源氏

源氏の起こりは、814年に嵯峨天皇が、皇子を臣籍降下(皇族がその身分を離れて臣下の籍に降りること)させて、源の姓を賜与したことに始まります。その目的は、皇位につく見込みのない親王(天皇の子で男子)を皇族の身分から外して、財政上の負担を軽くすることでした。

 

その後も、臣籍降下は一般的なものとなりました。賜姓皇族(臣籍降下して姓を賜った皇族)の中で有名なのは清和源氏と桓武平氏です。その時の天皇の名前をつける形で、源氏に関しては、嵯峨源氏、清和源氏、村上源氏などと呼ばれ、全部で21流の源氏が存在しました。

 

<清和源氏>

その源氏の中でも最も栄えたのが清和源氏です。清和天皇は第56代の天皇(在858~876年)で、藤原氏の後ろだてのもとに9歳で即位しましたが、実際の政治は、摂政・太政大臣の藤原良房が行い、天皇は単なる傀儡でした。その清和天皇の第6皇子であった貞純親王(さだずみしんのう)は、876年に臣籍降下して源氏の姓を賜りました。一説には、貞純親王は第57代の陽成天皇の子という説もありますが、貞純親王の子の経基が、清和源氏の祖と呼ばれています。

 

清和天皇(⇒陽成天皇)⇒貞純親王⇒源経基⇒…

 

源経基(つねもと)(?~961)

源経基は940年に起こった平将門の乱と翌年の藤原純友の乱(両者で承平・天慶の乱)を平定する活躍を見せました。清和源氏の中で、この経基の子孫が最も繁栄しています。

 

源満仲(みつなか)(925~997)

経基が清和源氏の祖であるなら、子の満仲は、清和源氏発展の基礎を作ったと言えます。満仲は、「安和の変」など藤原氏の陰謀事件に関わり、勢力を拡大させた藤原摂関家に取り入ることで自らの地位を向上させていきました。安和の変(969)は、藤原氏の意を受けた満仲が、藤原氏の政敵の左大臣源高明らを密告によって排除した事件です。源高明らが共謀して皇太子の守平親王を廃して為平親王(源高明の娘の夫)を擁立することを企てているとでっちあげ、これによって、源高明は大宰府に左遷されてしまいました。満仲は各地の守(かみ)(国司の長官)を歴任しながら、藤原氏の軍事参謀の地位を確立していきました。

 

源頼信(よりのぶ)(980~1048)

満仲の子(第3子)、頼信は、房総地方で起こった平忠常の乱を圧倒的な武力の差で鎮圧することで功を立てました。下総権介(しもうさのごんのすけ)平忠常は、1028年、安房の守を襲撃し、上総(かずさ)国府を占拠しました。朝廷は、平直方(なおかた)など平氏の武士を派遣して鎮圧に乗り出しますが失敗したので、改めて源頼信(よりのぶ)を追討使に登用し、31年に平定されました。

 

これによって、関東では平氏が衰退し、(清和)源氏が東国に進出するをきっかけを作りました。実際、源頼信の子、頼義(988~1075)と、頼義の二人の子、義家と義光のとき、源氏は、東国武士の棟梁として地位を確保することになります。整理すると、源経基、満仲から頼信、頼義、義家と続く、清和源氏の流れは、彼らが河内国に住み、河内を根拠地にした(鎌倉は東国経営の拠点)ので、特に河内源氏と呼ばれ、一般的に源氏といえばこの河内源氏を指すようになりました。

 

清和源氏(河内源氏):源経基⇒満仲⇒頼信⇒頼義⇒義家 

 

源義家(八幡太郎義家)(1039~1106)

頼義の嫡子で、長男のことを太郎と言ったことと、義家は鎌倉の鶴岡八幡宮で元服(成人式)をしたため、八幡太郎とも呼ばれ親しまれています。

 

源義光(新羅三郎義光)(1045~1127)

頼義の三男で八幡太郎義家の弟。新羅明神(しんらみょうじん)の社前で元服したことから、新羅三郎とも呼ばれています。義光は音律を好み、笙(しょう、雅楽などで使う管楽器)に長じたことでも知られています

 

前九年の役(1051~62)

