江戸時代

 

江戸時代(1600~1868)

 

家康(1603~05)

秀忠 (1605-23)

家光(1623-51)

家綱(1651~80)

綱吉(1680~09)

家宣(1709~12)

家継(1713~16)

吉宗(1716~45)

家重(1745~60)

家治(1760~86)

家斉(1787~37)

家慶(1837~53)

家定(1853~58)

家茂(1858~66)

慶喜(1866~67)

 

(1) 幕藩体制の確立

 

1600年、 関ヶ原の戦いで西軍を破る。

1603年、家康、征夷大将軍の宣下を受け、江戸幕府を開く。

 

秀吉死後、反豊臣勢力の徳川家康は、石田三成らを関ヶ原の戦いで破り、大坂夏の陣(1615年)で豊臣家を滅ぼした。

 

大坂の役で豊臣秀頼を攻め滅ぼした(1615年)2代将軍徳川秀忠は、幕府にとって危険と思われる大名を処分し、幕府の基礎を固めた。大名は一国一城令(1615年)によって、諸大名の城は、居城のみを残して取り壊された。

 

 

統治体制

 

幕府や藩が全国の土地、人民を支配する体制。藩を通じて全国を支配する中央集権体制。

 

将軍       大老(最高職、老中の上に置かれた臨時職)

 

老中(政務全般を司る)       大目付(大名の監督)

勘定奉行

江戸町奉行

遠国奉行

若年寄 (老中を補佐し、旗本を支配)      書院番頭(将軍の警固)

小姓組番頭(将軍の警固)

寺社奉行                                           目付 (旗本、御家人の監督)

京都所司代

大坂城代

 

江戸幕府は、最高職である大老の下に、政務全般をみる老中や、老中を補佐する若年寄を置く一方、老中の下の大目付が大名の監督を行い、若年寄の下の目付が旗本・御家人の監督にあたった。

 

幕政は老中を中心として行われ、若年寄・大目付・目付のほかに寺社・町・勘定の三奉行が置かれた。これらの役職には譜代大名や旗本らが就いた。

 

3代将軍家光は、幕府の職制を整備し、大名統制・外交・財政などの重要政策を扱う老中、老中を補佐する役職として若年寄を設けた。また、寺社の管理・統制を行う寺社奉行、幕府の行財政を司る勘定奉行、江戸市中の警察・市政を担当する町奉行の三奉行を置いた。

 

 

側用人:将軍の側近。

 

旗本 :将軍直属の家臣で、一万石未満、将軍に謁見(御目見)できる者。

御家人:御目見(おめみえ)以下、すなわち将軍に謁見できない武士。

江戸幕府の下では、将軍直属の家臣は、旗本、御家人と呼ばれ、天領の治安行政に当たった。

 

軍事力: 旗本、御家人と呼ばれる直属の家臣団 + 諸大名が負担する軍役。

旗本、御家人は、幕府の常備軍的性格を持ち江戸に在住。

 

幕府は旗本と御家人から構成される直参と呼ばれる直属の軍隊を持っていた。

また、幕府直属の常備軍はなかったものの、幕府の意向に従わない藩は近隣の大名から構成される軍団によって討伐された。

 

江戸幕府は、鎖国完成に伴い諸外国の攻撃に対抗するために、大名に石高に応じた軍役負担や大型船の新造を命じるなど防衛体制の強化を図った。

 

 

財政

幕府は天領と呼ばれる直轄地を持つ。全国3000万石の4分の1の石高数を保有。金、銀、銅山を直轄。

 

 

大名統制体制

 

親藩・・ 家康以後、徳川の子弟で大名になったもの。

譜代・・ 関が原以前から徳川家にも同盟、臣下であった大名。

外様・・ 関ヶ原以後、臣従した大名。

 

幕府は、徳川氏との親疎によって、親藩・譜代・外様の3つに大名を区別し、親藩や譜代を全国の要所に置き、外様大名を遠隔地に配置した。

 

大名を徳川氏一族である親藩、三河時代からの家臣である譜代、関ヶ原の戦い以後家臣となった外様に分け、その配置を交錯させて相互に牽制させた?。

 

大名には軍役として石高に応じて一定数の兵馬を常備させ、戦時には将軍の命令で出陣させた。また、平時には御手伝普請として江戸城の修築、河川の治水工事などを命じた。

 

 

武家諸法度・・・江戸幕府の大名統制法。秀忠の時に最初に制定、将軍が代わる度に改定。

 

大名が守るべき事柄を定めた武家諸法度を制定し、居城修理や大名の結婚の許可制、新規築城の禁止、文武両道の奨励、参勤交代などを定めた。

 

武家諸法度は、家康の政治顧問である臨済宗の僧、金地院崇伝が起草し、その後、将軍が替わるごとに少しずつ修正されて諸大名に厳命された。

 

武家諸法度は、将軍の代ごとに何回も改正され、公家には適用されなかった。

大名統制の大綱を示すために1615年に将軍秀忠の名で発布した法律で、原則として将軍の代替わりごとに必要に応じて改訂し公布した。

 

