飛鳥時代

 

飛鳥時代 (500~710)

 

  • 仏教政治の中央集権国家

 

蘇我氏の時代

大和王権下の豪族であった蘇我氏は、6世紀末に仏教の受容に反対する物部氏を滅ぼして(馬子が物部守屋を滅ぼして)(538年)政治を独占した。その後、蘇我蝦夷・入鹿父子は、入鹿が、有力な王位継承者であった聖徳太子の子、山背大兄王(やましろのおおえのおう)を滅ぼして権力の集中を計ろうとして、645年に中大兄皇子らによって滅ぼされた。

 

大伴 vs 物部

蘇我 vs 物部 (崇仏論争) ⇒ 蘇我氏が権力を握る。

 

蘇我稲目(崇仏派) vs 物部尾輿(廃仏派)

仏教が伝播、渡来人を登用   神道護持

 

蘇我馬子

587年、物部守屋、討たれる。

崇峻天皇を暗殺、推古天皇へ。

 

推古天皇 (593~628)

593年、摂政に聖徳太子を登用。

 

聖徳太子

朝廷の勢力を高め、百済、新羅に対する指導力を確立できる人物として期待。

推古天皇のもとで、聖徳太子と蘇我馬子との協力によって中央集権化が進められる。

推古天皇の摂政となった聖徳太子は、蘇我氏と妥協しながらも中央集権国家の樹立に努めた。

推古天皇の摂政となった聖徳太子は、法隆寺など官立の大寺院を建立し氏寺と区別して、国家で治める制度をつくった。

 

聖徳太子は、冠位十二階を定めて、氏姓制度の世襲制を打破し、才能に応じて人材の登用を行い、憲法十七条を定めて、仏教尊崇や天皇の尊厳性など、官吏の心構えを説いた。

十七条の憲法は、聖徳太子が豪族や官吏に対する政治的・道徳的心得を示したものである。

 

聖徳太子の政治

603年,  冠位12階を制定・・・人事の規制緩和。

604年.  憲法17条が制定

607年,  遣隋使(小野妹子)、隋の皇帝2代煬帝へ派遣。

遣隋使: 高向玄理、僧旻(みん)(両者は国博士)、南淵請安

 

飛鳥文化:大陸風の仏教文化が栄える

仏教興隆の詔を出させる。豪族たちによる寺院建立。

飛鳥寺(蘇我馬子)、法隆寺(聖徳太子)、広隆寺(秦河勝)

 

大和政権は、白村江の戦いでの敗北後、唐・新羅の侵攻に備え各地に水城や山城を設置し、九州に防人を置くなど防備を強化した。

 

馬子と太子の死後、蘇我蝦夷とその子入鹿(いるか)権力集中。

 

645年 大化の改新

中大兄皇子、中臣鎌足が、入鹿を殺害、蝦夷自殺。

 

646年改新の詔 (改新のときの政治方針) (孝徳天皇

 

中大兄皇子と中臣鎌足は、律令に基づく中央集権国家の建設をめざし、蘇我氏を倒して権力の集中を図り、大化の改新と呼ばれる一連の政治改革に着手した。

 

 

①私有地を廃し公地公民制、

②戸籍、計帳を作り班田収授法、

③租・庸・調の統一税制、

④ 国・郡・里の地方行政制度を定めて国司、郡司に行政を行わせる。

 

中大兄皇子は、国家の体制を固めるため、646年の改新の詔で、公地公民制が打ち出された。豪族は大和朝廷の時代から土地や人民を私有していたが、

 

中央や地方の豪族たちの私有地や私有民を廃して、朝廷が全国の土地、人民を一元的に支配することになった。

 

豪族勢力を抑え、日本最初の天皇による中央集権国家、律令国家を目指す。

 

中国、朝鮮半島情勢

630年、第一回遣唐使。犬上御田鍬

遣唐使: 阿部仲麻呂、吉備真備、(僧)玄昉、藤原清河

 

660年、唐・新羅、百済を滅ぼす。→ 中大兄皇子、百済救援軍を起こす。

 

663年、唐・新羅連合軍との海戦。白村江の戦い。日本敗戦。朝鮮半島から撤退。

大和政権は、白村江の戦いでの敗北後、唐・新羅の侵攻に備え各地に水城や山城を設置し、九州に防人を置くなど防備を強化した。

 

