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2020年09月20日

世界史:アナーニ事件・教皇のバビロン捕囚・大シスマ

 

前回の投稿では、ローマ教皇の権威が皇帝(国王)よりも強かった教皇権の隆盛の時代の魁となった「カノッサの屈辱」を解説しましたが、今回は逆に、王権の伸張を受けて、教皇の権威が失墜していく経緯についてみてみたいと思います。テーマは、アナーニ事件、教皇のバビロン捕囚、教会大分裂です。

――――

 

<アナーニ事件>

 

十字軍も失敗に終わり(1291年)、教皇は信用を失っていく一方で、国王の権限が強くなっていった13世紀末、ローマ教皇に第193代ボニファティウス8世(在1294~1303)が即位しました。

 

この時代、フランスのカペー朝フィリップ4世(在1285~1314)は、フランスの国家統一を進め、イギリスとの戦争に備えて軍費を得るためにもフランス領内の聖職者領に課税しようしました。これに対して、ローマ教皇のボニファティウス8世は、聖職者領(教会領)への課税を禁止するとともに、ローマ教皇庁への献金を停止する対抗策を講じました。これを受け、ボニファティウス8世は1302年、教皇勅書(ウナム=サンクタム)を発表、教皇の首位権を明らかにし「教皇に従わない者は救済されない」と宣し、フィリップ4世を破門にする準備を始めていました。

 

こうした背景下、1303年9月、ボニファティウス8世がローマ郊外のアナーニに滞在中、国王側から襲撃を受け捕らえられるという事件が発生しました。教皇は、一室に軟禁された上、退位を迫られたのです。ボニファティウス8世は殺害されそうになりましたが、駆けつけたアナーニ市民に救出され、辛うじてローマに戻ってこれました。

 

しかし、事件にひどく動揺した教皇は、1ヶ月後に急死してしまいます。死因は持病の結石とされていますが、アナーニの屈辱が真因とみられ、ボニファティウス8世の死は「憤死」と表現されています。この「アナーニ事件」で、フランス王フィリップ4世は、ローマ教皇との抗争に勝利した形となり、教皇権の弱体(王権の伸張)が浮き彫りになりました。

 

 

<教皇のバビロン捕囚>

 

アナーニ事件(1303年)で、ローマ教皇のボニファティウス8世が憤死した後、1305年、フランス王フィリップ4世の後押しで、ボルドーの大司教だったフランス人のクレメンス5世がローマ教皇に選出されました。クレメンス5世は、1309年、フィリップ4世の意向を受け、教皇庁をローマから南フランスのアヴィニヨンに移させました。教皇庁をフランス王権の監視下に置くことが目的であったとみられています

 

それ以後、1377年まで約70年間(68年間)、ローマ教皇はローマを離れ、アヴィニヨンに居ることとなりました。このことを旧約聖書に出てくる古代ユダヤ人のバビロン捕囚になぞらえて、「教皇のバビロン捕囚(アヴィニョン捕囚)」と呼ばれています。ただし、教皇は監禁されたわけではなく、途中、豪勢な教皇庁も造営されています。

 

また、この教皇庁がアヴィニヨンに置かれていた間、教皇となった次の6代は、いずれもフランス人でした。

 

・ヨハネス22世(在位1316~1334年)
・ベネディクトゥス12世(在位1334~1342年)
・クレメンス6世(在位1342~1352年)
・インノケンティウス6世(在位1352~1362年)
・ウルバヌス5世(在位1362~1370年)
・グレゴリウス11世(在位1370~1378年)

 

この間、1337年に英仏百年戦争が始まり、1348年には、ペストが大流行し、ヨーロッパの人々を震撼させました。こうした出来事は、ローマ教皇のローマ不在が原因だと考える人々もあり、ローマ市民や多くのキリスト教徒から、教皇のローマ帰還を望む声が強まってきました。1355年に即位した神聖ローマ帝国の皇帝カール4世もアヴィニヨンの教皇を支援して、その帰還を促しました。

 

こうした動きを受け、ローマ教皇グレゴリウス11世は、1377年、フランスの反対にもかかわらず、アヴィニヨンからローマに帰還して、教皇のバビロン捕囚はようやく終わりとなりました。なお、「教皇のバビロン捕囚」は、「アナーニ事件」同様、フィリップ4世が、教皇権に対する王権の力を示した出来事といえますが、この後、フィリップ4世と自身のカペー家(朝)には悲劇が待っていました。

 

 

*フィリップ4世の末路

 

アナーニ事件で、ボニファティウス8世の死を知ったヨーロッパの人々は、フィリップ4世を「教皇を憤死させた王」というレッテルを貼り、「フィリップ王とその息子たちに災難が降りかかり、王位を失うだろうと」予言する司教もでたそうです。

 

また、フィリップ4世は、ローマ教会と対立しただけでなく、中世ヨーロッパの主要な騎士修道会であるテンプル騎士団を異端として弾圧しました。1307年10月に、国王は、フランスにおけるテンプル騎士団のメンバーを一斉に逮捕し、教皇クレメンス5世に異端審問を行わせ、1314年、最高幹部らは異端として火刑に処せられました。また、テンプル騎士団は解散を命じられ、フランス国内にもつ騎士団の所領と金融資産も没収されてしました。騎士団の幹部は、処刑に際して、フィリップ4世と教皇クレメンス5世に呪いながら死んでいったとされています。

 

1314年、フィリップ4世は狩りの最中に脳梗塞で倒れ、そのまま帰らぬ人となり、同じ年、クレメンス5世も死去しました。また、フィリップ4世の3人の息子たちは皆、フランス国王になりましたが、父の死後15年以内に全員死亡、さらにフィリップ4世の孫たち、特に男子が全員夭折したため男系は途絶えてしまいました。カペー朝最後の国王シャルル4世が、34歳の若さで亡くなった1328年で、カペー朝は断絶し、フランスの王位は、カペー家からヴァロア家に移ったのでした。

 

 

<教会大分裂大シスマ)>

 

アヴィニヨンからローマに帰還を果たした教皇グレゴリウス11世は、ローマ市民の大歓迎で迎えられましたが、翌1378年、膀胱結石を発症し死亡しました。

 

翌年、次の教皇を選出する枢機卿会議(教皇選出会議=コンクラーベ)が開催されると、フランス人とイタリア人の枢機卿が激しく対立し、次期教皇を決められない状態が続きました。すると、業を煮やしたローマ市民がローマ教皇庁になだれ込むなど大混乱となってしまいました。身の危険を感じた多数派のフランス人枢機卿たちは逃げだし、残ったイタリア人枢機卿たちだけで、ナポリ出身の大司教をウルバヌス6世として選出するという事態になってしまいました。

 

これに対して、フランス人の枢機卿たちは、ウルバヌス6世の選出は外部の圧力に屈した結果であり、選挙は無効だとして、ウルバヌス6世の廃位と選挙のやり直しを宣言し、ジュネーヴ出身のクレメンス7世を選出します。しかし、ウルバヌス6世は当然これを認めず、教皇としてローマに留まったので、クレメンス7世はフランス人枢機卿と共にフランスのアヴィニヨンに戻ってしまったのです。

 

こうして、ローマ教会は、ローマとアヴィニヨンに同時に教皇が二人存在するという「教会大分裂」(大シスマ)となってしまいました。しかも、この状態は、1378年から1417年まで約40年間も続きます。

 

ちょうど百年戦争(1339~1453)の最中、教皇のヨーロッパでの政治的影響力は完全に低下し、教皇の権威失墜は明確になりました。もともとローマ教皇は、キリストの代理者とされ、中世においては、宗教的権威の頂点に立ち、彼への服従は「至福」のための条件と考えられていたほどでした。ですからローマ教皇は王位継承や領土紛争を調停する役割を担っていたのですが、教会が分裂してしまうと、調停機能を発揮できず、当時のイギリスとフランスの戦争は100年を超える長期的な戦いとなった遠因とされています。

 