「武家諸法度」は、武士階級の統制のための徳川幕府の根本法典で、大名を対象とした。これは、文武の奨励に始まる武家社会の規範と裁判・刑罰の基準や判例が集大成された法令集で、将軍家光によって完成された。(1635年の寛永令)

 

1615年の2代将軍秀忠による元和令と、1635年の3代家光による寛永令でほぼ整備された。参勤交代も1635年に定められた。

 

1615年、元和の法度

家康が諸大名を伏見城に集め、秀忠の名で発布。大名の心得、居城新築の禁止と修築の届出義務、婚姻の許可制など。

 

1635年、寛永令(武家諸法度の完成)←家光

参勤交代の制度化(大名は国元と江戸を1年ごとに往復する)、居城の改築、破壊などは幕府に報告。新規築城は禁止。

 

大名に対しては親藩・譜代・外様の区別が行われ、すべての大名に、江戸と在地とを原則1年で転任する参勤交代を義務づけた。

 

大名には国元と江戸とを1年ごとに往復する参勤交代を義務づけ、その妻子は江戸にとどめて事実上の人質とした。江戸滞在中、また国元との往復には、莫大な費用を要したため大名の財力は弱められた。(費用は大名の自弁)。藩財政を圧迫した。

 

 

農民統制 ・・・ 「生かさぬように、殺さぬように」

幕府や藩の財政は農民からの年貢で支えられた。→ 村請制度・・村の責任で年貢を完納。

 

幕府や藩の財政は、農民からの年貢で支えられていたので、年貢確保の努力と農民維持のための勧農作に努めた。太閤検地以後、改めて領内全体の検地を行い、年貢負担者の掌握や村域を確定するとともに、村の責任で年貢を完納させる村請制をつくった。

 

農民に対しては日常生活にまで厳しい統制を加え(1649年慶安の御触書)、租税は原則、米で納めた。

 

五人組制度(1624年)

自治組織で、本百姓(=自作農)を構成員として5戸1組を年貢の支払いの原則とした。

 

田畑勝手作の禁(1643年)・・ 作物・作付け制限令。

本田畑に五穀(米、麦、黍きび、粟あわ、豆)以外の作物を作ってはならない。

 

田畑永代売買禁止令(1643年)

分地制限令(1673年)・・・勝手に土地を相続してはならない。

 

慶安の御触書(1649年) 農民の生活を事細かに規定。

幕府は、農民と比べると、町人に対する統制は比較的緩やかであった。

 

 

朝廷

禁中並公家諸法度(1615) ←京都所司代(対朝廷目付け)

 

江戸時代において皇室領としてはわずか3万石にすぎず、朝廷は独自の力を持つことはできなかった。

 

幕府は朝廷に対して厳しい統制を加え、禁中並公家諸法度を発布したほか、京都に京都所司代を設置し、朝廷の動きを監視させた。

 

武家伝奏は、朝廷と幕府の連絡を行う二名の公家で、京都所司代や老中と連絡を取り合っていた。

 

 

宗教

寺院法度(諸宗諸本山法度)(1615年)

諸宗派に共通する寺院統制が定められ、幕府の一元支配が強化。本寺・末寺関係の確立、僧侶の階級厳守、寺領売買の禁止など。

 

宗門改め(1640年)

寺請制度・・キリシタンでないことを檀那寺に証明させること。住民は、どこかの寺の檀家にならなければならない。寺院は事実上、戸籍事務取扱い機関(民衆支配の行政機関)となって幕藩支配体制に従事。

 

#金地院崇伝 ・・家康の政治顧問で臨済宗の僧、武家諸法度、禁中並公家諸法度を起草。

 

幕府はキリスト教を厳しく弾圧し、宗門改めを行って、すべての民衆を寺院の檀家とする寺請制度を行ったため、寺院は幕府の末端機構と化した。

 

寺社は寺社奉行により諸国寺院御掟と諸国社家御掟でそれぞれ監視されたが、一方で宗派ごとに組織をつくらせ?、すべての人々をいずれかの寺に所属することとした。寺院は幕府の保護を受けたが、民衆支配の一端も負わされた。仏教は宗教としては低調であった。

 

1655年に出された諸国寺院御掟と諸国社家御掟によって、それぞれ寺院と神社への幕府の支配が一元化され、強化された。

 

 

外交・貿易

 

1600年、蘭船リーフデ号、漂着

家康は、日本に漂着した蘭船リーフデ号の乗組員のヤン・ヨーステン、イギリス人ウィリアム=アダムズ(三浦按針)を外交顧問にした。

 

家康 ・・ 当初、豊臣政権を引き継ぎ、積極的な貿易を展開。(英、蘭、西、ポ)

輸出品-銀、銅、 輸入品-生糸

 

秀吉の時代からの朱印船貿易(長崎、堺、京都の商人に朱印状が出された)を引き継ぐ。

角倉了以は、朱印船貿易を行った京都の豪商で、大い川、富士川の河川開発事業に取り組んだ。茶屋四郎次郎

 

