平安時代

平安時代 (794~1192)

 

(1)  律令国家の再興

桓武、嵯峨天皇-令外の官の整備、律令国家日本の再興を期す

 

桓武天皇(781~806)

784年、長岡京,794年、平安京(794)へ遷都 ・・・和気清麻呂の進言。

 

奈良の仏教勢力排除を狙う。

令外の官・・これまでの律令制度ではやりきれない新しい公務員職を創設

 

健児(こんでい)の制―兵制の改革(志願制、郡司の子弟による)

 

平安時代に、武芸にすぐれた郡司の子弟からなる健児を置き、各国の規模に応じた軍団の代わりに設けた。

律令体制の下では、当初、諸国に軍団が編成され、京都や九州などの重要な地域には衛士、防人が置かれたが、やがて軍団のほとんどは廃され、郡司の子弟を用いる健児の制に代わった。

 

 

征夷大将軍―坂上田村麻呂,蝦夷(えみし)討伐、東北平定(801)

 

平安京に遷都した桓武天皇は、蝦夷討伐のために、征夷大将軍の坂上田村麻呂を派遣した(797年)。

桓武天皇により派遣された征夷大将軍の坂上田村麻呂は、胆沢城を築き(802)、やがて奈良時代に置かれていた鎮守府(蝦夷征伐のため陸奥国に設置された)を多賀城からこの地に移した。

 

 

勘解由使・・新任者が前任者の不正のなかったことを証明、人事監督官。

 

桓武天皇は、天皇権力を強化するため、長岡京へ都を移した後、さらに、平安京に都を移し、律令政治の再建のため、さまざまな改革を行った。また、桓武天皇は新しい仏教を支持し、中国で学んだ最澄と空海がそれぞれ天台宗と真言宗を開いた。

 

 

平城天皇(806~809)(式家を重用)

病弱なため、弟の嵯峨天皇に皇位を譲る。

 

嵯峨天皇(809~823) (北家を重用)

809年、薬子の変。平城上皇の寵愛を受けた藤原薬子が兄藤原仲成。

上皇の復位と平城京復都を画策、失敗。

① 蔵人(令外の官)設置へ、蔵人頭に藤原冬嗣(北家)。

 

蔵人所・・朝廷の機密保持機関、情報機関。

蔵人・・ 機密文書の保管、宮中の諸儀式を行う。長官は蔵人頭。

 

検非違使・・京の治安維持。警備。検察、裁判、警察の仕事

 

嵯峨天皇は、令外官の一つとして、検非違使を設置し、都の警察や裁判事務、治安維持にあたらせた。

 

② 格式(きゃくしき)の撰上。

律令の補助法規。格は律令条文の補足・修正。式は律令と格の施行細則。

 

cf 三大格式・・弘仁格式(嵯峨)、貞観格式(清和)、延喜格式(醍醐)927

 

 

藤原氏の台頭

 

弘仁・貞観文化:密教、最澄・空海

宮廷の繁栄を背景に開花した文化であり、唐風文化が重んじられ、歴史書においても漢文体の国史が編纂され、六国史が成立した。

唐文化の影響を受けた平安時代初期の文化で、仏教では密教の影響の強い文化である。

 

空海、嵯峨天皇、橘逸勢は、弘仁・貞観文化を代表する能書家で、三筆と呼ばれた。中国風の力強い書風で知られる。

 

 

 

(2) 摂関政治

藤原冬嗣 (蔵人頭)、娘が後の文徳天皇を生む

 

清和天皇 (858~876)  藤原良房、娘を文徳天皇に嫁がせ、後の清和天皇が誕生。

良房は外戚として勢力を振い、清和天皇を9歳で即位させる。

 

藤原良房=最初の摂政(人臣摂政)

摂政:10世紀後半から常置の官となり、藤原北家が独占し江戸末期までに至った。

 

藤原良房は、応天門の火災(866)を当時勢力をのばしていた大納言伴善男の仕業として失脚させ、権力を確立して、最初の人臣摂政となった。(正式には866)。娘の生んだ皇子を9歳で即位させて清和天皇として(858)、その摂政となった。