さて、教会が分裂している間、二人の教皇は、何度か修復の試みもなされましたが、いずれも正統性を主張して譲らず、互いに破門しあいました。両教皇の死後も、それぞれの後継者を残し、教権の分立状態は解消されませんでした。ローマでは、ウルバヌス6世の後、ボニファティウス9世(ローマ教皇)が即位し、インノケンティウス7世さらにグレゴリウス12世と続きました。これに対して、アヴィニョンでは、クレメンス7世の後、ベネディクトゥス13世(対立教皇)が跡を継ぎました。

 

またこの分裂は、教会にとどまらずヨーロッパ各国の対立をもたらし、ヨーロッパは、神聖ローマ皇帝とフランス王を軸に二陣営に分かれて争いました。神聖ローマ帝国とイングランドと北欧の大部分は、ローマにいる教皇を、またフランス、スコットランド、スペイン、ナポリなどは、アヴィニヨンの教皇をそれぞれ支持しました。

 

こうした教会大分裂(大シスマ)も15世紀に入ってようやく事態収拾へ向けて動きはじめ、1409年にピサ教会会議が開催されました。この会議では、ローマとアヴィニヨンの2人の教皇(グレゴリウス12世とベネディクトゥス13世)の廃位を決め、新たにアレクサンデル5世が選出されました。しかし、2人の教皇は納得せず、結局、3人の教皇が鼎立(ていりつ)する異常事態になり、かえって混迷度が増してしまいました。

 

そこで、神聖ローマ皇帝ジギスムントの提唱で、1414年、コンスタンスツ公会議が開かれました。ジギスムントは、ピサ会議で新たに選出されたアレクサンデル5世の死後、引き継いだヨハネス23世が、会議を召集する形をとらせて、ドイツのコンスタンツでの公会議(1414~18年)開催にこぎつけることができました。

 

会議中、自らの正統性が確認されないことを悟ったヨハネス23世はコンスタンツから逃亡し、後に捕らえられ罷免されました。また、グレゴリウス12世は自ら退位を表明し、残ったベネディクトゥス13世は退位を拒否しましたが、公会議で廃位されました。こうして、1417年、新たにマルティヌス5世が教皇に選出され、ようやく教会大分裂は収束したのです。ただし、ローマ教皇の権威はもやは地に落ちたと言えるでしょう。

 

なお、現在の教皇庁では、教会大分裂(大シスマ)の時代、ローマの教皇を正統とし、教皇の代数もローマにいた教皇で数えます。アヴィニヨンの教皇やピサ会議で選出された教皇は「対立教皇」として扱われています。

 

また、コンスタンツ公会議では、異端問題の審査も行われ、ボヘミアのフスを異端として有罪とし、火刑に処しました。この時既に他界していたイギリスのウィクリフも異端であると断定され、遺体が掘り出され、改めて火刑にして川に流されました。両者は、聖職者の堕落や教会の世俗化を批判し、聖書こそ最高の権威であるとして、ウィクリフは英語、フスはチェコ語の聖書翻訳を行うなど、後の宗教改革の先駆的な役割を果たしました。

 

 

<参照>

「世界史の窓」、「世界の歴史マップ」、Wikipediaなどの関連サイト

 

 

2020年09月19日

世界史:カノッサの屈辱

キリスト教の関する前回の投稿では、「十字軍」を取り上げましたが、今回は十字軍後のローマ教会についてみていきます。第4回十字軍を提唱したインノケンティウス3世(在1198年~1216年)の頃、ローマ教皇の権威は最高潮に達したことは、前回の投稿でも紹介しました。その神聖ローマ皇帝に対する優位性を確立したとされるのが、「カノッサの屈辱」と呼ばれる事件です。

―――

 

  • 叙任権をめぐる争い

 

カノッサの屈辱とは、1077年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4とローマ教皇グレゴリウス7が、聖職者の叙任権(選出権)を巡り対立し、皇帝が教皇に屈服した事件です。

 

聖職叙任権とは、誰をローマ教会の聖職者(司教など)や修道院長にするかを決める権利で、西欧では、古代末期以来、私領に建てられた聖堂や修道院は、その土地の領主が叙任権を持つという慣例がありました。

 

中世においても、特に、神聖ローマ帝国においては、オットー1世が教会に土地を寄進する代わりに、自分の一族や関係者を司教などの聖職者に叙任することで聖職叙任権を確保して以来、神聖ローマ皇帝がローマ教会を統制していました(これを帝国教会政策と呼ぶ)。

 

叙任権を持っていれば、自分の意にかなった聖職者が教会を「運営」するので、教会自体を管理できるようになります。同時にそれは、教会が持っている荘園や財産に介入できる(教会財産の管理権を握る)ことを意味していました。ですから、皇帝や国王からすれば、叙任権を有することは、自身の権力強化につながりました。とりわけ、神聖ローマ皇帝にとっては、聖職叙任権を握ることで、ローマ教皇の選出においてまで介入するようになったのです。

 

一方、ローマ教会においては、俗権によって叙任権が行使されたことで、聖職者の堕落という事態を招いてきました。当時、皇帝(国王)に任命された聖職者たちは、荘園を持って領主化し、司教職や修道院長職などの聖職を財産として取引(聖職売買)したり、聖職を相続の対象とすることが横行するようになっていたのです。

 

こうした教会の腐敗と世俗化に対し、10世紀になると、ローマ教会の側からは、俗権による叙任を否定したり、聖職者の綱紀粛正をはかったりといった俗権からの影響力を否定した改革運動が起こるようになりました。

 

その中心を担ったのが、910年にフランス東南部ブルゴーニュ地方(ブルグント王国)に建てられたクリュニー修道院でした。この修道院では、かつてベネディクトゥスがはじめた「ベネディクトゥスの戒律」の厳格な励行など、初期修道院精神に立ちかえることがめざされました。聖職売買や聖職者の妻帯は厳しく批判され、また、私闘の濫用も戒められました。クリュニー修道院の改革運動は、急速にヨーロッパ各地へと波及していきました

 

なお、ベネディクトゥスは、6世紀、イタリアのモンテ=カシノに修道院を建設し(529年)、清貧と勤労を旨に神に奉仕する生活を送る修道院運動を進めたイタリアの修道士です。「祈り、働け」をスローガンとしたベネディクトゥスの定めた厳しい会則は、「ベネディクトゥスの戒律」とよばれ、西ヨーロッパに広く普及し、ベネディクトゥスはやがて「西欧修道士の父」と称されました。

 

そうして、11~12世紀になると、俗権による教会の支配が、教会堕落の原因であるとの認識が強まり、聖職者叙任権を、教会の手に奪回する運動がおきてきました。その急先鋒がグレゴリウス7世でした。

 

教皇グレゴリウス7世(在1073~1085)は、キリスト教の教義をあるべき姿に戻そうと、聖職者の綱紀粛正、教会の刷新を図りました。1075年には「教皇教書」を出し、教皇権の至上性と俗権に対する優越を宣言し、皇帝の持っている叙任権を教皇に移す意向を示しました。これに対して、皇帝としての支持基盤を失いたくない時の神聖ローマ皇帝のハインリヒ4世は、当然、聞く耳を持ちません。やがて両者は決定的な対立を引き起こすことになっていきます。

 

 

  • カノッサ事件

 

ローマ教皇グレゴリウス7世は、1075年、司教叙任を続ける神聖ローマ帝国の皇帝・ハインリヒ4世に、叱責する書簡を送り、悔い改めを迫りました。しかし、これに激怒したハインリヒ4世は、独自に聖俗諸侯を集めて会議を開き、司教の同意のもとに教皇の廃位を決議してしまいます。そこで、教皇グレゴリウス7世も、翌2月、皇帝ハインリヒ4世の破門と皇帝権の剥奪(廃位)を宣言して対抗しました。

 

すると、ドイツの司教たちは動揺し、それまで皇帝についていた世俗諸侯らも次々に反旗をひるがえしました。諸侯たちは集会を開き、1年後の1077年2月までに皇帝の破門が解かれなければ、ハインリヒ4世の皇位を廃すること、また適任の人物がいない場合は皇位を空にすることを決定したのです。

 