家康は、秀吉が始めた朱印状の発行に基づく朱印船貿易を継続し、外国貿易を制限していない。家康の死後の1631年から、奉書を必要とする奉書船貿易が始まった。

 

輸出品では銀が、輸入品では生糸が貿易の主流であり、幕府は糸割符制度を設けて輸入生糸を一括購入・販売させ、貿易の統制と利潤の独占を図った。

 

江戸幕府は、1609年にオランダに通商許可を、1613年にイギリスに通商許可を与え、平戸商館で貿易を始め(1609年にオランダ、1613年にイギリスと平戸で貿易を始め)、西国大名や豪商に(渡航許可証の)朱印状を与えて、ルソンやカンボジアなど東南アジア諸国との貿易を行わせた。

 

1613年、慶長遣欧使節

伊達正宗は、メキシコ・スペイン・イタリアでの通商を求めて、慶長遣欧使節の支倉常長一行を派遣した。

 

1604年、糸割符(いとわっぷ)制

堺、京都、長崎の特定商人(後に江戸、大坂商人も)に、輸入生糸を一括購入させることにより糸割符仲間を作らせ価格を決めさせた。中国産の生糸を長崎に運んで巨利を得ていたイスパニアやポルトガルなど外国商人の利益独占を排除する。

 

鎖国

キリスト教への警戒

貿易統制・・・九州の大名(外様)が、貿易の利益を独占する恐れ。

 

1612年、天領に禁教令、翌年、全国に禁教令 (秀忠)

徳川家康は、当初、キリスト教を放任したが、2代将軍秀忠の時、禁教令が出された。

徳川秀忠は、禁教令を全国に発し(1613年)

 

1616年、ヨーロッパ船の寄港地を平戸と長崎に限って許可。

 

1624年、イスパニア船の来航禁止 (家光)

1631年、奉書の発行を開始 ・・・ 貿易には将軍の朱印状の他に老中の奉書が必要。

 

1633年、奉書船以外の日本船の海外渡航の禁止。

老中の発行した渡航許可書である奉書の所持を義務づけられた海外渡航船以外の日本船の海外渡航が禁じられた。

 

1637年、島原の乱

島原の乱後、来航はオランダ船のみではなく、ほかに中国、朝鮮にも認められていた。

 

1639年、ポルトガル船の来航禁止。(家光)

 

島原の乱(1637~38)は、苛酷な年貢を課す領主とキリスト教徒を弾圧する幕府に対し、農民らが天草四郎時貞を大将として起こした一揆で、幕府は、老中の松平信綱を中心として自ら兵を動員して、これを鎮圧した。この島原の乱が、ポルトガル船の来航禁止(1639年)(による鎖国の完成)のきっかけとなった。

 

島原の乱では、地元の領主が中心となって鎮圧した。その指揮官として、幕府から松平信綱や板倉重昌などが派遣された。

 

鎖国政策の完成

 

江戸幕府は、1641年にオランダ商館を長崎の出島に移し、これ以後、場所を長崎に限定して、鎖国政策を実施したが、貿易船はオランダ以外に、私貿易の中国船の来航を認めた。また、朝鮮通信使、琉球王国との交渉も行われた。

 

鎖国下の貿易は、長崎における対オランダ・清にのみ限定され、幕府は利潤をほぼ独占した。新井白石は、1715年、海舶互市新例(長崎新令)を出して貿易を制限し(支払いの上限を定めた)、日本からの金銀の国外流出を防止した。

 

長崎はオランダ・中国との交易の窓口とされ、その他に、対馬藩は朝鮮と、薩摩藩は琉球と、松前藩はアイヌと交易があった。オランダには蘭風説書を提出させた。

 

鎖国令により、日本人の海外渡航と在外日本人の帰国を全面的に禁止し、また、オランダ商館を長崎の出島に移した。

幕府はキリスト教の弾圧後、鎖国制度を完成させたが、その後、外国との貿易は長崎の出島に限定され、交易国としてはオランダと中国のみを許可した。

 

17世紀前半に、江戸幕府によって行われた鎖国政策により、日本の貿易相手国はオランドと清の2カ国に限られることになった。この政策下でも、対馬の宗氏を媒介として李氏朝鮮との交易関係は継続された。特に、朝鮮通信使と呼ばれる使節を通じた朝鮮との交流は、江戸時代を通じて、継続された。

 

江戸時代初期、幕府は鎖国を実施し、オランダがヨーロッパで唯一正式な国交を持つ国となった。その対日貿易のほとんどはヨーロッパ市場との中継貿易であり?、日本は主に銀、銅、鉄、漆器であり、中国産の絹織物、綿織物、薬品、時計、書籍は輸入品であった。

 

 

江戸時代には、江戸の日本橋を起点とする、東海道や中山道などの五街道を中心に交通路が整備された。大量の物資の輸送には水上交通が利用され、江戸と大坂を結ぶ航路には菱垣廻船や樽廻船が就航した。また、川村瑞賢によって東回り航路と西回り航路が整備された。

