日本の外交・安保史

 

日本の外交と安全保障をさまざまな角度から解説しています。前回は、憲法9条と日本の外交安全保障政策について、個別的自衛権と集団的自衛権を中心に説明しました。今回は、安全保障を中心とした日本の外交史をまとめました。歴史的な経緯をみていくことで、安保政策についての理解も一層深まると思います。

 

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<冷戦期の日本外交と安全保障>

 

◆ サンフランシスコ講和条約と日米安保条約

 

1950年6月の朝鮮戦争勃発を受け、アメリカの後押しで自衛隊の前身である警察予備隊が創設されました。

 

翌1951年9月には、*サンフランシスコ講和条約が調印され、戦後の占領状態が終了したと同時に日本の主権が回復しました。同じ日、日米安全保障条約も締結され(52年4月発効)、その円滑な運用のために*日米行政協定なども附属されました。

 

さらに、1952年に警察予備隊が保安隊に、54年には保安隊がそれぞれ改組されて自衛隊が発足しました。

 

*サンフランシスコ講和条約

吉田茂内閣が締結した連合国48カ国との講和条約で、西側諸国だけとの片面講和であった。ソ連は調印を拒否し、インドは調印式欠席、中国は調印式に招待されなかった。

 

*日米行政協定

米軍駐留に関する協定(52年2月調印、4月発効)で、施設の提供、出入国・裁判管轄権など、駐日米軍の日本国内とその周辺における権利などが定められた。

 

これらの一連の出来事は、「経済第一、軍備第二主義」をスローガンに掲げた吉田茂内閣(在46.5〜47.5, 48.10〜54.12)の下で実現したものです。

 

◆ 日ソ共同宣言

 

1955年の保守合同で成立した自由民主党を率いた鳩山一郎内閣(在54.12~56.12)は、憲法改正と対米自立を訴え、日ソ関係の回復を目指しました。1956年10月、日ソ共同宣言が調印され、国交は回復されました。

 

懸案の北方領土問題は、事前交渉では「歯舞・色丹の二島を日本に引き渡すこと」はまとまっていましたが、本交渉で国後・択捉について合意ができずに失敗し、領土問題は棚上げとなりました。

 

結局、北方領土問題を含めた平和条約は外交関係樹立後に結び、平和条約締結後に歯舞・色丹の二島を日本に引き渡すと規定されましたが、現在も、日本とロシアの間で、領土問題や補償問題などを解決して戦争状態を終結させる平和条約は結ばれていません。

 

また、全シベリア抑留者の帰還が約束され、1956年12月、ソ連からの最後の引揚船が入港して11年間に及んだ「シベリア抑留」は終了しました。

 

加えて、ソ連が日本の国際連合への加盟の支持を表明したことから、鳩山訪ソ直後に、日本の国連加盟が実現しました。

 

日ソ(日露)関係のその後

1960年代以降、日本が日米関係を最優先させたことから、日ソ関係は冷え込み、領土問題も解決に向けて特に大きな進展はありませんでした。

 

もっとも、1993年10月、細川・エリツィン会談で東京宣言が署名され、北方4島の帰属問題を解決して、平和条約を早期に締結することで両国は合意しました。また、1997年の橋本・エリツィン両首脳によるクラスノヤルスク合意では、「2000年までに平和条約を締結するよう努力」との声明が出されましたが、突破口とはなりませんでした。

 

◆ 国防の基本方針と外交の三本柱

 

岸信介内閣(在57.2~60.7)は、1957年5月、国防会議と閣議で、防衛政策の基礎となる「国防の基本方針」を決定し、国防の目的を「直接及び間接の侵略を未然に防止し,万一侵略が行われるときはこれを排除し…」と定めました。

 

具体的には、① 国連との協調をはかりつつ、②民生を安定させ、③自衛のための効率的な防衛力を整備するとともに、④外部からの侵略に対して、将来国連が有効にこれを阻止する機能を果たし得るに至るまでは、日米安全保障体制を基調としてこれに対処する。というものでした。

 