孤立して一気に窮地に陥ったハインリヒ4世は、使いを送って教皇に許しを請いましたが、聞き入れてもらえません。そこで、翌1077年1月末、ハインリヒ4世は、トスカナ女伯マティルダの仲介により、自ら真冬のアルプス山脈を越え、カノッサ城に滞在する教皇に会いに出向きましたが、それでも、教皇は捕縛を恐れて城から出ず面会を拒否しました。万策尽きたハインリヒ4世は、武器を捨て、修道服に身を包み、雪の城門で3日間、素足のまま祈りと断食を続け、破門の取り消しを求めた結果、ようやく、破門が解かれました。これが、「カノッサの屈辱」として知られる事件です。

 

 

  • 終わらなかったカノッサの屈辱

 

破門されなかったとはいえ、この一連の騒動で皇帝の権威は大きく地に落ち、カノッサ事件は、教皇権の王権に対する優越を示しました。もっとも、神聖ローマ帝国(ドイツ)に限れば、ハインリヒ4世は再び勢力を回復し、教皇側と再度対立しました。グレゴリウス7世は、改めてハインリヒ4世を破門しましたが、今度は効果はなく、逆にカノッサ事件で禍根を持つハインリヒ4世は、1081年、「倍返し」とばかりに、大軍を率いてローマ教会を武力包囲し、グレゴリウス7世は捕らえ身柄を拘束したのです。さらに、1083年、グレゴリウス7世を退位させ、自らが立てたクレメンス3世を教皇の座に就けました。

 

教皇グレゴリウス7世は、辛くも包囲を脱出しましたが、1085年にイタリア南部のサレルノで客死(憤死)してしまいました。グレゴリウス7世からすれば、カノッサ事件の際、ハインリヒ4世を温情で許した結果、逆に死に追いやられてしまったことは皮肉な結果です。

 

一方のハインリヒ4世も、恨みを果たした後、神聖ローマ帝国(ドイツ)領内の領主の反乱に加え、自分の任命したクレメンス3世とも対立し、失意のうちに死を迎えるという、こちらも悲劇的な結末が待っていました。結局、二人の死後も、叙任権闘争の明確な決着はつかず、教皇と皇帝・国王の対立は続きました。

 

 

  • ヴォルムス協約

 

この聖職叙任権をめぐるローマ教皇と神聖ローマ皇帝の間の対立を集結させたのが、1122年に締結されたヴォルムス協約(1122)です。ローマ教皇カリストゥス2世と神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世の間で結ばれた宗教和議の主な内容は以下の通りです。

 

・ドイツ以外(イタリアとブルグント)の叙任権はローマ教皇が掌握すること,ドイツでは司教選挙に関して,皇帝に選挙への出席と俗権の授与、教皇側に選挙と司教職の叙任権を認めること

・司教や修道院長は教会法によって選出されること

・指輪と杖など霊的権威の授与は教皇が、教会領などの世俗的権威(笏)の授与は皇帝が行うこと

 

こうして、12世紀前半に両者の対立は一応の妥協を見ましたが、和解とはいえ、神聖ローマ皇帝側が、長年の聖職叙任権をてこに教会を統治するという帝国教会政策を放棄した形となりました。

 

実際、ヴォルムス協約が成立する間にも、ローマ教皇ウルバヌス2世(在1088~1099)は、十字軍(1096~1291)を宣言して教皇権の強さを示しました。その後、第176代ローマ教皇インノケンティウス3(在位:1198~1216年)は、国王や大司教の選任や、王妃離婚問題に介入して、神聖ローマ皇帝オットー4世、イギリスのジョン王、フランスのフィリップ2世を破門にするなど、各国君主を意のままに操れるほどの影響力を持っていました。

 

イギリスのジョン王を破門した事件は、カンタベリー大司教叙任問題が原因でした。カンタベリ大司教の地位は、慣例で、イギリス国王が任命することが続いていましたが、インノケンティウス3世は、その叙任権を行使して、自身の意にかなった人物を大司教に任命したのです。これに反発したジョン王は、教会の所領を没収する措置に出て、ローマ教会と争いとなりました。1209年、破門されたジョン王は、インノケンティウス3世に屈服し、イングランド全土を教皇に献上、いわゆる臣下の礼をとって、改めて封土として領土を受けざるをえませんでした。

 

インノケンティウス3世の時代、教皇権は最高潮に達したと言え、彼自身の「教皇は太陽、皇帝は月」という言葉が、その強さを象徴しています。

 

 

<参照>

カノッサの屈辱(世界の歴史マップ)

カノッサの屈辱(世界史の窓)

5分でわかるカノッサの屈辱

Wikipediaなど

 

 

2020年07月29日

世界史:十字軍

これまで、キリスト教の成立から東西教会分裂までの経緯をみてきました。これからはまず、西方教会であるローマ・カトリック教会の推移をみていきますが、中世の時代の代名詞ともいえる十字軍について解説します。十字軍について知っておくことで、ローマ教皇の政治的な役割や、イスラム教との関わりなどを学ぶことができるからです。

 

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十字軍(Crusades)とは、西ヨーロッパのキリスト教世界による、西アジアのイスラム教世界への軍事活動で、11世紀末から、最終的には十字軍の拠点アッコンが陥落する13世紀末まで、約200年間にわたって展開されました。十字軍の直接の動機は、イスラムのセルジューク朝の侵攻にさらされていたビザンツ帝国の皇帝アレクシオス1世が、1095年にローマ教皇に援助を要請したことによります。

 

セルジューク朝は、1071年のマンジケルトの戦いでビザンツ軍を敗った後に、ビザンツ帝国領小アジアへの進出を本格化させていました。イスラム勢力は、637年に、キリスト教の聖地エルサレムをも占領し、さらにビザンツ帝国に迫っていました。(もっとも、エルサレムはイスラム教徒にとっても聖地)。

 

そこで、助けを求められたローマ教皇ウルバヌス2世は、1095年11月27日に、クレルモン宗教会議を開き、セルジューク朝から聖地エルサレムを回復させるという宗教目的の下に、十字軍の派遣を提唱しました。「十字軍」という名称も、参加した兵士が胸に十字架の印を付けていたからです(「聖戦」と考えられていた)。

 

当時、11世紀から13世紀の西ヨーロッパにおいて、ローマ教皇の権威は、神聖ローマ帝国(いまのドイツ)の皇帝を破門して屈服させるなど、皇帝を上回っていました。この教皇の呼びかけに対して、国王、諸侯、商人など様々な人々が応じました。彼らは、少なくとも当初は、宗教的情熱という共通する動機は共有していましたが、それぞれ違った思惑をもって参加しました。

 

参加を呼びかけたローマ教皇は、これを機会に、聖地奪回に加えて、1054年に互いに破門し合って東西に分離したキリスト教会を再び統一し、ローマ教会の主導権を確保することを目指していました。国王や諸侯は領地や戦利品の獲得が目的でしたし、べネチアなどのイタリア商人は、十字軍にからんで大儲けしようと商業的利益をもくろんでいました。さらに、援助を請うたビザンツ皇帝も、自国領の小アジアに侵入したセルジューク朝の勢力を排除するために、西ヨーロッパの軍隊(十字軍)の力を利用しようと考えていたのです。

 

さて、クレルモン宗教会議で教皇ウルバヌス2世によって提唱された十字軍は、1096年7月の第1回から、一般に1270年の第8回まで展開されました(7回または9回とする計算の仕方もある)。

 

 

  • 第1回十字軍(1096年-1099年)

 

1096年7月、ウルバヌス2世の十字軍運動の呼びかけに応じたフランス・ドイツ・南イタリアの国王や諸侯や一般般の民衆までもが参加して、第1回十字軍が編制されました。各軍団は、それぞれコンスタンチノープルに向かい、そこでビザンツ皇帝アレクシオス1世に臣従の形式をとり、ビザンツ軍と合同して、戦いました。まず、ニケーアを落とし、アンティオキアを占領、シリアに入り、1099年7月にエルサレムを陥落させ、エルサレム王国を建国しました。

 

