女の子の節句である「ひな祭り」同様、5月5日の男の子の端午の節句もまた、日本と中国で育まれた独特の伝統を引き継いで現在に至っています。今回は「子どもの日」の端午の節句についてまとめてみました。
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「端午の節句(たんごのせっく)」が5月5日であることは、今では当然のように知られていますが、「端午」とは、もともと「月の初め=端(はじめ)の、午(うま)の日」という意味で、5月に限った言い方ではありませんでした。その後、5月が十二支でいう「午の月」であることから、「端午」は「5月の初旬」と解されるようになりました。さらに、「端午」の「午(ご)」と数字の「五(ご)」の音が同じなので、毎月5日を指すとされ、やがて、「端午の節句」は、5月5日になったと伝えられています。
<「端午の節句」の由来と歴史(中国編)>
- 古代中国の邪気払いの端午節
この「端午の節句」の起源は、旧暦の5月5日に行われた古代中国の「端午」の行事(=端午節)にあると言われています。古代中国で、旧暦5月は、雨季に当たるとともに急に暑くなる時期で、昔から病気にかかりやすく、亡くなる人が多いことから、「毒月」と呼ばれたり、物忌みの「悪月」とされたりしていました。また、5が重なる5月5日は重五(ちょうご)と呼ばれ、病気や災厄を祓う節句とされるなど、この時期、病気や災厄の祓い(邪気祓い)は、大事な行事で、健康を祈願していました。
その際、薬草にも使われる香り高い菖蒲(しょうぶ)や蓬(よもぎ)は、厄除け(やくよけ)、毒除け、魔除け効果があると昔からの信仰があり、節句には、菖蒲や蓬(よもぎ)の葉を門に刺したり、蓬で作った人形(ひとがた)を軒に飾ったり、菖蒲酒を飲んだり、湯に入れて「菖蒲湯」として浴する習慣がありました。
- 屈原を慕った端午節
また、中国の端午節(たんごせつ)は、今から約2300年前の戦国時代に生きた「屈原(くつげん)」という人物の話しにも由来しています。楚(そ)の国の国王の側近に、屈原(くつげん)(前340頃~前278頃)という政治家がいました。詩人でもあった屈原(くつげん)は、その正義感と国を思う情は強く、人々の信望を集めていました。しかし、屈原は、同僚の陰謀によって失脚し、国を追われてしまいます。
中国古典文学史上、不朽の名作として、現在も読み継がれている長編叙事詩「楚辞」の「離騒(りそう)」は、屈原が国を憂い、その想いが届かず世を儚(はかな)んでいる心情が詠われています。そしてその詩のように、故国の行く末に失望した屈原は、5月5日に、汨羅(べきら)という川に身を投げてしまったのです。
楚の人々は、屈原の遺体を探すために、川に船を出しました。しかし遺体は見つかりません。そこで、屈原の体が川の中で魚の餌になるのはしのびないと考えた人々は、小舟で川に行き,船から太鼓を叩いて、魚を追い払い、「屈原」の死体を魚が食べないようにしました。それ以降、5月5日は屈原を偲んで川に船を出すという習慣が生まれ、舳先(へさき)に竜の首飾りをつけた竜船が競争する行事となり、それがやがて、今日のドラゴンボートレース(龍舟比賽)として発展することとなったのです。
また、屈原の死を悲しんだ人々は、命日に川に集まり、竹筒に米を入れて投げ入れていました。ところが、屈原の霊が現れ、「米が龍に食べられてしまうので、龍が嫌う栴檀(せんだん)の葉で包んで糸で結んで欲しい」と言ったのだそうです。中国の故事によると,ここから、粽(ちまき)は,栴檀(せんだん)の葉でくるまれたのが始まりだと伝えられています。これがちまき(肉粽=ローツォン)の起源で、この事から「端午の節句」にちまきや柏餅を食べる風習が広まっていきました。
これらが、やがて中国全土に広がり、毎年命日の5月5日には、屈原を偲び、多くの粽(ちまき)を川に投げ入れる行事となって行ったのでした。そして、その風習は、屈原の追悼だけでなく、病気や災厄(さいやく)を除き、無病息災や、国の安泰を祈念する端午節となったと言われています。三国志の時代(180年頃~280年頃)になると、魏の国が、端午節を旧暦5月5日に定めたとされています。
<「端午の節句」の由来と歴史(日本編)>
こうした中国の端午節は、やがて日本に入ってくるわけですが、伝わったのは、屈原を偲ぶ行事ではなく、無病息災を願う邪気払いの風習でした。しかも、中国の「端午節(たんごせつ)」が、そのまま日本の「端午の節句」になったのではありません。
