仁徳天皇:「民のかまど」の天皇

 

聖帝・聖皇としての仁徳天皇

仁徳天皇(仁徳天皇)は、生没年不詳(257~399年?という説もある)で、5世紀前半に在位したとも言われます。応神天皇の第四皇子(母は仲姫)で、実名はオオサザキ。子に履中、反正、允恭3天皇がいます。

 

応神天皇は生前、仁徳の異母弟である「菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)」を皇太子としていました。「長幼の序(ちょうようのじょ)」を重んじる菟道稚郎子は、応神天皇の崩御後、自分より年長の仁徳天皇に即位を勧めましたが、仁徳天皇はこれを拒否、二人は大王(おおきみ)=天皇の位を譲り合っていました。その間、長男の大山守皇子(おおやまもりのみこ)によって引き起こされた反乱は、菟道稚郎子によって鎮圧されましたが、その後、菟道稚郎子が自害してしまったため、仁徳天皇が即位する事になりました。

 

この即位の言い伝えは、儒教的な「長幼の序」を体現したとして、古くから賞賛されおり、末子相続から年長者への相続(長子相続)へと転換する契機となったとも言われています。この即位に至る過程で実践された「長幼の序」や、民の家々から炊飯の煙が立ちのぼらないのを見て課役を免じ,みずからに倹約と耐乏を課したという「民のかまど」の逸話(後述)は、聖帝仁徳天皇の人柄が浮き彫りにしています。

 

また、仁徳天皇は、即位後、茨田堤(まむたのつつみ)の築堤、難波堀江の開削など、河内平野の治水・灌漑に取り組みました。耕地開発も進み、河内で「四万余頃」の田を得たと言います(四万余頃とは広さの単位)。これは、日本初の大規模土木工事だったという評価もあり、仁徳の時代に全国的な治水・水田開発が行われた公算も指摘されています。

 

こうした聖君としての側面が強調される一方、仁徳天皇は、記紀神話では多くの女性を愛した天皇として描かれ、実際、何人もの女性を妻としています。皇后磐之媛の目を盗んで、異母妹八田皇女のもとに通っていたとされ、結果的に、皇后(葛城襲津彦の娘)は、嫉妬深くなり、最後は憤死してしまいました(皇后の死後、八田皇女が皇后になった)。

 

「聖帝」・「仁君」は忖度?

仁徳天皇の治世は、聖(ひじりの)帝(みかど)の世と言われたという見方に異議を唱える向きがあります。仁徳天皇が、聖帝、仁君として描かれだしたのは、仁徳天皇の玄孫(孫の孫、やしゃご)に当たる武烈天皇の代だったと言われています。武烈天皇と言えば、暴君として有名ですが(異説あり)、天皇家の血筋の歴史から言えば、仁徳天皇から始まる系統(王統)が武烈天皇で途絶えています。そこで、王朝の開祖である仁徳天皇を「聖帝」としたというのです。

 

いずれにしても、『古事記』『日本書紀』にみられる仁徳天皇の所伝などは、あくまでも系譜の上で作り出されたものではないかとみられているのです。その真相は明らかではありません。さらに、次のような見方もあります。

 

「仁徳天皇陵」に眠っているのは仁徳天皇でない!?

仁徳天皇は、中国の歴史書『宋書』(488年完成)にみえる倭の五王のうち「讃さん」(珍とも)に当たるのではないかといわれています。仮に仁徳天皇が讃であれば、実年代は五世紀初頭の天皇となるのですが、日本書紀から推定すると仁徳天皇が亡くなったのが西暦399年とされています。「仁徳天皇陵」の築造は5世紀中頃との説が有力で、いずれにしても、50年以上のずれが生じてしまいます(年代的に合致しない)。むしろ、仁徳天皇陵と信じられた御陵は、第19代允恭(いんぎょう)天皇、もしくは、20代の安康天皇の墓ではないかと指摘する声があります。

 

宮内庁によると江戸時代の元禄年間(1688〜1704)に、朝廷が「仁徳天皇陵」と指定したそうです。しかし、現在では、本当に仁徳天皇の墓なのかをめぐっては、考古学者の間でも意見が分かれています。この結果、学校の歴史教科書には以前は「仁徳天皇陵」の呼称が使われていたが、現在では誰の墓かは明示せず「大山古墳陵」と記載するケースが増えているそうです。そもそも「仁徳天皇が実在しなかった」という説もあり、仁徳天皇を巡る一連の思惑に対して、新たな資料の発見などが求められます。

 

「民のかまど」の逸話

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仁徳天皇の四年、天皇が、高台(たかどの)に登り四方の国を見て言いました。
「国の中に釜戸の煙が出ていない。民が貧しくて家に飯を炊く者がいないのではないか?五穀が実らないで、国中のものは困窮している。都がこの有様だ、地方はもっとひどいであろう」と仰せられ、「これから三年の間、すべての人民の課役(えつき)(課税と使役)を免除し、民の苦しみを和らげる」と詔(みことのり)されました。

 

この日より、天皇は粗い絹糸の衣服を召され、傷んでも新調されず、食事も質素にされ、宮垣が崩れ、茅葦屋根が破れても修理されず、風や雨がその隙間に入って衣服を濡らしました。星の光が破れた屋根の隙間から漏れて、床を照らしていました(という有様にも堪え忍び給いました)。

 

季節が巡り、天皇が再び、高台の上に居て、国の中を見ると、国中に釜戸の煙がたくさんと登るようになりました。この様子をご覧になった天皇は、かたわらの皇后に申されました。

「朕(ワレ)は、既に豊かになった。憂いは無い」

 

皇后は答えて言いました。
「どうして豊かになったと言えるのですか?」

天皇は答えました。
「(かまどの)煙が国に満ちている。民は豊かになっている。」

 

皇后はまた言いました。
「宮垣(みかき)は崩れ、殿屋(おおとの)は破れているのに、何を豊かだというのですか」

 

「よく聞けよ。天下を治める君主(天皇)が立つのは民のためだ。政(まつりごと)は、民を本としなければならない。だから古(いにしえ)の聖(ひじりの)王(きみ)は一人でも飢え凍えるときは、自らを省みて責めたものだ。いま、その民が富んでいるのだから、朕も富んだことになるのだ。」天皇は、このように申されました。

 

六年の歳月がすぎた仁徳天皇の10年、「民は豊かになった」と判断された天皇は、ようやく課役(税と使役)を科され、宮室(おおみや)の修理を行われました。3年の間、全ての課役を免除された仁徳天皇に感謝した民は、その気持ちを示しました。その時の民の様子を「日本書紀」は次のように記しています。

 

「民、うながされずして、老いた人を助け、幼い子を抱え、材木を運び簣(こ)(盛り土を運ぶための篭)を背負い、日夜をいとわず力を尽くして競い作る。いまだ幾ばくを経ずして宮室ことごとく成りぬ。」

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こうして、仁徳天皇の治世は人々に讃えられ、聖(ひじりの)帝(みかど)の世と言われたと現代にも伝えられています。みかど崩御ののちは、和泉国の百舌鳥野の陵(みささぎ)に葬(そう)されました。「民のかまどの逸話」は、理想的な君主としての代表である仁徳天皇がなされた「民を思いやる徳の政治」という日本の理想的な政治スタイルの事例としてとりあげられています。

 

<参照>

古事記 – 日本神話・神社まとめ

日本書紀 – 日本神話・神社まとめ

Wikipediaなど