十字軍による虐殺・迫害

ただし、この時、エルサレムの城内に突入した十字軍兵士は、非戦闘員も含めて大虐殺を行い、略奪をほしいままにしたと記録されています。アラブ側の史料に拠れば「虐殺・略奪は1週間に及び、7万人以上の人が殺され、岩のドームの財宝は空になった」と言われています。

 

虐殺されたのは、アラブ人・トルコ人・エジプト人・エチオピア人などのイスラーム教徒だけでなく、ユダヤ人も含まれていました。「エルサレムを奪回しようとする今、ユダヤ人のために血を流すことになったイエスの復讐をしよう」などと煽動された民衆が襲撃したと解されています。

 

エルサレム以外でも、ドイツのライン地方の都市でユダヤ人居住区のシナゴーグが襲撃され、多くが殺されるなど、ヨーロッパにおけるユダヤ人への本格的な迫害が、十字軍運動が盛り上がったのと同じ時期に始まっています。

 

 

十字軍国家

また、この第1回の十字軍以来、セルジューク朝などのアラブ側から奪った征服地のシリア・パレスチナ沿岸に、エルサレム王国だけでなく、エデッサ伯国、アンティオキア公国、トリポリ伯国といったローマ・カトリックを信仰する「十字軍国家」が建設されました。ヨーロッパの封建制度を導入し、名目的に、エルサレム王国の国王が、他のエデッサ伯、アンティオキア公、トリポリ伯を封建領主として封土を与えるという形をとられました。

 

エデッサ伯国

1098年に建国。ユーフラテス川上流のメソポタミア地方の北辺(ジャジーラ)にあたり、エデッサ伯国は十字軍国家の最も北に位置する国家であった。1144年、イスラーム勢力によって奪回された。

 

アンティオキア公国

1098年に、シリア北部に建国。十字軍の占領した最大の都市であった。170年にわたってキリスト教国として存続したが、1268年にマムルーク朝によって滅ぼされた。

 

トリポリ伯国

1109年、トリポリは地中海に面したレヴァント(現在のレバノン周辺)に建国。その後伯位をその子孫が継承し、アンティオキア公国が滅亡した後も、いくつかの都市を統治して生き延びたが、1289年、マムルーク朝軍によって陥落、破壊された。

 

 

  • 第2回十字軍(1147年~1148年)

 

この十字軍国家のうち、エルサレム王国のエデッサ伯国は、1144年にトルコ系のザンギー朝によって滅ぼされてしまいました。これを受けたシトー派修道士の聖ベルナールの呼びかけに応じ、フランス王ルイ7世とドイツ王コンラート3世らが、1147年に第2回十字軍を編制しました。この時の十字軍の特徴としては、国王が主体となって十字軍が組織されたことや、騎士団が初めて十字軍に参加したことなどがあげられます。

 

騎士団とは

修道と騎士精神を滋養しつつ、病気などになった巡礼者の巡礼保護や、聖地の防衛を目的として形成された団体で、十字軍の進展に伴って発展していった。イスラム教徒の軍事力に対する劣勢を補う役割を担い、実質的な常備軍として、エルサレムや十字軍国家内に駐屯し、キリスト教諸国家の防衛に当たった。騎士修道会ともいわれ、テンプル騎士団(1119年創設)、ヨハネ騎士団(1113年認可)、ドイツ騎士団(1199年公認)が三大騎士団として有名です。第二回十字軍ではテンプル騎士団が初参加した。

 

第2回十字軍は、陸路を取り、コンスタンティノープルを経て、アンティオキアに入りましたが、そこから、エデッサ伯国ではなく、聖地巡礼を望む国王らの意向で、エルサレム王国に向かい、キリストの墓(聖墳墓)のある聖墳墓教会で祈ることができました。その後、イスラーム勢力側の拠点ダマスクス攻略を目指しましたが、1148年、ザンギ―朝軍の反撃を受け、失敗に終わりました。

 

一方、イスラム側では、12世紀後半、エジプトに、サラディン(サラーフ=アッディー)がアイユーブ朝を興すと、自らをスルタンと名乗りました。サラディンは、1187年、エルサレム王国軍との戦い(ヒッティーンの戦い)に勝利し、聖地エルサレムは奪還されました。

 

 

  • 第3回十字軍(1189年~1192年)

 

エルサレムを奪われたことを知ったローマ教皇は、ただちに十字軍の派遣を呼びかけ、前回と同じく民衆の巡礼団と封建領主軍が編成された。今回は、イギリスの獅子心王と異名をとるリチャード1世、ドイツの赤ひげ帝・フリードリヒ1世、フランスの尊厳王・フィリップ2世といった英仏独三国の有能な君主が参加するなど、大規模な編制となり、聖地再奪回への意気込みを見せました。

 

しかし、1189年、遠征が開始されると、赤ひげ帝フリードリヒ1世は小アジアで事故で死去し、ドイツ兵も大半が引き揚げてしまいました。そうした中、イギリス王リチャード1世は、キプロス島を拠点として海上からアッコンを攻撃し、1191年7月、奪回に成功しました。その後、リチャード1世とフィリップ2世は、仲が悪く、フィリップ2世は本国に引き揚げてしまい、単独で戦うこととなったリチャード1世は、聖地エルサレムを回復をすることはできず、1192年9月、サラディンとの間で3年間の休戦協定を結び、遠征を終えました。

 

講和条約では、十字軍はエルサレムがアイユーブ朝の主権下に置かれることを認める一方、キリスト教徒は、通行証を受け、平穏に聖地に巡礼することができるようになりました。なお、今回の遠征で奪回したアッコンが、エルサレム王国の都として存続することになりました。

 

一方、神聖ローマ皇帝(ドイツ王)フリードリヒ1世が、十字軍の途上に事故死したことで、ローマ教皇と神聖ローマ皇帝の力関係に大きな変化が生じ、ローマ教皇インノケンティウス3世の権威は最高のものとなりました。「教皇は太陽、皇帝は月」と豪語したと言われています。

 

 

  • 第4回十字軍(1202年~1204年)

 

東西教会を統一させることをめざすインノケンティウス3世(在1198年~1216年)は、教皇権が全盛となった機会に、教皇権のもとに西ヨーロッパを統合する目的で、十字軍の派遣を提唱しました。

 

しかし、1202年に開始された第4回十字軍は、事もあろうに、聖地エルサレムではなく、コンスタンティノープルに向かいました。それは、今回の十字軍の主力であったフランドルやシャンパーニュの北フランスの諸侯軍の輸送を請け負ったべネチアの商人たちの謀略だったとされています(一説には、北フランス諸侯軍が運賃を払えなかったことを利用したと言われる)。当時、コンスタンチノープルは、100万の人口をほこり、東西貿易の要として繁栄を続けていました。そこで、ベネチア商人たちは、コンスタンチノープル商人の権益を奪い取り、東方貿易独占しようと目論んだのです。

 

1204年、十字軍は、コンスタンティノープル、さらに周辺の都市やエーゲ海の島々を攻撃し占領、掠奪し、ラテン帝国を建設しました。これは、十字軍の本来の目的から大きく逸脱する行為でした。

 

 

東西教会の最終分裂

 

この十字軍の「暴挙」によって、ローマ・カトリック教会と東方正教会の分裂を決定的にしました。両者は、1054年に教義上の対立から互いに破門し合い、東西教会は袂を分かちましたが、それでもまだ交渉は続き、修復の試みがなされていました。

 

しかし、十字軍は、コンスタンティノープルを占領したことで、両者の対立は修復困難な状態となってしまいました。ラテン帝国によってコンスタンティノープル総主教は廃位され、教会や修道院の財産が没収されるなどの東方教会への弾圧が加えられたのです。さらに、コンスタンチノープル攻撃の報を受けたインノケンティウス3世は、当初、激怒し、十字軍を破門にしましたが、成功したことを知ると破門を解いて十字軍を祝福したのでした。

 

(なお、この後、1212年には少年十字軍という運動もあった。)

 

 

  • 第5回十字軍(1217年~1221年)

 

