祇園祭:はじまりは御霊会、山鉾より神輿

 

祇園祭りは、平安時代から1100年の伝統を有する八坂神社の祭礼で、京都三大祭(葵祭、祇園祭、時代祭り)のひとつ、さらには日本の三大祭(東京・神田祭り、祇園祭り、大阪・天神祭り)のひとつにも数えられています。今回は、京都の祇園祭りについてまとめました。

 

◆祇園祭とは?

祇園祭と言えば、7月17日(前祭)と7月24日(後祭)に行われる山鉾巡行(やまほこじゅんこう)、その前日の宵山(よいやま)が有名です。しかし、祭り自体は、7月1日の吉符入りに始まり、宵山、山鉾巡行以外に、神幸祭、花傘巡行、還幸祭等の諸祭行事を経て、7月29日の神事済奉告祭、7月31日の疫神社夏越祭(えきじんじゃなごしさい)まで、様々な行事(祭典・儀式)が約1ヶ月間に渡って行われます。

 

祭りはもととも宗教行事で、日本の祭りには、神輿(みこし)に、神霊を迎え、お祀りした後にお送りする、神迎えと神送りの儀礼があります。神輿が神社から御旅所(神々の仮の宿)まで行くのが神幸祭、御旅所から神社に戻るのが還幸祭です。祇園祭も同様で、7月17日に神幸祭、7月24日に還幸祭が行われます。山鉾の巡行は、八坂神社の神輿渡御(みこしとぎょ)に伴う、神迎えと神送りの行事(儀式)に先立つものとして執り行われています。山鉾巡行は本来、神輿渡御に伴う「露払い」の位置づけで、神幸祭に先立つ「前祭(さきまつり)」と、還幸祭に先立つ「後祭(あとまつり)」があります。

 

前祭:宵山⇒山鉾巡行⇒神幸祭⇒神輿渡御(八坂神社→御旅所)

後祭:宵山⇒山鉾巡行⇒還幸祭⇒神輿渡御(御旅所→八坂神社)

 

 

宵山(よいやま)

 「宵山」は本来、山鉾巡行の前日を指します。前祭宵山(さきまつりよいやま)では、夜になると、通りに立てられたそれぞれの山鉾に吊られている駒形提灯に火が灯り、コンチキチンと笛や鐘、太鼓で祇園囃子(ぎおんばやし)が奏でられます。また、各山鉾町にて山鉾を飾り、祇園囃子が奏でられます。

 

宵山には「屏風祭」と言われる行事もあり、山鉾町の旧家では表の格子をはずしたりして、秘蔵の屏風などを飾り付けた座敷を開放する「屏風飾り」が行われます。家宝の屏風などを飾る家も数軒出ます。家宝什器、屏風等を美しく飾る家もあります。

 

一方、後祭の宵山は、前祭と違って出店も出ず、訪れる観光客の姿も少なく、昔ながらの提灯の明かりを中心とした光の中で幻想的に山鉾や町会所が照らし出され昔ながらの祇園祭の雰囲気を味わえる絶好の機会です。

 

 

山鉾巡行(やまほこじゅんこう)

山鉾巡行は、コンチキチンの祇園囃子とともに山や鉾が京都の中心街を巡る祇園祭のハイライトで、現在33基の山鉾が都大路を絢爛豪華な姿で巡行しています。前祭(さきまつり)は、神輿がお旅所へ渡御する17日に、後祭(あとまつり)は、神輿が八坂神社へ戻る24日に行われます。その先駆けとして、前祭に23基が、また後祭に10基が巡行するのです。山鉾巡行は、この神輿が動く前の露払いであり、山鉾を巡行することで京の町の邪気やけがれを清め、祇園祭の主神(八坂神社の神さま)が通る道を作るために行われているのです。

 

なお、山鉾とは、山車(だし)の一種で、「台の上に山の形などの造り物があって、ほこ・なぎなたなどを立てるもの」というように定義づけされますが、山鉾と言っても、厳格には「山」と「鉾」は区別されます。両者の違いは屋根の上にあり、「鉾」は、屋根の上に約20mの「真木(シンギ)」という長い鉾が立っているのに対して、「山」は、「真木」ではなく「真松(シンマツ)」と呼ばれる松の木が飾られています。