 

 

(2) 三大改革

 

武断政治から文治政治への転換(4代家綱以降)

 

武断政治:

3代徳川家光で幕藩体制の完成。

武力を背景に外様大名など諸勢力を制圧すること。大名の改易、減封の結果、浪人が増加。

由比正雪の乱1651年(クーデター計画)

 

文治政治:4代家綱から7代家継までの儒教的徳治主義に基づいた幕府の政治体制。

 

幕府政治の基調は、4代将軍家綱によって草創期の武断政治から文治主義へと転換した。文治主義は儒学の徳治主義を基礎にして幕藩体制の支配秩序を保とうとしたもので、これによって幕政の基本方針が明確になった。

 

 

<5代綱吉の治世>

生類憐れみの令。

 

5代将軍綱吉が出した武家諸法度は、儒教の精神に基づく文治主義の方針がとられた。

湯島の聖堂

 

浪費家で財政難→貨幣改悪(金・銀の含有量を減らす)で打開を図る。勘定奉行の荻原重秀。

 

5代将軍綱吉は、幕府の財政を立て直すために、勘定吟味役荻原重秀の意見を用いて、これまでの慶長金銀を改鋳し、品質の悪い元禄小判を発行して(1695)、幕府の歳入を増やしたが、貨幣価値の下落により物価の上昇をまねき、武士や庶民の生活を困窮させた。

綱吉は、柳沢吉保を側用人に取り立てた。

 

<正徳の治(1709~1716)>

 

新井白石(家宣の侍講として幕政に関与)、6代家宣、7代家継の治世

 

新井白石を登用して、緊縮政策をとり、財政の立て直しを図った(正徳の治)。

 

貨幣改良

海舶互市新例(かいはくごししんれい)(長崎新例)(1715)

金、銀、銅の流出と密貿易防止のための貿易制限令、清、オランダ船の数を制限し、年間貿易額の制限を定めた。

 

文治政治は新井白石の正徳の治のときに最盛期を迎えた。このとき、海舶互市新令(1715年)が出され、長崎貿易の制限が行われた。金銀の流出が減少した。

 

 

17世紀末から18世紀はじめの町人を中心とする元禄文化は、経済と文化の先進地である上方の町人を主な担い手とする文化であった。町人の世相や風俗を写実的に描き、浮世草子と呼ばれる小説を生み出した井原西鶴、わび、さびなどの新しい価値を導入し、自然の中に人生を見つめる格調高い蕉風俳諧を確立した松尾芭蕉、人間浄瑠璃や歌舞伎の脚本を書いた近松門左衛門がこの時期の町人文芸の代表である。尾形光琳はこの時代を代表する画家である。

 

 

三大改革(享保、寛政、天保)

 

封建体制の矛盾にいち早く気づいた8代将軍吉宗の享保の改革以来、寛政・天保の三大改革に一貫した基本的政策は、封建制の基盤となる農村の振興を企図した重農主義?政策であった。

 

質素・倹約は三大改革の共通した政策であった。

幕府の財政の基本である本百姓(年貢負担者)の育成を図ることを目的とした政策。

 

享保 ― (田沼時代) ― 寛政 ― (大御所時代) ― 天保せいくょう

(緊縮)   (刺激)     (緊縮)    (刺激)       (刺激)

 

商業への依存度は一時的、消極的、18世紀以降幕府の経済力は落ちる。

 

 

<享保の改革> (1716~1745)

8代吉宗の幕政の改革

 

定免法の制定(五公五民)、上米の制、足高の制、相対済し令、目安箱の設置、実学の奨励、公事方御定書

享保の大飢饉(1732)、享保の打ち壊し(1733)

 

8代将軍吉宗は、幕府の財政基盤を強化するために、倹約令によって支出をおさえ、大名には、石高1万石につき100石を献上させる上げ米の制を実施した。

 

幕府財政強化のために、諸大名に石高に応じての上げ米を命じた。

 

徳川吉宗は、享保の改革において、大名に対し上げ米を命じて幕府の収入を増やしたほか、飢饉に備えるための甘藷や櫨(はぜ)などの新しい作物の栽培を奨励した。

 

上げ米は大名に1万石につき100石の米を上納させる代わりに参勤交代の江戸滞在期間を半減させるものである。幕府の財政窮乏を救うために諸大名に出した、

 

また、定免法をとりいれて農民の年貢負担率を引き上げ、年貢の増徴を図った。

これまで検見法によって決められていた年貢率を、収穫の平均値で一定にする定免法を採用して、年貢の引き上げを図った。

 

金銭の貸借関係の訴訟は、当事者間で解決せよという相対済し令を出し、裁判事務の促進を図った。

 

徳川吉宗は、享保の改革において、裁判や刑罰の基準となる公事方御定書を作り、足(たし)高(だか)の制で人材の登用を図った。

 

足高の制は人材登用制度で、家格の高い職に就いた時、在職期間のみ石高を増す制度である。

 