1204年にコンスタンティノープルを攻略した第4回十字軍が、エルサレム攻略に向かわないのに失望したローマ教皇インノケンティウス3世(在1198年~1216年)が、新たな十字軍の招集を呼びかけました。公式には、新たに教皇となったホノリウス3世の提唱で、第5回十字軍が召集された形となり、アイユーブ朝の本拠であるエジプトの攻略を目指しました。当初(1218年)、エジプトの海港、ダミエッタ(ディムヤート)の占領に成功しましたが、カイロ攻略に失敗し占領地を返却して撤退しました。

 

なお、第5回の十字軍は、ローマ教皇主導で行われた最後の十字軍となりました(これ以降の十字軍は各国王の主導による)。

 

 

  • 第6回十字軍(1228年~1229年)

 

この十字軍は、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が編制した十字軍です。フリードリヒ2世は、ローマ教皇グレゴリウス9世から十字軍実施を条件に皇位を授けられた皇帝でした。ところが、フリードリヒ2世は、教皇の度重なる催促にもかかわらず応じようとしなかったので、グレゴリウス9世から破門されてしまいました。

 

こうした背景下、1228年になってついに、フリードリヒ2世は、破門されたまま遠征を開始しました。アラビア語も理解する開明的な人物として知られるフリードリヒ2世は、巧みな外交術を駆使し、交渉によって、1229年2月、アイユーブ朝とヤッファ条約を締結し、戦闘を交えることなく聖地エルサレムを回復することに成功しました。

 

具体的には、ウマルのモスクとアル・アクサ寺院などイスラムの聖堂が集まっている地域の管轄権はイスラムが保持するとの条件で、聖墳墓教会の管理権を含むエルサレムと海岸に至る周辺の統治権を奪回したのです。その合意後、フリードリヒ2世はエルサレム王国の国王として入城しました。

 

(フリードリヒ2世の十字軍は、ローマ教皇の主導権によるものではなかったので、「フリードリヒの十字軍」、「破門十字軍」としか呼ばれない場合もある。)

 

しかし、教皇グレゴリウス9世は、フリードリヒ2世が破門を解かれないままエルサレム国王になったことを口実に、フリードリヒ2世に対する十字軍を実施しました。しかし、フリードリヒの皇帝軍に撃退されたため、グレゴリウス9世は、1230年にフリードリヒの破門を解かざるをえませんでした。

 

  • 第7回十字軍(1248年~1249年)

 

フリードリヒ2世と平和条約を結んだアイユーブ朝のスルタン、アル=カーミルが死去すると、1244年にエルサレムは、イスラム勢に攻撃されて陥落し、三度イスラムの支配するところとなりました。

 

これを受け、1248年に、聖王と呼ばれるほど敬虔なキリスト教信者であったフランス国王ルイ9世が主唱して、十字軍を興しました。ルイ9世も、イスラム側の拠点、エジプトへと遠征しましたが、首都カイロを目指す途中の1250年2月にマンスーラの戦いにおいてアイユーブ朝のサーリフ(サラディン2世)に敗北して捕虜になってしまいました。

 

しかし、交渉途中にサーリフは死亡し、アイユーブ朝は、軍人集団のマムルークのクーデターによって打倒され、新たにマムルーク朝が成立しました。結果的に、ルイ9世も莫大な身代金を払って釈放されました。

 

モンゴルと同盟!?

ルイ9世は、1241年のワールシュタットの戦いで、ポーランド・ドイツ連合軍を破ったモンゴル帝国と提携し、イスラム勢力を挟み撃ちにするという遠大な構想を抱いていたと言われていますが、実現しませんでした。

 

第7回十字軍後、マムルーク朝には、サラディンと並ぶ中世イスラムの英雄とされるバイバルス(在位 1260~77)がスルタン(君主の称号)になりました。バイバルスは、シリアにあるキリスト教都市に対して攻勢をかけ、1268年にはアンティオキアを陥落させて、アンティオキア公国は完全に壊滅しました。

 

 

  • 第8回十字軍 (1270年、1271~72年)

 

アンティオキア公国の崩壊を受け、1270年、フランス王ルイ9世が、第8回の十字軍を起こし、再度出兵しました。ただし、目指した先は、マムルーク朝の本拠のカイロではなく、当時ハフス朝(ベルベル人のイスラム王朝)の支配下にあったアフリカ北岸(チュニジア)のチュニスでした。チュニジアのスルタンは、以前からキリスト教に理解を示し、キリスト教への改宗も考えているといわれているほどでした。そこで、ルイ9世はスルタンを支援してチュニジアを十字軍の供給基地にしようと考えたのでした。

 

十字軍はチュニスに上陸し、イスラム軍と交戦しましたが、チェニスにはチフスが蔓延しており、ルイ9世も感染し、現地で死去してしまいました。

 

一方、残された軍勢の多くは帰国しましたが、1271年、ルイ9世の弟シャルル・ダンジューは、新たに到着したイングランド王太子エドワード(エドワード1世)と共に、アッコンへ向かいました。

 

(この遠征を第9回十字軍と呼ぶことがありますが、第8回からの一連の流れにあるため、第8回十字軍の一部として独立した十字軍とは見なさない場合もあります。前者の場合は、ルイ9世の死をもって第8回十字軍は、最後の十字軍として終了となります。本投稿では後者をとります。)

 

しかし、この十字軍も、マムルーク朝の勢力の前に成果を収めず撤退を余儀なくされてしまいました。以後、十字軍国家は縮小の一途をたどり、1289年にはトリポリ伯国が滅亡しました。その後、十字軍の拠点は、テンプル騎士団らが死守するいくつかの城と、アッコンを首都とするエルサレム王国のみとなりました(エルサレムを首都とした全盛期の10%以下の領土に縮小)。

 

マムルーク朝は1291年、最後のエルサレム王国の都、アッコンに対して総攻撃を行い圧勝、「海に掃き落とす」ように陥落させたそうです。残余の都市も掃討され、騎士団の一部はキプロス島に逃れましたが、住民のほとんどは殺害されたとされています。

 

これによって、11世紀末からはじまった十字軍運動は約200年で終わりを迎え、十字軍国家は全滅しました。ヨーロッパ側がエルサレムを確保した期間は、第1回十字軍の1099年から1187年と、第6回十字軍の1229年から1244年のみということになり、十字軍による聖地奪回の試みは失敗に終わりました(十字軍時代は完全に終わった)。

 

 

キリスト教との関連でいえば、十字軍の失敗によって、教皇の権威が低下し、以後、教皇権の衰退につながっていきました。

 

 

<参照>

世界史の窓

Zorac歴史サイト

Wikipediaなど

 

2020年07月19日

世界史:アメリカ独立戦争とフランス革命

7月は、アメリカの独立戦争と、フランス革命が起きた月です。どちらもその後の世界の歴史に大きな影響を与えた出来事でした。世界の三大市民革命に数えられる、二つの「事件」を概観してみます。ただ、この2つの市民革命が起きた背景には、その約100年前から始まったイギリスとフランスの植民地戦争がありました。今回はこの時代から紐解いてみましょう。

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  • 英仏植民地戦争

 

18世紀は、イギリスとフランスが覇を争った世紀という言い方ができます。舞台は、欧州での戦争に関連した北米とインドでした。

 

イギリスは、1607年に最初の北米植民地ジェームズタウン(バージニア州)の建設に成功し、本国で迫害されていたピューリタン(清教徒)や毛織物工業の失業者などが移民してきました。

 

フランスも17世紀初めから北米に進出し、ケベックを中心にカナダを支配し、ミシシッピ川流域にもルイジアナ植民地を設立しました。18世紀には、ガドループなどカリブ海の砂糖植民地をも発達させました。

 

両国は、以下のように、欧州での戦争に関わりながら、時を同じくして北米やインドの植民地でも争い、ほぼ全ての戦いでイギリスが勝利しました。

 

ファルツ戦争⇒ウィリアム王戦争(北米)

スペイン継承戦争⇒アン女王戦争(北米)

オーストリア継承戦争⇒ジョージ王戦争(北米)

七年戦争⇒フレンチ・インディアン戦争(北米)、プラッシーの戦い(インド)

 

ファルツ戦争(1689~97)

