葵祭:御蔭祭と御阿礼神事とともに

 

祇園祭、時代祭とともに、京都三代祭の1つであるだけでなく、日本三代勅祭「春日祭、岩清水祭(南祭)、葵祭(北祭)」の1つともなっている葵祭についてまとめました。

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葵祭は、かつて賀茂社と言われた京都の上賀茂神社と下鴨神社の祭事(例祭)で、古墳時代後期の欽明天皇の時代(540~572)、国家の安泰や国民の安寧、五穀豊穣を祈ったのが始まりとされています。(正式には賀茂祭(かもまつり)といい、葵祭は通称)。

 

<葵祭の由来と経緯>

伝承によると、567年、京都をはじめ全国が風水害に見舞われ、五穀が実らず、飢餓・疫病も流行していました。そこで、賀茂大神(上賀茂神社・下鴨神社)の崇敬者・卜部伊吉若日子(うらべのいきわかひこ)に占わせられたところ賀茂の神々の祟りであることが判明しました。そこで、4月吉日を選んで、「賀茂(鴨)の神」の祭礼を行い、馬に鈴を懸け、人は猪頭(いのがしら)を被り、馬の駆競(かけくらべ)を盛大に行うと、その後、風雨はおさまり、五穀は豊かに実って国民に安泰がもたらされたそうです。

 

806年に、葵祭(賀茂祭)は、勅祭となり、天皇により勅使が遣わされ、祭祀・奉幣されるようになり、810年には、「斎院(斎王)」も置かれました(「斎院(斎王)」とは、神社に巫女として遣わされ、祭祀に奉仕した未婚の皇室の女性のこと)。さらに、819年、祭りは、朝廷の律令制度として、最も重要な恒例祭祀(中紀)に準じて行うという国家的行事となりました。

 

その後、応仁の乱(1467~77)以降、江戸時代の1693年まで約200年間、途絶えていましたが、徳川綱吉の時代の1694年に再興されました。また、明治維新(1871~1883年)や、太平洋戦争から戦後(1943~1952年)の混乱期にも、中断や行列の中止がありましたが、現在も、平安時代の王朝風俗の伝統は継承されています。

 

江戸時代に葵祭が再興された際、内裏宸殿の御簾をはじめ、牛車(御所車)、勅使、供奉者の衣冠、牛馬にいたるまで、すべて、下鴨神社と上賀茂神社の神紋である二葉葵(双葉葵)を桂の小枝に挿して飾ったことから、それまで賀茂祭と呼ばれた祭りも、以後、葵祭と呼ばれるようになりました。なお、祭りで使われる葵は毎年両神社から御所に納められているそうです。

 

また、平安時代初期から続いた斎院(斎王)の制度は、鎌倉時代に廃止されました(初代・有智子内親王~第35代・礼子内親王)が、現在の葵祭において、1956年(昭和31年)以降、一般市民から選ばれた未婚女性が「斎王代(斎王の代理)」(ヒロインとも呼ばれる)として立てられ、祭りが行われています。

 

 

<葵祭の式次第>

葵祭は、宮中の儀・路頭の儀・社頭の儀の3つからかつて成っていました。

 

  • 宮中の儀

宮中の儀では、天皇が勅使(ちょくし)に天皇のお言葉が書かれた紅紙の祭文(さいもん)・幣物(へいもつ)などを授けていました。しかし、明治維新後の東京遷都により、京都御所に天皇が不在となったことから、1869年(明治2年)以降、宮中の儀は行われなくなりました。

 

  • 路頭の儀

 

路頭の儀(ろとうのぎ)は、天皇の使者である勅使(近衛使代)が、天皇から預かった神へのお言葉である祭文(さいもん)の奏上、宮中から賀茂の神へと御幣物(ごへいもつ)の奉納などのため、下鴨、上賀茂の両神社に参向する祭儀です。

 

近衛使(勅使代)をはじめ、斎王代、検非違使、内蔵使、山城使、牛車、風流傘など、古の姿そのままに、勅使の本列と斎王代の斎王代列からなる人約500名、馬36頭、牛4頭、牛車2台・輿(こし)1丁など1キロにも及ぶ行列が、京都御所の建礼門(けんれいもん)前から出発し、先ず下鴨神社に向かいます。到着後に下鴨神社で社頭の儀を行った後、下鴨神社から上賀茂神社に向かい、到着後に上賀茂神社でも社頭の儀などが行われます。

 

建礼門:京都御所の南面にあり、天皇・皇后や外国元首しか通ることのできない京都御所で最も格式の高い場所。

 

