古代オリンピック:ゼウスの神域・オリンピアの祭典

 

19世紀末に始まった「近代オリンピック」に対して、ギリシャを発祥とするオリンピックは「古代オリンピック」と呼ばれます(戦前の日本では「オリムピック」と表記された)。これまで、「古代オリンピック:ゼウス神殿、神々への奉納」と題して紹介した、古代オリンピックの歴史を、2024年7~8月のパリオリンピック・パラリンピック開催を機に内容を刷新してお届けします。

 

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  • 古代オリンピックのはじまり

 

古代オリンピックは、近代以降のオリンピックのようなスポーツの祭典ではなく、全能の神ゼウスに捧げる神事として行われた競技祭(「オリンピア祭典競技」)で、ギリシャの首都アテネの北西、ペロポネソス半島にあるエリス地方に位置するオリンピア(オリュンピア)で開かれていました。「オリンピック」は、そのオリンピア(オリンポス)の名前を冠して命名されたものです。

 

オリンピアの遺跡

古代ギリシャでは、オリュンポス12神をはじめ、たくさんの神々を祀り、神殿を建て、神々に縁の物(生贄)を供える習慣がありました。その神々の中で一番力があるとされていたのが、全知全能の神で、天を司り、雷(雨や水)を支配したゼウスです。オリュンピア(オリンピア)は、そのゼウスの神域で、紀元前5世紀(紀元前433年ごろ)、ゼウス神殿が建立されました。

 

ゼウス神殿の奥(内部)には、世界七不思議の1つとされる、豪華な黄金と象牙で出来た巨大なゼウス像が彫造されてしました。金を用いてゼウスの衣服や王冠、頭のリボンなどを飾り、象牙を贅沢に使ってゼウスの胴体と頭を、またゼウスの手の上には勝利を告げる女神ニケ像も作られました。何が「不思議」なのかといえば、ゼウス像は12mを超えるとも言われた建造物の驚くべき巨大であったことで、紀元前5世紀の歴史家ヘロドトスが旅行記などで紹介していました。

 

なお、十二神が住むとされているオリンポス山は、ギリシア北部にある山で、オリンピアとは異なります。

 

一方、現在残されているオリンピアの遺跡は、ローマ時代のもので、ギリシャ時代の全体の作りはわかっていませんが、祭壇や神殿などがある神域と、クロノスの山に沿って広がる競技場(スタディオン)や闘技場(パレストラ)、神域とクラデオス川の間に選手たちの練習場だった体育施設(ギムナシオン)や宿泊施設(レオニデオン)、さらに評議会場(ブレウテリオン)などスポーツ関連の区域(空間)に分かれていました。

 

神域の真ん中にはゼウス神殿があり、それを正面にして左手には勝利の女神ニケの像が、右手にはゼウスをはじめとする神々へ捧げる生贄のための祭壇と宝物庫があり、その奥にはゼウスの妻であるヘラの神殿があります。

 

ヘラ神殿は、紀元前7世紀に建てられたギリシャでも最古級の神殿です。なお、近代オリンピックで、聖火の採火式が行われるのは、このヘラ神殿です。ここで凹面鏡を使って灯され、世界の開催地へ運ばれますが、この聖火を点灯する式典(セレモニー)や開会式は、古代オリンピックでは行われていませんでした。

 

もっとも、古代オリンピックでも、聖火は灯されていました。ギリシャ神話では、プロメテウスという神が、ゼウスから天界の火を盗んで人間に与えたので、人間は火を使うようになったという逸話があります。そのため火は神聖なものと考えられ、古代オリンピックの期間中、ゼウス神殿やヘラ神殿など開催地のオリンピアの神殿には火が灯され続けたそうです。

 

 

  • 古代オリンピックの起源

 

古代オリンピックの起源は諸説あります。神話上では、ホメロスの叙事詩「イリアス」の英雄アキレスが、BC1250年頃、トロヤ戦争(トロイヤ戦争)で没した友人パトロクロスの死を弔うため墓前競技(葬送競技)(英霊を弔う目的で墓前にて行われる競技)を行ったという神話上の起源説があります。

 

また、ゼウスの子で、ギリシャの国民的英雄ヘラクレスが、エリス王アウゲイアスと戦い、勝利した記念としてオリンピアにゼウス神殿を建て、生贄を捧げて、その地で競技会を行ったという説も有力です。

 