吉宗は商業政策にも力を入れ、株仲間を公認した。

目安箱への投書を取り上げて、小石川養生所を設置し、病弱者や貧困者の救済を図った。

 

吉宗が、天文学や医学などの実学的な漢訳洋書の輸入を認めたことで、武士や庶民の蘭学への関心が高まった。

 

 

<田沼時代>(1767~86)

9代家重、10代家治(いえはる)の治世。側用人・老中として政治を担当。

商業資本の積極的利用で幕府財政再建を図る。営利政策

 

株仲間の積極的な公認。

印旛沼・手賀沼の干拓、蝦夷地開発。

 

田沼意次は、成長した商業資本を積極的に利用して幕府財政の強化と安定を図ろうとした。

 

天明の大飢饉(1783)、物価高騰で、全国的に百姓一揆や打ち壊しが発生。

商人との結託で賄賂が公然と上下に横行、意次、意知父子の専制に批判。

 

田沼意次の改革では、成長した商業資本を積極的に利用して幕府財政の強化と安定を図ろうとした。

 

問屋・仲買の商人たちの一部は、営業を独占するために株仲間という同業組織を結成し、冥加金や運常金を上納して保護を受けた。特に、田沼意次は株仲間を積極的に公認し、冥加金や運常金を収めさえて幕府財政の補いとした。

 

 

<寛政の改革>(1787~93)

 

老中、松平定信の改革(11代、家斉のとき)

社会福祉に重点をおいて商業資本を抑え込む政策を展開

 

囲米の制、七分積金、人足寄場、棄捐令、帰農令、寛政異学の禁。

 

貨幣経済の進展に適応できない中、厳しい統制、倹約は民衆の反感を買った。

 

学問・思想の統制を強め、朱子学を正学とし、その他の異学を昌平坂学問所で講ずることを禁じた。

松平定信は、寛政の改革において、異学の禁を発して聖堂学問所での朱子学以外の講義を禁じ、厳しい風俗統制令を出して秩序の回復に努めた。

 

江戸の石川島に人足寄場を設け、浮浪人や無宿者を収容し、職を与えるなどして治安の回復を図った。

 

老中の松平定信は、七分積金によって、飢饉・災害時に困窮した貧民を救済する体制を整えたり、困窮する旗本や御家人を救済するために棄捐令を出し、札差に借金を放棄させたりしたが、厳しい統制や倹約の強要は民衆の反発を生んだ。

七分積金で江戸の町入用(町費)の70%を積み立てさせ、貧民救済に用いた。

 

困窮した旗本や御家人を救済するため、棄捐令を出し、札差からの借金を整理させた。

松平定信は、寛政の改革において、旗本などへの貸金を札差に放棄させる棄捐令を出した。

 

* 寛政期(18世紀後半)、産業革命の時、列強の海外進出が始まる。

林子平 「海国兵談」(1792)、ロシアの進出を警戒し海防の必要性を説く。弾圧。

ロシア使節ラックスマンの来航(1792)

ロシア使節レザノフの来航(1804)

間宮林蔵、樺太探検(1808)

 

 

<大御所時代>(1793~1841)

11代家斉の治世(12代家慶の時代も大御所と称して実権。)

 

文化・文政時代(1804~30)の放漫な政治。享楽的、営利的な風潮を強める。

将軍、大奥の華美な生活で財政難が悪化。 貨幣改悪で幕府財政を立て直す。経済は活発化。

 

天保の大飢饉(1832~33)、凶作が続き一揆と打ち壊しが頻発。

大塩平八郎の乱(1837)。

 

日本では、文化・文政時代の放漫な政治が、享楽的、営利的な風潮を強め、天保年間に入ると、凶作が続いて大飢饉(天保の大飢饉)となった。その頃、アメリカが太平洋に進出し、イギリスやロシアが清国に勢力を伸ばすなど、日本を取り巻く国際情勢も大きく変動していた。幕府はこのような内外の情勢を背景に、天保の改革を行い、これと前後して諸藩においても、幕政改革が行われた。思想面にも新たな展開が見られ、封建制度の矛盾を批判する思想が生まれた。特に、尊王論や開国思想は、近代への胎動を強く感じさせるものであった。

 

 

<天保の改革>(1841~43)

老中、水野忠邦の幕政改革。12代家慶の治世。 cf. 天保年間(1830―44)

 

人返しの法(帰農令)、棄捐令、上知(地)令

株仲間解散 ・・・ 物価高騰抑制を目的、商業資本を幕府の統制下に置こうとした。

薪水給与令

 

倹約の徹底と重農主義を目指す。

 

問屋商人や地主が家内工場を作り、賃金労働者となった農民を雇うマニュファクチュア(問屋制家内工業)を行う時代。

 

老中の水野忠邦は、株仲間を解散させて商人の自由な営業を認めたり、人返しの法を出して農民の出稼ぎを禁止し、農村の人口を増加させようとしたが、いずれも十分な効果をあげることはできず、かえって幕府の権威の衰えを表面化させた。

 