 

後に詳細に説明しますが、祇園祭りは、昔、疫病が流行したとき、66本の矛を立てたというお話が起源でした。「鉾」を立てたのは、当時都に流行った疫病の原因だとされた怨霊をキラキラと光る飾りに集めて、都の外へ追い出そうとしたのが、始まりだそうです。巡行を終えた山鉾は、そのなかに疫病を携えています。そこで、巡行が終わると、鉾はすぐに解体されます。そうすることによって、疫病を流し去ることができると解されているのです。

 

そうした宗教的な意味が強かった「山」「鉾」は、やがて見せるものへと変化していきました。もともとは手で捧げるようなものが、徐々に台に載せるようになり、南北朝時代(1340年台)から鉾車がつき、車輪が付いたら人を乗せる、人を乗せるなら屋根を付けようと豪華になっていき、室町時代(1360年台)には現在に近い形となったとされています。そして、山は鉾よりも後の14世紀、室町時代に出来たと言われています。人々を楽しませるための見せ物として始まったとされ、当初は、人が担ぎ、その上にも人が乗りお芝居をしていたそうです。山も、昔は人力で担いでいましが、現在は全て車輪がついています。

 

山鉾には、美しい刺しゅうや舶来の織物など懸装品と呼ばれる装飾品に包まれています。その山や鉾の懸装品(山や胴を飾っている織物、タペストリー)の中で、胴の前の懸け物を「前懸け」、両側を「胴懸」、後ろを「見送り」と言いますが、鮮やかな「前懸や胴懸」は重要文化財のものが多く、その姿は豪華で美しく「動く美術館」と言われています。鉾を飾るタペストリー(装飾用の織物)の文様には、日本神話や中国の故事、儒教、仏教、道教の教えなどが採り入れられているだけでなく、ホメロスの叙事詩「イーリアス」や、「旧約聖書」のなかのアブラハムの子、イサクの嫁選びの図をモチーフにしたものもあるなど、国際性豊かな趣向を凝らした飾りつけがなされています。

 

祇園祭りが始まった頃は、現在のように、宵山と山鉾巡行は、前祭(さきまつり)・後祭(あとまつり)に日にちが分かれていました。しかし、戦後、経済成長が続く中、昭和41(1966)年、交通渋滞や観光促進を理由に、前祭と後祭が一日にまとめられ、17日に同時に行われるようになりました。それでも、祭り本来の形を取り戻そうと分離が決定、平成26(2014)年に、およそ50年(半世紀)ぶりに、24日の後祭が復活、本来の祇園祭の姿に戻る(前祭・後祭の元の形に戻る)ことになりました。それに伴い、宵山や山鉾巡行も前祭と後祭の2回、それぞれ行われるようになったのでした。

 

 

神輿渡御(みこしとぎょ)

神輿渡御とは、御神霊を神輿に遷(うつ)し、氏子地域を渡御することで、その地に暮らす人々の平穏が祈念されます。普段は八坂神社にまつられている御祭神が、祇園祭の際に神輿に移し、渡御により町にお出ましになります。山鉾で有名な祇園祭ですが、この神輿こそが信仰を表した祭の真髄です。

 

祇園祭の神輿は3基あり、中御座神輿(なかござみこし)、東御座神輿(ひがしござみこし)、西御座神輿(にしござみこし)と呼ばれています。各神輿の祭神は次の通りです。

 

中御座:素戔嗚尊(すさのをのみこと)

東御座:御祭神:櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)素戔嗚尊の妻

西御座:八柱御子神(やはしらのみこがみ)2人の子供

 

神輿渡御は、17日に神幸祭(しんこうさい)と24日の還幸祭(かんこうさい)で行われ、神幸祭では八坂神社から御旅所まで巡行し、還幸祭では御旅所から八坂神社に帰ってきます。

 

 

祇園祭の由来と歴史

 

祇園祭は、今からおよそ1,100年前、疫神怨霊を鎮める例祭である「御霊会(ごりょうえ)」が起源で、祇園御霊会(ごりょうえ)、「祇園会(ぎおんえ)」と呼ばれ、京の町から日本全国に蔓延した疫病退散を祈願して始まった神事です。平安時代前期の貞観11年(869)に、京の都をはじめ日本各地に疫病が流行、蔓延し、「これは祇園牛頭天王の祟(たた)りである」と考えられました。