また、同年9月には、日本の外交活動についてとりまとめた最初の「外交青書」が発表され、戦後の日本外交は、日米関係を基軸に、①自由主義諸国との協調、②国連中心主義、③アジア重視を外交の三本柱と位置づけられました。

 

◆ 日米安保改定

 

日米安保条約は、1960年1月に日米()安全保障条約として改定されました(6月発効)。この時、当時の岸信介内閣は、旧条約にあった以下の二つの片務性(不平等性)の問題を解決したとされています。

 

  • 在日米軍の装備や配備の変更や、国内基地から出撃する際の事前協定がなかったこと(改定で事前協定を結んだ)。
  • 日本には基地提供が義務付けられていたが、米側には有事の際に日本を防衛することについて明文化した条項がなかったこと(改定で明文化された)

 

また、安保改定にともない日米行政協定も*日米地位協定に継承されましたが、裁判管轄権(治外法権)の問題など、米兵の犯罪容疑者に対する措置は今も懸案事項になっています。

 

*日米地位協定の手続き

旧日米行政協定は、国会の承認手続を経なかったが、日米地位協定は、批准条項に基づき国会の承認手続を経て批准書の交換も行われた。

 

*裁判管轄権の問題

基地外で罪を犯した在日米軍人・軍属は、日本側が現行犯逮捕した場合を除き、起訴までは米側が身柄を拘束し、起訴後に日本側に引き渡すのが原則とされる。

 

なお、岸首相は、日米安保保障条約に反対する学生運動(安保阻止闘争)による国内の混乱の責任をとって条約批准後に退陣しました。

 

◆ 日韓基本条約と沖縄返還

 

岸、池田内閣を引き継いだ佐藤栄作内閣(在64.11〜72.7)は、65年6月に日韓基本条約(12月発効)を調印し、日本と韓国の国交を正常化させました。これにより韓国併合条約などの旧条約が失効し、日本は大韓民国を朝鮮半島の唯一の合法的な政府であることを確認しました。

 

また、沖縄の日本復帰を目指した佐藤内閣は、1969年の米ニクソン大統領との会談で沖縄返還をアメリカとの交渉テーブルに乗せ、1971年6月、沖縄返還協定に調印しました。協定は、翌年12月に発効し、沖縄は日本に返還されました。

 

◆ 武器輸出三原則と非核三原則

 

佐藤内閣の時、日本外交の基本とも言える方針も確立されました。それは、武器輸出三原則と非核三原則です。

 

1967年4月、佐藤首相は、国会(衆議院決算委員会)の答弁の中で、①共産圏、②国連で輸出が禁止された国、③紛争当事国あるいはその恐れのある国への武器輸出を行わない(輸出貿易管理令で承認しない)とする*武器輸出三原則を明らかにしました。

 

*武器輸出3原則

憲法上の原則でも、直接法律で規定されたものではなく、あくまで外国為替及び外国貿易法(外為法)の運用指針である。

 

また、1968年1月の衆議院本会議で、核兵器を「持たず、作らず、持ち込ませず」という非核三原則が政府の方針として明らかにされました1971年11月には、この三原則を内容とする「非核兵器ならびに沖縄米軍基地縮小に関する決議」も採択されました。

 

◆ 日中関係の改善

 

一方、佐藤首相の在任中、米中和解(72年2月)が実現したことを受けて、日本も中国との関係改善を目指しました。しかし、日本は、日米関係を重視して台湾と1952年に日華平和条約(日台条約)を結ぶなど、台湾一辺倒の政策を行ったきたことから、中国側は佐藤政権との交渉を拒否しました。

 

そこで、1972年7月に就任した田中角栄首相は、9月に中国を訪問し、日中共同声明に調印、日中国交正常化を実現させました(同時に台湾との外交関係は断絶)。

 

さらに、福田赳夫内閣の78年8月、日中共同声明を踏まえて、日中平和友好条約が調印されました(同年10月発効)。この時、当時、悪化していた中ソ関係を背景に中国が求めた、あらゆる国の覇権に反対するという「反覇権条項」も盛り込まれました。

 