- 日本古来の「端午の節句」
中国から端午の節句(端午節)が伝わる前の日本では、5月5日は、もともと女の子の節句で、5月1日~5日に「女児節(じょじせつ)」という女の子を着飾らせてお祝いをする習慣がありました。その女児節のルーツは、田植えの時期に行われていた日本古来の早乙女(さおとめ)のまつりでした。当時の田植えは神聖なものとされ、「早乙女(さおとめ)」と呼ばれる農家の若い清らかな女性たちが行っていました。
当時の日本には、田植え月の五月に「五月忌み(さつきいみ)」という日本古来の風習がありました。「五月忌み」は、早乙女が、田の神さまのために、巫女となって、田植えを始めるこの時期に五穀豊穣を祈り、仮小屋や神社などに籠って、穢れを祓い身を清める儀式です。つまり、5月5日は、田の神さまに対する女性の厄祓いの日で、神聖な存在になってから田植えに臨むようになったのです。「五月忌み」はある意味、神事といえますね。
こうした日本古来の風習(神事)に、中国から伝わった端午節と結びつき、早乙女は、菖蒲(しょうぶ)や、蓬(よもぎ)で屋根を葺いた仮小屋に一晩こもり、菖蒲酒を飲み、菖蒲湯に入り、穢れを払うという習わしが生まれたと考えられています。ですから、日本の「端午の節句」は、中国に由来するというよりも、日本の古来の早乙女の祭り「五月忌み」のような風習に中国の端午節の要素の一部が加味されて生まれたという言い方が正確かもしれません。
- 奈良・平安時代の「端午の節句」
いずれにしても、古代中国の風習が、飛鳥時代の頃、日本に伝わり、奈良時代に日本でも「端午の節句」が行われるようになりました。当時、季節の変わり目である端午の日には、病気や災厄をさけるための行事が催され、平安時代には「端午の節会(せちえ)」という宮中行事としても定着していました。
日本でも菖蒲の薬効と香りは穢れを祓うとされ、厄除けとして使われており、宮廷ではこの日、軒(のき)に菖蒲やよもぎを挿(さ)したり、冠に飾ったり、菖蒲の葉で作った薬玉(くすだま)を柱に下げたりするなど、厄よけの飾り物としたそうです。また、薬草(菖蒲や蓬)摘みをして、贈り合ったり、菖蒲の葉を浮かべたお風呂(菖蒲湯)に入ったり、菖蒲を浸した酒を飲んだりして楽しみんだと伝えられています。さらに、病気や災いをもたらすとされる悪鬼を退治する意味で、馬から弓を射る騎射(うまゆみ)、競馬(くらべうま)などの勇壮な催し(儀式)も行われました。
- 鎌倉時代の「端午の節句」
古来から行われていた宮廷での端午の行事も、時が鎌倉時代の武家政治ヘと移り変わってゆくにつれ、だんだんと衰えてきました。しかし、逆に、武士のあいだでは、飾られる菖蒲(しょうぶ)が、勝負や尚武(武芸を尊ぶ)に通じる上、菖蒲の葉の形が刀に似ているということから、菖蒲は勇ましさの象徴となり、「端午の節句」を尚武の節日として盛んに祝うようになっていきました。
また、その日に、男の子に五月人形(後述)の鎧兜や太刀を贈ったり、鎧兜と一緒に菖蒲を飾ったり、流鏑馬(やぶさめ)をする風習も生まれて、「端午の節句」が武家社会の中で重要な行事に変わっていったのです。
- 江戸時代の「端午の節句」
江戸時代に入ると、1616年(元和2)の制令などで、「端午の節句(5月5日)」は、徳川幕府の重要な式日(現在の祝日)(五節供のひとつ)に定められました。大名や旗本は、節句の日に染帷子(そめかたびら)の式服で江戸城に出仕し、将軍にお祝いを奉じるようになりました。また、将軍に世継ぎが生まれると、城中に馬印(うましるし)や幟(のぼり)、作り物の槍、薙刀、兜などをを立てて祝いました。
やがて、端午の節句は、武士だけでなく、広く一般の人々にまで広まり、男の子の誕生を祝う日となっていったのです。初節句には厚紙でこしらえた兜や人形、また紙や布に書いた武者絵なども屋外に飾るようになり、さらに、江戸時代の中期には、武家の幟(のぼり)に対抗して、町人の間では鯉のぼりが飾られるようになりました。
こうして、「端午の節句」は、江戸時代、五月五日に、「鯉のぼり」を掲げて、「武者人形(五月人形)」を飾る、現在のように、男の子の前途を祝う男の子のお祭りとして定着したのでした。作り物の鎧兜は、やがて屋内に引き入れられ、精巧な内飾りに変化していきます。また、外飾りの場合は、民間ではのぼりに武者絵などを大きく描いて、にぎやかに飾り立てました。
- 現代の「端午の節句」