 

 

光孝天皇(884~887)

 

藤原基経 = 最初の関白。884年陽成天皇を強制的に退位させ、光孝天皇を立てて事実上の関白に就任。

 

関白(令外の官)・・関白の称は887年宇多天皇が基経に下した詔に初見。(正式)

 

他氏の排斥

承和の変 (842)、伴健岑(こわみね)、橘逸勢(はやなり)、藤原氏の他系統のものを排斥。

→ 藤原北家の嫡流が国政を担当することに。

 

応天門の変 (866):伴善雄、紀豊城(きとよき)を政界から追放。

 

 

宇多天皇 (887~897)  皇権回復を図る。

 

藤原基経の没後(891)、関白を置かずに菅原道真を起用。894年に遣唐使廃止を建議

藤原時平の陰謀で、道真は太宰府に左遷(901)。

 

藤原氏は、藤原良房が天皇の外祖父として摂政となるなどして次第に勢力を強めていった。これに対して、宇田天皇は、関白であった藤原基経の死後、関白を置かず親政を進め、代わって菅原道真を重用し、藤原氏に対抗した。次に即位した醍醐天皇も、関白を置かずに道真を重用したが、密告により(左大臣藤原時平の讒言(ざんげん)により)、道真は失脚し、901年、大宰府に左遷された。

 

菅原道真は、宇田天皇により、藤原氏の勢力を抑えるために、右大臣に登用されたが、左大臣の藤原時平によって大宰府に左遷された。

 

 

延喜・天暦の治

(醍醐、村上天皇の治世) 天皇政治の最後の輝き

 

醍醐天皇(897~930)

藤原時平を左大臣、菅原道真を右大臣として、摂政・関白を置かずに天皇親政の積極政治を行う。

 

村上天皇 (946~967)

関白藤原忠平の没後(949)、関白を置かず親政を天皇行った。

 

安和(あんな)の変 (969年)・・藤原氏の他氏排斥の最後の事件。

源高明(たかあきら)(醍醐天皇の皇子で左大臣)を太宰府へ左遷。

 

以後、摂政、関白が常置され、藤原北家の直系とされた摂関家の地位は不動のものになる。

 

 

<地方政治と土地支配>

律令体制の揺らぎ

 

902年,延喜の荘園整理令,最後の班田(公地公民の最後の輝き)

貴族,寺社など権門の荘園拡大に対し,その抑制を意図して出された法令。藤原家など権勢門家の荘園の増大により,口分田から入る国家財政の減少が背景。度々発令したが,藤原氏が最大の荘園領主であったため徹底せず。

 

743年、墾田永年私財法:有力貴族が自ら開墾した土地が初期荘園

 

10~12C、自墾地系荘園から寄進地系荘園(有力寺社へ寄進)へ。

 

930年頃、 荘園に不輸、不入の権 →荘園が完全私有地化

朝廷,律令制の原則では財政維持が不可能との認識。

受領(ずりょう):国司に一定額の租税の納入を請け負わせるかわりに、彼らの任地の政務を国司に一任する形が誕生。このような国司を受領という。受領の土着化。私腹を肥やす。

 

遙任(ようにん):在京のまま任国に赴任せず、目代を派遣し収入のみを得ることを目的した国司。

重任(ちょうにん):任期延長を金で買う国司。

国衙領(公領) vs 荘園(私領)

国衙領: (国司が政務をとる官庁である)国衙の支配下にあった土地。

荘園の増加で公領の内部にも成長していた田堵・名主ら (武士に成長)により次第に私有地化。国司は中央政府に一定の租税を納めるだけになった。

 

 

藤原摂関政治の成立

 

藤原氏の北家は承和の変や応天門の変を通じて他氏を排斥するとともに、摂政・関白を独占してその勢力を拡大していった。

他氏の排斥に成功した藤原氏は、次に一族内部で摂政・関白の地位をめぐり激しく争いを繰り返したが、道長・頼道の頃に全盛期を迎え、道長は3天皇の外戚として勢力をふるった。

