されます。恵比寿信仰が西宮神社を中心に各地に広がると、同じような性格をもつ事代主神も恵比寿様であるとみなされるようになったのかもしれません。
<大黒天>
大黒天は、もともと「偉大な黒」を意味するインドのマハーカーラという、暗黒をつかさどるヒンズー教の神さま(シバ神)でした。日本では、このインドのシバ神に、出雲の大国主神が習合して、現在の大黒様(天)となり、大地を掌握する農業神、または財宝・福徳開運をもたらす神として信仰されるようになりました(一説には、ヒンズー教の神さまを日本に持ち込んだのはあの最澄だとか)。確かに、現在、大黒様は、頭に頭巾を被り、左肩に袋、右手に福槌を持ち、米俵に座す姿で知られていますね。
そして、恵比寿=事代主神と同様に、大黒天=大国主神とみなされるようになりました。ではどうして、大国主神と大黒天とつながったのかと言えば、古代中国の神話と関係がありそうです。古代の中国では、家鼠を霊獣(神獣)とする鼠の信仰があり、ネズミを大黒天の使者とする考えがあるとされています。
「古事記」の中にも、鼠が大国主命を救う話があります。大国主命の父とされる素妻鳴尊(スサノオ)が大国主命に試練を与えるために、大国主命を広い野原に行かせてそこの草に火を放ちました。すると火はたちまち燃え広がり、大国主命は逃げ場を失い窮地に立たされます。しかし、この時一匹の鼠が現われて、「この下に穴がある」と教えたことから、大国主命は、火がおさまるまで穴の底に身を伏せて難を逃れることができました。
中国から霊(神)獣としての鼠の信仰が日本に伝わった時に、大国主神と、大黒天の使者である鼠が結びついたと考えられます。また、大国主神は国つ神として、日本の国土を守る神様として信仰されてきました。万能の力をもつ大黒天に対する信仰が、インド、中国から日本に入ってきたあとに、大黒天が大国主神に結びつけられることになったのでしょう。
そして、戦国時代には、記紀の世界では親子である大黒天と恵比寿天を、特別に御利益のある身近な福の神だとする考えて同時に祭る習俗が、特に商工民の間で、京都から各地に広がったそうです。
<毘沙門天>
昆沙門天は、ヴアイシュラヴァナ神(クベーラ神)というインドのバラモン(ヒンドゥー)教の神で、仏教とともに伝来しました。毘沙門天はその音訳で、多聞天という別名も持っています。これは、「ヴアイシュラヴァナ」というサンスクリツト語は、「あまねく聞く」という意味の言葉からきているそうです。
日本で、昆沙門天といえば、武運の神として、上杉謙信ら戦国武将の信仰を集めていたことで知られています。しかし、古代インドのバラモン教では、ヴアイシュラヴァナ(クベーラ)神は、武神でなくて知恵の神、または、利巧に金儲けをする神(財宝神)でした。ヴアイシュラヴァナ(クベーラ)神が、仏教ができたあと中国を経由する時、昆沙門天として、仏教(仏法)を守る四天王に変化しました
四天王は、仏教成立以前の古代インドでは世界を守る神とされていました。そのため、仏教でもこの信仰をもとに、四天王が世界の中心にあり、如来や菩薩をお祭りする須弥山の中腹にいると考えられ、須弥壇の四方に四天王の像が安置されるようになりました。昆沙門天は、四方の中で北の守りを受け持ちます。
日本にも、武神としての昆沙門信仰が伝わり、江戸時代まで受け継がれました。聖徳太子は四天王(持国天、増長天、広目天、昆沙門天)に、物部氏との戦いの戦勝を祈ったと伝えられています。平安京が建設されたあと、朝廷は京都の北方の呪的な守りとするために、昆沙門天を祭る鞍馬寺を重んじました。戦国時代には、前述したように、毘沙門天は武運の神として上杉謙信ら戦国武将の信仰を集めました。
実際、日本で見られる四天王の像には、甲冑を着けて矛と宝塔を持ち、邪鬼という仏法を犯す鬼を踏んで立つ勇ましい姿で多くが描かれています。また、七福神を乗せて航海する「宝船」でも、昆沙門天は、唯一甲冑(かっちゅう)をまとっています。
