ギリシャ王室:かつてギリシャにも王がいた!

 

現在のギリシャの正式な国名は、「ギリシャ共和国」ですが、オスマン帝国から独立した1830年から1974年まで断続的に、君主制の国で、国名も「ギリシャ王国」でした。ギリシャにかつて、王室があったことはあまり知られていないかもしれません。

 

今もギリシャの(旧)王家の人々は健在で、1974年に君主制が廃止されてから、ギリシャ国外で生活しています。しかも、現在もギリシャ王家としての称号を名乗り続け、一部の王族はヨーロッパの社交界で、華々しく活躍しています。今回は、そんなギリシャの王室の歴史と現状についてまとめてみました。

 

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◆ ギリシャ王室とは?

 

ギリシャの王室は、君主制が廃止された1974年まで、ギリシャ王国の統治者の地位にあったコンスタンティノス2世とその家族をさします。

 

元国王とその家族は、グリュックスブルク家(正式家名:シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=グリュックスブルク家)に属します。グリュックスブルク家は、デンマーク王家の分枝であることから、王室の成員のほとんどが「ティス・エラザス・ケ・ザニアス」(『ギリシャおよびデンマークの王子・王女』の意)の称号を持っています。

 

初代ギリシャ国王オトン(オソン)1世(在1833~1862)は、国内の支持基盤を確立できないまま退位し、1863年、英仏露などヨーロッパ列強国は、デンマーク王室のグリュックスブルク家のヴィルヘルム(クリステイアン・ウィルヘルム・フェルディナント・アドルフ・ゲオルク)王子を、ギリシャ王国2代国王に選出しました。ヴィルヘルムはギリシア風にゲオルギオス1世と名乗りました。

 

グリュックスブルク家出身のギリシャ王たちが、1864年から、中断をはさみながらも、1974年まで断続的にギリシャを統治したのです。

 

しかし、ギリシア王国は、その初めから外国の力を借りて独立したという弱みを背負い、イギリス、フランス、ロシア、そしてオーストリアとドイツという列強のバルカン半島政策に翻弄されました。また、同国の不安定な政情もあって、ギリシャの王制は、何度も崩壊と復古を繰り返しました。

 

では、この辺りのより詳細な経緯も含めて、近代に成立したギリシャ王国の歴史を振り返ってみましょう。

 

 

◆ オスマン帝国から独立・ギリシャ共和国誕生

 

1453年にオスマン帝国が東ローマ帝国に侵攻し、首都であるコンスタンティノープルを征服、ギリシャはオスマン帝国に属することになりました。その後、オスマン帝国による支配が続きましたが、1830年のギリシャ独立戦争の後のロンドン会議において、オスマン帝国からの独立が認められました。

 

ギリシャは、当初、共和国として発足し、ギリシャのイオニア出身で、ロシアの外務大臣を務めていたイオアニス・カポディストリアス(ロシア外務省の招聘を受け、アレクサンドル1世のもとで外交官として働いていた)が、ギリシャ共和国初代大統領に就任しました。

 

しかし、カポディストリアスは、1831年10月に暗殺されると、イギリス、フランス、ロシアの列強は、1832年のロンドン会議でギリシャを君主国とすることを決定しました(もともと欧州列強はギリシャを王制とすることを条件として支援していた)。

 

 

◆ 初代国王オトン1世(1832~1862)

ギリシャ王国誕生

 

そこで、ヨーロッパの王家の中から、南ドイツのバイエルン家(ヴィッテルスバッハ家)のオットー王子を、ギリシャ国王オトン1世(オソン1世)として迎え、即位させました(オトンは、オットーのギリシア名)。オトン1世は、オーストリアのザルツブルクで生まれたドイツ人で、バイエルン王ルートウィヒ1世の次男です。

 

こうして、1832年、外国人の国王をあてがわれる形で、ギリシャ王国が誕生しましたが、ギリシャは独立したとはいえ、欧州列強国の保護国に過ぎません。新国王は、キリスト教国によって過去の東ローマ帝国を再建しようとする夢を持っていたと言われていますが、ギリシアの伝統を無視してドイツ風の復古主義的な統治を行おうとしてうまくいきませんでした。

 

逆に、長年の戦乱で疲弊したギリシャの経済・秩序を回復させるどころか、重税を課すなどの失策をしたため、かえって国民の反感を買うことになってしまいました。そのため、国内の支持基盤を確立することはできないまま(また後継者も不在であった)、オトン王(オソン1世)は1862年、軍のクーデタによって退位を余儀なくされました。

 

 

◆ ゲオルギオス1世(1863~1913)

第1回近代オリンピック開催

 

オトン1世の廃位後、英仏露など欧州列強国は、デンマーク王室のグリュックスブルク家のヴィルヘルム(クリステイアン・ウィルヘルム・フェルディナント・アドルフ・ゲオルク)王子を、ギリシャ王国2代国王に選出しました。

 

ヴィルヘルム王子は、デンマーク王クリスチャン9世の次男で、議会で可決されると、デンマークの国教であるルーテル教会からギリシャ正教会に改宗し、1863年3月、ギリシア風にゲオルギオス1世として、17歳で戴冠しました。

 

このゲオルギオス1世とその妻のロシア大公女オリガ・コンスタンチノヴナが、現在のギリシャ王室全員の共通の先祖となります。ちなみに、イギリス女王エリザベス2世の夫・エディンバラ公フィリップ王配は、ゲオルギウス1世の孫にあたります。