水野忠邦は、天保の改革において、人返し令を出して江戸に流入した貧民を帰村させ、また、物価の引下げをねらって株仲間の解散を命じた。

(株仲間が物価を不当につり上げている元凶であるとして)株仲間を解散させ、自由営業を認め、商工業者を幕府の統制下に置いた。

 

問屋などの株仲間による独占的な営業が物価上昇の原因であるとして、株仲間の解散を命じ商人の自由な営業を認めるとともに、物価を強制的に引き下げた。

 

江戸の人返しの法を敷き、農民の江戸流入を禁じ、農村の荒廃を食い止めようとした。

人返しの法を制定し、農民の出稼ぎを禁止し、江戸への流入民を強制的に帰村させるなどして、農村の再建を図ろうとした。

 

上知(地)令を発し、江戸・大坂などの貨幣経済の発展した地域を幕府の支配下に治めようとした。

水野忠邦は、江戸、大坂周辺の大名、旗本の土地を幕府直轄地としようとしたが、大名、旗本の反発を招き、失脚した。

 

 

雄藩

 

幕藩体制の下で諸藩は独立した藩政を行う。領内では自藩の土地・人民を支配し独立した政治や裁判を行っており、藩が自治権を持ちながら幕府に強く統制されていた。

財政難にあっても独自の財政政策が可能。

 

江戸中期・・上杉治憲(米沢藩)や佐竹義和(秋田藩)らによる特産品の奨励や専売の強化。

江戸後期・・薩摩、長州、土佐、肥前藩など西南の大藩では藩政改革が実施され、藩営専売制や藩営工場が設立。

 

 

 

幕藩体制の下で諸藩は独立した幕政を行ったが、参勤交代や御手伝い普請など幕府の巧みな大名統制策によって財政難が早くから始まった。特産品奨励と専売制を中核とした幕政改革が各地で行われ、中期には大飢饉を契機に会津・米沢・秋田など東北諸藩が、後期になると西南諸藩が成果を挙げた。

 

幕末期に雄藩として活躍することになる西南の大藩では、例えば長州では、中・下層出身の武士が改革の主導権を握り、専売制を廃止して近代工業を育成し?(本百姓を育成したり)、財政再建に成功した。

 

幕藩体制の下で諸藩は独立した藩政を行ったが、参勤交代や御手伝い普請など幕府の巧みな大名統制策によって財政難が早くから始まった。特産品奨励と専売制を中核とした藩政改革が各地で行われ、中期には大飢饉を契機に会津・米沢・秋田など東北諸藩が、後期になると西南諸藩(薩摩・長州・土佐・肥前)が成果を挙げた。

 

 

百姓一揆

江戸時代、幕府や諸藩は一揆の要求を一部認めることもあったが、多くは武力で鎮圧し、一揆の指導者を厳罰に処した。これに対して、農民たちは処刑された指導者を義民としてあがめ、その行為を物語にして語り伝えたりした。

江戸時代初期の一揆は村役人が村民を代表して、領主に年貢の減免を願う代表越訴型一揆が多かった。

 

江戸時代中期以降、農民の階層化が進むと、農村では村方騒動が、都市では打ちこわしが頻発するようになった。百姓一揆も、領内の広範な農民による大規模な強訴が盛んとなり、惣百姓一揆と呼ばれている。百姓一揆の大きな山は享保、天明、天保のいわゆる三大飢饉と重なるが、年間件数の最も多いのは幕末であった。この時期の一揆は、世直し一揆と呼ばれ、幕府や大名に多大な衝撃を与えた。

 

江戸時代、特に大規模な飢饉として享保の大飢饉(1732年)、天明の大飢饉(1782~87年)、天保の大飢饉(1833~39年)と呼ばれるものがあり(江戸の3大飢饉)、数多くの一揆が起こった。また、江戸時代後期になると、農民が村々をこえて団結して起こす一揆もみられた。

 

 

 

(3) 幕末

 

尊王論は「大日本史」編纂を通して形成された水戸学などで主張されたもので、幕末には攘夷論と結びついて尊王攘夷論が説かれ、倒幕運動に影響を与えた。

 

開国思想:渡辺崋山や高野長英らの蘭学者は、モリソン号に対する砲撃事件を批判したためにに、蛮社の獄で死罪となった。

 

尊王攘夷派は、外国との通商には反対であり、また外国船を撃破して鎖国を支持する排外的な思想であるといえる。

 

 

開国

 

1825年,異国船 (無二念) 打ち払い令

1842年,薪水(しんすい)給与令 (←アヘン戦争)

(渡航した外国船に燃料、食料を給与するように定めた法令)

 

鎖国政策を堅持する幕府に対し、外圧はまず北方からロシアによって、次いでイギリス船の近海出没によってもたらされた。幕府は海防の必要性を認識する一方、異国船打払令を出し(1825年)、国内では蛮社の獄など蘭学者らを弾圧して、鎖国政策を強化したが、その後、アヘン戦争(1840~42年)の結果に接し外交方針の転換を余儀なくされた。