 

天皇が幼少のときには摂政として天皇の政務を代行し、天皇が成長すれば関白になって天皇を補佐する。

 

藤原氏の全盛期

道長、頼通で50年間摂関を務める。

 

藤原道長 (966~1027)

4人の娘を皇室に送り込み、後一条、後朱雀、後冷泉の3代の天皇は全て道長の外戚。

 

藤原頼通 (992~1074) 宇治の平等院鳳凰堂建立。

 

 

摂関時代にあっても、日本の政治形態は律令政治であった

(政務は律令に規定された太政官政治の形で実施。公卿の会議が国政に責任を持ち,彼等が出す宣旨や太政官符で朝廷の命令が伝達された。)

 

律令体制、崩壊

 

 

国風文化(藤原文化とも)

かなが発達して漢文学のほかに国文の文芸が盛んになり、建築では寝殿造りという様式が出来上がって貴族の住宅にとり入れられた。

唐風文化を日本の風土や感情に適合させた国風化を特徴とする文化であり、仮名文字の普及による国文学が多いに発展した。

 

かな文字の発達に見られるように、文化の国風化が進んだ。かなの物語、日記が盛んとなる一方で、日本の風物を題材とし、なだらかな線と上品な色彩を持つ大和絵が描かれた。

 

10世紀中頃の摂関政治の興隆期を中心とする文化である。中国の影響を受けない純日本風の情緒的な貴族文化で、文学では仮名文学が発達し、仏教では浄土教が流行した。

 

10世紀の貴族を中心とする国風文化は、仮名文字の発達により、日本人の感覚を自由に表現することが可能となった文化であり、仮名物語文学として竹取物語などが書かれ、国文学の隆盛に大いに貢献した。また、貴族社会の国風化も進み、和風住宅のもととなる(白木造で桧皮葺の)寝殿造りが普及した。

 

建物は、貴族の住宅建築として寝殿造が発達していたが、奈良時代の建築が唐風であったのに対して、寝殿造は白木造で桧皮葺を特色とする和風建築で、内部の襖や障子も唐絵に代わって大和絵で描かれるようになった。

 

「蜻蛉日記」や「源氏物語」などの日記文学や物語文学が栄え、そのすべてが仮名によって女官たちの手で書かれたものであった。蜻蛉日記:藤原道綱の母

 

小野道風、藤原佐里、藤原行成は三蹟と呼ばれ、字形に丸味があり、優美な線が特色である書道が発達した。

 

 

 

<地方に武士の台頭>

 

10Cは武士の発生期。この時から、鎌倉幕府の成立までの時期は,受領と有力武士との抗争時代。

 

田堵(たと)と呼ばれる有力農民が成長。自衛のために武装して最下層の武士となる。

 

清和源氏や桓武平氏などの中流貴族で地方に下り土着化。多くの田堵を組織して、上流武士となる。

939年,承平・天慶の乱(平将門,藤原純友)

 

トピック :承平・天慶の乱

平将門は、藤原氏が権力を欲しいままにしてこの世の春を謳歌していた平安中期(939年)に、東国)は下総国に兵を起しました (天慶の乱)。この乱で、将門は、関東(坂東)八ヵ国を平定、朝廷ではなく独自に関東諸国の国司を任命するなど、中央の朝廷の支配を離れて、関東独立を標榜します。そして、八幡大菩薩の使いと称する巫女が現れて「八幡大菩薩は平将門に天皇の位を授け奉る」と託宣があったとして、自らを「新皇」(日本将軍平親王ひのもとしぐんたいらしんのう)」と名乗りました。

 

また同じ時期、西国では藤原純友(ふじわらのすみとも)が瀬戸内の海賊を率いて乱を起こしており(この東西の大乱を「承平天慶の乱」ともいう)、朝廷は一時転覆の危機に陥ったとも言われています。将門に至っては、日本から関東を独立させ、「新皇」と天皇に代わる帝位を称したわけですから、まさに「朝敵」でした。