 

そこで、平安京の広大な庭園であった神泉苑(二条城南側、中京区)に、当時の国の数66ヶ国にちなんで66本の鉾(矛)を勅を奉じて立て、「祇園社(ぎおんしゃ)」(現在の八坂神社)から、祇園の神(スサノオノミコトら)を迎えて祀りました。さらに、祇園社(八坂神社)から素戔嗚尊ら三柱を神輿に乗せて送り、疫病退散(災厄の除去)を祈ったのでした。

 

その後、「祇園御霊会」は、疫病が流行る度に行われていましたが、治まることがなく、970(天禄元)年旧暦6月14日から毎年行われるようになりました。平安時代の中頃からは、この御霊会に民衆が積極的にかかわるようになり、規模も大きくなっていきました。また、空車、田楽、猿楽等も加わるなど、徐々に祭りの要素が付け加えられ、御霊会は盛んな賑わいを見せてきました。

 

室町時代になると(南北朝時代には)、町々には特色ある山鉾が作られ、現在のような山鉾巡行が登場したとされています(祭りの重要な神輿を盛り立てた)。応仁の乱(1467~77年)で都は灰燼に帰し、祇園祭も30年以上中断しましたが、1500(明応9)年に復活しました。

 

この頃から、富裕な町衆らにより、山鉾の懸装品に、西陣織だけでなく、フランスのゴブラン織や中国やペルシャなどからもたらされた他のタペストリー(室内装飾用の織物の一種)なども用いられるなど、山鉾は競うように豪華になっていきました

 

戦国の世も終わる安土桃山から江戸時代にかけて、祇園祭りは隆盛を極めていきます。ただし、江戸時代には、戦乱のない平和な時代であった反面、三度の大きな火災に見舞われ、多くの山鉾が焼けました。とくに天明の大火のあとは、復興できなかった町、復興できても何十年もかかった町がでました。また、幕末にも、禁門の変による大火(どんどん焼け)でも、多くの山鉾が被害がでたことから、この維新の混乱期に一度、祭りは行われませんでした。第二次世界大戦中は宵山提灯がつけられなくなったり、山鉾自体も建てられなくなったりしました(1943年から4年間中断)が、終戦後は、昭和22年に神輿渡御とともに長刀鉾(なぎなたほこ)と月鉾が復活したのを皮切りに、年々、復活する山鉾は数を増していきました。

 

このように、火災や戦乱などで、祭りが実施されないこともありましたが、その度に、町衆の力によって立ち直り、祭りの伝統は守られ、祇園祭りは国内外で認知されています。

 

昭和37年(1962):「山鉾29基」が国の重要有形民俗文化財に指定。

昭和54年(1979):「祇園祭の山鉾行事」が重要無形民俗文化財に指定。

平成22年(2010):ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)の無形文化遺産に登録。

 

 

祇園祭の主な日程とその内容

1か月に及ぶ祇園祭りの諸行事の流れを確認したいと思います。これは来年、祇園祭りを見るために参考にしてもらいたいからではなく、祇園祭りは、神道の神事であることを強調いたいからです。

 

7月1日:吉符入り(きっぷいり)

一ヶ月の期間に無事祭りが進行するよう氏神様に祈願し、あるいは世話役宅の床の間に「牛頭天王」の掛け軸を掛け祈願する行事

 

7月1日:長刀鉾町お千度

山鉾巡行に伴う神事は、伝統的に稚児(ちご、男の子)が行っていました。しかし、江戸時代、函谷鉾(かんこぼこ)が再建にあたって人形稚児にしたことから、他の鉾でも徐々に変更がすすみ、現在では、長刀鉾だけ生稚児の制度を守っています(他の鉾は人形が代行している)。この日は、町内役員が、その年の稚児(ちご)・禿(かむろ)を伴い、祇園祭の安全と無事を祈るために八坂神社に参拝します。朱傘をかざされた長刀鉾の稚児(ちご)が袴の稚児衣装に身を包み、八坂神社の正門から入って本殿を3周回るのが習わしだそうです。

