天台宗(最澄)・真言宗(空海)

 

天台宗(最澄)

 

  • 智顗と最澄の天台宗

 

天台宗は、隋代において、智顗(ちぎ)(538-597)が天台山(中国浙江省天台県)で開いた、法華経を根本経典とする中国創始の大乗仏教宗派です。宗祖智顗(ちぎ)が講述したものを門人の灌頂が筆録した書である「摩訶止観(まかしかん)」の中に、法華三昧(法華経を通して真理に悟入する方法)の実践が説かれています。

 

日本の天台宗は、伝教大師・最澄(767~822)を開祖として平安時代初期に始まりました(総本山は比叡山延暦寺)。ただし、この時、日本には法相宗や華厳宗など、奈良の南都六宗が中国から伝えられていましたが、中国では天台宗の方が古い宗派でした。

 

804(延暦23)年、還学生(短期留学生)として遣唐使船で唐に渡った最澄は、霊地・天台山に赴き、台州竜興寺で天台大師智顗(ちぎ)の直系である道邃(どうすい)和尚から天台教学と大乗菩薩戒を伝授され、また、天台修禅寺(しゅぜんじ)で行満座主(ぎょうまんざす)からも天台教学を学びました。さらに、越州の龍興寺では順暁阿闍梨(じゅんぎょうあじゃり)から密教を授かり、禅林寺で翛然(しゅくねん)禅師から禅を究めました。

 

最澄は、このように「法華経」を中心として、天台教学()・戒律()・密教()・四宗をともに学び、805年に帰国して、翌年、天台宗を開創しました。天台宗とは、円・密・禅・戒の四宗を、法華経の精神で綜合する(このことを「四宗相承(ししゅうそうじょう)」という)ことによって、大乗仏教全般を布教する宗派(学派)と言えます。

 

天台宗において、一切経(釈迦の経典の総称)を体系づけ、法華経こそが釈迦の多くの経文の中で最高の経典と位置づけられていますが、法華経が絶対というわけではありません。「朝題目夕念仏(あさだいもくにゆうねんぶつ)」という言い方もあり、僧侶たちは、朝は法華経中心、夕方は阿弥陀経を中心に勤めることになっているそうです。

 

ですから、天台宗では、特に定められた本尊(信仰の対象となる仏像)がないとされています。ただし、強いてあげれば、「法華経」を根本経典としているので、お釈迦様すなわち釈迦如来です。また、延暦寺の根本中堂(総本堂)の本尊である薬師如来や、阿弥陀如来なども天台宗の本尊としてあげられます。では、天台宗では何を教えているのでしょうか?

 

 

  • 天台宗の教義

 

法華一乗一乗思想

一乗思想とは、「一切衆生悉有仏性」(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)の教え、とも呼ばれ、一切の生きとし生けるものは、ことごとく仏になる因(仏性)を有しているという意味で、すべての衆生は成仏できると教えています。

 

 

一心三観(いっしんさんがん)

究極の真理は一つであるという考え方に基づいて、空観、仮観、中観の三観を同時に心に観じてさとりを得ようとする修行法をいいます。

 

空観(くうがん):一切の存在には実体がないと現象世界を否定的に観想すること

仮観(けがん):それらは仮に現象していると肯定的にとらえて観想すること

中観(ちゅうがん):この両者がともにそなわってはじめて真理を把握しうる(二つも一つである)として観想すること

 

 

三諦円融(さんたいえんゆう)

実相の真理を明かすものとされた空(くう)・仮(け)・中(ちゅう)の三諦は独立した真理ではなく、それぞれが他の二諦を含んで三者が相互にとけ合っているという考え方です。

 

空諦(くうたい):すべての存在は空無なものであるとする見方

仮諦(けたい):すべての事象は因縁によって存在する仮のものとする見方

中諦(ちゅうたい):すべての存在は空でも有でもなく言葉や思慮の対象を超えたものであるとする見方

 

 

天台宗の開祖智顗は、この「一心三観」や「三諦円融」などをさらに発展させて「一念三千」を発想(創案)しました。

 

一念三千(いちねんさんぜん)

自分の一瞬の心(一念)に、ありとあらゆる現象(三千の諸法)が備わっていること、言い方を変えれば、日常の人の心の中には、全宇宙の一切の事象が備わっているということを悟るために瞑想する修行法をいいます。

 