王朝絵巻さながらに行われる路頭の儀は、見物人にとっては祭りの最大の見どころと言えるでしょう。なかでも、毎年一般市民から選ばれる斎王代に注目が集まります。

 

 

  • 社頭の儀

 

社頭の儀(しゃとうのぎ)では、下鴨神社・上賀茂神社を訪れた陛下の使いである勅使が、祭神に対して、古式にのっとり紅色の紙に書かれた御祭文(ごさいもん)を奏上し、幣物を奉納します。御祭文・幣物を受け取り神前に献じた神職は、神宣(しんせん)・返祝詞(かえしのりと)を返し、勅使に、二葉葵(双葉葵)と桂の枝葉を組み合わせた葵桂(あおいかつら)を授けます(勅使は退出)。社頭の儀は、少し前まで非公開で行われていました。

 

雨天の場合、行列は翌日に延期されますが、勅使は予定通りその日に参拝されます。御祭文は下鴨神社・上賀茂神社合わせて一通で、下鴨神社・上賀茂神社での社頭の儀終了後、上賀茂神社に納められるそうです。

 

なお、勅使が葵桂を授かった後、下鴨神社・上賀茂神社では、饗宴の儀と走馬の儀も行われます。走馬の儀(そうま・そうめのぎ)は、祭り発祥の故事にちなむ馬の神事で、下鴨神社では糺の森の馬場を、上賀茂神社では一之鳥居からの参道において馬を疾走させます。

 

 

<葵祭祭儀の前儀・後儀>

葵祭では、祭りの前に前儀、後に後儀が、下鴨神社(賀茂御祖神社)や上賀茂神社(賀茂別雷神社)で行われます。前儀神事は、神さまをお迎えする重要な神事です。

 

  • 流鏑馬神事(下鴨神社)(5月3日)

流鏑馬神事(やぶさめしんじ)は、糺の森(ただすのもり)の真中にある全長500メートルの馬場(ばば)を、公家風の装束姿や武家風の狩装束姿の射手(いて)たちが疾走する馬上から、3つの的を射抜くというものです。矢が的中すれば五穀は稔り、諸願は成就すると言い伝えられています。

 

  • 斎王代以下女人列御禊神事(5月4日)

斎王代以下女人列御禊神事(さいおうだいいかにょにんれつみそぎしんじ)は、斎王代などが身を清めて、罪・穢れを祓います。斎王代は上賀茂神社のならの小川、下鴨神社の御手洗川に両手をひたします。女人列の女童・命婦・女嬬・内侍・女別当・釆女などは上賀茂神社で形代、下鴨神社では斎串(いぐし)(榊 や笹などの小枝に幣(ぬさ)をかけて神に供えるもの)で、罪・穢れを祓います。斎王代以下女人列御禊神事は、上賀茂神社と下鴨神社の1年交代制で行われます。

 

  • 賀茂競馬(上賀茂神社)(5月5日)

賀茂競馬(かもくらべうま)は、12頭の馬が2頭ずつ左方の赤・右方の黒に分かれて走る競馬で、宮中武徳殿で執り行われた節会の競馬会神事(くらべうまえじんじ)を1093年に上賀茂神社に移したことが始まりとされています。

 

なお、賀茂競馬に先立つ5月1日、賀茂競馬に出走する馬を実際に走らせ、馬齢・健康状態や遅速を実際に確かめる素駆をさせた上で、組み合わせを決める賀茂競馬足汰式(かもくらべうまあしそろえしき)も行われます。

 

  • 歩射神事(下鴨神社)(5月5日)

葵祭の安全を願って行われる歩射神事(ぶしゃしんじ)は、葵祭の沿道を、弓矢を射ることで、祓い清める魔よけの神事で、平安時代に宮中で行われていた「射礼(じゃらい)の儀」が始まりとされています。

 

  • 御蔭祭(下鴨神社)(5月12日)

御蔭祭(みかげまつり)は、下鴨神社の境外摂社である御影神社の祭礼で、下鴨神社の祭神・賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)が出現したといわれる比叡山麓の御蔭山(みかげやま)に降りた祭神の荒御魂(あらみたま)を、御影神社から本宮の下鴨神社へ迎える神事です。これによって、御影神社の荒御魂(あらみたま)と下鴨神社の和御魂(にぎみたま)と一体化し、祭神が甦るとされます。

 

午前中、下鴨神社から出発し、御蔭神社に向かい、到着すると、社前において神事が行われ、荒御魂の御神霊は、榊の御生木に宿り、「神霊櫃」(しんれいびつ)という小箱に納められます。その後、御蔭神社を出発し、途中、摂社の赤の宮神社にて路次祭(道中での祭り)が行われ、舞楽が奉納されます。さらに、下鴨神社の境内に入ってくると、同じく境内摂社である河合神社で、御神霊は神馬に遷されます。ここでも、参道では「切芝神事」が執り行われ、荒御魂を讃える舞楽・東游などが奉納された後、御蔭神社の「荒御魂」は、下鴨神社で本宮の儀が行われ、遷御します。