いずれにしても、オリンピアでは、紀元前1000年頃からゼウス神に捧げる競技祭が行われていたとされています。

 

一方、紀元前884年頃のエリス地方に残るオリンピック伝説も広く知られています。その頃、エリス地方は、戦争によって国土が荒廃しただけでなく、流行病が蔓延して人口減少に直面していました(結果として、オリンピア競技も長く行われていなかった)。この時、オリンピアを治めていたエリスの王イピトス(イフィトス)が、デルフォイ(デルフィ)のアポロン神殿で、”戦争をやめてオリンピアのゼウス神殿の祭典を復活させよ(オリンピア競技を復興させよ)”との神託を受けました。

 

これを受け、敵対していたポリスは、休戦協定を結び、オリンピア祭(競技会)が開かれたそうです。当時、神託は守らなければ、神罰が下されると見なされたことから、各ポリスはこれに従い、古代オリンピックが「復活」したというのですね。

 

もっとも、記録として残されている最古のオリンピック競技会は、紀元前776年の協議会で、これが、後世、第1回古代オリンピックとして記録され、以降4年に1度、小麦の刈り入れが終わった農閑期の8月下旬に行われるようになりました。

 

開催期間が8月下旬であった理由は、農業に従事する人々が多かったため、暮らしにあまり影響がない時期が選ばれたということと、同時に、古代ギリシア人が、月の満ち欠けをもとにした太陰暦を使っていたことと関係があると指摘されています。詳細は不明ですが、暦を司る神官の決定によって、当初、8年ごと(太陰暦では8年3カ月)に祭典が開かれるようになり、後に半分の4年周期となりました。また、太陰暦で。夏至のあとの2度目または3度目の満月の日がちょうど祭典の3日目になるように(後述)計算されていたそうです。

 

 

  • オリンピックの「聖なる休戦」

 

ただし、古代ギリシャにおいて、小麦の収穫が終わった夏というのは、食糧を求めて隣のポリスの収穫を奪い合うといったように、ポリス(都市国家)同士の戦争が続く時期でした。そこで、オリンピックの開催期間は、「聖なる休戦(期間)」とされ、一切の戦争は禁止されました。オリンピアの祭典は、ゼウスへの奉納という宗教的に大きな意味があったので、戦争を中断してでも参加することが優先されました。

 

人々は、古代オリンピックに参加するために、ギリシア全土から、またのちに、シチリアやスペインなどの地中海世界各地に広がっている植民都市から、オリュンピアへ集まってきました。したがって、休戦は、平和のためだけでなく、選手や観客など大会参加者が安全にオリンピアとの往復ができるようにする配慮から決められたものでもありました。

 

開催日が決まると、休戦を告げる、オリーブの輪をいただいたオリンピック停戦布告の3人の使者・スポンドフォロイ(休戦運び人)が、「オリンピックに参加する都市国家(ポリス)と植民地はすべて、武器を取ることを放棄すべし」と休戦を宣言して回ったそうです。

 

休戦協定の有効期間は、当初、オリンピックの前後1カ月でしたが、武器を捨て、ときには敵地を横切りながらオリンピアを目指して旅をするために、最終的には3カ月を超えるようになりました。その期間、道中はゼウスによって守護されると信じられていました。

 

実際、驚くべきことに、五輪停戦は完全に守られました。記録によれば、停戦が破られたのは、ほんの数回で、それでも、紀元前776年から始まり約1200年間、290回以上実施された古代オリンピックは、ただの一度も戦争によって中止になったことはありませんでした。

 

競技を中断して戦争を続行するような協定違反は、「争いをやめよ」という神託にそむいた冒涜的行為とみなされ、また、神のための祭典を邪魔するポリスには神罰が下ると考えられていたのです。

 

では、次にオリンピック競技(「オリンピア祭典競技」)の中身をみていきましょう。

 

 

  • オリンピアの祭典

 

戦いの前に

選手たちは開催日の前の満月の日(約30日前)に、オリンピアの祭典の開催都市であるエリスの街へ到着し、ゼウス神に対して、参加の意思を宣言し、9ヶ月の訓練を受けたことを誓いました。また、そこで、競技審判からの最終チェックを受け、その力が一定の基準に達していないと判断された者は、参加資格を失ったそうです。

 