一方、日本人は、昆沙門天を武神とみなすと同時に、もともとの毘沙門天の特徴である財運の神としても崇拝していました。特に、室町時代後半の京都で福の神としての昆沙門天信仰が一挙に広がったとされています。多くの者が、財運を求めて鞍馬寺を参詣するようになったそうです。
<弁財天>
- インド生まれの女神
弁財天(弁才天)は、七福神の中で、ただ一柱(一人)の女神で、サラスバティーと呼ばれるインド古代神話の水神(川の神)です。ヒンズー教でも、サラスバティーは、水と豊穣の神さまとされ、(ヒンドゥー教の三つの有力な神の一つである)創造神ブラフマン(梵天)の妻(妃)だと伝えられています。
ただし、サラスバティーは、ヒンズー教の前身である、(アーリア人が作った)バラモン教成立時からある神だと考えられています。伝承によると、インドに移住してきたアーリア人は、まず自分たちの生活に欠かせない水を与えてくれる川の神をサラスバティーと名付けて土地の守り神として祭っていました。
しかし、バラモン教から発展したヒンドウー教において、新たな神が次々に作られ、サラスバティーもインドの多くの神の中の一つとして扱われるようになったそうです。同様に、川の神も、最初はいくつも祭られていました。しかし、仏教が成立する紀元前5世紀にはインダス河の神だけが、サラスバティーと呼ばれるようになったとされています。
本来インドの神の多くは、悪鬼を退けて人びとを守るものとして信仰されてきたと言われています。そのため、インドで、川の神サラスバティー(弁財天)が、悪神阿修羅を退治したとする話が伝わっています。実際、インドでは、二臀(二本の腕を持つ)、四臀(四本の腕を持つ)、八臀(八本の腕を持つ)などのように、武装して恐ろしい表情をしたサラスバテイー像が多く作られていました。日本でも、八本の腕を持つ弁財天像も作られ、東大寺法華堂の八臀弁財天立像は、阿修羅と戦った時の姿を表現して、八本の腕に矛、剣などの八通りの武器を持った姿をとっています。
仏教が成立した後に、仏教教団の人々は、皆に人気のあるインドの神サラスバティーを、仏教にとり込み、サラスバティーの神は仏教を守る天部(仏教以外の神で仏教に取り入れられた守護神)の仏とされました。
この時点で、サラスバティーは、人びとに水を与えて、農業を助けて人びとを豊かにしてくれるインダス河の神として、仏教に欠かせないものとなりました。仏教におけるサラスバティーの神は、人びとに富を与える仏としてだけでなく、さらに、弁舌、音楽、知恵などの神として信仰されていきました。
インドでは、川の水が美しい花を咲かせることから、川の神は美の神とされ、また川の心地良いせせらぎの音が、音楽に通じるものとされることから、川の神が音楽の神ともなったそうです。
- 中国の弁財天
サラスバティーの名前は、中国で大弁才天女、妙音天、美音天などと訳され、大弁才天女が省略されて弁才天となったとされています。大弁才天女(弁才天)は弁舌などに優れた知恵の仏を、また、妙音天、美音天は音楽に長じた仏を表わします。
ただし、弁財天信仰が広まったのちの中国では、知恵の仏ではなく、財運をもたらす仏としての弁財天の役割が強調されるようになり、お像の姿も、宝冠(宝石で飾った冠)をかぶり、八本の手に宝珠(焔の装飾が付いた立派な珠)、輪宝(輪の形の宝器)などを持つ富裕の神に変わりました(この影響で、弁才天は弁財天になったとみられる)。
このような、戦闘の神(武神)をはじめ、知恵の神、音楽の神、中には全世界の母と位置づけられるなど、多岐にわたる性格を持つ仏としての弁財天(女神サラスバティー)は、中国経由で、日本に伝わりました。
- 日本に伝来した弁財天
日本では、日本の福の神としての弁財天信仰が形作られ、弁財天は、次第に、美の女神、音楽・芸能の女神としての性格が強調されるようになっていきました。当時の貴族社会でも音楽が重んじられると、貴族たちが弁財天に笛や琵琶の上達を願うようになり、平安時代に音楽上達の神としての弁財天信仰が広まったと考えられています。
