女の子の節句として定着しているひな祭りですが、よく調べてみると、それは江戸時代になってからで、それ以前は、邪気払いの行事であったり、宮中で紙でつくった人の形のお人形で遊ぶ「雛遊び(ひいな遊び)」であったり、様々な変遷を遂げて現在に至っています。しかも、その発祥は中国ではなく日本であったとの説もあるなど、興味が尽きません。今回は、そんなひな祭りについて解説してみたいと思います。
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- ひな祭りの由来とは?
ひな祭り(雛祭り)は、1700年以上も前(西暦300年頃)、古代中国で行われていた「上巳(じょうし)の節供」(上巳節)が起源で、平安時代に日本に伝わったとされています。
昔から季節の変わり目や物事の節目には、災いをもたらす邪気が入りやすいと考えられていました。このため、古代中国では、旧暦3月初めの上巳(じょうし/じょうみ)の日に水辺で、身を清め穢れを祓う習慣があったり、杯を水に流して宴を催す「曲水の宴」などが行われていたそうです。上巳(じょうし/じょうみ)の日は、旧暦3月の最初の巳(み)の日を指していましたが、後に行事の日付が変動しないよう3月3日に定まったそうです。中国では三国時代、日本では室町時代の頃です。ひな祭り(上巳の節供)と言えば、今では3月3日に行われる女の子のお祭りとし知られていますが、当時は、季節の節目の邪気祓い行事として、老若男女を問わず皆が参加するお祭りだったのです。
また、3月3日のひな祭りは、「桃の節句」と言われます。これは、中国の上巳の節句で、その時期に咲いている桃の花が使われていたためです。しかし、それ以上に、中国では、桃には、長寿や邪気を払う魔除けの力があると古くから信じられ、様々な神事に取り入れられていたので、邪気払いをする上巳の節句を「桃の節句」というようになったとされています。
この上巳節が、平安時代に遣唐使によって日本に伝えられると、宮中行事として取り入れられ、杯を水に流して宴を催す「曲水の宴」が催されるなど禊(みそぎ)の神事(「上巳の祓い」)と結びつきました。また、紙や草で作った人形(ひとがた)で自分の体を撫(な)でて穢れ(邪気)をその人形に移し、川や海へ流してお祓いをする「流し雛(ながしびな)」が習慣となったそうです。
この行事は長らく行われ、今でもその伝統を守っている地域もあるそうですが、時代とともに「流し雛」に使用する人形が立派になり、やがて、川に流すのではなく家に飾るようになりました。
また、平安時代に、宮中や貴族の子女の間で、紙の人形でおままごと遊びのような「ひな遊び(ひいな遊び)」が盛んになったと伝えられています。この遊びが、中国発「上巳の節句」と結びつき、人の厄を受ける男女一対の紙でできたひな人形の原形となったと言われています。こうして、厄を引き受けてもらった「ひな人形」に子どもの幸せを託し、健やかな成長を願うひな祭りの行事が、日本的なものとして発展していったのでした。
以上が一般的に説明されてきた3月3日のひな祭り(桃の節供)ですが、もともと「ひな祭り」の原形は日本にあったとする見方があります。
- ひな祭りは日本発祥!?
