通常、皇室の「家(宮家)」にはそれぞれ当主がいますが、三笠宮家は、2024年11月に三笠宮妃百合子さまが101歳で薨去されてから、当主が不在となっており、「三笠宮家の今後」が注目されてきました。
そうしたなか、2025年9月、孫の彬子さまが三笠宮家を継がれ、彬子さまの母・信子さまが、独立して新たな宮家を創設するという前例のない決定がなされました。
そこで、三笠宮家の「お家騒動」とも評される今回の決定の詳細や、今後の影響についてまとめました。
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<7年ぶりの皇室経済会議>
2025年9月30日、三笠宮妃百合子さまの死去(2024年11月)に関連する「*皇室経済会議」(議長・石破茂首相)が、宮内庁の特別会議室で開かれ、(1) 空席となっていた三笠宮家の当主について、孫の彬子(あきこ)さま(彬子*女王)が継がれること、(2) 彬子さまの母で、百合子さまの長男・寛仁*親王妃・信子さまが、三笠宮家を離れ、独立して新たな宮家『三笠宮寛仁親王妃家(みかさのみや・ともひとしんのうひ・け)』を創設し、その宮家の当主となられることが決まりました。
これによって三笠宮家は、母娘で分断した形となりました。なお、彬子さまの妹の瑶子(ようこ)女王(41)は、姉が当主となる三笠宮家にそのまま残られます。
*宮家:皇位継承権を有する皇族男子を祖(当主)とする皇族御一家のことをいう。
*女王:天皇のひ孫以下の女性皇族に与えられる身位(身分や地位、序列を示す区分)。
*親王妃:天皇の直系の男子である「親王」の妃(妻)に与えられる身位(しんい)。
*皇室経済会議
皇室の経済に関する重要事項を審議する合議機関で、内廷費(天皇ご一家や上皇ご夫妻の私的な生活費)や皇族費(内廷外の各宮家の私的な生活費)の定額変更、皇族が身分を離れる際の給付金決定、皇族が独立の生計を営むことの認定などを行う。皇室経済法に基づいて設置された。会議は、内閣総理大臣、衆参の正副議長、財務大臣、会計検査院長、宮内庁長官の8人で構成される。
<前例のない決定>
◆ 三笠宮家当主を彬子女王が継承される意味
彬子さまは、三笠宮崇仁 (たかひと) 親王の長男で、「ヒゲの殿下」と親しまれた三笠宮寛仁(ともひと)親王の長女です。大正天皇の曾孫で、現在の天皇から見て「祖父の弟の孫である女王」ということになり、一般人なら「はとこ」「またいとこ」という関係性があります。
女性皇族が当主となるのは、当主を亡くした妃(きさき)が継ぐというのが通例です。実際、戦後の皇室では、高円宮妃だけでなく、秩父宮妃、高松宮妃、高円宮妃、三笠宮妃が、夫の宮さまがお亡くなりになったのち、臨時で当主になられています。しかし、彬子さまのように、未婚(宮家で夫を亡くした妻以外)の女性皇族が、当主を継承するのは、明治憲法下の1889年に旧皇室典範が制定されて以降、今回は初めてです。
江戸時代にまで遡れば、仁孝天皇(在位1817〜1846)の第三皇女で、桂宮淑子(すみこ)内親王以来163年ぶりのことです。淑子内親王は、桂宮家を継いだ別の弟が亡くなり、当主不在となったことから、1863年に (旧) 桂宮家の第12代当主となりました。
宮家の継承とは祭祀を継ぐことを意味します。宮家当主(一般人でいう「世帯主」)は、法的な概念ではありませんが、その家の代表として祭祀を執り行う役割があります。今回の決定により、彬子女王は、独立生計を営む皇族と認定され、三笠宮家の当主として正式に宮家の名称と、その祭祀を「継承」されました。
もっとも、彬子さまはすでに、三笠宮ご夫妻(崇仁親王と百合子妃)と子の寛仁親王の祭祀を執り行っており、今回の決定で、その立場が法律に明文化された形です。さらに母の信子さまが独立したことで、彬子さまが、名実ともに「三笠宮家」を継ぐ存在となられました。
◆ 信子妃が独立し宮家を創設される意味