また、弁財天は、さまざまな神仏と融合して多様な性格を持つようになり、室町時代に、福の神としてひろく信仰されることになりました。きっかけは、「金光明最勝王経」という仏典に、弁才天は、「もし財を求むるなら財を与える仏」と記され、弁財天が財運をもたらすとの教えがあったからだとされています。なお、弁才天が弁財天と書かれるようになったのもこの仏典によるとの説もあります。
福の神として祭られた日本の弁財天は、多くは、穏やかな表情をして、琵琶を奏でる神秘的な天女(絶世の美女)の姿で描かれています。琵琶を弾く姿になったのは、河の音が音楽を奏でているようであることからだと解されています。このような弁財天は、日本独自のものであると考えられています。
<布袋尊>
布袋尊(ほていそん)は、七福神中、唯―の実在人物で、本名を契此(かいし)といい、唐代末期の中国僧です。太鼓腹を突き出し、笑顔を絶やさず、常に大きな布の袋を担いで(背負って)、あちこち旅をしたために「布袋和尚」と呼ばれたと言われています(その袋は喜捨物を入れる袋で堪忍袋と呼ばれた)。
諸国を放浪しながら、吉凶や天候などを占い(預言、託宣を行い)、人々の人格を円満に導いてあげていた布袋和尚は死後、弥勒菩薩の生まれ変わり(化身)と考えられ、夫婦円満・金運・招福の神として神格化されました(916年に、浙江省の岳林寺で亡くなったとされる)。
ただし、布袋和尚の実像は、ほとんど明らかではなく、謎の僧侶とされています。これは、布袋和が官寺で出世を目指すのを好まず、一生、放浪生活を送ったと伝えられていたことによります。
<福禄寿>
福禄寿は、福・禄・寿を備えた道教の神で千歳を超える仙人(道教の長寿神)、また南極星の化身とされます。福・禄・寿は、道教の三徳で、「福」は子孫繁栄・幸福、「禄」は財産・身分、「寿」は健康長寿)を意味し、三徳を備えた福禄寿は、中国では、人の寿命を知り、福、禄、寿の三つすべてを人間に授ける神だとみなされるようになりました。
縦に長い額(身長の約半分を占める長い頭)と、長い白髭が特徴である福禄寿は、左手に宝珠、右手に巻物をくくりつけた杖を持ち、長寿の象徴である鶴や亀を従えた姿で描かれます。この杖は、鉱脈や水源の場所を示して、人びとを豊かにするためのものだそうです。
道教では、福(幸福)、禄(富貴)、寿(長寿)が人間の三大願望とされていました。もとは福人、禄人、寿人の三人の仙人が信仰されていたましたが、三人の仙人が合わさって福禄寿の神になったという伝承もあります。
日本でもこのような中国の信仰にならつて、福禄寿が人間のすべての願いを叶える福の神として祭られるようになりました。この福禄寿信仰は、個性的な福禄寿の顔が、庶民に面白がられたためか、比較的早いうちから庶民に広がったとみられています。
- 福禄寿の伝承
泰山府君と福禄寿
道教では、中国のさまざまな山の神が祭られていた中で、「泰山府君(たいざんふくん)」と呼ばれる山東省の泰山に住むという神がいましたが、福禄寿は、この泰山府君と同一の神であるとする伝承があります。
本来、中国東部の名山にして聖地、泰山そのものの神であった泰山府君は、道教では、人の生死(人間の寿命)をつかさどる神とされました。これは、泰山府君が、仏教では閻魔大王の従者(書記)として、人の善悪行為を記録する地獄の一王とされていたことに由来します。
日本では泰山府君は、地蔵菩薩を本地(本体)とする赤山権現赤山明概(赤山明神)とされ、福禄寿と同一の神だとされています。赤山明神は、京都の赤山禅院(せきざんぜんいん)で祀られており、福禄寿を祭神とする日本でほぼ唯一の神社となっています。
南極星の化身
北宋の元祐年間(1086―93)に、身長がわずか三尺(90センチメートル)で、体と頭とが同じ大きさの一人の老人が都(開封)に現われたそうです。この異相の老人は、市に出て占いをして生計を立て、銭が入ると、酒代にする生活をしていましたが、折にふれ、「我が身は、寿命を益する聖人である」、「私は南極星の化身である」と自称していたと伝えられました。この老人の存在が、後に、南極星の化身として、福禄寿信仰が広がったと考えられています。ちなみに、南極星は老人星と呼ばれ、人間の寿命をつかさどり、富や好運を授けてくれる星と信じられていました。
