日本と中国

 

隋・唐の時代、日本は中国の文化を輸入するため遣隋使・遣唐使を送った。

遣隋使には、高向玄理、南淵請安、僧旻など多くの留学生や学問僧が従った。彼らの隋で得た知識は帰国後、大化の改新にはじまる国政改革に大きな役割を果たした。

 

遣唐使派遣の中止以降中国との正式な国交は途絶えていたが、中国との貿易は利益が大きいことから、宋・元との間で民間貿易は続いていた。

 

1167年に太政大臣となった平清盛を中心とする平氏政権は、多数の荘園と知行国を経済基盤とするほか、摂津の大輪田泊を修築して、日宋貿易による利益拡大にも積極的に取り組んだ。

 

宋の時代、日本と中国は日宋貿易を行い、宋から多くの高級織物?や香料、書籍が輸入され、その利潤を平氏の重要な収入源となった。

 

日本から金、水銀、硫黄、木材、米、刀剣、漆器、扇などが輸出され、宋からは宋銭、香料や書籍、陶磁器を輸入された。

 

元の時代、フビライが日本に対して朝貢を強要してきたが、8代執権北条時宗がこれを拒絶して、元寇がおこった(1274年の文永の役、1281年の弘安の役)。

 

元の時代、1342年の後醍醐天皇を弔うために天竜寺を建立する資金調達のため、天竜寺船が現に派遣された。

 

鎌倉時代(1325年)、社寺造営費調達を目的に、建長寺船などの貿易船をしばしば派遣した。

足利尊氏は後醍醐天皇の菩薩を弔うための天竜寺創建費用に充てるため、天竜寺船を元に派遣するとともに、元との民間貿易を公認した。

 

モンゴル帝国のフビライ=ハンは、中国全土を支配下に置くと国号を元と改め、朝鮮半島を支配して高麗を攻め、高麗を属国とした。元は日本への服属を要求したが執権北条時宗に拒否され、二度にわたって来寇したものの、二度とも台風に遭遇し、撤退した。

 

明の時代、日本は中国と勘合貿易を行った。勘合貿易は、日本の明への朝貢形式がとられ、公の貿易に対して明が勘合符を交付した。

 

14世紀、明を建国した洪武帝(朱元璋)(在1368~98年)は、当時、九州の武士を率いていた南朝の懐(かね)良(よし)親王(1329~83)に対し、中国大陸沿岸を襲う倭寇の取締りを求めた。

 

明を建てた洪武帝が、日本に倭寇の禁止と朝貢を求めてきたために、足利義満は、1401年に明に正使として僧の粗阿、副使として博多商人の肥富を使者として送り、(国交を開いた後の1404年には)明の冊封を受け入れ、1404年には、倭寇と区別するために勘合貿易を始めた。

 

室町時代、明との貿易船は、勘合貿易の方式をとっており、中国からは生糸や高級織物だけでなく、銅銭が大量に輸入されて、それをもとに幕府は貨幣を鋳造した。

 

江戸幕府は、1641年にオランダ商館を長崎の出島に移し、これ以後、場所を長崎に限定して、鎖国政策を実施したが、貿易船はオランダ以外に、私貿易の中国船の来航を認めた。また、朝鮮通信使、琉球王国との交渉も行われた。

 

清の時代、日本と中国は朝鮮を巡って対立していたが、東学党の乱をきっかけとして、中国が朝鮮に出兵すると日本も出兵し、日清戦争が起こった。

 

明治政府は、清国との間に最初の条約である日清修好条規を締結したが、相互の関税率最低、領事裁判権、開港が約束された。

 

明治政府は、甲申事変において(1884年)、朝鮮国内の改革を図る金玉均(ぎょくきん)らを支援したことにより、清国との軍事的な対立状態に陥ったが、後に清国と天津条約を締結し、日清関係を一時的に修復した。