 

アヘン戦争で、清がイギリスの敗れたことが日本に伝わると、老中水野忠邦を中心とする幕府は、異国船打払令を緩和して、薪水給与令を出した。(1842年)

 

 

1853年,米東インド艦隊司令官ペリー来航(浦賀)

1854年,日米和親条約

下田・函館の開港,米に最恵国待遇を供与。露,英,蘭とに同様の条約を結ぶ。⇒ 鎖国の終焉

 

 

1858年,日米修好通商条約(米、ハリス)

1)神奈川,長崎,新潟,兵庫の開港, 2)居留地内での「領事裁判権」を承認,3)協定関税・・関税自主権なし。 露,英,蘭,仏とも同様の条約

 

安政の5カ国条約 (不平等条約)

勝海舟の咸臨丸,条約批准のためワシントンへ(1860)

 

1858年、井伊直弼、大老就任、(14代家茂の時)

朝廷から勅許を得ないまま日米修好通商条約を調印。

幕府の対外政策批判 ⇒ 倒幕運動へ(攘夷派と反幕勢力が結びつく)

 

尊王攘夷 (尊王:天皇崇拝、攘夷:排外的な思想)

(例)水戸藩・・・征夷大将軍は天皇から与えられた役職。難局は政権を天皇に戻して,挙国一致で対応し,外国勢力を駆逐しよう)

(例)長州,薩摩・・・妄想的な攘夷運動

 

安政の大獄,井伊大老,吉田松陰らを弾圧

 

1860年,桜田門外の変,井伊暗殺

 

 

1853年に来航して日本の開国を要求したアメリカ東インド艦隊司令長官ペリーは、翌年再び来航し、幕府に対して条約の強硬に迫り、日米和親条約を結んだ。この条約では、下田に領事の駐留を認めること、アメリカに一方的な最恵国待遇を与えることなどが取り決められた。

 

19世紀半ば、アメリカ合衆国のペリーは軍艦を率いて日本に来航し、江戸幕府に開国を要求した。幕府はやむなく、下田と箱館を開港することなどを内容とする日米和親条約を結んだ。次いで、幕府は、イギリスやロシアなどとも同様の条約を結び、鎖国体制は崩壊した。

 

日米和親条約(1854年)は、下田および箱館の2港を開港することやアメリカ船が必要とする薪水や食料を供給すること、難破船やその乗組員を救助することなどを定めたものである。

(最恵国待遇の供与、老中、阿部正弘の時)(徳川斉昭はペリー来航時に幕政に関わった)

 

 

日米修好通商条約(1858年)は、神奈川等の4港を開港すること、通商は自由貿易にすること、開港場に居留地を設け、居留地での領事裁判権を認めることなどを定めたものである。

日米修好通商条約では、領事裁判権を認めただけでなく、関税についても、日本に税率の決定権は与えられなかった。

 

アメリカ合衆国の圧力により、幕府は、朝廷が異議を唱えていたにもかかわらず、1858年に日米修好通商条約を結び、外国との貿易が行われるようになった。日本からは生糸が輸出されたが、外国からは、綿織物などの繊維製品や大砲などの軍需品が輸入され、貿易は輸出超過となり、国内では物価が騰貴した。

 

欧米との通商条約に基づき、横浜港などが開港されて貿易が始まったが、開港直後は、綿織物を中心とする輸入額が輸出額を上回り、織物を扱う江戸の問屋を中心に、既存の特権的な流通機構が勢いを増した。当時、輸出したのは生糸であり、輸入したのが綿織物、毛織物である。

 

江戸時代末期、幕府は安政の5カ国条約を締結した。欧米列強との貿易が開始されたが、輸出品目を中心とする物資の欠乏や多量の金貨の一時的流出などにより、物価が急騰して経済が混乱し、攘夷運動が起こる一因となった。

 

 

日米修好通商条約は、大老井伊直弼が勅許を得ずに結んだ条約である。これは神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港、自由貿易のほか、治外法権、関税自主権の放棄などを内容とする不平等条約であった。続いてイギリスなどとも同様の条約を結んだ。

 

井伊直弼は、勅許を得ないまま、日米修好通商条約に調印し、続いてイギリスなどとも同様の条約を結んだ。貿易が始まると、諸外国と日本との金銀の交換比率の違いから、日本の金が大量に流出した。そのため幕府は、貨幣の改鋳を行ったが、貨幣の価値が下がり物価が高騰した。

 

大老井伊直弼は、幕府を批判する(一橋派の)大名や尊王攘夷派の武士たちを厳しく処罰した(安政の大獄、1858~59)。

 

幕府は勅許を得られないまま欧米諸国との通商条約に調印したため、幕府に対する非難や開国に反対する運動が高まったため、国内に不満が高まり、井伊直弼は(桜田門外の変で水戸浪士らによって)暗殺された。

 

公武合体・・ 公(朝廷)と武(幕府)の提携により政局安定をはかろうとした政治運動

井伊直弼暗殺後、老中安藤信正が中心となって推進。公卿の岩倉具視も尽力。

 