<寿老人>
寿老人は、中国の道教の神(仙人)で、福禄寿と同様に南極星の化身とされています。背は低く、白髪に頭巾、端正な顔だちに白く長い髭をたくわえ、長寿を象徴する従者の鹿を伴い、巻物(経典)をくくりつけた杖を持ち、うちわで難をはらう姿で描かれることが多くあります。この巻物は「司命の巻」と呼ばれる一人一人の人間の寿命を記したものだと言われており、寿老人は、健康(福徳)と長寿を授ける仙人として信仰されています。
道教の開祖である老子は、中国で広く祀られていました。この老子には、仙人になって不老不死になったとする伝承があったことから、老子は長寿をもたらす神としても崇拝されていました。そのため老子の信仰と、幸運をもたらすもたらす南極星の信仰とが融合して、寿老人という神がつくられたという見方があります。それゆえに、寿老人像は、老子像に似て、長い髯の上品な老人の姿に描かれたというのです。
寿老人の伝承
寿老人に関しては、北宋の時代に開封に現われたとする次のような伝説があります。
「開封の町にただ者と思えない神々しい威厳を持つ老人が現われたので、皇帝が宮殿に招き入れた。そうしたところ老人は酒を七樽も飲み干して姿を消した。皇帝が不思議に思っていると、翌日になって天文台の長官が、『昨夜、南極星が帝星のそばで見えなくなった』と報告してきた。これによつて皇帝は、先日の品の良い老人が寿老人であると知った」
(「七福神の名前と意味を知る」より引用)
ただし、この逸話は後世の人間が、寿老人の権威を高めるために創作したものであると考えられています。
日本における寿老人
福をもたらす縁起の良い生き物とされる鹿は春日大社や鹿島神宮の神さまの神使とされ、とりわけ、春日大社は、朝廷で最も有力な貴族である藤原氏の氏神で、日本国内に多くの分社を持っています。そこで、日本で、寿老人を福の神として重んじるようになった始まりは、鹿を従える寿老人に親近感を感じた春日信仰をもつ人びとではないかと推察されています。
しかし個性のないありふれた上品な老人の姿をした寿老人は、印象が薄かったためか、寿老人が庶民に、福の神として重んじられていくのは、江戸時代に入ってからでした。ただし、日本人にとつて、寿老人は福禄寿よりさらに馴染みの薄い神で、琵琶湖や東京・隅田川の自髭(しらひげ)神社を別にすれば、寿老人を主祭神とする神社は、日本にはほとんどありません。
<福禄寿と寿老人>
福禄寿と寿老人は、ともに道教がルーツの仙人であり、また南極星の化身でもあり、双子とも同一人物とも言われています。道教は御利益のあるさまざまなものを神として祭ったと言われており、福禄寿も寿老人も長寿を授ける神とされました。南極星の神が福禄寿や寿老人の形をとるようになるのは、中国の南宋代(1127―1279)(日本では平安時代末)に相当する時期であると考えられ、別々の神として祀られていました。
鎌倉時代の日本の禅僧は、南宋のさまざまな文化を学んでいました。このため、福禄寿と寿老人の信仰は、日本ではまず南宋との関わりの深い禅寺に、室町時代の頃、伝えられたとされています。その際、中国では福禄寿は長頭で背が低い異相の老人に、寿老人は端正な顔だちの仙人のような老人として描かれていたため、日本の禅寺でも福禄寿と寿老人は全く別の神様として扱われました。ただし、前述したように、この中国人に人気のあった二柱の神さまは、日本では禅寺の外にはほとんど広まりませんでした。
結果として、福禄寿は室町時代に七福神とされましたが、寿老人はそれより遅れて江戸時代なかば過ぎに七福神に加えられました。ただし、七福神巡りの時に、寺院が本尊とは別に祭る福禄寿像や寿老人像を拝むことが多いようです。
<出典>
七福神の由来・七福神の紹介(Buddha World)
七福神の名前と意味を知る(七福神)
七福神とはなんですか?七福神の意味 (大人のためのbetterlife)
日本出身の神様はただ1人 七福神のミステリー
(2014/1/3エンタメ歴史博士)