共同声明と平和友好条約

共同声明(共同宣言)は、国家間の合意や認識を表明するもので、国交回復や外交関係の樹立などを目的に出されます(必ずしも戦争状態の終結をめざすものではない)。これに対して、平和条約(講和条約)は、戦争状態を公式に終結させるためのもので、領土問題や補償問題などの解決も含めて、国家間の関係改善を目指すものです。

 

◆ 防衛計画の大綱とガイドライン

 

米ソの2極構造から、多極化が進んだ1970年代、日本は日米安保体制の枠組みでの防衛体制を確立するために、防衛計画の大綱とガイドラインを構築しました。

 

防衛計画の大綱(大綱)                                                               

防衛計画の大綱(防衛大綱、または「大綱」)とは、日本の防衛政策の基本方針で、今後10年程度の防衛力の整備方針が示されるものでした。国家安全保障会議(かつては国防会議あるいは安全保障会議)を経て閣議決定され、さらに、「大綱」に基づいて5年ごとの具体的な政策や装備調達量を定めた中期防衛力整備計画(中期防)も策定されました。

 

最初の「大綱」が発表されたのは、三木武男内閣(在74.12〜76.12)の1976年10月で、このとき「基盤的防衛力構想」が打ち出されました。これは、当時、ソ連を唯一の軍事的脅威として、限定的で小規模な対日軍事攻撃を脅威のシナリオとされるなか、日本が米軍に基地を提供し、専守防衛に徹する一方で、米軍は「核の傘」や攻撃的な戦力を提供するというものでした。さらに、防衛費のGNP比1%枠にとどめることも盛り込まれました。

 

武器輸出三原則の強化?

なお、三木内閣は、1976年2月に、衆議院予算委員会で、武器輸出3原則に対して、政府統一見解が示し、①3原則地域への輸出を認めない、②それ以外の地域への輸出も慎む、③武器製造関連設備の輸出も武器に準じて扱うとの方針を表明した。このとき、①②より(三原則を超えた)武器輸出の全面禁止と解釈されました。

 

ガイドライン                                                                                                

ガイドライン(日米防衛協定のための指針)は、日米安全保障条約を具体化し、日米の行動範囲などの基本ルールを日米両政府が決定するもので、福田赳夫内閣(在76.12〜77.11)の78年11月に、最初のガイドラインの合意がなされました。この時は、当時の仮想敵国ソ連による日本攻撃に際しての対処の仕方など、日本有事の際の役割分担が定められました。

 

◆ 日米同盟の始まり

 

1979年12月のソ連のアフガニスタン侵攻後、国際情勢は新冷戦と呼ばれる新たな局面に入ったことで、日本も日米安全保障体制の強化を進めました。

 

鈴木善幸内閣(在80.7〜82.11)は、日米首脳会談において日米の「同盟関係」を初めて文書の中で明記しました。次の中曽根康弘内閣(在82.11〜87.11)も、当時の米レーガン大統領と自身の個人的な関係(いわゆる「ロン・ヤス関係」)を深めつつ、「不沈空母」「運命共同体」などの表現を使って、日米の蜜月関係を内外にアピールしました。

 

また、中曽根内閣では、武器輸出三原則が緩和され、同盟国アメリカへの武器関連輸出は例外とされました。

 

 

<冷戦後の日本外交と安全保障>

 

◆ 湾岸戦争とPKO協力法

 

1991年1月の湾岸戦争において、日本はアメリカから、「日の丸を見せよ(人的貢献をしろ)」という要求にもかかわらず、結果的には財政支援だけに終わりました。これに対して、湾岸戦争後、カネだけでなくヒトも出すことが必要との認識から、日本は、1992年6月に、国連平和維持活動協力法(PKO協力法)を成立させ、PKOという限定付きながら、自衛隊の海外派遣が法的に認められることになりました。

 

自衛隊の海外派遣

PKO協力法に基づいて、自衛隊はカンボジア(92年9月)、モザンビーク(93年5月)、ゴラン高原(96年2月)、東ティモール(02年3月)、ハイチ(10年2月)、南スーダン(12年1月)に継続派遣されました。

