経済金融史

 

経済史

 

奈良時代になると、物々交換の場所として官営の市が開かれるようになった。

奈良時代から平安時代にかけて、平城京と平安京の左京に東市、右京に西市が設けられ、市司という官吏によって管理された(これらを市が監督した)。

 

 

鎌倉時代、貨幣経済の進展に伴い、遠隔地間の取引の代金決済のために為替が始まり、銭を貸して利子をとる専門の金融業者である借上が現れた。

 

鎌倉時代には、定期市が広範に成立し、常設の店舗も出現してその地方の特産物が売買され、中央から織物や工芸品などを運んでくれる行商人の活躍も目立つようになった。商工業者はすでに前代より寺社や公家を保護者として、排他的同業者の団体であるを結成していたが、この時代を経て室町時代になると、その規模も種類も著しく増加していった。(それまで京都・奈良を中心に近畿地方で結成されていた座の数が飛躍的に増加し、室町時代になると、全国的に結成されるようになった)。

座:労役や奉納の義務と引き換えに製造や販売の独占権が認められた。

 

しかし、応仁の乱以降、産業、経済が発達し、新興商人が増えると、自由な商業取引が奨励されるようになり、その中心となった門前町、港町、城下町が繁栄した。戦国大名の多くは領国経済発展のために自由営業を認め、商人を城下町に集結させた。

 

楽市・楽座:座の特権を廃止し、商人の自由な活動を認める政策で、特に織田信長が積極的に行った。応仁の乱後の戦国大名が行った。

戦国大名は、武器などの大量生産に備えて領国内の商工業者を集め、城下町に居住させた。

 

江戸時代になると、産業、港町、城下町の発達によって商品経済が目覚ましく発展、発達した。問屋、仲買、小売の別ができ、有力商人は株仲間という同業組合を組織して、幕府の公認を得、各種の特権を保持するようになった。

 

江戸時代に、幕府から営業の独占権を認められた株仲間は、享保の改革で徳川吉宗に公認され、その後、老中の田沼意次が積極的に公認した。天保の改革を行った水野忠邦は株仲間を解散している。

 

室町時代、交通の発展や地方との商品輸送が盛んになるにつれて、港湾の市場をつなぐ廻船が多くなり、陸上では宿場町が増加して馬借・車借などの交通業者が出現した。

 

安土桃山時代(織田信長)、商取引の円滑化を図るために、座商人がもっていた独占販売などの特権の廃止や市場税・商業税の免除が行われ、さらに、座そのものも廃止された。

 

江戸時代、織物業や醸造業では、問屋制家内工業を更にすすめて、18世紀の天保期になると、経営者が自分の作業場をもち、労働者を一か所に集めて分業による協業をさせる工場制手工業が現れた。

江戸時代には、問屋が原料や資本を職人や農民に貸して製品を安く買い上げる問屋制家内工業が支配的であった。

江戸時代には、菱垣廻船や樽廻船などの港の市場をつなぐ海上輸送が発達した。

 

農村における商品生産の進展に伴って、資本をもつ問屋が農家に原料や道具を貸し与えて、製品を買い占める(製品と引き換えに加工賃金を払うもの)、問屋制家内工業が一般化していった。

 

明治時代、重税と不換紙幣回収によってデフレーションが発生し、農産物価格が下落したため農民の階層分化が促進され、大地主の下に土地が集中して寄生地主制が成立した。

 

 

1927(昭和2)年3月、関東大震災後の不況対策の際、片岡直温蔵相が失言したことから、台湾銀行の取付け騒ぎが起こったことに端を発し、日本で金融恐慌が始まった。1928年に成立した田中義一内閣は、同年4月に3週間のモラトリアム(支払い猶予令)を出して、金融恐慌を終息させた。(この時の蔵相が高橋是清)、ニューヨーク証券市場の株価暴落に端を発した世界恐慌は、1929年のこと。

 

 

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貨幣制度

 

唐の制度にならって和同開珎と呼ばれる貨幣の鋳造が行われ、国家としての体裁が整えられた。

律令国家は、和同開珎(708年に発行)の流通を促すために、蓄銭叙位令を出し(711年)、一定額の銭を蓄積した者には、その額に応じて位階を与えた。 (7世紀後半には富本銭が鋳造され)

ただ、当時は稲や布が貨幣の代わりに使われ、物々交換が主であったために、貨幣の流通は、当時、都の奈良周辺に限られ、貨幣経済が全国に普及することはなかった。

 

律令国家が、10世紀半ばまでに本朝十二銭と呼ばれる銭貨を鋳造したが、銭貨(せんか)の流通は、

京・畿内や国府周辺に限られ、それ以外の地域では稲や布などの物々交換(現物交換)が行われ、全国的に貨幣経済が発展することはなかった。

 