フランスのルイ14世が、ドイツの選帝侯ファルツ伯領の相続問題に乗じて、継承権を主張し、領土の割譲を求めましたが、反対するドイツ諸侯に味方して、イギリスが、スペイン・オランダとともにフランスと戦った戦争。

 

 

スペイン継承戦争(1701~13)

スペインの王位継承をめぐり、ルイ14世が孫をスペイン王に即位させたことから、イギリスはオーストリア、オランダと対フランス同盟を結び戦いました。この戦いに対応して起きた北米でのアン女王戦争の結果、イギリスはフランスからニューファンドランドやハドソン湾沿岸などを獲得しました(ユトレヒト条約)。

 

 

オーストリア継承戦争(1740~48)

オーストリアの女帝マリア・テレジアの継承をめぐり、プロシアのフリードリヒ2世が異議を唱えたことがきっかけとなって、英仏西を巻き込んだ国際戦争に発展しました。イギリはオーストリアと組んで、プロシアを支援したフランス・スペインと対抗しました。

 

 

七年戦争(1756〜1763)

オーストリア継承戦争でプロイセンにシュレジエンを奪われたマリア・テレジアが、その奪回をめざして起こした戦争で、フランスは、ロシアともにオーストリアを支援して、プロシアについたイギリスと戦いました。

 

この時、16世紀以来、宿敵同士であったフランスのブルボン家と、オーストリアのハプスブルグ家が組むという「同盟の逆転」が起きました(「外交革命」と評された)。両家の和解の印として、ハプルスブルク家のマリー・アントワネット(マリア・テレジアの娘)が、フランスのルイ16世に嫁ぎました。

 

七年戦争と並行して戦われた、北米でのフレンチ・インディアン戦争、インドでのプラッシーの戦いは、両国の植民地獲得競争の最終決戦となりました。戦後、イギリスはフランスからカナダとミシシッピ以東のルイジアナなどをえました(パリ条約)。

 

この条約によって、フランスは、一時、北アメリカ大陸での植民地をすべて失いました。逆に、イギリスは、カリブ海の西インド諸島とアメリカ大陸の13植民地を中心とした広大な帝国を完成させました。

 

インドでは、イギリス東インド会社軍が、フランスとムガル帝国ベンガル太守の連合軍を破り、インドにおけるイギリスの優勢を確立しました。敗れたフランスは、インドから撤退し、インドシナ(ベトナム・カンボジア)に進出の方向を求めることになるのです。

 

このように、欧州の覇権を目指すフランスに対して、イギリスがオーストリア、またはプロイセンなどと同盟して戦いました。また、同時にアメリカ新大陸・インド植民地でも両国は衝突しましたが、ほぼイギリスの勝利に終わりました。

 

しかし、負けたフランスは言うまでもなく、勝ったイギリスもこの後、大きな犠牲を払うことになります。両国とも、長い戦いの間に財政がひっ迫、その戦費捻出のために、増税策をとろうとしました。イギリスでは植民地アメリカに対する新たな課税からアメリカの独立、フランスでは特権階級への課税をきっかけに、革命によって政体そのものの倒壊するのです。

 

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  • アメリカ独立戦争

(1774年7月4日:米独立記念日)

 

イギリス人は、1607年のバージニア植民地を皮切りに、1732年のジョージア植民地まで、北アメリカの東海岸地帯に13の植民地を作り入植しました。1619年には、最初の植民地議会がバージニア植民地のジェームズタウンで開かれるなど、18世紀前半までに、イギリスの植民地アメリカは、それぞれ植民地議会や大学の設立といった自治的な政治体制を持っていました。

 

このように、アメリカの植民地の人とその子孫に、本国イギリス国民と同じ権利が与えられるとされましたが、13の植民地それぞれの代表をイギリス本国の議会へ送ることはできませんでした。ですから、植民地の人たちは、イギリス本国の植民地政策に口をはさむことはできなかったのです。こうした状況下、イギリスは、前述したように、度重なるフランスとの植民地戦争による負債を賄うために、植民地アメリカへの課税を強化しました。

 

 

「代表なくして課税なし」

 

イギリスは、1765年、植民地アメリカで発行される証書・新聞・広告などの印刷物に印紙税を課す(印紙を貼る)ことを定めた印紙条例印紙法)を制定しました。これに対して、植民地側は、「代表なくして課税なし」とする反対運動を起こし、条例は翌年、撤回されましたが、1773年4月には、イギリス東インド会社に、植民地アメリカへの茶の専売権を与えた茶法茶条例)を課しました。

 

これに強く反発した植民地側の貿易商人など一部の急進反対派は、同年12月、ボストン港に入港していた東インド会社の船に侵入して、茶箱342箱を海中に投棄する行動に出ました(ボストン茶会事件)。

 

イギリス当局は犯人を捕らえようとしましたが検挙できず、激高したイギリスは、翌1774年、報復措置として、ボストン港閉鎖法など「強圧諸法」を制定し損害賠償を求めました。しかし、反発した植民地側はイギリス製品の不買運動などに立ち上がり、これを拒否、アメリカの植民地代表は、1774年9月、フィラデルフィアで大陸会議を開き、イギリス本国に対抗することを決定しました。

 

 

「独立宣言」と「独立戦争」

 

そんな中、ボストン市民5人(植民地民兵)が、駐留英軍に殺傷される事件を機に、1775年4月、ボストン郊外のレキシントンとコンコードでイギリス本国と植民地民兵とが武力衝突して、アメリカ独立戦争が勃発しました。さらに、植民地側は、同年5月、第2回大陸会議を開き、ジョージ・ワシントンを総司令官とする大陸軍を創設して戦争を遂行します。

 

1776年1月には、トマス=ペインが政治パンフレット「コモン=センス」を発行、「万機公論に決すべし」と唱えて、独立の機運を高めさせます。13植民地の政治的立場はまちまちであったので、世論を一つにして、独立の必要性を訴えたのです。

 

さらに、1776年7月4日、大陸会議で、トーマス・ジェファソンらが起草した「独立宣言」を発して、東部13州の独立を宣言しました。独立宣言では、生命・財産および幸福追求の権利という自然権、主権在民などの基本的人権、社会契約論に立つ政府の役割、暴政に対する革命権などが述べられており、独立の正当性が表明されています。また、随所にジョン・ロックの啓蒙思想の影響が見られていることも特徴です。

 

次いで、植民地側は、1777年11月に連合規約を制定して、国名をアメリカ合衆国としました。ただし、当初のアメリカは、事実上、13の独立共和国の緩やかな連合体に過ぎず、中央政府の権限は弱い状態でしたので、戦争遂行能力に懸念がありました。

 

しかし、アメリカ独立戦争には、フランス、オランダ、スペインが植民地側に立って参戦しました。七年戦争敗北以来イギリスに報復の機会をねらっていたフランスは、1778年、アメリカ合衆国の独立を承認し、軍事同盟を結んで上でイギリスに宣戦を布告しました。1779年、フロリダ回復をねらっていたスペインもフランスの同盟国として対英宣戦を行いました。

 

さらに、アメリカ独立戦争に際して、イギリスは、イギリスを支援しない中立国の船舶を捕獲するという海上封鎖を宣言すると、これに反発したロシアの女帝ロシアのエカチェリーナ2世の提唱で、スウェーデン、デンマーク、プロイセン、ポルトガルの参加する武装中立同盟が、1780年に成立しました。また、多くの義勇兵がヨーロッパ各地から参戦するなど、イギリスは国際的にも孤立していったのです。

 

こうして、戦局はアメリカに有利に作用し、1781年のヨークタウンの戦いで、イギリス軍は大敗を喫すると、アメリカ側の勝利が確定しました(実質的な戦争終結)。その後、1783年にパリ条約が結ばれ、イギリスはアメリカの独立を承認し、ミシシッピ以東の広大なルイジアナを割譲しました。

 

 

合衆国憲法とワシントン大統領

 

独立後のアメリカ合衆国では、連邦政府の樹立を望む声が高まったことを受けて、1787年、ワシントンを議長とする憲法制定会議がフィラデルフィアで開かれ、アメリカ合衆国憲法が制定されました。連邦中央政府の権限を強化する一方、各州の大幅な自治権を認めた憲法は、1788年に9州が批准して発効しました。翌1789年、初代大統領には、植民地軍総司令官として独立戦争を勝利に導いたジョージ・ワシントンが就任し、連邦政府が発足しました。