 

◆ 沖縄の基地問題と日米安全保障共同宣言

 

一方、1995年4月におきた沖縄米軍海兵隊員による少女暴行事件をきっかけに沖縄全体で基地反対運動が広がりました。これは、米軍に対しても沖縄駐留軍全体の見直しを求める動きとなって、在沖米軍の整理、統合、縮小を促しました。米軍は、1996年3月,5〜7年をめどとして、代替施設を建設することを条件に、普天間基地(宜野湾市を全面返還することで、日本政府と合意しました(移設先は、名護市辺野古のキャンプシュワブなどに決定)。

 

また、日米両政府は、1996年4月、日米安全保障共同宣言に署名し、日米関係を「21世紀に向けての同盟」に大きく舵を切りました。同宣言では、日米安保体制が冷戦後も有効であることが謳われ、アジア・太平洋地域における米軍のプレゼンスの重要性が再確認されました。

 

◆ 新ガイドラインと周辺事態

 

これを受け、1997年9月には、日米両国は、新ガイドライン(改訂「日米防衛協力のための指針」)に合意しました。日米安保の適用範囲が拡大、再規定され、平時、有事前、日本有事、周辺事態の4点での日米の協力事項などがまとめられました。

 

日米間の新ガイドライン制定を受けて、1999年5月には新ガイドライン実現のために国内での関連法がいくつか整備されました。その中の周辺事態安全確保法では、*周辺事態が起きた場合、日本は米軍の後方支援に乗り出す道が拓かれました。

 

*周辺事態

放置すれば直接の武力攻撃に至る恐れのある事態など、日本周辺における日本の平和と安全に重要な影響を与える事態のことをいう。周辺事態が発生すれば、物資の輸送・補給など米軍への後方地域支援、民間の空港・港湾の提供などを行うことが規定されている。

 

 

<テロ後の小泉外交>

 

◆ テロ特措法とイラク特措法

 

2001年にアメリカで同時多発テロが発生すると、時の小泉純一郎内閣(在01.4〜06.9)は、テロ対策特別措置法(テロ特措法)を施行し、自衛隊はインド洋上で米軍への補給を実施しました。

 

また、2003年3月の米・イラク戦争においても、イラク復興支援特別措置法(イラク特措法)を成立させ、医療や支援物資の輸送など人道復興・安全確保のための支援活動を行うことを可能にしました。このとき、自衛隊はイラクへの人道支援とはいえ戦後初め戦地に派遣されています。

 

◆ 有事法制

 

さらに、日本は、日米同盟の強化というアメリカの要請に応える形で、有事法制を整備しました。有事法制は、万一日本が武力攻撃を受けた場合の対策を講じたもので、2003年6月の有事関連3法、04年6月の有事関連7法がそれぞれ成立し、*自衛隊法の改正、*米軍円滑化法、*国民保護法などの関連法が制定されました。

 

*改正自衛隊法

有事の際、自衛隊による民間私有地の強制収用や家屋撤去など自衛隊の行動を円滑にする措置を規定。

 

*米軍円滑化法

日本国内における米軍の行動自由の確保、米軍への物品、役務、施設の提供などを規定。

 

*国民保護法

自衛隊が住民の避難誘導や救援をできることを規定。

 

◆ ミサイル防衛システム

 

小泉内閣は、2003年12月に、アメリカのミサイル防衛(MD)システムの導入を決定しました。*MDシステムは、敵のミサイル攻撃を宇宙の警戒監視衛星で探知・追跡し、地上の基地に伝えられ、そこから敵のミサイルを地上や海上から迎撃ミサイルを発射して撃ち落とすという防衛システムです。

 

また、2004年には、武器輸出三原則を緩和し、米ミサイル防衛(MD)計画にかかわる共同開発と生産を対象外としました。

 