また、天台宗の中心的修行法に止観があります。止観(しかん)とは「一切の妄念を止めて心を統一し、正しい知恵で、自己と存在の実相(対象)を観察すること」などと定義づけられています。また、天台宗では、実践行も重視し、教観双修(きょうかんそうしゅう)(=止観の実践を教理によって保証し、教理は実践の有効性によって証明される」を標榜しています。

 

 

  • 天台宗の修行

 

修行に関して、前述した四宗(円、密、禅、戒)の教えを融合し(これを四宗融合(ししゅうゆうごう)という)、人それぞれ縁に応じてどの分野から入っても良いとされ、四種三昧と呼ばれる四通りの方法があります。

 

四種三昧(ししゅざんまい)は、比叡山で最も歴史の古い、天台宗の基本的な修行で、中国天台宗の開祖、智顗(ちぎ)が創案した常坐三昧・常行三昧・半行半坐三昧・非行非坐三昧の四種類の行を指します。これらは、智顗が、行の仕方を、動作、唱え方、心、の三方面から分類して、立ち振る舞いの違いから、4つのカテゴリーに分けたものとされています。

 

常坐三昧(じょうざざんまい)

常坐三昧は、静寂な堂内に一人で入堂し、90日間坐り続け、坐禅に没頭する行です。

 

常行三昧(じょうぎょうざんまい)

常行三昧は、約10m四方のお堂の中で行われ、ひたすら阿弥陀様の名前だけを唱えながら、ご本尊の阿弥陀様の周りをまわり続けます。90日間を一期として、僧侶が交替で昼夜24時間歩き続けます。ご本尊の周囲にある手すり(横木)を頼りに歩いたり、天井から下げられた麻紐につかまったりして、歩を休めることはできますが、決して坐臥しません。常行三昧は、念仏を唱える浄土信仰や、密教の普及につながったと言われています。

 

半行半坐三昧(はんぎょうはんざざんまい)

半行半坐三昧では、歩いて行う行と、坐って行う行の組み合わせで、比叡山では五体投地(ごたいとうち)(=両肘両膝と額を地面につけて行う拝礼)や法華経の読誦をしながら行ないます。

 

非行非坐三昧(ひぎょうひざざんまい)

非行非坐三昧は、あらゆる起居動作が仏道につながるとして、毎日の生活そのものを修行とする行です。期間や行法も定まっておらず、かたちを超えた本質に通じなければならないとされることから、逆に難しい修行とされています。

 

 

回峰行

修行には、常行三昧の発展した、峰々を毎日歩きまわる回峯行もあります。比叡山では、千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)が有名です。平安時代の高僧、相応和尚(そうおうかしょう)により開創された、千日回峰行は7年間かけて、比叡山の峰々をぬうように巡って礼拝する修行です。出会う人々すべての仏性を礼拝したとされる常不軽菩薩(じょうふぎょうぼさつ)(=法華経に出てくる菩薩)の精神を受け継ぎ、山川草木ことごとくに仏性を見いだし、礼拝するものです。

 

 

  • 最澄の生涯

 

次に、最澄の生涯を概観することで、天台宗をさらに掘り下げてみたいと思います。

 

最澄は、767年8月18日、中国後漢の王族で、応神天皇の頃の帰化人の子孫と伝えられている三津首百枝(みつのおびとももえ)の子として、近江の国・比叡山山麓の坂本で誕生したとされています(三津首氏そのものは、新羅系の一族である志賀漢人(しがのあやひと)系とされる)。

 

12歳のときに出家し、近江国分寺に入って、大国師・行表(だいこくしぎょうひょう)の弟子になり修業生活を送ります。15歳で、国分寺僧として得度(受戒すること=戒律をうけ僧として認めれる)し、名を最澄と改めます。翌年785年4月、東大寺の戒壇に入って、正式な具足戒(ぐそくかい:僧の守るべき戒律)を受戒し、国家公認の僧となりました。

 

しかし、同年7月、世間の無常を観じ、出奔し、故郷の比叡山に登って禅行生活(山岳修業)に入りました。この間、日本に初めて戒律を伝えた鑑真がもたらした天台大師・智顗(ちぎ)の著書にふれ、天台教学に傾倒するに至ったとされています。788年、21歳のときに、自ら彫った薬師如来を本尊とする一乗止観院(いちじょうしかんいん)という草庵を建てました。この小堂が延暦寺に発展することになります。

 