668年、唐・新羅、高句麗を滅ぼす。

676年、新羅、唐の勢力を追い出し、朝鮮半島を統一。

 

日本と新羅の関係

日本は新羅を従属国とみなし、新羅は日本との対等外交は望み対立。

 

渤海(698~926)との交流。唐、新羅を牽制する目的。渤海が契丹に滅ぼされるまで続く。

 

 

  • 律令国家の完成

 

天智天皇(661~671)

667年、大津京へ遷都

669年、藤原鎌足死す。

670年、庚午年籍(最初の戸籍本)制定。

671年、近江令を施行

672年、壬申の乱=大海人皇子vs 大友皇子

 

天武天皇(672~686)

672年、飛鳥浄御原に遷都。

684年、八色(やくさ)の姓を制定・・・天皇の神格化の始まり。

 

持統天皇(686~697)

689年、飛鳥浄御原令を施行。

694年、藤原京に遷都

 

文武(もんぶ)天皇(697~707)  ―律令国家を完成―

 

701年、大宝律令制定 : 天皇親政が確立(中央集権的な官制が整備)

710年、平城京遷都(元明天皇)

718年、養老律令 ・・ 大宝律令の補足,改訂版 ←藤原不比等

 

唐のような中央集権国家を建設しようという動きが高まり、朝廷は全国に律令制度による統一的な政治体制を打ち立てようとした。

 

律令国家とは、大和政権による氏姓制度が打ち破られた大化の改新後から、奈良・平安時代に至る国家のことをさす。(律令制度とは、7世紀から12世紀までの律令格式を基礎とした政治支配体制のことである。)

わが国最初の令といわれている近江令、次いで飛鳥浄御原令、大宝律令で律令が整ったが、9世紀以降、再建策がとられるものの、次第に衰え、10世紀初頭になると、律令制度での財政維持は困難となる。

律令の制定は天智天皇の近江令が最初である。

 

律令による国家運営組織としては、中央に、太政官と神祇官が置かれ、地方には全国を国、郡、里に分けて、国司・郡司・里長が置かれた。全国民は良民と賎民に分けられ、一般の人々は貴族・豪族とともに良民に属した。賎民は奴隷的な苦しい生活を送っていたが、良民も重い租税を負わされていた。さらに良民は、兵役も課せられ、その負担は重く生活を圧迫していた。

 

大宝律令は、刑部(おさかべ)親王、藤原不比等らによって完成された。律令制度が完成する。

 

大宝律令が制定されると、地方は国・郡・里に分けられ、中央から派遣された国司が、地方豪族の中から任命された郡司を指揮して地方政治を行った。

 

大宝律令は、唐の律令を模範として整えられたもので、律、令ともに完備された法典であった。律は刑罰法で、令は行政・訴訟など広い範囲の規定を含み、日本では特に令が重んじられた。また、律や令を、日本に実情に見合った形に補足・変更する格・式がたびたび出された。

 

国家統治の基本法である律令は、刑法に当たる律と、民法、行政法である令からなる。日本最古の法令は、大宝律令以前の668年に制定された近江令である。

 

大宝律令による中央行政機構としては、祭祀をつかさどる神祇官と、一般政務をつかさどる太政官の二官が置かれており、太政官は太政大臣や大納言などの公卿によって構成されていた。そして、太政官のもとに大蔵省や兵部省など八省が置かれ、それぞれの政務を分担していた。

神祇官のほうが太政官より下位に位置づけられていた。

 

律令制度では、(氏姓制度を改め)、強力な中央集権体制を樹立することが目指された。律令下では、実力本位ではなく、上位の貴族の位階が世襲される蔭位の制が整えられた。

氏姓制度は朝廷が豪族に氏と姓を与えたものである。

 

律令国家における官制のうち、中央については、国家の祭祀をつかさどる神祇官と一般の政務をつかさどる太政官、さらに、太政官の下に八省が置かれるなど整備された。地方についても全国を五畿七道に分け、さらに国―郡―里に細分化されたり、九州には大宰府を設置するなど、地方行政にも力を入れた。

 