陸奥の安倍氏が朝廷に反乱を起こしたとき、頼信の子、源頼義は陸奥守、兼、鎮守府将軍として、子の義家とともに奥羽に進み、清原氏と協力して、安倍頼時の安倍氏を滅ぼしました。この戦いは、前九年の役と呼ばれ、この時の勝利で、河内源氏が武門の中でも最高の格式を持つ家と言われるようになり、源氏の基礎も固まりました。ただし、源氏の台頭を恐れた朝廷は、頼義の陸奥守としての任務を解いたことから、東国を支配することはできませんでした。

 

後三年の役(1083~87)

その後、前九年の役の功績によって奥羽で勢力を得た清原氏は、清原武則が武門の最高栄職とされる鎮守府将軍の地位を得ていましたが、その清原氏の内紛(後継をめぐる内輪もめ)から、再度、戦火が広がりました。この後三年の役と呼ばれる戦いで、陸奥守として朝廷より派遣された源義家が、藤原清衡と協力して平定しました。またこの時、義家の弟である源義光が、兄義家の苦戦を聞き、官職を辞して朝廷の許しも受けず、奥州に向い、兄を助けた話は、兄弟愛の逸話として後世に語り伝えられています。

 

ただし、この後三年の役おいて、朝廷は、この戦い清原氏の私戦と見なし、義家に対して、恩賞は与えられませんでした。この時、義家は、自分の所領を共に戦った部下に分け与えたことが、東国の武士との繋がりが強くしていきました。この前九年の役と後三年の役を通して源氏はその名声を高め、武門の棟梁としての地位を固めましたが、奥州を手中に収めることはできませんでした。その代わりに、この地域は、奥州藤原氏が、藤原清衡、基衡、秀衡と続く三代100年に亘って君臨することになります。源氏が名実共に奥州を治めるのは、源頼朝の登場を待たなければなりません。

 

源頼朝は、源氏嫡流(本家)と称されていますが、遡れば義家に行きつきます。それどころか、室町時代から戦国時代にかけて有名な武将は、ほぼ八幡太郎義家と、新羅三郎義光を祖としています。

 

源義家(八幡太郎義家)の嫡男の源義親(よしちか)の流れが(河内)源氏の嫡流家として源頼朝や義経につながります。また、義家の三男、源義国(よしくに)が新田氏と足利氏の祖となります。

 

源頼朝:源義家⇒義親⇒為義⇒義朝⇒頼朝

新田義貞:源義家⇒義国⇒義重(よししげ)

足利尊氏:源義家⇒義国⇒義康(よしやす)

 

源義光(新羅三郎義光)の嫡男、源義業(よしなり)が実質的な初代佐竹氏(常陸源氏の祖)で、義光の三男、源義清(よしきよ)が、甲斐源氏(武田氏)の祖でした。

 

佐竹義宣(よしのぶ):源義光⇒義業(常陸源氏)

武田信玄:源義光⇒義清(甲斐源氏)

 

次に、清和源氏以外の源氏についてみてみましょう。また、源氏同士の関係はどうなっていたのでしょうか?このことを理解するためのキーワードが源氏長者です。

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源氏長者

「源氏長者(げんじのちょうじゃ)」という「氏長者(うじのちょうじゃ)」があります。「氏長者」とは、「氏(うじ)」の中で官位が最高位の人物が天皇より任命されます。源氏長者(げんじのちょうじゃ)の場合も、源氏一門の長であり、従一位の源氏の姓を名乗る者に対して与えられました。源氏長者とともに有名な氏長者には、藤原一族の「藤氏長者(とうしのちょうじゃ)」がいました。氏長者になると、氏のなかでの祭祀、召集、裁判、官位の推挙などの諸権利を持ちます。

 

最初に「源氏長者」を称したのは、平安時代、嵯峨天皇の皇子であった源信(みなもとのまこと)(810~869)とされています。また、初代の嵯峨源氏嫡流である源融(みなもとのとおる)(822~895)は、皇族の子弟の学校である「淳和院」「奨学院」の別当(理事長に相当)に就任し、これ以降、源氏長者が「淳和院・奨学院の両別当を兼任する」ことが慣例となりました。

 

このように、源氏長者は、当初は嵯峨源氏から出ていましたが、その後、公家の名家である村上源氏の久我(こが)家が、公家の代表として、その地位を継承していました。村上源氏は、藤原道長の子で関白頼通の養子、源師房を祖とする家柄で、元来、「源氏」と言えば村上源氏をさすほどでした。源頼朝、足利義満、武田信玄などの祖とされる武家の清和源氏は、平安時代のこの当時、公卿の警護や地方の受領でしかなかったといいます。

 