それから6年後、桓武天皇が平安京に遷都しました。都の東北に位置する比叡山にある一乗止観院は、仏法力で都の鬼門を守る守護寺と位置づけられるようになりました。797年、和気清麻呂で有名な和気氏(わけうじ)の推薦で、国家安泰を祈り天皇に助言する内供奉十禅師(ないぐぶじゅうぜんじ)に任命され、その後、和気氏の氏寺である高雄山神護寺で行われた天台会で講義を行うようになりました。

 

こうした和気氏とのつながりから、最澄は入唐還学生(げんがくしょう)(=短期の国費留学生)に選ばれ、803年、遣唐使として唐に渡りました。奇しくもこの入唐船の一行に空海も含まれていました。二人は互いに面識はなく、航海中の交流はなかったとされています。

 

明州に到着した最澄は、既に紹介したように、天台山にて、天台教学を究め、さらに密教と禅と戒律の伝授も受けるなど、在唐わずか9ヵ月の間に、仏教の総てという意味の「円密禅戒」を受け継ぎました(これを「四種相承」という)。帰国後、最澄は唐で学んだ円(天台教学)・密・禅・戒の四宗を綜合する天台宗(天台法華宗)を、806年に立宗しました。

 

ただし、四宗すべてを伝授されたと言っても、1年に満たない滞在期間では限界があり、天台教学ほど、密教を究めていたわけではありませんでした。しかも、最澄らを遣唐使として送った桓武天皇が期待していたのは、新しい密教に関する知識や法具であったと言われています。当時、朝廷は、それまで政治に関与し圧力をかけてきた奈良仏教と一線を画すためにも、密教を中心とした新しい仏教の導入をめざしていました。

 

その意味で、最澄は、完全に期待に応えらなかった状況でしたが、それでも、天皇の命により、不十分ながら、密教儀式や祈祷を行っていました。

 

そこで、最澄は、同じ遣唐使として密教を究めて帰国した空海から教えを請おうと、812年、空海が唐から受け継いだ仏縁儀式である結縁灌頂(けちえんかんじょう)を受け、師弟関係を結びました。この時、最澄45歳、空海38歳でした。

 

しかし、友好な関係は長く続きませんでした。最澄が空海に経典「理趣経(りしゅきょう)(=完全なる悟りへの道を述べた経典)」の解説本を借りたいと申し出たところ、これを拒絶されたことや、最澄の愛弟子であった泰範が、空海の教えに心酔し、ついには最澄から離れていってしまった「事件」があり、両者は袂を分かつことになってしまったのです。さらに、後ろ盾だった桓武天皇が崩御されたこともあって、最澄は、密教の教えを究めることを断念します。

 

そこで、最澄は、晩年の目標を、比叡山に大乗戒壇院を創設することに注力しました。戒壇院とは、出家者が正式の僧尼となるために必要な戒律を授けるための施設で、奈良時代、渡来僧鑑真が初めて東大寺に設置し、最澄の時代、東大寺以外には、薬師寺(下野)と観世音寺(大宰府)の合わせて3か所しかありませんでした。しかも3つの戒壇院は南都六宗に属していました。そこで、天台宗の僧侶たちが東大寺で受戒しなければならないことを嫌がった最澄は、大乗仏教である日本には独自の戒律が必要であると訴え、運動しますが、南都仏教の官僧の抵抗を受け続けました。

 

結局、最澄は、822年6月4日、55歳で入滅しました。866(貞観8)年に、伝教大師と諡(おくりな)を受け、日本では最初の大師号となりました。

 

なお、その死から7日後、最澄を支持していた時の実力者、藤原冬嗣の協力もあって、延暦寺に大乗戒壇院の開創の許可が下りています。また、生前、最澄が実現できなかった天台宗における密教の確立も、最澄の弟子たちによって完成されることになるのです。

 

 

  • 最澄後の天台宗

 

天台宗はもともと密教を含んでいましたが、最澄の死後、天台宗では、円仁(えんにん)(794〜864)や円珍(えんちん)(814〜891)など、唐に渡り、密教を学び習得する高僧が相次いで現れ、加持祈祷を行う天台密教が確立されました(真言宗の東密に対し、天台宗の密教は台密と呼ばれる)。

 

こうして、最澄後の天台宗は、法華経の教えよりも天台密教が盛んになっていきましたが、円仁などは、唐から密教のほかに、文殊菩薩の聖地として古くから信仰を集めている五台山の浄土念仏を伝え、日本に浄土教や浄土思想がもたらされました。

 

一方、比叡山では10世紀半ばには宗門の争いから僧兵が跋扈し、天台宗自体、山門派(さんもんは)、寺門派(じもんは)、真盛派(しんぜいは)などと分裂していきました。

 

