旧石器・縄文・弥生・古墳時代

 

旧石器時代 (約200万年前~約1万年前)

先土器文化、打製石器、岩宿遺跡

 

石器時代は、(大型動物の狩猟用の)ナイフ型石器や尖頭器を使用した旧石器時代と、打製石器や磨製石器を使用した新石器時代に区分されるが、旧石器時代の遺跡には、1949年に発見された岩宿遺跡(群馬県)がある。

 

 

縄文時代 (1万年前~BC300)

狩猟・採集生活、アニミズム、磨製石器、三内丸山遺跡

 

1万年ほど前に日本列島は大陸と完全に切り離され、今日とほぼ同じ自然環境となった。当時は食料採集が生活の基盤であり、600~800℃の低温で焼かれて作られた縄文土器は水が漏れず、煮炊きにも用いられたと考えられている。

 

縄文人は霊魂の存在を信じていた(アミニズム、精霊信仰)ので、抜歯や屈葬などの呪術によって、自然災害を避け豊かな収穫を祈る風習が盛んであった。

 

縄文人は竪穴住居を作って定住的な生活を営んだとされる。多くの集落は、飲み水の必要性から水辺に近い台地に作られた。

 

縄文土器の中には、縄文(表面に縄目文様)を持たないものもある。貝殻が押しつけられてきた貝殻文様や線状や点状の文様も見られる。

 

縄文時代の遺跡は西日本だけでなく東日本にも見られ、北海道の美沢遺跡や青森県の三内丸山遺跡などがある。

 

 

弥生時代 (BC300~AD300)

BC 1世紀、「漢書」地理志:朝鮮・楽浪郡に使者を派遣。祭祀政治。

登呂遺跡、吉野ヶ里遺跡、 吉武高木遺跡

 

AD57年

「後漢書」東夷伝: 倭の奴国の使者、光武帝から金印「漢倭奴国王」。福岡市の志賀島。

 

AD3世紀、「魏志」倭人伝:邪馬台国の女王卑弥呼、「親魏倭王」

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灌漑・排水用の水路を備えた本格的な水田が作られ、低湿地を利用した湿田だけでなく乾田も作られるようになった。また、稲作等で収穫された物は、高床式倉庫や貯蔵穴に収納された。さらに、水田近くの低地に集落が多く営まれるようになって、周囲に深い壕をめぐらす環濠集落が作られた。

 

弥生文化は水稲耕作の発達とともに進歩し、稲などの収穫物を収納・保存するために弥生土器や高床倉庫が用いられるようになった。

 

弥生文化では、竪穴住居の集落の周りに深い溝を巡らした環濠集落も存在した。住居の規模や構造に大きな格差が見られ、集落内では貧富の差や身分の上下関係が形成されていたと考えられている。

 

弥生時代には貧富の差や階級の区別が生じた。また弥生時代には青銅器・鉄器などの金属器が中国や朝鮮から伝えられるようになった。

 

厚手で黒褐色のものが多い縄文土器に代わって、薄手で赤褐色のものが多い弥生土器が作られ、食物を入れるなどして使うようになった。また、機織の技術が導入されて、植物の繊維で織った衣服を着るようになった。

 

縄文文化が南西諸島から北海道まで全国に及んだのに対し、弥生文化が普及したのは薩南諸島から東北地方までである。沖縄諸島などでは(農耕が見られない)貝塚文化、北海道では続縄文文化と呼ばれる漁労・採集を中心とする独自の文化が続いた。

 

農耕の発達に伴って一つの水系を単位として地域を統率する王たちが出現し、有力な集落が周辺の集落を統合して各地に政治的な集団である小国が作られるようになった。「漢書」地理志には、紀元前1世紀に倭人の国が100余国に分かれ、朝鮮半島の楽浪郡に使者を派遣していたという内容が記されたいる。

 

「後漢書」東夷伝には、57年に小国の一つである倭の奴国の国王が使者を後漢の光武帝に朝貢し、印綬を受けたことが記されている。

 

「魏志」倭人伝によれば、倭の各地で自立や統合をはかるようになり、2世紀後半に大乱が起こったが、3世紀ごろに諸国が邪馬台国の卑弥呼を倭国の王に立てて、30あまりの小国を統合した国が成立し、また、卑弥呼が魏の皇帝に使者を送り、魏の皇帝から「親魏倭王」の称号を賜ったとされている。

 

吉野ヶ里遺跡(佐賀県)は弥生時代の内外二重の環濠を巡らした大集落遺跡であり、内濠の掘り出し部には望楼かと思われる掘立柱の建物跡などが見つかっている。

 

登呂遺跡(静岡県)は、弥生時代後期の集落遺跡である。水田跡が発見され、この頃から水稲稲作が始まっていたことが知られている。

 

 

 

古墳時代 (300~500)

 

大和朝廷、大和王朝の時代。350年頃までに国土統一が完了、統一政権。氏姓制度。

 

倭国、朝鮮半島最南端部の任那(伽耶かや)を領有、日本府。

高句麗の好太王碑文(391年に倭が大がかりな侵入をしたと記録。)

 

―― 5世紀を通じ、朝鮮半島で高句麗と日本の対立が続く ――

 

AD5 世紀、「宋書」倭国伝、倭の五王が南朝の宋に使者を派遣、安東将軍。

 

倭の五王 ・・ 中国の権威をかりて朝鮮で優位に立とうとした。

 

538年、日本に百済から仏教伝来 (聖明王)。

562年、任那、新羅に滅ぼされ、日本の影響力は朝鮮半島から後退 (欽明天皇)。

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仁徳天皇稜は、わが国の古墳の中で最大の規模を持つ古墳である。前方後円墳の墳丘の長さは数百メートルもあり、石槨(せっかく)に極彩色の絵が描かれていた。

 

6世紀前半(527年)に、筑紫国造磐井が、新羅と結んで九州で反乱を起こし、大和政権の朝鮮半島への派兵を阻止した。この反乱は物部麁鹿火(あらかび)によって鎮圧された。

 

大和政権は、朝鮮半島における拠点になっていた朝鮮半島南東部の加羅(任那)を支援し、新羅を討伐するために兵を派遣しようとしていた。

 

512年には加羅の西部の任那4県が百済に併合されたが、562年には新羅に滅ぼされ、その支配下に入った。

 

大和政権は、地方豪族の反乱をおさえ(磐井の乱を鎮圧し)、各地に(九州北部)に屯倉(直轄地)を設置し、地方への支配を強め、渡来人の知識を利用して政治・財政機関を整備した。

 

大連の大伴氏が失政や権力争いから、物部氏によって失脚させられた後、物部氏と蘇我氏が対立抗争を繰り返し、蘇我馬子は物部氏(物部守屋)を滅ぼして、自ら擁立した崇峻天皇を暗殺するに至った。

 

512年に軍事を担当していた大連の大伴金村が、百済からの賄賂をもらい、加羅の西部の任那4県を割譲させたこと物部尾輿に弾劾され失脚した。