 

このように、20世紀以降、世界に君臨するアメリカ合衆国が誕生したわけですが、最後に、アメリカの建国に貢献したもう一人の人物を紹介して、次のフランス革命に進みたいと思います。その名は現在、米100ドル紙幣の肖像画にもなっているベンジャミン・フランクリンです。

 

フランクリンは、1774年の独立宣言の起草委員を務め、1776年には大陸会議の代表としてフランスに渡り、フランスの対英参戦に向けて尽力したとされています。1783年のパリ条約(1783)の締結交渉にも参加するなど、アメリカ合衆国の建国に向けて内外を奔走しました。

 

 

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  • 絶対王政期のフランス

 

アメリカの独立戦争(独立革命)に続き勃発したフランス革命を解説する前に、革命を誘発させる原因となったフランスにおける絶対王政期の状況を見てみましょう。フランスの絶対王政といえば、ブルボン家のルイ14世が連想されると思います。

 

フランスの絶対王政は、ルイ14(在1643~1715)のときに黄金時代を迎えました。ルイ14世は、5歳で即位し、当初、宰相マザランが補佐しました。マザランは、まず、ドイツの宗教戦争である30年戦争(1618~1648年)に干渉し、アルザス地方を獲得するなどライン川方面に領土を拡大する成果をあげました。対内的にも、増税政策に反発したフロンドの乱(1648~53年)と呼ばれる貴族たちの反乱も起こりましたが、鎮圧後は絶対王政が強化されました。

 

ルイ14世は、宰相マザランの死とともに、1661年に(君主が自ら政治を行う)親政を開始しました。内政では、強力な軍隊を背景に、また思想的には(国王の権力は神から授けられたとする)王権神授説に基づいて、王権を強化しました。壮大なべルサイユ宮殿が建造されたのもこの時代です。

 

実質的に政策の舵をとったのが、蔵相(財務統監)コルベールで、官僚制を整備し、王政を支える富の源を商業に求め、重商主義政策をとりました。国内の商工業、特に大商人を保護・育成するために、主要産業の国家統制や、特権マニュファクチュアの設立を行いました。

 

ところが、カトリック教徒であるルイ14世は、カルバン派(フランスではユグノーと呼ばれた)の信仰の自由を認めたナントの勅令を1685年に廃止し、商工業者の多数を占めるユグノー勢力を弾圧します。そのため、ユグノーらは海外へ亡命し、フランスの経済に深刻な打撃を与えました。こうした国内の不満をそらす目的もあって、前述したファルツ継承戦争やスペイン継承戦争など数度の侵略戦争を行いました。

 

また、次のルイ15(在1715~74)の時代でも、フランスは、オーストリア継承戦争と七年戦争にからみ、北米やインドでの植民地戦争を継続させました。加えて、ルイ16(在位1774~92)の時代では、アメリカの独立戦争で、スペインなどとともに植民地側を支援し、イギリスに参戦しています。

 

しかし、度重なる対外戦争や干渉戦争で、国民は疲弊し、財政も窮乏したことは、フランス革命の遠因となったことは既に説明した通りです。もっとも、財政の悪化を受け、ルイ16世は、テュルゴーやネッケルらを蔵相に任命し、財政改革を試みましたが、特権身分の抵抗により失敗に終わっています。

 

 

  • フランス革命

(1789年7月14日)

 

「旧体制」と「三部会」

革命前のフランスでは、第一身分の聖職者、第二身分の貴族、第三身分の商工業者、都市民衆、農民など平民から構成されたアンシャン=レジーム(旧体制)と呼ばれた政治社会制度が成り立っていました。

 

そのアンシャン・レジーム(旧体制)にあって、絶対的な権力を握っている国王と、免税特権をもっていた第一身分と第二身分の特権階級の下で、重税に苦しんでいた都市の民衆や農村の小農貧困層(平民)が、暴動を起こすなど不安定な状態が続いていました。

 

一方、第一身分から第三身分の代表者が出席する「三部会」という身分制議会も存在していましたが、絶対王政が確立した17世紀のルイ14世の時代には、三部会は召集されませんでした。ところが、18世紀に財政難となった国王ルイ16世が免税特権を有していた聖職者や貴族に課税を試みると、彼らは国王に対して、三部会の召集を要求します。これを受け、1789年5月、国王は、三部会を約170年ぶりに開催されたのです。

 

 

「国民議会の結成」と「球技場の誓い」

 

しかし、特権を持つ第一・第二身分と、第三身分は議決方法をめぐって対立し、会議は分裂してしまいました。そこで、憲法を制定して改革を求める第三身分の代表は、三部会を脱退し、三部会から独立した国民議会を結成しました。彼らは、国民議会(憲法制定国民会議)こそ国民を代表する機関であると宣言し、1789年6月、「憲法が制定されるまで解散しない」との誓いを、ベルサイユ宮殿内の球技場に集まり、宣言します(テニスコートの誓い球技場の誓い)。この国民議会に、第一身分、第二身分の中から合流する者もでてきました。

 

 

「バスティーユ牢獄の襲撃」と「人権宣言」

 

この時、ルイ16世は、会議場を閉鎖して妨害し、国民議会を武力で弾圧しようとしたことから、これを知ったパリ民衆の絶対王政に対する不満は頂点に達し、1789年7月14日、圧政の象徴とされていたバスティーユ牢獄が襲撃されました。フランス革命の勃発です。この事件を契機に、全土で農民蜂起も起きました。

 

1789年の8月4日、国民議会は、国王の封建的特権の廃止を決定し、フランス人権宣言を採択しました。宣言では、アンシャン・レジーム(旧制度)の解体と、自由・平等に基づく基本的人権、国民主権、所有権の不可侵などの理念が明らかにされました。

 

 

ヴァレンヌ逃亡事件

1789年9月には、女性を中心とする市民が、ヴェルサイユ行進を行い、ルイ16世一家をヴェルサイユ宮殿からパリのテュイルリー宮殿に連行しました。幽閉という状態ではありませんでしたが、革命の進展に不安を抱いた国王夫妻は、1791年6月、王妃マリー=アントワネットの実家のオーストリアへ逃亡しようと密かにパリを脱出しましたが、途中で発見されて連れ戻されました。ヴァレンヌ逃亡事件と呼ばれるこの出来事で、国王は国民の信頼を失いました。

 

 

「1791年憲法」と「立法議会」

 

一方、革命は進展し、人権宣言を踏まえ、1791年9月にフランスにおける最初の憲法(1791年憲法)が制定されました。憲法は、(王政下で憲法に準ずる政治体制である)立憲君主政を謳い、(男子)制限選挙制(財産資格選挙)などが規定されました。憲法を制定して役割を終えた国民議会は解散し、1791年憲法に基づき、新たに立法議会が召集されました。

 

立法議会では、はじめ立憲君主派のフイヤン派が優勢でしたが、ヴァレンヌ事件で王政そのものを否定する声が高まり、やがて穏和(王政を認めない)共和派のジロンド派が主導権を握るようになりました。

 

フイヤン派:立憲君主政を主張(国王の処刑に反対)

ジロンド派:穏健な共和派(国王の処刑に反対、革命の深化に反対)

ジャコバン派:急進的な共和派(国王の処刑や封建制の無償廃止を主張)

(共和派は王政に反対)

 

 

対外オーストリア戦争

 

外交面では、1792年3月に成立したジロンド派内閣は、1792年4月20日、革命を非難したオーストリアの干渉を排除するために、オーストリアに対して宣戦しました。(形式的には、国王が議会でオーストリアに対する宣戦布告を提案、議会は満場一致で可決した)。オーストリアと同盟関係にあったプロイセンがフランスに宣戦して、革命戦争が始まりました。

 

しかし、フランス軍は旧体制下の国王軍を主体にし、指揮官には貴族出身者が多く、兵士も戦闘意欲に欠け、各地で敗戦を続けました。このままではオーストリア・プロイセン軍が国境をこえ、パリは占領される情勢となりました。フランス国内でも反革命の暴動が起こり、革命は大きな危機に陥ります。