具体的には、円仁と円珍との密教をめぐる仏教解釈の相違から,その末流が対立し、993年に、円仁派が比叡山の円珍派坊舎を焼き払ったことをきっかけに,円珍門下の余慶が比叡山延暦寺を下り園城(おんじょうじ)に入って独立し、寺門派となりました。円仁門流は、そのまま延暦寺にて山門派と称しました(園城寺は現在、三井寺(みいでら)と称する)。

 

また、室町時代になると、円戒国師・真盛(しんせい)(1443~1495)が、滋賀県大津市坂本の西教寺に入寺して繁栄させ、戒称一致(大乗円頓戒と称名念仏を統合)の教学を唱えて、真盛派を形成していきました。

 

山門派:比叡山延暦寺、慈覚大師・円仁

寺門派:園城寺(三井寺)、智証大師・円珍

真盛派:西教寺、円戒国師・真盛

 

 

  • 時代の魁

 

天台宗の教義は、総合仏教でしたので、総本山の比叡山延暦寺(滋賀県大津市)は「総合大学」としての性格を持ち、数々の名僧を輩出しました。特に、浄土宗の法然、臨済宗の栄西、曹洞宗の道元、浄土真宗の親鸞、日蓮宗の日蓮といった新仏教の開祖(宗祖)の多くが、若い日に比叡山で修行していることから、比叡山は「日本仏教の母山」とも称されます。各宗祖は、天台宗の教えの一部、その教えの専門的な教えを説き、鎌倉仏教の多くの宗派が生まれました。

 

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真言宗(空海)

 

 

真言宗(高野山金剛峰寺)は、弘法大師・空海を開祖とした日本で唯一の純粋な密教で、大日如来を本尊とし、大日経金剛頂経(こんごうちょうぎょう)が主な経典として扱われています。

 

真言宗は、諸尊の加護を求める貴族などに対して、加持祈禱がしばしば行われるなど、個人の現世利益を願う宗派として発展しました。また、真言宗は皇室と縁が深く,大覚寺,仁和寺等の門跡寺院が多くあります(門跡:皇族・公家が住職を務める特定の寺院)。

 

 

  • 密教と三密加持

 

密教というのは、大乗仏教の中の秘密教(秘密仏教)で、大日如来が直接説いた教えをいい、教えを修めた限られた人たちの間でのみ信仰が許されるとしています(これに対して、歴史上の釈尊が説いたとされる教えを顕教(けんぎょう)と呼ぶ)。なお、真言宗の密教は東密(とうみつ)、天台宗の密教は台密(たいみつ)と呼ばれれます。

 

大日如来は、宇宙の本体(そのもの)であり、宇宙の絶対の真理を現す根源的な生命などと表現されます。言わば、真理そのものである絶対的な根本の仏(仏教ではこれを法身仏(ほっしんぶつ)という)であり、この世の最高位の存在とされます。

 

生きとし生けるものは、大日如来の顕現であり、すべての仏は大日如来につながり、その化身と考えられています。私たちの存在も大日如来から生まれたので、人間もこの肉身のままで、生きていながら、究極の悟りを開き、仏になることができるとされます。これを即身成仏といい、真言宗の教義の柱となっています。そのためには「三密加持(さんみつかじ)」の実践が必要と説かれます。

 

「三密加持」の「三密」とは、大日如来の身体と口と心(身・口・意)のことで、それぞれ「身密(しんみつ)」「口密(くみつ)」「意密(いみつ)」を指します。「加持」とは達成することをいいます。真言宗では、衆生と仏(大日如来)とは本来同一であるから、身・口・意の三密行に努めれば、即身成仏することができるとしています。

 

具体的には、衆生が、身(身体)に、本尊を現す印(ムドラー)を手で結び(身密)、口に仏の真の言葉である真言(マントラ=呪文)を唱え(口密)、ご本尊の姿を心(意)に思い描き(=観ずる)、心を仏の境地に置く、つまり私たち衆生も大日如来と同じ心になり(意密)ます。その時、それがそのまま仏の三密と相応して、如来の力が衆生に加えられ、仏(大日如来)と同一(一体)となるとされます(これが即身成仏)。

 

なお、真言宗には、意密の実践の中に、生滅のない実在を体得できるとされる「阿字観」と呼ばれる瞑想法(観法)があります。

 