*MDシステムの生みの親

アメリカの防衛システム計画には、レーガン政権時に、敵が発射したミサイルを、大気圏外または大気圏突入時に、宇宙空間から迎撃、破壊する防衛システム、SDI計画(戦略防衛計画)(スターウォーズ計画)があったが、技術的にも財政的にも困難であったので、より現実的なアプローチに変更したのが、ミサイル防衛システムである。

 

◆ 防衛計画の大綱の改定

 

さらに小泉政権は、2004年12月、防衛計画の大綱の見直しを実施しました。これにより、新たな脅威(テロ、大量破壊兵器の拡散、弾道ミサイル)向けの防衛体制の確立が目指されることとなり、自衛隊の海外活動も「付随任務」から国土防衛並みの「本来任務」に位置づけられました。加えて、これらに対応するために、自衛隊の海外派遣の一般法(恒久法)を整備することも謳われました。

 

こうした方針は、テロの温床となる地域を示す「不安定の孤」に対処するために、当時米軍が行っていた米軍再編(トランスフォーメーション)の影響でもありました。地球規模での米軍再編は、在日米軍の再編もその対象となっており、再編案には以下のような内容が含まれていました。

 

・米陸軍第一軍司令部をワシントン州からキャンプ座間へ移転させる計画

・航空自衛隊航空総隊司令部を在日米軍の横田基地に移す計画

・海兵隊員約8千人とその家族約9千人のグアム移転

 

 

<安倍内閣の外交・安保政策>

 

◆ 積極的平和主義①特定秘密保護法等

 

安倍晋三内閣(2006.9〜07.9/12.12〜20.9)は、2013年12月、国家安全保障会議(日本版NSC)と閣議で、国の外交・防衛政策の中長期的な安全保障の基本方針にあたる国家安保戦略 (NSS)を初めて策定しました。

 

NSSは、1957年の「国防の基本方針」から続く、日本の安全保障政策を180度転換させるもので、国際社会において、日本に見合った責任を果たすため、国際協調主義に基づく「積極的平和主義」を理念として打ち出しました。

 

国家安全保障会議の設置

国防政策に関する議論の場として、2013年12月、「安全保障会議」に代わる、新しい安全保障機関である国家安全保障会議が創設されました。国防・外交・安全保障に関する重大問題について、情報収集・情勢分析から、中長期の戦略立案、緊急時の政策決定までを行っています。大統領の権限が強いアメリカの国家安全保障会議(NSC)をモデルとしており、通称「日本版NSC」と呼ばれます。

 

日本版NSCの中核となるのは、首相・内閣官房長官・外務大臣・防衛大臣からなる「4大臣会合」で、意思決定の最高機関・司令塔として、定期的に会合を持ちます。また、国家安全保障専任の首相補佐官も設置されることになりました。

 

日米2プラス2の活用

また、アメリカとは、日米安全保障協議委員会(日米2プラス2)の場などで連携を強化することになりました。

 

日米ツー・プラス・ツーは、日本の外務・防衛大臣、米国の国務・国防長官をメンバーとする協議機関で、日米の外務・防衛担当閣僚会合とも呼ばれます。日米で、核、テロなど幅広い安全保障問題について意見交換される最高レベルの場と位置づけられています。

 

2プラス2は、もともと、日米安保条約4条等に基づき、1960年1月に設置されていました。当初、アメリカ側の出席者は在日米大使と米太平洋軍司令官でしたが、1990年から閣僚級に格上げされました。なお、日本は米国以外にも、07年に豪、13年に露、14年に仏とそれぞれ2プラス2の場を持っています。

 

特定秘密保護法の制定

政府は、日米で機密情報を共有していく観点から、「従来の法律では、国の安全に関わる秘密の漏えいを防ぐ管理体制が不十分だ」として、2013年12月、特定秘密保護法を成立させました(14年12月施行)。

 

特定秘密保護法とは、日本の安全保障に関する情報のうち、特に秘匿することが必要である情報(特定秘密)の漏えいを防止する法律で、指定された「*特定秘密」を取り扱う人を調査・管理し、それを外部に知らせたり、外部から知ろうとしたりする人などを処罰することによって、「特定秘密」を守ります。これによって、日本国および国民の安全の確保が図られるとされました。