しかし、清和源氏の足利尊氏が、1398年、征夷大将軍となり、室町幕府を開くと、清和源氏の地位が一気に高まります。3代足利義満は、「源氏長者」と「淳和奨学両院別当」の地位を当時の久我家から奪うことに成功し、武家源氏では最初の源氏長者となったのです(征夷大将軍と源氏長者を兼ねたことも初)。これによって、武家の棟梁である義満は、公家のトップともなり、明との貿易では「日本国王」と名乗ることを許されました。

 

義満以降、足利将軍は義持・義教・義政・義稙の計4名が、正式に源氏長者になっています。また、村上源氏の久我家も、源氏長者の地位に返り咲いており、この時代、源氏長者は、清和源氏・足利家と村上源氏・久我家が交替で務めていました。しかし、その後、足利将軍の地位が不安定となり、足利家の源氏長者へ関与しなくなったことで、戦国時代には再び村上源氏の久我家から源氏長者が任ぜられるようになりました。

 

さて、源氏のことを理解するためには、もう一つ、源氏嫡流という名称の理解も必要になります。

 

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源氏嫡流 

多くの源氏の中で、源氏の嫡流すなわち本家・宗家の血統を源氏嫡流(げんじちゃくりゅう)と言います。ただし、源氏の嫡流といっても、源氏全体の嫡流を意味せず、特定の源氏の系統を指すことが多いとされています。同じ源氏でも、遠祖たる天皇によって、嵯峨源氏、醍醐源氏、清和源氏、宇多源氏、村上源氏などに分けられ、その嫡流を、例えば嵯峨源氏であれば、嵯峨源氏嫡流と呼ばれたりしていました。

 

また、公卿を輩出した公家源氏と武家の棟梁として活躍した武家源氏に大きく分けられることもあります。広く知られているのが後者で、中でも、清和源氏の流れは鎌倉幕府の源氏将軍として栄えました。さらに、清和源氏の系譜においても、2代目源満仲の嫡子で長男・頼光の子孫を摂津源氏、満仲の三男・頼信に始まる家系を河内源氏と呼び、それぞれ清和源氏の嫡流と主張していました。

 

摂津源氏は、京都を活動基盤としました。以仁王が平家を打倒すべく諸国の源氏に呼びかけた際に始めに挙兵した源頼政は摂津源氏でしたが、従う兵はその拠点であった摂津国をはじめとする畿内に限られたので失敗に終わってしまいました。

 

一方、河内源氏は坂東へ勢力を扶植し、後に、東国において圧倒的な求心力を得ていました。八幡太郎(はちまんたろう)の通称でも知られる源義家から、源頼朝や足利尊氏を輩出し、清和源氏(河内源氏)が武家源氏の代表とみなされるようになりました。正確には、源頼朝が、武家の棟梁の地位を確実なものにしようという政治的な思惑により、源氏嫡流という地位を生み出したとの見方が支配的です。実際、頼朝は、弟・義経以下家人の自由任官を禁止し、源氏一門、御家人の位階任官を鎌倉殿の独占的地位を確保しました。

 

このように、頼朝は、東国武士を臣下としてきた河内源氏の遺産を受けぎ、朝廷から受けた将軍宣下など与えられた特権を背景に、頼朝の系統を嫡流とすることに成功したのです。こうして、頼朝の先祖を遡及し、頼信にはじまり、頼義、義家と続く河内源氏が武家の源氏嫡流と見られるようになりました。

 

ただし、源頼朝の一族が3代実朝で滅びると、武家源氏の棟梁という概念も重要性がなくなってしまいました。しかし、その後、足利尊氏がでて、京都の室町に幕府を開き、足利将軍家を確立して頼朝以来の源氏将軍を復活させました。さらに、足利義満が征夷大将軍の地位に加えて、源氏長者・淳和奨学両院別当に地位を得て、公家と武家にまたがる強大な権力を獲得したことは、既に説明した通りです。

 

また、前述したように、河内源氏の流れを汲む家は、足利家だけでなく、新田義貞の新田家があり、また、源義家の弟である義光(新羅三郎義光)からは、武田家、佐竹家など名家を輩出しますが、戦国時代になって衰退する足利将軍家にとって代わることはありませんでした。

 

歴史は、織田、豊臣の織豊政権後、徳川家康が、武家の棟梁たる源氏嫡流の清和源氏(河内源氏)の系譜を継承しただけでなく、源氏長者の地位をも確保して、300年の天下泰平の世を実現していくことになります(徳川家については後述)。