 

この生稚児の制度に関して興味深いしきたりが、「知られざる祇園祭/神となる稚児-京に癒やされ」の中で描かれていたので紹介します。

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長刀鉾町では6月下旬になると、幼子と父親と鉾町は養子縁組の結納の儀を執り行う。堅めの杯が済むと幼子は長刀鉾町への養子となる。その後13日に「社参」し長刀鉾町の神に任免される。社参の日から山鉾巡行の日まで、稚児は各町の神様なのである。その神様の期間は稚児は精進潔斎の生活で、女性の差し出す食事も禁じられており、地面に足をつけてはならないという習わしも守られている。

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7月2日、鬮取式(くじ取り式)

山鉾巡行の順番を決める

 

7月10日~13日:鉾建(前祭)

各鉾町それぞれに鉾の組立にかかる。

 

7月10日:神用水清祓式と神輿洗式

神輿洗に使用する神事用の水を鴨川から汲み上げお祓いする。午後6時、奉告祭斎行後、松明を点じ四条大橋に至り、四条大橋上で神輿を清める。

 

7月12日~14日:山建(前祭)

各山町それぞれに山の組立にかかる。

 

7月13日:長刀鉾稚児社参

現在では長刀鉾以外では人形が用いられている。長刀鉾稚児は立烏帽子水干姿で従者を伴い騎馬にて八坂神社に詣でる。俗にお位もらいともいう。17日の巡行迄、身を慎み、巡行当日は長刀鉾正面に乗り太平の舞を舞う。

 

7月14日~16日 宵山(前祭)

 

7月16日(午後11時):日和神楽

翌日の山鉾巡行の晴天を祈念し、各山鉾町の囃子方が町家から四条御旅所の間を往復する間、祇園囃子を奏する。

 

7月17日 山鉾巡行(前祭さきまつり)

前祭・山鉾巡行では、午前9時、各山鉾が四条烏丸に集結します。長刀鉾を先頭に前祭の計23基の山鉾(鉾9基、山14基)が各町を出発し祇園囃子も賑やかに所定のコースを巡行します。四条麩屋町での長刀鉾稚児による「注連縄(しめなわ)切り」や、山鉾が各交差点で方向を変える「辻(つじ)回し」などが行われます。

 

四条麩屋町にさしかかる所に、南北の角に建てられた「斎竹(いみたけ)」と呼ばれる青竹に、しめ縄が張られています。このしめ縄は、神の域と人の域の境に張られた結界をあらわすものです。そこから先は、神の領域だというしるしです。後ろに22基を率いる先頭の長刀鉾は、この結界を解いて神の域に踏み込みます。神々しい衣裳に身を包んだ稚児が、太刀を振り下ろしてしめ縄を切って落とします。そして、鉾はゆっくりと動き出します。

 

次なる見せどころが、四条河原町でおこなわれる「辻回し」です。巨大な鉾が90度、方向転換するシーンは、ダイナミックそのものです。

 

 

7月17日 神幸祭(しんこうさい)

午後4時:神輿渡御に先立ち本殿にて祭典が行われる。

 

午後6時 神輿渡御

八坂神社の石段下にて三基の神輿の差上げが行われる。その後氏子区域を夫々所定のコースに従い渡御する。午後9時頃より相次いで四条御旅所に着輿し、後24日迄奉安される。

 

17日の神幸祭では、まず八坂神社の西楼門で出発式。午後6時頃、3基の神輿が出発し、氏子町内を巡行します。三基の神輿は、それぞれ別々のルートを通り、御旅所を目指します。

 

 

17日~21日 山・鉾建(後祭)

前祭山鉾巡行の翌日から、後祭(あとまつり)に向けて、各山鉾町それぞれに山・鉾の組立にかかります。

 

21日~23日 宵山(後祭)

14日~16日と同じ。

後祭の宵山では露店の出店が規制され、本来の祭り情緒が楽しめる。

 

23日 日和神楽

翌日の山鉾巡行の晴天を祈念し、各山鉾町の囃子方が町家から四条御旅所の間を往復する間、祇園囃子を奏する。

 

 

7月24日 山鉾巡行(後祭あとまつり)