 

*特定秘密

漏えいすると国の安全保障に著しい支障を与えるとされる情報で、行政機関の長が指定する。秘密とする期間は、5年を超えないとされるが、30年まで、場合によっては60年またはそれ以上更新することが可能となる。

 

防衛装備移転3原則

安倍内閣は、2014年4月、武器輸出3原則に代わる「防衛装備移転3原則」を閣議決定しました。防衛装備移転3原則とは、防衛装備品の輸出や国際共同開発に関する原則のことで、安全保障上、慎重な検討が必要な「重要案件」は国家安全保障会議で審議され、厳格な審査を経て以下の3条件を満たせば、武器輸出(防衛装備の移転)は原則的に認められることになりました。

 

・紛争当事国への移転などの禁止

・平和貢献や日本の安全保障などに資する場合は認める

・目的外使用や第三国移転は事前に日本の同意が必要

 

かつての武器輸出三原則は、武器(装備品や関連技術)の輸出を原則禁じたうえで、必要に応じて、個別に、閣議決定を経た官房長官談話を出すことによって、例外を作って輸出や共同開発を認めてきました。これに対して、防衛装備移転3原則は、武器(装備品や関連技術)の輸出を、条件つきで、原則認めました。

 

◆ 積極的平和主義②安保法制

 

安倍内閣は、2015年7月、*集団的自衛権の行使を容認する憲法解釈の変更を閣議決定したのち、2015年9月、「安全保障関連法(平和安全法制)」を成立させました。

 

政府は、自国に対する武力攻撃に匹敵するような、他国への武力攻撃が発生し、自国の存立が脅かされ、国民の安全が危ぶまれる場合に、集団的自衛権の行使を限定的に認める解釈に変更しました。

 

*集団的自衛権

自国が直接攻撃を受けていない場合でも、自国と密接な関係にある第三国が攻撃を受けたときも、これを自国への攻撃とみなし、ともに反撃できる権利のことで、個別的自衛権と並んで、国連加盟国の「固有の権利」として、国連憲章51条で認められている。

 

安保関連法とは、改正武力攻撃事態法、改正周辺事態確保法、改正PKO法など10本を一括した「平和安全法制整備法」と、新設の「国際平和支援法」の2本立てとなっています。

 

平和安全法制整備法の「事態対処法」

存立危機事態 集団的自衛権の行使

事態対処法(武力攻撃事態法)を改正し、日本が直接、武力攻撃を受けていなくても、「日本と密接な関係にある他国(実質的にはアメリカ)が武力攻撃されて、日本の存立が脅かされる明白な危険がある事態(存立危機事態)が発生し、他に適当な手段がない場合」に限り、集団的自衛権を行使できるようにしました。

 

*事態対処法(武力攻撃事態法)

日本が第3国から直接、武力攻撃を受けた場合(これを「武力攻撃事態」と呼ぶ)に、個別的自衛権を行使する手順をまとめた法律で、2003年に制定された。改正法では、集団的自衛権の行使要件として「存立危機事態」を新たに追加した。

 

武力行使の新3要件

安保法制の成立に先立って(憲法解釈の変更時)、安倍内閣は、2014年7月、憲法が許容する自衛のための「武力行使の3要件」の解釈変更を新たに閣議決定していました。日本が個別的・集団的自衛権を発動するためには、以下の3条件を満たさなければなりません。

 

  • 日本に対する武力攻撃、または日本と密接な関係にある他国への武力攻撃で、日本の存立が脅かされる明白な危険があること(存立危機事態)。
  • これを排除するために他の適当な手段がないこと。
  • 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと。

 

なお、それまでは、1972年の政府見解として出されていた武力行使の3要件は、②、③はは同じで、①は「我が国に対する急迫不正の侵害がある場合」と定められていました。

 

平和安全法制整備法の「重要影響事態安全確保法」

重要影響事態⇒自衛隊を「どこにでも」に派遣

これまで、周辺事態安全確保法によって、朝鮮半島など日本の「周辺」において、自衛隊は米軍を後方支援することができました。

 