大和朝廷を構成していた畿内の有力な豪族たちは、上級官人(貴族)には特権が与えられ(土地、奉仕人、課税免除、刑法上の減刑など)、その地位も世襲された。貴族の子弟であれば、父や祖父の官位に応じて一定の位が与えられる蔭位の制と呼ばれるものもあった。

 

大宝律令による地方行政機構では、全国は畿内・七道に分けられ、その下に、国・郡・里が設けられ、国司が中央から赴任し、郡司、里長には在地の豪族が任命された。また、外交・国防上の要地である筑紫には大宰府が置かれて防人が配置された。

 

律令で、全国の人民が良民(貴族、一般農民)と賎民(解放されない不自由民)に分けられていたが、班田収受法では賎民である家人や私奴婢にも良民の3分の1に当たる口分田が班給された。

 

律令体制下における公民は、物納の租・庸・調と、労役としての雑傜・仕丁・兵役など、重い負担を負っていた。さらに政府は、春に稲を貸し付け、秋に利息を加えて徴収する出挙の制度を作った。出挙は当初は農民救済の方法であったが、やがて強制的に貸し付け租税の一種とするようになった。

 

口分田の課せられた租よりも、人頭税である庸、調、雑徭の負担が重かった。

土地税として納める租は各国ごとに集められたが、人頭税に当たる庸や調は、都に運んで中央政府の財源とされたため、納税者にとっては運搬の義務があり、負担の重い税であった。

 

班田収受の法によって口分田は6歳以上の男女に与えられたが、口分田の売買は禁止された。

 

律令制の下で、農民は班田収授法に基づいて口分田を与えられ、稲を租として納める義務を負っただけでなく、兵役など労役の義務も負った。

農民は一定の基準によって兵士として徴発され、各地の軍団に編入された。その中には衛士(えじ)として宮門の警備にあたる者や、防人として九州の防衛にあたる者もいた。労役の義務には他に地方での労役である雑傜(ぞうよう)があった。

 

成年男子(正丁(せいてい))からなる兵士は、諸国の軍団に配置された(後に、桓武天皇の時代に、農民による軍団と兵士を廃止し、郡司の子弟を軍務に就かせる健児の制に改められた。)

 

 

壬申の乱:672年に天智天皇の弟、大海人皇子と天皇の子、大友皇子との間で皇位継承をめぐって内乱が起こった。

 

 

 

飛鳥文化

中国の南北朝時代の影響を受けて開花した文化であり、高句麗の僧曇徴が絵の具などの製法を伝え、絵画や工芸などが飛躍的に発達した。

聖徳太子の時代を中心とした6世紀末期から7世紀中頃の文化であり、中国南北朝の文化やギリシャ・オリエントの影響もみられる世界性豊かな仏教文化である。

 

仏教を中心とする文化が隆盛となり、その国際性は、ペルシア、中国、朝鮮半島と深いつながりを持つものであった。とりわけ、百済、高句麗などを通じて伝えられた中国の南朝時代の影響が大きかった。

飛鳥文化は、日本で最初の仏教文化であり、彫刻では鞍作鳥の作品と言われる法隆寺金堂の釈迦三尊像がある。

 

律令国家の形成期にあたる6世紀後半から7世紀前半の推古朝を中心とする飛鳥文化は、中国の南北朝や朝鮮の文化の影響を強く受けた仏教を基調とする文化であり、法隆寺(斑鳩寺)など多くの寺院が朝廷の保護のもと官寺として建立された。

 

白鳳文化:天武・持統時代、二大古墳壁画 (高松塚古墳、キトラ古墳)

新鮮さと明朗性が特色で、代表的な美術作品に薬師寺の東塔、高松塚古墳の壁画などがあり、また漢詩文などの影響の下に長歌や短歌の形式が整えられた。

遣唐使によってもたらされた初唐文化の影響を受けて開花した仏教文化であり、興福寺仏頭などの金銅像が造られた。

 

唐の影響を受けた興福寺仏頭や、絵画の高句麗・唐の影響を受けた高松塚古墳壁画がある。

薬師寺は、飛鳥時代の天武・持統朝を中心とする白鳳文化を代表する寺院である。

天武・持統天皇の時代を中心とした7世紀後半から8世紀初頭の文化で、初唐文化の影響をうけた清新な文化である。