14代家茂と皇女和宮と結婚 ⇔ 安藤信正、坂下門外の変(1862)で重傷。

 

薩摩藩主、島津久光、勅使を奉じ幕政改革を要求 → 薩摩藩主導の公武合体策を推進へ。

 

大老井伊直弼が桜田門外の変で暗殺された後、老中安藤信正は、朝廷との融和によって政局を安定させようと、公武合体を進め、孝明天皇の妹である和宮を将軍家茂の夫人に迎えることに成功したが、坂下門外の変で傷つけられて失脚した。

 

老中安藤信正は、公武合体の政策をとり、孝明天皇の妹である和宮を将軍家茂の正室に迎えたが、これが尊皇攘夷論者の反感を招き、坂下門外の変で襲撃され、罷免された。

 

 

幕府・薩摩(公武合体・開国) vs 長州(尊王攘夷)

 

・ 8月18日の政変 (1863) ・・公武合体派による京都からの攘夷派追放事件、三条実美

・ 池田屋事変

・ 禁門の変 (蛤御門の変) (1864)

・ 第一次長州征伐(1864)

 

禁門の変は、1863年の8月18日の政変で、長州藩と急進派公家の三条実美が京都から追放されたことを契機に、1864年6月に新撰組が尊王攘夷派を池田家で殺傷した池田屋事件後に、京都に集結した長州藩が会津藩・桑名藩・薩摩藩と皇居内外で戦い、敗れた事件である。

 

幕府は、禁門の変の処罰を理由に、第一次長州征伐の軍を出したが、長州藩は戦わずに幕府に謝罪し、藩内の尊王攘夷派を抑えた。

 

 

 

攘夷行動の激化

薩摩:1862年,生麦事件  ⇒ 1863,薩英戦争(英艦が鹿児島砲撃)

 

長州:1863年、下関戦争,長州,米,仏,蘭艦を砲撃。⇒ 英米仏蘭の4ヶ国連合艦隊の下関砲撃。

薩摩,長州,攘夷が不可能であることを悟り、討幕運動へ

 

高杉晋作、木戸孝允 (桂小五郎)ら、下級武士が藩政を動かす。

 

1865-66年,第二次長州戦争,長州勝利 ⇒ 高杉の奇兵隊の活躍。

 

将軍徳川慶喜は、禁門の変後、第一次長州征伐を行い(1864年)、幕府側が有利な状況で終えたが、第二次の長州征伐は失敗し、幕府の権威は失墜した。

薩長を支援した人物は、イギリス公使パークスである。

 

徳川吉宗は、駐日フランス公使のロッシュの援助を受けたのに対して、駐日イギリス公使パークスは、ロッシュとは反対の立場に立ち、薩摩藩に接近した。イギリスとフランスの対立は、幕府と朝廷・雄藩の対立につながった。

 

 

1866年,薩長連合 ⇒ 倒幕へ

(仲介役,土佐の坂本竜馬と中岡慎太郎,薩摩:西郷隆盛,長州:木戸孝充)

 

土佐藩の坂本竜馬や中岡慎太郎の仲介で、1866年、薩摩藩と長州藩が軍事同盟を結んだ(薩摩藩と長州藩との間で、倒幕派を集結させるため、薩長同盟の密約が結ばれた)。

 

 

1867年、大政奉還

土佐藩主,山内豊信が将軍に大政奉還を建白し、15代徳川慶喜はこれを受け入れて上表。

 

15代将軍慶喜は、駐日フランス公使ロッシュの建議を受け入れ、薩摩藩の協力の下に職制や軍政の改革を行い、幕府勢力の立て直しを図った。しかし、その後、薩摩藩は長州藩と薩長同盟を結び、倒幕の意志を固めたので、慶喜は、徳川家滅亡の危機を避けるため朝廷に政権を返還した。

 

薩長両藩による倒幕計画が進むなか、15代将軍の徳川慶喜は、朝廷に大政奉還を申し入れ、この申入れは受理された。

1867年の大政奉還は、土佐藩士の後藤象二郎と坂本竜馬の尽力のもと、前土佐藩主の山内豊信が将軍慶喜に進言して受け入れられ、朝廷に示されたものである。

 

将軍慶喜は、大政奉還により政権を朝廷に返還したが、倒幕派の働きかけにより、朝廷は、王政復古の大号令を発し、天皇中心の新政府の樹立を宣言した。

 

 

雄藩連合政権下での徳川氏の存続や土佐藩の発言増大を狙う。(公議政体論)

 

薩長は武力討伐を目指す。討幕の密勅を受ける。

1867年、王政復古の大号令

江戸幕府を廃し天皇親政を実現した政変。摂関、幕府の廃絶、天皇のもとに総裁、議定、 参与の三職を置いた。

 

1868年1月、鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争の始まり)

鳥羽・伏見 → 上野、彰義隊の戦い → 会津戦争 →函館、五稜郭の戦い

榎本武揚、降伏(1869年5月)。