真言宗では、そうして、即身成仏した人々がともに高めあっていくことで、理想の世界である「密厳仏国土(みつごんぶっこくど)」(「密厳浄土(みつごんじょうど)」)が実現するとしています。密厳(仏)国土とは、大日如来のいる浄土のことであり、一切の現実経験世界の現象はこの如来そのものであると考えられているので、この世界が浄土にほかならないと説きます。

 

 

  • 曼荼羅

 

大日如来を中心に、宇宙に遍満する生きとし生けるものを仏の姿で表した世界観を、図画でもって示し、現実世界がそのまま理想世界であることを示すものとして、曼荼羅があります。密教の悟りの世界を象徴的に表す曼荼羅には、「金剛頂経」に説かれる金剛界曼荼羅と、「大日経」に説かれる胎蔵界曼荼羅の2つの世界から成ります。

 

ダイヤモンドのことを指す金剛とは、智慧がとても堅く絶対に傷がつくことがないことを意味し、金剛界曼荼羅には、悟りを得る為に必要な智慧の光が表されています。胎蔵とは母親の母胎のようにあらゆる森羅万象が大日如来の中に包み込まれていることを意味し、胎蔵曼荼羅は、無限の慈悲の広がりを象徴しています。この2つの曼陀羅が揃って大日如来を本尊とする密教の世界観が完成するとされています。

 

空海も、主著「十住心論(じゅうじゅうしんろん)」の中で、人の精神の程度や価値観のレベルを10段階に区分して、全く善悪の判断もできない最も程度の低い段階(第一住心)から、心の持ち方が向上して、大日如来と同レベルに達する最終段階(第十住心)までを説いています(これを十住心思想という)。

 

 

  • 空海の生涯

 

空海は、774年6月15日、四国・讃岐国多度郡(たどのこおり)に誕生しました。幼名は真魚(まお)といいました。父の佐伯田公(さえき・たぎみ)は、讃岐国の有力な豪族で、母の玉寄御前(たまよりごぜん)は、物部氏と同祖伝承を有する氏族とされる阿刀氏(あとうじ)の人でした。

 

空海は、15歳にとき、母方の伯父である阿刀大足(あとのおおたり)の奨めにより都(長岡京)で漢学を学び、18歳で大学(官吏養成の最高学府)に入学します。しかしこの頃より、政治や学問への疑問や虚しさを感じ始め、大学を出奔して、無空と名乗り、私度僧(得度を受けていない修行僧)として山岳修業に身を投じたとされています。

 

798年、24歳のとき、最初の著書「三教指帰(さんごうしいき)」を執筆し、儒教・道教・仏教の三つの教えのすぐれた点を指摘しつつ、その中でも仏教が最高のものだと説きました

 

803年、空海は、阿刀大足に留学僧(るがくそう)として遣唐使の一行に参加できるよう朝廷にはたらきかけてくれるように懇願した結果、朝廷から入唐を認められました。入唐の直前、東大寺の戒壇院(かいだんいん)で受戒し、正式に僧となりました(この時から空海と名乗ったとみられる)。

 

20年間帰国禁止の私費留学生として、804年に、苦労して唐に入った空海は、翌年、インドから中国に伝えられていた当時最高の密教の正統を継ぐと評判の高かった青龍寺の恵果和尚(けいかおしょう)から、真言密教を学び、密教の奥義・秘法や、密教の法具・経典・技術書・曼陀羅・法衣の総てをことごとく伝授されたとされています。そのための儀式である灌頂(かんじょう)を受けた際、恵果和尚から「遍照金剛」(へんじょうこんごう)の名前を授かりました。

 

恵果和尚は、日本に早く帰って密教を広めることを願いながら、その年の12月15に亡くなりました。師の意を受けた空海は、20年間の滞在義務を破り、806年に帰国しました。ただし、当社は、当時の平城天皇から入京を許されませんでしたが、次の嵯峨天皇の時代に許され、高尾・神護寺に滞在しました(ここで最澄らとの交流があった)。

 

唐から帰国後、多くの書物を著して真言密教の教理を体系化した空海は、真言宗を立宗します。816年(弘仁七年)に、高野山を開山、金剛峯寺(本尊:薬師如来)を修禅の道場として開創しました。823年(弘仁十四年)には、嵯峨天皇より勅賜された京都の東寺(教王護国寺)(本尊:薬師如来)を真言密教の根本道場とし、さらに、その隣接地には、日本初の庶民の学校である綜芸種智院を開学しました。ほかにも、讃岐の萬濃池や大和の益田池の修築など社会事業にも携わりました。こうして、密教をもって平安仏教を空海は、835 年3月21日、高野山で入定(入寂)しました。61歳でした。