今回、三笠宮家から独立した信子さまは、独立生計認定を受け、新たな宮家(三笠宮寛仁親王妃家)の当主となりましたが、信子妃のように結婚により民間から皇室に入った女性(皇族妃)が新たに家を創設するのは、明治時代の旧皇室典範施行(明治22年)以来、これも例のない初めてのことです。しかも、「親王妃家」という、まったく前例のない制度がつくられたわけです。
そもそも「三笠宮寛仁親王」という皇族は、現在存在していません。崇仁親王(三笠宮)の長男、「寛仁(ともひと)親王」は、生前、いずれ「三笠宮家」を継ぐことを考え、「寛仁親王家」という宮家を名乗られていました。したがって、「三笠宮寛仁親王妃家」という名称は、「三笠宮家から出た寛仁親王妃の家」という異例の構成となったのです。
ですから、厳密にいえば、信子妃殿下の新宮家、「三笠宮寛仁親王妃家」は、三笠宮家の分家であり、全く新しい宮家ではありません。新しい宮家であれば、天皇陛下から、秋篠宮や高円宮(たかまどのみや)のように「◯◯宮」という「宮号」を賜わりますが、宮内庁は、宮号はないと明らかにしています。
いずれにしても、新たな宮家ができるのは、1990年に秋篠宮家が創設されて以来35年ぶりのことです。これによって、これまで総数として「4宮家」(秋篠宮、常陸宮、三笠宮、高円宮)といっていたのが、これからは「5宮家」になります。
◆ 増額される皇族費
宮家において、誰が当主になるかは原則、家族の話し合いで決まり、その結論が皇室経済会議に諮られます。皇室経済会議が開かれる理由は、会議で独立生計者(当主)と認定され、宮家の当主になると国(国庫)から支払われる*皇族費が増額されるためです。
*皇族費:皇族が品位を保つため支給されるお金(生活費)で自由に使うことができる。
皇族費は身位や「当主かどうか」などに応じて、皇室経済法等に基づいて計算式が定められています。今回の決定によって年間で支給される皇族費は、以下のように、彬子さまと信子さまは増額され、当主になられなかった瑶子さまは、これまでと同じ支給額となりました。
母・信子親王妃:1525万円⇒3050万円
姉・彬子女王:640.5万円⇒1067.5万円
妹・瑶子女王:640.5万円(変わらず)
もし、三笠宮家だけで存続する場合、すなわち、順当に信子妃が当主に就かれ、彬子さま・瑶子さまがその家の成員となった場合、3人に支払われる皇族費は計4331万円でしたが、今回は新当主が2人誕生することで計4758万円となり、427万円の増額となりました。
皇室経済会議の決定に対する国民の声
今回、7年ぶりに開催された皇室経済会議では、意見や質問はなく10分ほどで終了し、全員一致で、信子さまと彬子さまの独立生計を認定しました。
今回の決定をめぐっては、ご一家のこれまでの事情に鑑みれば、「やむを得なかった」という意見もありますが、「物価高で貧困が増えてるのに皇族に支払われる額は倍増し、国民の負担が増えることに、国民の理解は得られない」、「継がれる当主が決まったのはいいが、ご一家がひとつにまとまるのが通例、そもそも新しい宮家が必要なのか」といった声が聞かれました。
なかには、「親王妃家という前例のない宮家を立てるぐらいなら、信子妃は本来、皇籍離脱するのが筋であろう」、「寬仁親王(2012年死去)の生前から夫婦は事実上、離婚状態にあったのだから、皇族妃という立場を放棄すべきである」との厳しい意見も出されていました。
一連の決定について宮内庁側は、「宮家で話し合われた結果」、「内輪の話。承知していないし、承知したとしても説明を差し控える」と言うのみで、一世代飛ばして信子さまの長女彬子さまが継いだ理由や、信子さまが三笠宮家を離れた、具体的な理由については説明していません。
このように、彬子女王の宮家継承と信子妃の新宮家創設は、明治以降の皇室では前例のない「初めて尽くし」となり、結果的に、三笠宮家は分裂(分断)してしまいました。こうなってしまった背景には、20年以上にも及ぶ、三笠宮家内における夫婦間の葛藤と、母娘の確執がありました。