日本の神話にも見られるように、そもそも身を清め穢れを祓う習慣というのは、もともと日本の神道に根差した考え方です。また、形代(かたしろ)に代表される「身代わり信仰」も日本の伝統的なものです。形代は、神霊が依り憑く(よりつく)依り代(よりしろ)の一種で、身の穢れや災いを形代に託して、川や海に流す行為は、平安時代以前から行われていました。
一般的には、平安時代には、中国から「上巳の節句」が入ってきた影響で、形代(かたしろ)から分化した「天児(あまがつ)」や「這子(ほうこ)」と呼ばれる人形が広く使われるようになったと説明されています。実際、これらは、幼児のお守りとして、その枕もとに置かれ、後に天児(あまがつ)を男子、這子(ほうこ)を女子とする立雛(たちびな)(=夫婦雛)も出てきます。
しかし、天児(あまがつ)や這子(ほうこ)は、中国由来ではなく、弥生時代には藁に布をかぶせ身代わり人形としてすでに出現していました。さらに、弥生時代の前の縄文時代には、人の形の似せた「土偶(どぐう)」を、多産や豊穣を祈る地母神として崇め、また、古墳時代には、生存する人の身代わりとして「埴輪(はにわ)」が大量に作られました。また、奈良時代には、禊や祓いの儀式(自分の厄災を移す習わし)に、草木、紙や藁でつくられた素朴な「人形(ひとかた)」を使っていたことが知られており、これが今日のひな人形の原形になっていたと考えられています。
平安時代には、前述したように、紙でつくった人の形のお人形を、同じく紙でつくった御殿のなかで遊ばせる「雛遊び(ひいな遊び)」が貴族の女の子のなかで流行していました。また紙でつくった人形を川に流す「流し雛(ながしびな)」も存在していました。そしてこの時代、中国からも上巳節(上巳の節句)が持ち込まれたことで、ひな祭りとして、日本で一気に普及し、日本独自の文化として定着していったものと想定されます。
- 「ひいな遊び」から「雛(ひな)祭り」へ
いずれにしても、「ひいな遊び」が節句として「ひな祭り」へ変わったのは、安土桃山時代(天正年間)以降だとされています。上巳の日が3月3日とされたのも室町時代になってからでした。また、ひな祭りは、もともと、春を寿ぎ(祝い)、無病息災を願う厄祓い行事でしたが、女の子の健やかな成長と幸せを願う華やかなお祭りとなったのは江戸時代の頃でした。というのも、江戸幕府が五節句を制定した際、3月3日の「上巳の節句」は五節句のひとつに定められました。すると、5月5日の「端午の節句」が男の子の節句として扱われるようになったのに対して、3月3日は女の子の節句となり、桃やかわいい雛人形が用いられたことから「桃の節句」と呼ばれるようになったのでした。
1629年、京都御所で、日本で初めてとされるひな祭りが盛大に催されました。これを機に江戸幕府の大奥から、豊かになった町人層まで、全国的にひな祭りが行われるようになったそうです。そうした中、ひな祭りが、桃の節供として定着すると、娘の厄(やく)を受ける雛人形はその家の財力の象徴として華やかさを増してゆき、豪華な雛人形を雛壇に飾るようになったと言われています。ついには等身大の雛人形まで登場し、幕府は人形の大きさがおよそ24センチに制限したほどだったそうです。いずれにしても、ひな祭りは、朝廷や幕府、町をあげての楽しい行事となり、自慢のひな人形を見せ合ったり、ご馳走をもって親戚を訪ねるといった風習も育っていきました。
- ひな人形のいわれ
ひな人形は宮中の様子、主に婚礼を表しています。江戸時代の初期は、形代(かたしろ)としての天児(あまがつ)や這子(ほうこ)の名残を残す、男雛、女雛一対だけの立ち雛(たちひな)飾りが作られ、その後、座り雛として姿を変えていきました。現在の、お内裏様とお雛様で知られる「内裏雛(だいりびな)」の起源と言えます。人形のつくりは精巧になっていき、十二単の装束をまとった「元禄雛」などが作られました。
江戸時代後期になると、宮中の雅な装束を正確に再現したものが現れ、今の15人のおひな様の形になりました。18世紀終わりごろには五人囃子(ごにんばやし)(=能の演奏をする人たち)が登場しました。なお、五人囃子の5人とは、笛、太鼓、小鼓(こつづみ)、大鼓(おおかわ)、謡(うたい)の5人です。また、幕末までには三人官女(さんにんかんじょ)(内裏に仕える女官たち)や随身(ずいじん)(=弓矢をつがえて宮廷を警護する人)、三仕丁(さんじちょう)(宮中の雑用係)などの添え人形が考案されました。
ひな祭りが、中国発祥であったにしても、日本発祥であったにしても、日本の歴史の変遷とともに発展した日本的な伝統行事であることは間違いなさそうです。
<参考>
3月3日はひな祭り! 由来とお祝いの仕方
3月3日 桃の節句(雛祭り)の意味と由来&お祝いの仕方
暮らしの歳時記
伝統行事のひな祭り・雛人形の歴史を紐解く!
ひな人形の歴史を振り返る。桃の節句に向けてPreferの雛雑学
(2020年3月28日、最終更新2022年5月22日)