土地・税制史

荘園制度、土地制度

 

全国に班田収授法が施行され、戸籍に基づいて、6歳以上の男女に口分田が与えられる一方、租・庸・調や雑徭(ぞうよう)、兵役などの負担は過重なものであったため、農民の生活は豊かにはならなかった。

 

班田収受の法は、律令制度において、農民の最低生活を保障し、祖・傭・調等の税を確保するため、戸籍に基づき、6歳以上の男女に口分田を与えたものである。ただし、口分田は永久私有ではなく、与えられた者が死亡すると収公(国家に返還)された。

 

班田収受を実施するために、灌漑施設を整備し田地を整然と区画してすべての田地を口分田とし、農民の戸籍を整理して6歳以上の男女には口分田を支給した。(財源確保のため)。口分田は死ぬまで耕作でき、売買は許されなかった。

 

政府は、口分田の不足などへの対策として、墾田永年私財法を発布したが、その政策により墾田が増加したが、律令制の基礎である公地公民制は崩れ、初期荘園の成立を見ることになった。

 

朝廷は田地の拡大を図るため、百万町歩の開墾計画をたて(722年)、さらに、三世一身法を施行して(723年)、農民に開墾を奨励した。

 

「三世一身法」および「墾田永年私財法」は、土地の開墾を奨励・推進する目的で出された。しかし、これによって、律令体制の基礎である公地が拡大することはなく、班田収受は円滑に行われるようにはならず、口分田ごとに課せられた租を中心とする税制が確立したとは言い難い。

豪族や寺社が、浮浪人を使って私有地を増やす結果にしかならなかった。

 

農民は、墾田永年私財法により土地を開墾した。この時代の荘園は、貴族や寺社が自ら開墾した土地や買収した土地であり、初期荘園(墾田地系荘園)と呼ばれる。

 

朝廷は墾田永年私財法を発布し、土地所有を公認したが、この頃から有力な貴族や寺社、地方豪族などは、各地で大規模な開墾に乗り出した。

 

墾田永年私財法が発布されても、国司の支配下にある公領(国衙領)は、口分田と同じ輸租田(祖を納める義務のある田)で、不輸租(税を免除された田)が認められない限り、祖を納めなければならない。輸租田ならば公領、荘園でも課税対象とされた。

 

庸・調などの租税収入が減少したため、公営(くえい)田(でん)や官田といった直営方式の田地経営によって財源の確保が図られた。

国家直営の公営(くえい)田(でん)は9世紀に実施された。813年石見国、823年大宰府管内に置かれた直営田は有名である。

 

奈良時代の荘園は初期荘園と呼ばれ、各地の有力者が開発を行ったが、国郡里制に基づいた経営だったので平安中期の10世紀までに衰退している。

 

平安時代に入ると、土地を開発した地方の豪族は自らの土地を国司や他の領主の圧迫から守るために中央の貴族や寺社に土地を寄進し、自分は荘官となって実質的な領主の地位を守った。このような開発領主と貴族・寺社との寄進関係によって成立した荘園が寄進地系荘園である。

 

寄進地系荘園は、開発領主らが、租税の免除の特権を得たり、検田使の立入りを拒否するために、その私有地を有力な貴族や寺社に寄進することで、自らはその荘官となって所領の支配権を確保した荘園をいい、平安時代の11世紀以降に各地に広まった。

 

寄進地系荘園は不輸の権(租税を免れ)、不入の権(検田使立入拒否)を認められた荘園である。

 

開発領主は中央の貴族や寺社に土地を寄進して名義上の領主になってもらい、自らはその下で荘官として荘園の実質的な管理・支配者となった。

 

荘園には、荘園領主の特権である不輸不入の権があったため、その多くが平安中期頃から、荘園の私有権が確立した。

 

平安時代後期には、藤原摂関家への荘園の寄進が集中したので、1067年に藤原頼道が隠退すると、翌年後三条天皇は即位した。後三条天皇は1069年に延久の荘園整理令を出し、(太政官に設けられた)中央に記録荘園券契所を設置し、(荘園の証拠書類を審査し、年代の新しい荘園や書類不備のものなど)、基準に合わない荘園を停止するなど増加を抑えた。藤原氏(摂関家)の荘園も例外ではなく、荘園が整理・縮小された。