<三笠宮家とは?>
三笠宮家は、1935年、大正天皇の四男で、昭和天皇の末弟・崇仁(たかひと)親王(=三笠宮さま)の成年式当日に(成人を機に)創設されました。その後、三笠宮さまと妃・百合子さまは3男2女に恵まれましたが、2女は結婚により皇室を離れ、不幸にも3人の親王全員に先立たれました。
長男:寛仁(ともひと)親王(寛仁親王家)(1946 ~2012)
次男:宜仁(よしひと)親王(桂宮家)(1948~2014)
三男:憲仁(のりひと)親王(高円宮家)(1954~2002)
2016年に三笠宮さまが逝去(せいきょ)されたのち、百合子さまが家の当主を務められていましたが、2024年に逝去されました。その後、三笠宮家は、寛仁さまの妃・信子さま、その長女・彬子(あきこ)さま、次女・瑶子(ようこ)さまの3人が残されました。
<三笠宮家の分断>
三笠宮家の3人(母娘)は、家庭内の不和から一緒に生活されておらず、百合子さま逝去後の家族の話し合いは難航、宮内庁幹部が水面下で調整に関わっていました。
◆ 寛仁親王と信子妃の葛藤
1980年11月、信子さまと寛仁(ともひと)親王は結婚式を挙げられました。お二人のご結婚は、皇室と麻生家という名門同士の結びつきとして注目を集めました。
注目されたご結婚
三笠宮信子さまは、麻生太郎元総理の妹で、1955年に、麻生セメント(現・麻生株式会社)会長の麻生太賀吉と吉田茂元総理の三女であるお母様との間に生まれました。
信子さまは、華やかな環境で育ち、若い頃から自分の意見をはっきり述べる積極的な性格で知られていたそうです。そんな信子さまが学習院女子高等科に在学中、16歳のときに、三笠宮寛仁親王から求婚を受けたという逸話があります(当時は年齢が若すぎるため結婚には至らなかった)。その後、信子さまは、イギリスのロスリンハウス・カレッジを卒業後、松濤幼稚園の英語講師を務められ、1980年に、三笠宮寛仁 (ともひと ) 親王と結婚されました。
皇室入りにあたっては、実業界と政界に強い影響力を持つ麻生家出身という背景から「政財界と皇室を結ぶ象徴的な結婚」と報じられ、信子さまは皇族としての活動に加え、麻生家の影響力を背負う立場でもありました。
結婚後、信子妃は「寛仁親王妃信子」として、夫妻そろって公務に出席する姿が見られ、国際親善や福祉活動に積極的に取り組まれました。結婚の翌1981年には長女の彬子(あきこ)女王、1983年には次女の瑶子(ようこ)女王が誕生しました。当時の報道では「理想的な皇族一家」として紹介されることも多く、夫婦関係は安定しているように見えていましたが、結婚生活は順風満帆ではありませんでした。
別居生活(健康問題や家庭内の葛藤)
1991年に寛仁さまの食道がんが発覚すると、闘病される寛仁さまのために、信子さまは1日6回の食を用意されるなど献身的に尽くされました。しかし、何度もがんを発症されるなか、寛仁さまと信子さまとの間には徐々に溝が生まれていったそうです。
お二人の不仲の原因については諸説ありますが、寛仁さまの酒量の増加が主な原因だと言われています。現に、1990年代には、親王がアルコール依存症の治療を受けていることを自ら公表されました。信子さま自身も喘息などの健康問題を抱え、家庭内での精神的負担が増していかれたそうです。夫婦間の葛藤は次第に深まり、2004年に、信子さまと寛仁さまは別居生活を始めることになってしまったのです。
信子妃は、軽井沢で療養生活を送られ、2009年には、ストレス性ぜんそく治療のため入院されましたが、退院後も宮邸に戻ることはありませんでした。治療、療養を理由に、寛仁親王や彬子さま、瑶子さまと暮らしていた旧寛仁親王邸や三笠宮邸がある赤坂御用地内の住居を離れ、東京都千代田区の宮内庁分庁舎(旧宮内庁長官公邸)に移り住まれました。ただし、別居後も、信子さまは皇族としての立場を保ち、公務や社会活動に参加されています。