なお、古代ギリシャは完全な男性中心の世界でしたので、オリンピアの祭典に選手として参加できるのはギリシャ人の自由民の男子だけでした(自由民とは両親ともがギリシア人のこと)。もっとも、ローマ時代になるとギリシア人は自らをローマ市民と名乗るようになるため、両親のどちらかがギリシア人またはギリシャ語を理解できる者であれば参加できるようになりました。ただし、奴隷や外国人、女性の参加は認められていませんでした。オリンピアの祭典を一目見ようとギリシャ全土から観覧者が集まってきましたが、基本的には男性のみであったという現実がありました。

 

また、古代オリンピックでは、選手とコーチは全裸であったそうです。当時のギリシア人は鍛え抜かれた肉体など人間の表面的な美を追求し、そこに価値を見出していたと言われています。こうした背景もあってか、競技はすべて個人戦で団体戦はありませんでした。これも個人の修錬と努力を神々に見せるものだったからだと解されています。

 

競技種目

オリンピアの祭典で行われる競技の基本は徒競争で、第1回オリンピックの競技種目はスタディオン(競技場)を走る徒競争のみでした。その後、槍投げ・円盤投げ・幅跳び・レスリング加わり5種目競技となりました。古代オリンピックでは「5種目を制する者が真の優勝者だ」と言われました。最終的には、ボクシングや戦車競走などが追加され18種類の競技が行われるようになりました。競技種目の増加を受け、開催期間も当初は1日だったものが、5日間の開催となったと記録に残されています。

 

マラソン

古代オリンピックに、マラソン種目はなかったのか?という疑問をもつ人もいるのではないでしょうか?実際、マラソンの語源は、紀元前にギリシャ軍兵士がペルシアの大軍との戦いの勝利を報告するために、マラトンから約40km離れたアテナイまで走ったことに由来しています。勝利の報告後、使命を果たした兵士は力尽き、この兵士を偲んで、兵士が走った約40kmを走るマラソン競技が生まれ、現代のオリンピックでも花形競技の一つです。

 

しかし、古代オリンピックでは、長距離走は実施されたものの、約40キロを走る「マラソン」種目は記録がありません。実は、マラソン競技は、1896年にアテネで実施された近代オリンピック第1回大会から始まり、選手たちは、マラトンからパンアテナイ競技場までの約40キロのコースを走りました。

 

 

初日(宣誓)・2日目

祭典の初日は、神の前で宣誓式が行われました。その日の朝、選手とコーチたちは神域に入り、並び立つ審判越しにゼウス像を見ながら、父の名の下に「ルールを守り不正をすることなく全力で戦う」ことを誓いました。同時に、審判団も「公正なる判定を行い、オリンピアの祭典を汚さない」ことを誓ったされています。

 

2日目は、戦車競技と、前述した5種目競技がありました。戦車競技の中でも4頭立馬車による「競馬」が人気だったそうです。

3日目(最大の見せ場)

開催時期に関して前述したように、暦学的には、月の満ち欠けを使用した太陰暦に基づき、「夏至のあとの2回目(または3回目)の満月の日がオリンピア祭典の3日目になるように計算されました。なぜ、3日目なのかというと、オリンピアの祭典が最も盛り上がるの(オリンピア最大の見せ場)が、3日目であったからです。

 

その日は、ゼウス神へ100頭の雄牛(牡牛)が、生贄として捧げられ、神官や審判団、各国からの祭礼使節、100頭の牡牛とその曳き役、選手、コーチら関係者が神域を一周した後、ゼウスの大祭壇に奉納された牡牛(おうし)の喉がかき切られ解体されました。こうした点で、古代オリンピックは、当初、神(々)に捧げられる神事であったことがわかります。競技会そのものも神々への奉納であったわけです。

 

この日の競技が終わると、夕方からは大宴会となり、祭壇に捧げられた肉を受け取ることができました。解体された牡牛の大腿部がゼウスのために焼かれ、残った部位を皆で食べたとされています。

 

4日目

4日目の種目は格闘技と武装競争でした。格闘技はレスリングとボクシングとパンクラティオン(総合格闘技)で、どちらも相手が降参するまで戦ったとされています。祭典最後の競技となる武装競争は、重曹歩兵の装いを装備してスタディオンを1往復走るものです。

 

最終日(表彰式)

古代オリンピックの最終日は、勝者を称える表彰式が行われました。ゼウス神殿には、象牙と黄金のテーブルの上に、勝者の数だけオリーブの冠が用意されていたと言われています。冠は儀式のために選ばれた少年が黄金の鎌でゼウスの聖なる木から小枝を切り取って編んだものだそうです。