しかし、同法の改正によって、日本の平和と安全に重要な影響を与える事態(*重要影響事態)が発生すれば、「日本周辺」という事実上の地理的制限をなくして、自衛隊は、地球規模で後方支援に出向くことが可能となりました。さらに、後方支援の対象も、合衆国軍隊「等」とされ、米軍以外の外国軍(国連による軍隊を含む)に拡大しています。

 

*重要影響事態

「そのまま放置すればわが国に対する直接の武力攻撃に至るおそれのある事態等」をいう。周辺事態安全確保法は、重要影響事態安全確保法に改名した。

 

これにより、日本が直接攻撃を受けていなくても、「重要影響事態」では自衛隊による他国軍への後方支援が可能となりました。

 

平和安全法制整備法の「改正PKO法」

PKOで「駆けつけ警護」

PKO協力法(国連平和維持活動協力法)では、「駆けつけ警護(自衛隊は駆け付けてその保護にあたる)」という任務が与えられていなかったため、自衛隊が、PKO活動中、自衛隊の近くで活動する他国の部隊や国連NGOなどが、武装勢力などから武力攻撃にさらされた場合、自衛隊に救援支援要請が出されても(駆けつけ)警護ができませんでした。

 

そこで、PKO協力法を改正して、PKOで実施できる業務に「駆けつけ警護」などが加えられ、自らの防衛(自衛)のためだけに認められている武器使用の基準も緩められました。

 

国際平和支援法

恒久法の創設⇒自衛隊を「いつでも」に派遣

日本は、これまで自衛隊派遣のたびに、「テロ対策特別措置法」や「イラク特別措置法」など。期限付きの特別措置法(特措法)を国会で制定して対応してきました。

 

しかし、法律(特措法)を作ると成立まで時間がかかり、切れ目のない対米支援を実現できないとして、新たに「恒久法」としての国際平和支援法を創設し、「*国際平和共同対処事態」が発生した場合、自衛隊の随時派遣を可能にしました。

 

また、「非戦闘地域」に限定されていた活動が、新法では「現に戦闘が行われている場所以外」と規定され、活動場所がより前線に近づく場合も想定されています。

 

*国際平和共同対処事態

日本の安全に直接の影響はないが、国際社会の平和と安全を脅かす戦争・紛争が起こった場合をいう。

 

これらの安全保障関連法等の成立を受けて、新たにガイドライン(15年12月)と防衛計画の大綱(18年12月)が改定された。

 

新ガイドライン(2015年)

日米は、2015年12月、ガイドライン(防衛協力のための指針)を、各改正法等の内容に沿って、18年ぶりに改定しました。

 

日本の米軍支援について、自衛隊は、地理的制約をなくし、世界規模で米軍の後方支援をできることが明記されました。また、明確な武力攻撃までは至らない侵害である「グレーゾーン事態」が起きた場合の役割分担や、集団的自衛権の行使を前提とした協力体制も追加規定されています。

 

グレーゾーン事態として、中国が台湾を海上封鎖したり、尖閣諸島周辺に海軍を集結させたりするような状況などが想定されています。

 

また、集団的自衛権の行使が想定される事態として、米国領に向けて飛ぶ弾道ミサイルを日本がミサイル迎撃で協力することや、ホルムズや対馬といった国際海峡を念頭に、シーレーン(海上交通路)防衛のために機雷掃海で協力することなどがあげられています。

 

(参考)

ガイドラインの変遷

1978年:ソ連侵攻の場合を念頭に策定

1997年:ポスト冷戦と北朝鮮の核開発を念頭に策定

2015年:集団的自衛権の行使を前提に策定

 

 

防衛大綱(2018年)

2018年の防衛大綱では、前回2013年大綱の「統合機動防衛力」に代わる新しい防衛力の概念として「多次元統合防衛力」が打ち出されました。

 

多次元統合防衛力とは、陸海空の枠にとらわれず、宇宙・サイバー・電磁波を含む全ての領域における能力を融合した「領域横断(クロス・ドメイン)作戦」を、平時から有事までのあらゆる段階において展開する防衛力をさします。