その後、宮内庁分庁舎のバリアフリー工事にともない、現在は高輪皇族邸(仮住まい)でおひとり暮らしされています。分庁舎の工事費用は、居住部分以外の老朽化対策など含め、約13億円が費やされると見込まれています。別居宅であるいまのお住まいを大規模改修するということは、信子妃にとって三笠宮邸、寬仁親王邸(現・三笠宮東邸)に、「戻るつもりはない」という意思表明とみられています。
◆ 母娘の確執
信子妃の別居のご決断は、娘たちとの断絶も生んでしまいました。彬子さまは父・寬仁さまが薨去されてから3年後に、月刊誌への寄稿で、「私自身も十年以上、きちんと母と話をすることができていない」と記し、母娘の断絶を公にされました。また、彬子さまが母に会おうとした際、代理人を通じて面会を拒否された経験があることも明かしてます。
次女の瑶子女王も、母信子さまを「あの人」と呼ぶことがあると伝えられ、母との関係に距離がある見られています。
父・寬仁親王から皇族としてのなさりようなど大きな影響を受けていらっしゃる彬子女王と瑶子女王からすれば、「病気のお父さまを置いて、宮邸を離れた信子さまを許せない」というお気持ちを強く持たれているようです。
2012年、危篤状態になられた寬仁さまに会うため、信子さまは病院に通われたそうですが、「ご家族の意向」により、ご夫婦の対面は最後まで叶いませんでした。同年、早世された寛仁親王の斂葬の儀(葬儀)では、喪主を務めたのは信子さまではなく彬子女王でした。これには三笠宮ご夫妻のご意向もあったされ、信子さまは葬儀にも参列されませんでした。
信子さまは、こうした対応から、お嬢さま方のほか、義母にあたる百合子さまら親族への不信感を募らせていったとされ、寬仁さまが薨去した後も、宮邸にはお戻りになりませんでした。
2024年11月、百合子さまが101歳で薨去された際も、彬子さまが喪主をお務めになりました。このとき、信子さまは、赤坂御用地の三笠宮邸に出向かれましたが、関係者によると、弔問を拒まれ、玄関先で宮務官に労いをお伝えになるのみで、百合子さまのご遺体に対面できないまま帰られたと伝えられています。以降、信子さまは、葬儀に伴う一連の儀式に出席なさることはありませんでした。
皇室内での立場と活動
信子さまは、寛仁親王の逝去後も、親王家(当時、寛仁さまは「寛仁親王家」として独立)の当主にならず、「寛仁親王妃」という身位(立場)を保ちながら、子の彬子さま・瑶子さまとともに、三笠宮家(当主は百合子妃)の一員として皇室に籍を置き続けました。そして、国際親善を目的とした式典やスポーツ・文化関連の各種行事や公務に出席され、皇族としての役割を果たされています。
百合子妃のご薨去の後、宮家には、信子妃(70)、彬子(あきこ)女王(43)、瑶子(ようこ)女王(41)の3人が残りました。本来ならば、年長者である信子さまが、三笠宮家の当主を継がれ、代表して祭祀などを行われるのが自然な流れなのですが、そうはならず、三笠宮家は当主不在のままの状態となっていました。
三笠宮家の今後について、話し合いが続けられてきましたが、「前当主・百合子さまの逝去から1年となる秋までには」との声もあり、2025年9月30日、彬子女王が三笠宮家を継ぎ、瑶子女王とともに宮家に残り、信子妃が「独立」して新たに「三笠宮寬仁親王妃家」を創設することで決着したのです。
<三笠宮分断の影響と今後>
今回の三笠宮家の分段(再編)は、単なる親子の確執や財政の話ではありません。将来の皇族数の確保を目的とした皇位継承の安定化政策にも影響を与えました。現在、皇族数を確保するための案として、女性皇族が婚姻後も女性宮家の創設し、皇族の身分を保持する案と、戦後、皇籍を離脱した旧11宮家の男系男子を養子縁組により皇籍に復帰させる案があります。
◆ 「女性宮家の創設」につながる!?