明治時代に入ると、節句行事そのものが廃止され、あらたに国の祝祭日が定められたことから、端午の節句も一時衰えました。しかし、男の子の誕生を祝いその成長を祈るという風習はやがて復活し、昭和23年に「国民の祝日に関する法律」で、端午の節句にちなみ、5月5日は「こどもの日」として継承されています。
繰り返しにはなりますが、日本の「端午の節句」は、古代中国から伝わった「端午」の行事(端午節)を起源とするというよりは、もともと、日本の習慣の中にあったものが、中国の端午節が伝わったことで進化して、現在の「こどもの日」になったということができます。実際、中国の端午節は「こどもの日」ではありません。中国の「こどもの日」は、現在6月1日で、中国政府が2002年に「児童節」として新たに定めた新しい祝日です。
<端午の節句に行われる様々な風習>
- 鯉のぼりと吹き流し
室町時代から、武家では五月五日の端午の節句に、男の子が生まれた印として、竹竿に布を張り幟(のぼり)(=吹き流し)を立てていたそうです。鯉のぼりは、江戸時代になって、町人たちが、武家をまね、和紙で作った鯉の幟(のぼり)を、竿につけて高く揚げたのが始まりだとされています。
もともと、鯉のぼりは、「鯉が滝を登って龍になった」という中国の故事成語「登竜門」にちなんだものです。日本でも「鯉の滝のぼり」としてなじみ深い言い伝えで、鯉は立身出世の象徴となりました。コイは、昔から威勢のいい魚として知られ、子供が元気に育つようにという親の願いから、男の子の祭りである端午の節句には鯉のぼりを掲げ、健やかな成長を願ったのです。また、家族が増えるごとに鯉の数も増えていくなど、鯉のぼりは、お家繁栄の縁起物となっています。
一方、鯉のぼりの中には五色の吹き流しがあります。なぜ、吹き流しは五色なのかというと、古代中国の陰陽五行説に由来し「木=青、火=赤、土=黄、金=白、水=黒」を表しています。
- 五月人形
端午の節句には、鯉のぼりに加え、五月人形(武者人形)を飾る風習もあります。金太郎や牛若丸といった有名な武者や、桃太郎などの英雄を模したものを「武者人形」と呼び、勇ましい男子に育つよう願いが込められています。
「五月人形」は、「雛まつり」のひな人形(流しびな)と同様、人形が、子ども一人一人の厄災を受けてくれるという身代り信仰の風習を引き継ぐものです。五月人形は実際に手を触れることがその子の災厄を移すという考え方もあるそうです。
- 鎧・兜
武士の命を守る大切な道具である鎧(よろい)と兜(かぶと)は、様々な災いから子供を守って、無事に逞しく成長するよう願って飾られます。五月人形と同様、「端午の節句」に飾る鎧や兜もまた、ひとりひとりの災厄を身代わるという風習から生れたもので、「一生のお守り」のような存在です。
- 菖蒲
菖蒲(しょうぶ)は、薬草にも使われ、邪気を祓い魔除け効果があるとされ、節句にはヨモギとともに軒にさし、あるいは湯に入れて「菖蒲湯」として浴しました。枕の下に敷いて眠ったり、菖蒲酒を飲むという地域もあります。また、菖蒲を束ねて地面を叩き、その音の大きさを競う”菖蒲打ち”という遊びもあるそうです。
- ちまきと柏餅
端午の節句には、関東では柏餅を、関西ではちまき(粽)を食べるという風習が広く伝わっています。古代中国の「屈原」の話しの中で説明したように、ちまき(粽子)は、屈原を偲んで、中国の「端午の節句」(端午節)食べられます。もともと、ちまきは、中国では古い時代からある食べ物で、米を竹などの植物の葉で包み、それをゆでたり蒸したりすることで植物から出る灰汁が防腐剤代わりとなる保存食だったそうです。平安時代には日本に伝わっていたとされています。
一方、ちまきに並んで、柏餅も端午の節句の重要な食べ物です。柏餅の柏の葉は、新しい葉の芽が出ないと古い葉が落ちません。そこから、「家が断絶しない」「子孫繁栄」をもたらす縁起物となり、武家社会で重宝されました。
- 薬玉
薬玉(くすだま)とは、もぐさや鹿の角などの薬種と、沈香などの香料を入れ玉状にしたものです。菖蒲(しょうぶ)や蓬(よもぎ)の茎や葉で玉を編み、隙間を花や五色の糸で飾って、部屋にかけることで、厄除けの役割を果たしました。日本では、貴族同士で薬玉を贈りあう習慣もあったそうです。
<参照>
端午の節句の歴史(日本人形協会)
端午の節句とは?|意味や歴史を簡単に
端午の節句の由来といわれ – こうげつ人形
五節供(暮らしの歳時記)
端午の節句(こどもの日、菖蒲の節句)
(2020年5月9日、最終更新日2022年5月26日)