その後、院制がはじまり、院の荘園への寄進が集中した。

 

鎌倉時代における朝廷の財政基盤は、公領からの租税(年貢)であったが、幕府の収入は、地頭を通じた公領(国衙領)や荘園からの年貢や兵狼米であった。

鎌倉幕府の経済的基盤は、関東知行国(朝廷が将軍に与えた荘園所領)と、関東御領(平氏から没収した荘園所領)、関東進止の地(幕府が地頭の設置権を有する公領や荘園)で、公領・荘園に立脚した経済体制となっていた。

 

武家政権が確立してから、租税は年貢として徴収されるようになった。

 

地頭は荘園領主である有力な貴族や大寺院に対して年貢を納入する義務を負っていたが、それを滞納・横領したため、(地頭による荘園侵略が進んだので)、荘園領主は、地頭請け(荘園領主が地頭に年貢を請け負わせる代わりに、荘園の管理を地頭に任せるもの)や下地中分(領主が荘園を地頭と折半するもの)の方法をとるようになった。

 

下地中分は、鎌倉時代に行われた荘園領主と地頭との年貢をめぐる紛争の解決策で、荘園領主が地頭と荘園を折半することで、地頭の荘園侵略を阻止するものである。

荘園領主が土地を二分し、一方を地頭に与えることで残りの部分に対する支配権の維持を狙った。

 

地頭請けは、鎌倉時代に、荘園領主が地頭に年貢の納入を請け負わせたことをいう。

 

承久の乱以降、領主と地頭の争いが激しくなり、地頭に領地を侵略されていた荘園領主は、(地頭に荘園管理を任せる)地頭請、(地頭に領地の半分を与える支配権を与える)下地中分によって折り合いをつけようとした。

 

半済法(令)は、室町幕府が軍備調達のため一国内の荘園の年貢の半分を徴収する権限を守護に認めた制度である。

室町幕府は、半済令を出して、荘園領主を圧迫した。

 

荘園や公領の年貢の半分を軍費調達のため徴発する権限を幕府が守護に与えたことなどから守護の力が強くなり、荘園や公領の年貢徴収を守護に請け負わせる守護請が盛んに行われた。

室町時代になると、守護が領主から荘園や公領の経営を任され、毎年一定の年貢徴収を請け負うようになった(守護請)。また、足利尊氏が半済令を出したことで、守護は徴収した年貢の半分を軍費として取得でき、地方武士にそれを分与する権限が認められ、守護の大名化が急速に進んだ。

 

室町時代に入ると農業技術の発展により生産が向上し、地侍等の新興名主層を中心とする惣村の力が強まった。さらに年貢の百姓請などにより荘園領主の荘園内部への支配権は実質的に失われていった。

 

検地帳に耕作している農民の田畑と敷地を登録させ、田畑の所有権を認め、さらに税負担を課す一地一作人の原則が、豊臣秀吉の太閤検地によって、確立されたことで、荘園制は崩壊した。

 

豊臣秀吉が、全国規模で実施した検地を太閤検地というが、この事業によって一地一作人の原則(一つの土地を所有し、耕作するのは一人の百姓とする制度)が確立し、これまで土地に対する権利が幾重にもなっていた重層的な荘園制度は一掃された。

太閤検地は、豊臣秀吉がほぼ同一の基準で全国的に実施した土地の調査であり、田畑の生産力を石高で表示するとともに、一地一作人の原則により、検地帳に登録した農民に耕作権を認め、年貢納入等の義務を負わせた。1582年

 

(江戸時代)

幕府は財源確保のため、(荘園や公領の)年貢を村の責任で納入させる村請制をとった。村請制は村の長である名主が納入責任者となって年貢を納入する制度である。

また、1637年、分割相続による耕地の細分化を抑えるために分地制限令を出した。

 

 

地租改正は、明治政府が、地主に地券を与えて、土地の所有権を法的に認めたものであり、安定した財源確保のため、地価を課税基準として、地租を納入(地価の3%が金納化)させるとともに、(1873年)、土地の売買を認めた。

1872年、江戸時代に出された田畑永代売買の禁令(1643年)が廃止された。