国会では、女性宮家の創設の議論が進まないなか、今回の彬子さま(彬子女王殿下)の三笠宮家「継承」は、独立して生計を営む皇族として認められれば、皇室典範や皇室経済法を改正せずに現行法のまま、女性皇族が宮家の当主(世帯主)となれることの前例となりました。
また、これが、女性宮家創設の嚆矢(こうし)となると期待する声も聞かれています。もっとも、今回の「三笠宮寛仁親王妃家」の創設は、「親王妃家」という異例な形ですが、まさに新たな「女性宮家」が創設されたとの見ることもできます。そうであれば、国会議論に先行する形で女性宮家が実現したわけです。
前述したように、女性宮家は、仁孝天皇の皇女の淑子内親王が桂宮を継いだ前例もあります。160年を経て女性宮家が彬子女王の宮家継承と、信子妃の独立で再現したとみることもできます。これは将来、愛子さまや佳子さまが結婚後も皇室に残られる可能性が開かれことを意味すると同時に、女性皇族が皇室を守るもう一つの道を示した歴史的な一歩となるかもしれません。
ただし、ひとつの問題として、今回の彬子さまのように、未婚のままで独立した生計を立てる女性皇族が、結婚した場合にどういう扱いとなるのか、何も明文化されていないことがあげられます。そもそも、宮家の定義自体も法律には書かれていません。お嬢さまの立場の女性皇族(皇族)は、ご成婚後、「嫁に行く」とか「嫁(とつ)ぐ」という表現通りに、皇籍離脱されてきました。
しかし、家長や家主(やぬし)と呼ばれる立場になった彬子さまの場合、ご結婚された際に、夫を宮家に迎え入れるのか、それとも、彬子さまが皇族以外の男性と結婚すれば、皇籍を抜けなければならず、その場合、当主でありながら宮家を出ることになるのかの指針がありません。
なお、彬子さまだけでなく、妹の瑶子さまも、結婚によって皇籍を抜けた場合、三笠宮家は廃絶となってしまいます。
◆ 「旧宮家の皇族復帰」につながる!?
一方、今回の皇室経済会議の決定は、皇族が望めば誰でも「独立」して宮家が持てるという前例ができたとの指摘もあります。
皇室を守るための方策として、女性宮家の創設ではなく、旧宮家養子案では、宮家当主が望めば、旧宮家の流れを汲(く)む男子を養子に迎えることができます。今後、旧宮家養子案を受け入れる可能性がある宮家の数が増えることは、男系継承維持派(女性宮家創設反対派)にとっては、朗報となります。
たとえば、瑶子女王でも、佳子内親王でも、独立した宮家をつくり、それぞれが旧宮家から養子を取れば、男系の皇族を増やすことができます。信子妃は、旧宮家養子案を進めたい兄・太郎のために、新しい宮家をつくったと指摘する向きもあります。
いずれにしても、今後、今回のように、未婚女性による宮家継承や、女性宮家が創設される場合、前例にはしない(一代限り)こととするのか、当主は養子を取らないといった留保条項を加えるか否かなどについても議論していくことが望まれます。
(参照)
【解説】三笠宮家当主が彬子さまに 未婚女性皇族の当主継承は163年ぶり
(2025年9月30日、TBSテレビ)
三笠宮家の新当主に彬子さま 母・信子さまは新宮家創設で分裂
(毎日新聞2025/9/30)
「国民には理解し難い」三笠宮家 新宮家創設で皇族費が約2000万円増額
(2025/10/01,女性自身)
信子妃は皇籍離脱すべきだ 宮家分裂という異常事態
(2025/10/6、サンデー毎日) 成城大教授・森暢平
彬子さまが母・信子さま「異例の独立」に激怒した!
(2025/10/03 文春オンライン)
「ガラスの天井」を破ったのは政治だけではない
(2025年10月9日 、JBpres)
「皇室制度に地殻変動が…」…「彬子女王」の三笠宮家当主就任と「信子さま」の新宮家創設が意味するものは何か
(2025年10月10日、デイリー新潮)
信子さま 義母・百合子さまの斂葬の儀にも参列せず
(2024/12/03『女性自身』編集部)
(投稿日:2025.10.26)

