日本と朝鮮

 

6世紀、朝鮮半島では、新羅が百済と伽耶(任那)を圧迫したため、大和政権は伽耶へ支援軍を派遣しようとしたが、(新羅と結んで北九州に攻め込んできた)筑紫国造磐井によって磐井の乱(527年)が起こった。しかし、この乱は物部麁鹿火(あらかび)によって鎮圧された。また、南朝の宋は5世紀(479年)に滅亡している。伽耶は562年に新羅によって滅ぼされた。

 

7世紀後半に唐・新羅の連合軍が百済を滅ぼしたため(660年)、百済の遺臣は百済再興を企図して日本に救援を求めた。この求めに応じて中大兄皇子が援軍を派遣したが、白村江の戦いで唐・新羅の軍に大敗し、撤退した。

 

14世紀末、李氏朝鮮が成立し(1392年)、室町幕府に対して国交の開始と倭寇の禁圧を求めてきた。

 

足利義満はこれに応えたので、倭寇(前期倭寇)の活動は急速にやみ、その後、約1世紀間、日朝貿易が展開された。日本側では、幕府以外にも、守護大名、豪族、商人など盛んに貿易を行ったが、朝鮮側は貿易制度を整備し、対馬の宗氏を通して運営する形に統制した。(対馬の宗氏が幕府に代わってその統制にあたった。)

 

李氏朝鮮は、対馬を倭寇の根拠地として誤認して占領したが、室町幕府との間で和解が成立し、通信府貿易が開始された。朝鮮は倭寇を警戒して釜山等の朝鮮人商人を博多に派遣する形をとった。日本船も朝鮮の港に入港していた。

 

16世紀末、豊臣秀吉は、大陸への侵攻企図し、大軍を朝鮮に派遣した。遠征軍は一時は朝鮮北部まで侵攻したが、次第に戦局は不利となり、いったん撤兵した。その後、再び出兵したが、秀吉の死を機会に撤退した。

 

江戸時代、将軍の代替わりを祝うために朝鮮の李王朝から通信使が日本に派遣された。この朝鮮通信使は、対馬、瀬戸内海を経て江戸までの経路を往来し、その寄港先では学者、文人との文化交流が盛んに行なわれた。

 

日朝修好条規は、江華島事件を機会に結ばれ、釜山等3港の開港と、日本の領事裁判権や関税の免除などをみとめさせた、日本にとって有利な条約であった。

明治政府は、江華島事件を契機として、朝鮮に開国を迫り日朝修好条規を締結し、、日本の領事裁判権や関税免除の特権、釜山・元山・仁川の開港を認めさせた。

 

明治政府は、甲申事変において(1884年)、朝鮮国内の改革を図る金玉均(ぎょくきん)らを支援したことにより、清国との軍事的な対立状態に陥ったが、後に清国と天津条約を締結し、日清関係を一時的に修復した。

 

明治新政府内での征韓論は1873年に退けられたが、まもなく日本は武力を背景に朝鮮に不平等条約を押しつけた。以後その権益を巡って清国とことごとく対立し、やがて朝鮮に対する日本の支配権が確立した。

 

日清戦争の勝利により、朝鮮は独立国として承認された。

韓国併合は、日露戦争後の1910年に英・仏・米・露の公認の下で行われたものである。

20世紀初頭、日本は朝鮮の支配を企図し、種々の外交的策略の末、日韓併合条約を締結して、韓国を日本に併合した。

 

朝鮮の日本領時代は35年に及び、日本統治下の朝鮮では、強圧政治が行われた。

日本は朝鮮総督府を設け(京城に設置され天皇に直属)、朝鮮人に対し日本語の使用や創氏改名を強制した。

 

その間、全土で展開された独立運動は、軍・警察によって鎮圧され、朝鮮の独立は日本の太平洋戦争敗戦を待たねばならなかった。

第一次世界大戦直後は、ウィルソンの14カ条による民族自決主義の世界的風潮に励まされて独立の気運が高まり、いわゆる三・一運動が起こった。

 

戦争終了後も朝鮮の統一は実現できず、1950年の朝鮮戦争の勃発で南北朝鮮の分断は固定化された。両朝鮮は冷戦体制下で、独自の歩みを展開することとなったが、日本は朝鮮戦争を機に経済が急速に復興した。

 

その後日本は、南の大韓民国との間に1965年に、日韓基本条約を結んで国交を回復したが、北の朝鮮民主主義人民共和国との関係正常化は遅れている。