 

もっとも、平貞盛と藤原秀郷の追討軍との戦いで、将門は、南風に乗じて優位に展開していましたが、風向きが突如北風になり、反撃を受け、何処からか飛んできた矢を額に受け、首をはねられあえなく討死してしまいました。将門の死によって、その後、関東の独立国はわずか2ヶ月で瓦解しました。

 

 

平安時代の中期以降、武士団が組織されるようになり、地方の小武士団が次第に大武士団に統合されていった。

 

地方の豪族が、貴族や寺社の荘園を管理する職について勢力を強め、武装勢力としての武士団が土地、人民を直接支配するようになった。

 

都では藤原氏を中心とする摂関政治が行われ、地方では平将門や藤原純友が反乱を起こすなど武士が台頭してきた。

 

平将門は、常陸・上野・下野の国府を襲い、関東一円を占領して新皇と称し、一時は関東の大半を征服したが、一族の平貞盛と下野の豪族藤原秀郷の軍によって討伐された(940年)。

 

 

12C、武士団の成長。自分が治める名田(みょうでん)を私領化して,名主と呼ばれるものに成長。家子と呼ばれる一族や郎党と呼ばれる従者を率いて軍勢を組織

有力な武士のもとにまとまり,武士団を形成。さらに有力な武士は団結して,清和源氏,桓武平氏を棟梁に立ててまとまる。

源氏は東国の武士(東北),平氏は西国の武士をまとめる(海賊を平定)。

朝廷 (後に院)・摂関家:地方武士、豪族らの反乱抑制や内紛処理に武士を活用

清和源氏や桓武平氏などの有力武士を国司に任命

武家の棟梁の清和源氏や桓武平氏の嫡流が政界に食い込む。

 

 

源氏は前九年の役と後三年の役で領土を拡大した。

前九年の役(1051~62年)は、東北の土豪安倍氏の反乱で、源頼義・義家が鎮圧した。

後三年の役(1083~87年)は、東北の豪族清原氏の内紛で、源義家が鎮圧した。

 

 

(3) 院政

後三条天皇(1068~72)

藤原氏と外戚関係のない天皇。藤原頼通の娘に皇子が生まれず。

天皇親政を目指す。摂関家の専横が政治を乱しているとして政治改革に着手。

 

1069年、延久の荘園整理令。国司任せではなく,中央に記録荘園券契所を設ける。

 

三大院政 (1086~1192)

 

院政:天皇家の家長の資格で天皇を後見する。

 

白河天皇

堀河  白河上皇 (天皇3代に君臨、43年間)

鳥羽

崇徳  鳥羽上皇(3代)

近衛

後白河                                           保元の乱

二条   後白河上皇(5代、34年間) 平治の乱

六条

高倉

安徳

後鳥羽

 

 

院の基盤

院庁が組織した中級貴族、摂関家、武士 ⇒ 源氏と平氏、受領

北面の武士 (1095年、白河上皇が設置、院庁の警備)

大寺院(有力な僧兵を抱える)⇒ 仏教の保護

 

律令体制が崩壊するにつれて各地で武士団が成長すると、武士たちは、朝廷により、朝廷警護役としての滝口の武士や追捕使(ついぶし)や追(おう)領使(りょうし)といったものであった。

 

 

摂関家の地位低下

上皇のまわりには后妃,乳母(めのと)の一族や富裕な受領から成る院近臣が政治の主役に。

(摂政,関白の役割や公卿の会議は形式化。)

 

武士の台頭

(1)知行国の制度

院の側近が知行国主として勢力を伸ばす。院は大量の荘園を支配。公領や荘園を支配するためには,そこを本拠とする地方武士の反対を押さえなければならない。院は平氏を次第に重用。

 

*知行国・・国司制度の変形で、特定の皇族、貴族、寺社、武家に一定期間国務執行権を与え、その国の収益を得させる制度。院政時代に発達、平氏は30Y余国、源頼朝も多くの関東知行国を持った。

 