午前9時半に、橋弁慶山を先頭に後祭の山鉾10基(鉾1基、山9基)が各町を出て烏丸御池に集結、祇園囃子も賑やかに所定のコースを巡行。前祭とは逆向きのコースを進みます。復活した大船鉾や、前祭とは逆向きの辻回しなどが見どころです。

 

24日の巡行の際には、あとに続く「花傘巡行」が注目されています。かつて17日に合同で33基全てが巡行していた際に、24日に何もないのは、ということになり、文字通り花を添えるという意味で始まった行事です。花街の方を中心とした花傘をかぶった女性がずらりと並んで歩いていきます。

 

7月24日 還幸祭(かんこうさい)

午後5時頃、四条御旅所を三基の神輿が出発。所定のコースを経て、八坂神社に戻ります。御神霊を本社に還す祭典が執行されます。

 

28日 神用水清祓式、神輿洗式

10日に同じ

 

29日 神事済奉告祭

祇園祭の終了を奉告し神恩を感謝します。

 

31日 疫神社夏越祭(なごし祭)

伝説の蘇民将来(そみんしょうらい)をお祀りする、八坂神社の境内摂社「疫神社」において行われます。

 

◆蘇民将来伝説

昔々、八坂神社御祭神であるスサノヲノミコト(素戔嗚尊)が南海に旅をされた時、巨旦将来(コタンショウライ)と、蘇民将来(ソミンショウライ)の兄弟に一夜の宿を請いました。兄の巨旦将来は富栄えていたのにもかかわらず拒否しましたが、弟の蘇民将来はとても貧しかったのですが、粟がらを敷き、粟の粥を作り暖かくもてなしました。

 

蘇民将来の真心を喜ばれたスサノヲノミコトは、翌朝、「我はハヤスサノヲの神である。後世に疫病が流行した時、「蘇民将来の子孫と名乗り、その印として、茅(ち)の輪を腰につけていれば、災厄を免れる」と約束して立ち去さられました。後に疫病が流行ったとき、巨旦将来の子孫は死に絶えましたが、蘇民将来の子孫は疫病を免れ代々繁栄したということです。

 

この故事にちなんで、疫神社の夏越祭(なごし祭)では、鳥居に大茅輪を設け、参拝者は之をくぐって厄気を祓い、「蘇民将来之子孫也(そみんしょうらいのしそんなり)」と書かれた護符(「茅之輪守」)と「粟餅」を社前で授かります。このお祭をもって一ヶ月間の祇園祭も幕を閉じます。

 

現在、京都では、疫病退散の印として「蘇民将来子孫也」と書いたものをの身に付けたり、素戔鳴尊のご利益のお守りとされている茅(ち)の輪が始まりとされる粽(ちまき)のお守りを家の玄関につけたりするのが慣わしです。

 

祇園祭のちまき

祇園祭の「ちまき」は、厄除けのために各山鉾町で売られています。ちまきが厄除けの役割を担っているのは、「蘇民将来伝説」にあったように、八坂神社の祭神・素戔嗚尊(すさのおのみこと)が旅の途中でもてなしてくれた蘇民将来に対し、お礼として「子孫に疫病を免れさせる」と約束し、その印として「茅(ち)の輪」を付けさせたことがきっかけです。その後、「茅(ち)の輪」が変化して「ちまき」になったのではないかとされています。祇園祭のちまきは、もともと食べ物ではありませんでしたが、2006年に、祇園祭で初の「食べられるちまき」が販売されて話題となりました。

 

<参照>

裏・祇園祭:「シオンの祭り」との不思議な関係

 

 

<参考>

京都の歴史を彩る「祇園祭」

祇園祭とは|京都の伝統・祇園祭|わかさ生活

祇園祭 いよいよ最終章へ( 京都の魅力を発信する「らくたび」)

京都新聞:祇園祭りサイト

祇園祭・歴史と文化:京都の観光情報

祇園祭・京都観光オフィシャルサイト

知られざる祇園祭 / 神となる稚児 – 京に癒やされ(五所光一郎)
ぎおん畑中(畑中誠司)

京都検定勉強ノート

京都市観光協会:祇園祭りサイト

京都市:祇園祭りサイト

 

(2019年9月17日、最終更新日2022年6月10日)