 

 

  • 空海後の真言宗

 

空海の入定後、金剛峯寺(高野山)は空海の甥とされる真然(しんぜん/しんねん)(不詳~891年)、東寺(教王護国寺)は高弟の実慧(じつえ)(786~847年)、神護寺は、高弟真済(しんぜい)(800~860年)がそれぞれ継承しました。

 

その後、高野山は火災に遭い山上の伽藍が全焼し、その修復もままならないほど一時衰微するに至りましたが、時の権力者、藤原道長などの寄進により復興するに至りました。ただし、平安時代後期、僧侶の堕落停滞から、真言宗没落が取り沙汰されました。

 

この状態を歎き、高野山と密教を弘法大師の遺志にそうよう復興に努めたのが、高野山金剛峯寺の高僧覚鑁(かくばん)(1095~1143)でした。覚鑁(興教大師)は、鳥羽上皇の庇護を受け、学問探究の場である「大伝法院(だいでんぼういん)」、修禅の道場でもある住房「密厳院(みつごんいん)」を高野山上に建立しました。1134年には、大伝法院座主に就任しただけでなく、金剛峯寺座主職を兼ねた覚鑁は、真言諸派の教義をまとめ、当時盛んになりつつあった浄土教との調和も説いた真言教学を大成させました。さらに、伽藍の復興や高野山の運営の刷新を断行するなど、文字通り真言宗団を中興させました。

 

しかし、現状維持を望む保守派である金剛峯寺方(本寺方)が覚鑁(大伝法院方=院方)に反発し、両者に所領境界の争いまで起こった結果、1140年、覚鑁(派)は高野山を離れ、紀州の根来(ねごろ)に移りました。

 

1143年の覚鑁入寂後、覚鑁派は再び大伝法院を高野山に戻しましたが、金剛峯寺派との確執は収拾できませんした。その後、頼瑜(らいゆ)(1226〜1304)が出て、大伝法院を再び根来山に戻し、覚鑁の教義を発展させ、教義の基礎を確立した上で、新義真言宗として独立させました(なお、新義真言宗に対して、東寺や金剛峯寺など従来の真言宗は後に古義真言宗と呼ばれる)。

 

戦国時代、新義真言宗の総本山、根来寺(開祖:覚鑁)(大殿法院の後身)は、約6千人もの学僧を擁しただけでなく、僧兵集団「根来衆」を抱えるなど大きな勢力を備えるまで発展しました。しかし、こうした強大な寺社勢力の存在を危惧した豊臣秀吉は、1585年に根来山に攻め込み、一部の堂塔を残して全山焼失させてしまいました。

 

その後、専誉(せんよ)と玄宥(げんゆう)の二人の能化(のうけ)(=長老・学頭)は,それぞれ大和長谷寺,京都智積院(ちしゃくいん)に移りました。こうして、新義真言宗は、大和長谷寺を中心とした豊山派(ぶざんは)と、京都の智積院を中心とした智山派(ちさんは)とに分かれていきました(現在の真言宗豊山派と真言宗智山派の基礎を築いた)。これは、勢力を分散させようとした豊臣秀吉の宗教政策の結果でもありました。

 

一方、秀吉による焼き討ち後、根来寺はしばらく復興を許されませんでしたが、江戸時代に入り、紀州徳川家の保護を受けて、主要な伽藍が復興されました。また、1690(元禄3)年には、東山天皇より覚鑁上人に、諡号として「興教大師」が下賜されました。

 

明治維新や昭和の戦時における宗教政策の一環として、新義真言宗と古義真言宗は統一合同させられましたが、戦後は、真言宗豊山派、真言宗智山派など多数の宗派があり、現在、総本山に高野山金剛峯寺(こんごうぶじ)を筆頭に18の宗派(本山)に分かれています。

 

 

 

 

<参照>

最澄|新版 日本架空伝承人名事典

最澄とはどんな人物?簡単に説明

仏教の歴史〈下〉 ~天台教学が日本へ 最澄が中国で学ぶ …

真言宗の教え 真言宗豊山派

曼荼羅(仏像ワールド)

密教のおはなし|全真言宗青年連盟

真言密教修法の基本「三密加持」とは?

真言宗豊山派 興教大師

根來寺の歴史 – 根来寺

Wikipediaなど