(2)僧侶対策

東大寺,興福寺,比叡山など大寺院は荘園を領有。下級僧兵の中から僧兵を組織。大寺院は,受領と争ったり,神木や神輿を先頭に立てて朝廷に強訴した。武士を用いて僧兵を鎮圧。

 

(3)天皇 vs 上皇の勢力争い

両者が武士団を登用。(藤原家も武士団を必要とする)

 

1156年、保元の乱

皇位継承問題 ・・  崇徳上皇と後白河天皇。

摂関の地位争い・・ 藤原頼長(弟)と忠通(兄)

天皇方に、源義朝と平清盛がつく。

 

1159年 平治の乱

院制を始めた後白河上皇の近臣間に対立により勃発。

平清盛、後白河上皇の近臣の藤原通憲(みちのり)、僧信西)vs  源義朝、藤原信頼

 

保元の乱とは、天皇家や摂関家の内部対立が表面化して起きた武力衝突であり、藤原忠通と結んだ源義朝・平清盛を味方につけた後白河天皇側が、藤原頼長と結んだ源為義・平忠正を味方につけた崇徳上皇側に勝利した。

 

鳥羽院政下において、天皇家では兄の崇徳上皇が皇位継承をめぐり弟の後白河天皇と対立し、摂関家では兄の関白藤原忠通と弟の左大臣頼長の対立が生じていたが、鳥羽法皇が没した後、後白河天皇が平清盛や源義朝らと結び、崇徳上皇方を破った(1156年保元の乱)。

 

 

平清盛は、源義朝らと対立し、平治の乱を起こして、これに勝利し、乱後、清盛は最初の武家政権を樹立した。

 

平治の乱(1159年)では、藤原信頼と結んだ源義朝が、藤原通憲と結んだ平清盛に敗れ、乱後に平氏政権が樹立した。清盛は、太政大臣の官職をえた。

 

1159年の平治の乱では、源義朝が藤原信頼と組んで、平清盛の打倒を図ったが失敗に終わり、その後一時、源氏の勢力が衰退した。

 

 

(4)平氏政権

 

平清盛

院近臣の第一人者として活動。院と天皇の側近の対立の機に、自家の兵力で天皇方を押さえる。

 

1167年、清盛、太政大臣

律令政治(貴族政治)の枠の中で、初めて武士が政治のトップに立つ。

 

平氏一族、摂関家をしのぐ勢い。政治は貴族的。

 

知行国主となって公領を把握、多くの荘園を占有。

清盛の娘徳子が生んだ安徳天皇を立てる外戚政治。

 

西国一帯の武士を平氏の家人(けにん)とすることに成功。

*家人・・有力貴族や武士の棟梁に臣従した武士。

 

日宋貿易

貿易には力を入れ、平清盛は大輪田泊(現在の神戸)を改築して日宋貿易。

 

平氏は太政大臣をはじめ高位高官を独占し、対外的には、大輪田泊を拠点として日宋貿易を行い利益をあげ、経済的基盤を強化した。

 

 

源平の争乱

 

平氏政権  ←→  旧勢力

地頭   ←→  荘園領主

多くの国司を占有←→院近臣が知行国や受領としての利益を得る道が狭められてくる。

鹿ケ谷の陰謀、院近臣の藤原成親が平氏打倒を企てて流罪に

 

清盛、院を幽閉→ 平氏独裁へ。

地方の武士の反感。

旧勢力、源氏の挙兵に期待。後白河法皇の皇子以仁王の命。伊豆にいた源頼朝が挙兵。

 

平氏の専制に対して、以仁王は平氏打倒の決起を呼びかけ、これに応じて源頼朝らの武士が立ち上がった。

 

治承・寿永の乱

1180年、福原遷都

1183年、木曽義仲入京。

1184年  一の谷の戦い

1185年、屋島の戦い、壇の浦の戦い → 平氏滅亡。

 

 

歴史物語の「大鏡」や説話集の「今昔物語」は平安末期(院政期)の文化の作品である。絵画に詞書を織り交ぜた絵巻物は、平安時代末期の文化で発展した。