 

これによって、「死活的に重要」と位置づけた宇宙・サイバー・電磁波領域における防衛能力(電子戦能力)の早期向上を図り、敵の情報通信やネットワークを妨害する能力を強化する意向です。

 

また、*ハイブリッド戦に対応するため、軍事面にとどまらず、重要インフラやサイバー空間を守るための施策も進められます。

 

*ハイブリッド戦

従来の軍事作戦だけでなく、通信・重要インフラへのサイバー攻撃や、ネットやメディア、SNSを通じた偽情報の流布などの情報戦、経済制など、様々な手段を組み合わせた戦争のこと。軍事と非軍事の境界を意図的に曖昧にした現状変更の手法とされる。

 

(参考)

防衛力整備の基本概念の変遷

1976年の大綱 ⇒ *基盤的防衛力

2010年の大綱 ⇒ *動的防衛力

2013年の大綱 ⇒ *統合機動防衛力

2018年の大綱 ⇒ 多次元統合防衛力

 

*基盤的防衛力

日本列島に均等に防衛力を配備する必要最小限の防衛力で、「平和時の防衛力の限界」の上限を示す。

 

*動的防衛力

新たに南西諸島方面への中国の進出や北朝鮮の弾道ミサイル、国際テロリズムに機動的・実効的に対応できるような防衛力

 

*統合機動防衛力

陸海空3自衛隊を一体的に運用する防衛力

 

 

<岸田内閣の安保関連3文書>

 

岸田文雄内閣(在21.10〜24.10)は、2022年12月、その安保関連3文書を閣議決定し、安倍内閣時の安保政策を転換させました(もっとも実質的な変化があったわけではない)。

 

安保関連3文書(防衛3文書)とは、国家安全保障戦略(NSS)、防衛計画の大綱(防衛大綱)、中期防衛力整備計画(中期防)の3つをさしますが、防衛大綱は国家防衛戦略に、中期防は防衛力整備計画にそれぞれ呼称変更されました。

 

国家安全保障戦略(NSS)は、10年程度の国の外交・防衛政策の基本指針を示すもので、安倍内閣が2013年12月に制定した国家安全保障戦略 (NSS) に代わる新指針です。今回、新たに自衛目的で敵のミサイル発射拠点などを破壊する「*反撃能力」の保有が明記されました。

 

具体的には、侵攻してくる艦艇や上陸部隊等に対して、敵の射程圏外から攻撃(反撃)できるスタンド・オフ防衛能力などの強化をめざします。また、防衛費とその関係費を合わせて2027年度に現在の国内総生産(GDP)比2%とし、防衛力を抜本的に強化することが盛り込まれました。

 

*反撃能力

日本に対して、弾道ミサイル等による武力攻撃が行われた場合、これを防ぐための自衛の措置として、相手の領域において、日本が有効な反撃を加えることを可能とする自衛隊の能力をいう。

 

国家防衛戦略(旧防衛計画の大綱)は、防衛大綱(自衛隊の約10年間の、防衛力の整備・維持・運用計画を示す文書)よりも具体的に目標や部隊戦略を明記するなど、日本の防衛目標を達成するためのアプローチとその手段をより包括的に示すものです。

 

防衛力整備計画(旧中期防)は、中期防が期間5年の整備計画を立てていたのに対して、防衛力整備計画では、期間が5年から10年に延ばされ、約10年先の自衛隊の防衛装備体制を策定します。装備品は取得まで長期間かかるものが多いとされ、防衛戦略の見通しを立てやすくなると言われています。

 

たとえば、敵の射程圏外から対処できるスタンド・オフ防衛能力などを活用した反撃能力の強化のために、「外国製スタンド・オフ・ミサイルの着実な導入(購入)」が明記されました。外国製とは、実際には米国製巡航ミサイル「トマホーク」が念頭に置かれています。

 

総じて、今回の3文書は、アメリカの戦略文書と同じ体系になっており、アメリカと足並みを揃え、日米で目標や戦略を共有する狙いがあるとされています。