 

このように、下鴨神社のご神体に神威を込めるための重要な祭儀である御蔭祭は、日本最古の祭儀式とも言われ、かつて「御生神事(みあれしんじ)」と呼ばれました。

 

下鴨神社の神体山とされている御蔭山(みかげやま)は、東山三十六峰の第二峰で、京都市左京区上高野東山に位置し、第一峰「比叡山」の南麓に位置します。この社地は、太古、賀茂(鴨)の大神、賀茂建角身命(カモタケツヌミノミコト)が降臨した地と伝えられ、また、その娘の玉依売命が賀茂別雷命(大山咋命の子)を生んだことから、御生山(みあれやま、みしょうやま)と呼ばれるようになったと言われています。

 

 

  • 御阿礼神事(上賀茂神社)(5月12日)

御阿礼神事(みあれしんじ)は、葵祭に先立って上賀茂神社の北約2kmにある神山(こうやま)から祭神(賀茂別雷神)を招き降す祭儀です。上賀茂神社原初の祭祀で、上賀茂神社の祭祀の中では、最も古く重要な神事とされています。「阿礼(あれ)」とは神の出現をあらわす言葉で、御阿礼神事は秘儀(秘祭)とされ非公開です。

 

上賀茂社の神体山である神山(標高301.5mの円錐形の山)は、神の鎮座する神奈備山(かんなびやま)で、上賀茂神社の祭神である賀茂別雷神はこの山に降臨したと伝えられています。

 

原初、御阿礼の神事は、「垂跡石(すいじゃくいし)」と呼ばれる磐座(いわくら)のある神山の山頂で行われていたとされていますが、現在では、上賀茂神社から北西の背後にある丸山の南麓の「御阿礼所(御生所)(みあれどころ)」で、5 月 12 日夜半に闇の中で、神事が神職のみで行なわれています。

 

祭場には、神籬(ひもろぎ)の囲いがつくられ、その前に、上賀茂神社の本殿にもあるような円錐形の立砂一対を盛り、御休間木(おやすまぎ)と称する松丸太から、真榊に神霊を移し、本殿に神霊を神幸させるそうです。

 

 

  • 堅田供御人行列鮒奉献奉告祭(下鴨神社)(5月14日)

堅田供御人行列鮒奉献奉告祭(かたたくごにんぎょうれつふなほうけんほうこくさい)は、滋賀県・大津市の堅田から、下鴨神社に対して「鮒(ふな)・鮒寿司」が奉献される神事です。供御人(くごにん)行列が堅田地域を巡行後、糺の森から本殿まで巡行しています(供御人とは、朝廷に属し、天皇の飲食物を貢納していた人々のこと)。

 

1090年、堅田に下鴨神社の御厨(みくりや)(神に供える神饌を調進する所領)が置かれ湖魚を献上する代わりにびわ湖の漁業権や通行権などを得たり、雑役などの租税を免除されたりするなど、堅田は下鴨神社と特別な関係を維持していました。

 

こうした前儀があって、5月15日の葵祭本祭を迎え、本祭後も、後儀神事があります。

 

  • 献茶祭(けんちゃさい)(5月17日)

献茶祭は、上賀茂神社で行われる葵祭を締めくくる神事で、葵祭が無事に終了したことを神前に奉告し、本殿前にて濃茶、薄茶を点てて神職が本殿にお供えします。表千家と裏千家が隔年交替で行います。

 

  • 煎茶献茶祭(下鴨神社)(5月17日)

煎茶献茶祭(せんちゃけんちゃさい)は、葵祭を締めくくる下鴨神社での最後の行事で、神職が神前でお祓いなどの神事を行い、小川流家元が点てた濃煎茶を東・西本殿の神前に供えます。境内に煎茶席・玉露席が設けられ、お茶の接待が行われます。毎年葵祭終了後に行われています。

 

<参考>

上賀茂・下鴨神社:賀茂氏の氏神を祀る京都最古の神社

 

<参照>

どんな祭り?葵祭(京都観光Navi)

葵祭祭儀(路頭の儀・社頭の儀)(京都ガイド)

葵祭、走馬の儀(京都旅屋)

御蔭神社 BC581年からと伝わる御生神事

(ガイドブックに載らない京都)

 

(2019年9月17日、最終更新日2022年6月8日)