 

入浴を済ませて身なりを整えた勝者たちは、聖域の中でも最も神聖なゼウス像の前で名前を読み上げられ、そのオリーブの冠を頭に載せられました。その瞬間は最も神に近づく瞬間と表現されています。

 

古代オリンピックで優勝した者は、神々から寵愛されている者、もしくは神々の血を引く者とされ、祖国では大いに賞賛された。その栄光は何十年何百年と語り継がれます(もともと、古代ギリシャの信仰形態では、英雄は死後、神になると考えられていた)。

 

表彰式を終えてゼウス神殿から出るとコーチや友人たちに担がれて音楽に合わせて行進をしたそうです。戦いの後に優勝者だけの豪華な祝宴があり、このオリンピアの聖域に自らの像を置くことを許されたと言われています。こうして古代ギリシャ最大の祭典は閉会しました。

 

 

  • オリンピアの祭典の落日

 

古代オリンピックは、ヘレニズム時代を経て、紀元前146年にギリシャがローマ帝国に征服され、ギリシャがローマ帝国の一部(属州)となった後も続きました。オリンピア競技会は、ポリスが衰退してもギリシアの祭事として続けられ、ローマ帝国圏の国際行事化したのです。例えば、古代オリンピックはギリシア人以外の参加を認めていませんでしたが、ローマが支配する地中海全域の国から競技者が参加するようになりました。

 

それは、ローマがギリシャ文化を積極的に導入していたからで、初期の歴代の皇帝によって、オリンピックも手厚い保護を受け、さらに発展をしていきました。特に、暴君とも呼ばれ、スポーツ、芸能を好んだ皇帝ネロは、音楽や詩という競技を行わせ、自ら競技に出場しました。戦車競技に参加したそうですが、すぐに転落してしまい完走することはなかったにもかかわらず、優勝しました。また、自分が出場したいがために、オリンピックの開催の4年に1度の周期が1度だけ2年に1度になったこともあったと伝えられています。

 

その後、3世紀からのゲルマン人のペロポネソス半島侵入やキリスト教の隆盛により、ゼウス神の祭りであったオリンピックは次第にその勢いは衰えていきました。特に、キリスト教が公認され、392年には、テオドシウス帝がキリスト教を国教とし、さらに同年、異教徒祭祀の禁止令(異教の偶像崇拝とその祭典を禁止)が出されたことが決定的となりました。この結果、オリンピア競技は異教的な祭りとして否定され、オリンピア信仰を維持することは困難となったのです。

 

こうして、紀元前776年から始まった古代のオリンピック競技大祭は、393年の第293回大会を最後に廃止され、約1200年(正確には1169年)に及ぶ歴史の幕を閉じました。オリンピアのゼウス神殿は、邪教のものとして破壊され、オリンピアの街は、神々がオリンピアから立ち去ったかのように廃墟と化し、現在も、崩れ落ちた石のかたまりが点在するだけとなってしまっています。もっとも、古代オリンピック消滅後、長く荒廃していたオリンピアの地も、1766年にイギリス人のチャンドラーという人が発見し、現在も断続的に発掘が続いています。

 

  • 近代オリンピックの誕生

 

オリンピックは、19世紀末、フランスのクーベルタン男爵が、古代ギリシアのオリンピアの祭典をもとにして、世界的なスポーツ大会を開催する事を提唱したことをきっかけに復活しました。近代オリンピックは、1896年4月、第1回大会が、古代オリンピックの故郷ギリシャのアテネで開催されました。ただ、かつてのような神事の意味合いはなく、スポーツで世界を結びつける平和の祭典と位置づけられ、現在に至っています。

 

 

<参照>

古代ギリシャからリオデジャネイロまでオリンピックの聖火の歴史をたどる

意外と知らない「オリンピック聖火」の長い歴史

東京五輪の開幕に向け3月にギリシャで採火(2020/02/11、東洋経済)

オリンピックの原点がここに!(Tabiyori)

古代オリンピック・戦前のオリンピック(共立女子大学)

聖なる祭典(世界史の目)

オリンピックの歴史(JOC/Team Japan HP)

世界史の窓

コトバンク

Wikipediaなど

 

(2020年4月26日、最終更新日2024年8月27日)