律令国家は、和同開珎から乾元大宝(958年)まで12種類の銅銭を鋳造した(本朝十二銭)

 

鎌倉時代になると全国的な商業取引が盛んになったが、鎌倉幕府は貨幣を鋳造することはなく、遠隔地間の取引や荘園の年貢納入などに利用されることもなかった。

 

鎌倉時代には、手工業や商業の発達によって、貨幣の需要が増加したが、日本では10世紀以来、貨幣の鋳造はおこなわれなかったので、鎌倉時代に流通した貨幣は、日宋貿易によって、宋から銅銭(宋銭)を輸入することで賄われた。

 

鎌倉時代には貨幣の流通が盛んになり、為替制度や借上とよばれる高利貸しがあらわれた。

貨幣経済の進展に伴い、遠隔地間の取引の代金決済のために為替が始まり、銭を貸して利子をとる専門の金融業者である借上が現れた。

 

 

本朝十二銭以後、日本で貨幣鋳造は行われなくなり、中国からの輸入銭が使われていた。鎌倉時代になると、遠隔地間の商取引きも盛んになったが、使われていたのは宋銭である。

 

 

室町時代には勘合貿易が行われ、永楽通宝など大量の明銭が輸入され、幕府はそれを公的な貨幣として国内で流通させた。

15世紀初め、足利義満は室町幕府の経済的基盤を強化することを目的として、日本にとっては屈辱的な朝貢貿易となった(対等な関係ではない)勘合貿易を始めた。貿易の主要品目を見ると、日本から明には、銅・硫黄・刀剣(とうけん)・扇(おうぎ)などが輸出される一方、明からは大量の銅銭が輸入された。

 

足利義満は、明との間で勘合貿易を行ったが、この日明貿易は、日本にとって明との対等な関係で行われた貿易ではなく、朝貢貿易(明の皇帝に朝貢する貿易)だった。ただ、勘合貿易では明側が渡航費用を負担したので、室町幕府は莫大な利益が得られた。

 

明と国交を開き(1401年、義満)、勘合貿易が開始され(1404、朝貢形式の貿易)、銅銭・生糸・絹織物などが輸入された。

 

ただし、それだけでは貨幣需要の増大に追いつかず、私鋳銭(私的に偽造された銭)も使われるようになり、取引に当たって良銭を選ぶ撰銭が行わるようになった。

 

貨幣の流通が増大し、永楽通宝などの明銭だけでは需要に追いつかず、粗悪な私鋳銭が増えて撰銭が行われたため、たびたび撰銭令(良銭の基準や種類、貨幣間の交換基準を規定)が出された。

 

(室町時代は、戦乱が続く一方で貨幣経済が発達した。)

(室町時代中期)貨幣の需要が増し、年貢の銭納や為替の利用も進んだ。貨幣は永楽銭などの明銭が使用されたが、粗悪な私鋳品も出回り、撰銭(流通の際、悪銭を撰り分け、良銭のみを用いること)が行われた。

 

江戸時代は、金座・銀座・銭座を設けて、全国共通の貨幣を鋳造することとして、鋳貨権を独占したが、鋳貨権を持たない諸藩でも財政難を救うために、領内のみで通用する貨幣(藩札)が発行された。

 

江戸時代、幕府は金座・銀座を設けて、同じ規格の金・銀を発行し、全国に通用させ、永楽銭などは次第に駆逐されていった。

幕府は1608年に「永楽銭通用禁止令」を出して、永楽銭の通用を禁止したが、その後も流通していた。しかし、1636年に江戸と近江坂本に銭座を設けて寛永通宝を大量に鋳造して以来、次第に中国銭などは駆逐され、17世紀中ごろまでに、金・銀・銭の三貨制度が整った。

 

17世紀頃には江戸幕府の財政状態が著しく悪化し、5代将軍綱吉の勘定吟味役(後の勘定奉行)の荻原重秀は、質の悪い貨幣を流通させて、その差額で穴埋めを行った。

綱吉の死後、新井白石が財政問題を担当し、良貨の正徳小判を鋳造させた。

 

江戸中期頃から、幕府は財政難を救うため貨幣を改鋳し、その品位を落として収入源とした。そのため、貨幣の価値が下がったために物価が上昇し、庶民の生活は圧迫された。

 

 

開国後の日本では、金の大量流出が起こり、幕府は改鋳してこれを防ごうとしたが、物価の上昇が起こった。

幕府は、日米和親条約で部分的に自由化された交易により小判(金貨)が大量に流出したため、万(まん)延貨幣(えんかへい)改鋳(かいちゅう)を行った。これは、従来より金の含有量を落とした小判を鋳造したため、国内は激しいインフレーションに見舞われた。

 

明治時代には、新貨条例が制定され(1871年)、十進法による円・銭・厘を単位とする新貨幣が発行された。