 

しかし、同年7月、議会は「祖国は危機にあり」という非常事態宣言を行うと、各地の義勇兵が、続々とパリに集まってきました(この時、マルセイユからやってきた義勇兵たちが歌っていたラ=マルセイエーズは後にフランス国歌になったと言われている)。また、パリではこのころからサンキュロットといわれる革命派の下層市民も、運動を開始しました。

 

 

8月10日事件

 

このような情勢の中で、1792年8月10日、ジャコバン派(急進共和派)の指導の下、パリのサンキュロットが義勇兵とともに蜂起し、テュイルリー宮殿に進撃しました。市街戦の結果、宮殿は陥落し、この時、議場に逃れようとした国王ルイ16世一家は捕らえられました(「8月10日事件」、あるいは「第二革命」とも評される)。

 

立法議会は、王権の一時停止と、新憲法制定のために立法議会に代わる新しい「国民公会」の開設を決議して解散します。臨時内閣には、蜂起を扇動したジャコバン派(山岳派)のダントンは、「8月10日の男」と呼ばれ脚光を浴び、司法大臣に任命されました。また、この時、国王一家はタンプル塔に監禁される事になりました。

 

 

ヴァルミーの戦い

 

一方、オーストリアとの対外戦争では、8月11日、プロイセン軍が国境を越えてフランス侵入、9月始めには首都近郊のヴェルダンを陥落させるなど、パリに迫ってきました。しかし、1792年9月20日に、パリ東部のヴァルミーの戦いで、義勇兵中心のフランス革命軍が、反革命を掲げるオーストリア・プロイセン連合軍に勝利し、危機は回避されました。(この時、ルイ16世夫妻は投獄された)。

 

<逸話>

ヴァルミーの戦いとゲーテ

 

ヴァルミーの戦い(1792年9月)には、ドイツの文豪ゲーテ(1749~1832)もプロイセン軍中にいた。ゲーテは、フランス勝利を受け、「ここから、そしてこの日から、世界史の新しい時代が始まる」と記したとされる。

 

ゲーテ(1749~1832):シラーと並ぶ独ロマン主義文学の巨匠。作品に「若きウェルテルの悩み」「ファウスト」などがある。

 

 

 

「第一共和政」と「恐怖政治」

 

また、9月20日は、フランスで初めて実施された男子普通選挙後、国民公会が召集された日でした。新議会では、外国勢力の干渉に対する「革命の勝利」の勢いのまま、王政の廃止を決議し、フランスは、ロベスピエールらジャコバン派主導で第一共和政(1792~1804)に移行しました。

 

 

*共和政:国家の主権が君主(国王)ではなく、貴族やブルジョワジーなど複数の人間に属している政治体制。現在のフランスは第五共和制である。

 

*ルソー(1712~78):フランス革命期の思想家の代表。その著書「社会契約論」で、人民主権に基づく共和制を主張、特にジャコバン派に影響を与えた。

 

 

その翌年1793年の1月には、ルイ16世が革命勢力によって処刑され、以後、ロベスピエールらによる「恐怖政治」(=ジャコバン派の独裁政権)が行われていきます。国王の処刑は、革命の波及を恐れる君主国であるオーストリア、プロイセン、スペインや、フランスの大国化を恐れるイギリスなど周辺国の利害が一致し、ヨーロッパ諸国は、第一回対仏大同盟(1793~97)を組んで、フランスの革命政権を打倒することを目指しました。

 

一方、1793年6月には、ジャコバン政権は、憲法(1793年憲法ジャコバン憲法)を制定しました。古い伝統が否定され、自由・平等、所有の自然権、人民主権、人民の労働または生活を扶助する社会の義務、抵抗権の保障が謳われました。また、男子普通直接選挙制、重要法案に対する一種の人民投票を定めるなど、極めて民主的な内容で、フランス憲法史上初の人民投票で成立しました(ただし、当時の非常事態のため、実施が延期され、結局は施行されなかった)。

 

その一方で、革命防衛の理念に基づき、徴兵制が実施され、フランス軍が国民軍に変身しました。この結果、対仏大同盟による近隣諸国との戦局をフランス優位に転換させることに成功しました。それでも、フランス革命の情勢は、国内でも農民の反乱が頻発するなど、内外ともに危機にあったと言えます。

 

そこで、ロベスピエールらジャコバン派は、内政と戦争などの権限を公安委員会に、また反革命運動を取り締まる権限を保安委員会に集中させ、革命の成就を最優先させました。また、革命裁判所に、予審、弁護人、証人無しでの裁判を認めるなどして、反革命勢力の根絶を目指しました。王妃のマリ=アントワネットなど旧王族、ジロンド派の幹部など政敵、反乱に加わった多数の農民ら多数が処刑されました。

1794年に入ると、ジャコバン派内部でも、革命路線から外れたとして、ダントンら有力者がギロチンに送られました。4月には、独裁体制を強め、ロベスピエールの恐怖政治は頂点に達しました。

 

しかし、ロベスピエールの余りの急進的なスタンスに、それまでジャコバン派を支えていたパリ市民のサンキュロットや、国民公会の多数がロベスピエールから離反していきました。そして、ロベスピエールも、1794年7月のテルミドールの反動(テルミドールのクーデター)で失脚し、ギロチンで処刑され、恐怖政治は終わりを告げました。

 

 

総裁政府とナポレオン

 

ロベスピエールら急進派の粛清によって、過激な革命運動は沈静化し、穏和共和主義者らによる総裁政府(1795~1799)が、1795年憲法によって成立しました。1795年憲法は、私有財産の不可侵を掲げ、ブルジョワ有産者階級の利益を守ることが目指されました。政府は5人の総裁からなる集団指導体制がとられ、二院制の議会が立法を担当しました。選挙制度は一定の納税者のみによる制限選挙で間接選挙でした。

 

総裁政府は、王党派による王政への復帰や、共和派によるジャコバン独裁の再現を防止する意図も持っていましたが、常に、左右両派から脅かされることになりました。

 

1795年10月、王党派は、総裁政府の転覆をねらってパリで武装蜂起しましたが、当時26歳の軍人、ナポレオンが鎮圧しました(ナポレオン台頭のきっかけ)。1796年春には、革命家のバブーフが、私有財産制の廃止を唱えて武装蜂起し政府を転覆しようとしたという容疑で逮捕される「バブーフの陰謀」事件が発生しました。

 

このように、穏健な総裁政府による治世で、国内での政情不安が強まり、また対仏包囲網が続くなど、対外的にも不安的な状況下、強力な指導力と軍事力を持った指導者が待望されるようになりました。これに応えたのが、王党派の反乱を鎮圧した後、国内軍最高司令官に抜擢されていた将軍ナポレオン=ボナパルトです。ナポレオンは、1799年11月、共和暦ブリュメール18日のクーデターで総裁政府を打倒、自らを第一統領とする統領政府を樹立し、革命の終結を宣言しました。

 

こうして、バスチーユ牢獄への襲撃から始まったフランス革命は、ナポレオンの台頭によって、ようやく終結に至ったのでした。この後、欧州は、皇帝ナポレオンの時代を迎えます。

 

 

フランス革命とは?

では、最後に、フランス革命の歴史的な意義を考えてみましょう。

 

フランス革命は、アンシャン・レジーム(旧体制)下、社会の矛盾、貧困に対する民衆の蜂起で、長年の封建的社会体制を打破しました。結果として、財産権や営業の自由など経済の自由を獲得したブルジョワジー(新興市民層)が、革命の担い手となり、歴史の表舞台に立ちました。また、この革命は、自由・平等・友愛の理念ともに、民主主義の端緒を開いた近代史上もっとも重要な事件として、歴史的に高く評価され、世界各国国民に大きな影響を与えました。

 

ただ、その一方で、イギリスの思想家バークは、フランス革命を、伝統的な価値感を破壊しただけに過ぎないと批判し、その後の保守主義の潮流が生まれたという側面も記憶に留めておくべきでしょう。