 

フィリップ殿下は、ゲオルギオス1世の四男アンドレアス(国王の弟)と、バッテンベルク家(イギリスに帰化した人物は意訳した「マウントバッテン 」を用いている)出身のアリキ(アリス)の間の長男(第五子)として誕生しました。ギリシャの王制がクーデターで倒れると、赤ん坊だった殿下は家族とともに、英軍に救出されました。なお、バッテンベルク(マウントバッテン)家はビクトリア女王につながる名門です。

 

ゲオルギウス1世は国民からの人気も高く、ギリシャは活気づき、国内政治を安定させました。1864年には、ギリシャ憲法を制定しました。近代ヨーロッパで初めて「全ての」成人男性による選挙権を保障した進歩的な憲法で、ゲオルギウス1世も自ら遵守することを宣誓し、「王である前に国民の一人」という態度を示したのです。

 

1869年にエジプトでスエズ運河が開通すると、これに触発されてギリシアでもコリントス運河建設の機運が高まり、ギリシャの本土とペロポネソス半島をつなぐ陸地の狭まった部分を掘って造られたコリントス運河が1893年に完成させました。

 

さらに、1896年、近代オリンピック第1回大会がアテネで開催され、国威を高揚させました。

 

外交面においても、姻戚関係で繋がっているイギリス、ロシアと協力関係を構築していきました。イギリス王太子エドワード(後のイギリス王エドワード7世)はゲオルギウス1世の義兄に、またロシア皇帝アレクサンドル3世は義弟にあたります。

 

加えて、1912年に第一次バルカン戦争が起きると、ギリシャも参加して、マケドニアの一

部,クレタ島,大多数のエーゲ海諸島などを獲得しました。

 

このように、ゲオルギウス1世(在1863~ 1913)は、ギリシアの国際的地位を列強の被保護国から事実上の独立国へと高めるのに貢献したと評されましたが、1913年3月、ゲオルギウス1世は、ギリシャが獲得したテッサロニキを訪問した際、ブルガリアの社会主義者によって暗殺されてしまいました。

 

 

◆ コンスタンティノス1(1913~1917)(1920~1922)

第1次世界大戦とギリシャ・トルコ戦争

 

ゲオルギウス1世の死後、子のコンスタンティノス1世が即位し、翌1914年には第一次世界大戦が勃発しました。第一次世界大戦において、ギリシアは、最終的には連合国(協商国)側立って参戦しました。

 

勝利者となったギリシアは、パリ講和会議で、参戦の見返りとして敗戦国トルコから領土を割譲することを求めましたが、認められなかったことから、ギリシア軍は1919年5月、オスマン帝国領の小アジア西岸・スミルナ(イズミル)に侵攻、ギリシア=トルコ戦争(希土戦争)が始まりました。

 

ギリシア軍は緒戦では、イギリス軍の支援を受け、アンカラ近くまで進撃しましたが、のちにトルコ共和国初代大統領となるケマル=パシャ(ケマル=アタテュルク)の率いるトルコ国民軍の反撃を受け、1922年、トルコ軍によってスミルナを奪回され、敗北に終わりました。

 

希土戦争に敗れると、1922年9月、コンスタンティノス1世が軍事クーデターにより王位を追われ、長男のゲオルギオス2が後を継ぎましたが、政府によって、国会が将来の政治体制を決定する間、ギリシャを離れるよう要請され、亡命生活を強いられました。

 

 

◆ ゲオルギオス2世(1922~1924)(1935~1947)

ローザンヌ条約と第二次世界大戦

 

1923年にギリシア=トルコ戦争の講和として成立したローザンヌ条約において、「住民交換」が定められました。これは、トルコ領内のギリシャ正教徒と、ギリシャ領内のイスラム教徒を交換するという計画で、トルコ側からギリシアへ約110万のキリスト教徒が移住、ギリシア側からトルコへ約38万のイスラム教徒が移住するというものでした。実際は200万人が巻き込まれたとされ、その過程で多くの難民を出しました。

 

この住民交換の混乱の中で、ギリシャは、1924年4月の国民投票によって、君主制が廃止され、共和制を宣言しました。しかし、その後、1935年、共和政府内で軍人クーデタが起こりましたが、失敗し、混乱収拾のため国民投票が行われた結果、王政の復活が支持され、ゲオルギオス2世が帰還し即位しました。

 

第2次世界大戦期には、ギリシャがドイツの占領下にあったため、1941年から1944年まで国王とその政府は国外に避難し、カイロの亡命政権からギリシャ国民へメッセージを送り続けました。

 

ギリシャが連合国により解放されると、ゲオルギオス2世はイギリスの後押しで、1946年11月に帰国、再度王位に就きました(復位)が、翌年4月に急死し、弟のパウロスは王位を継承しました。折しも、ギリシャ王を中心とする旧支配者層による新政府(国王派)と共産党勢力による激しい内戦状態の最中の出来事でした。

 

 

◆ パウロス1世(1947~1964)

ギリシャ内戦終結

 

王制のもろさが露呈する中の即位でしたが、パウロス1世は、1949年までに内戦を事実上終結させることに成功し、1950年代になるとギリシャ経済は回復を果たし、外交と貿易も活発になっていきました。また、パウロス国王は、長年の敵対国だったトルコへギリシャの国家元首としては初の訪問を果たしました。

 

このように、内戦後のギリシャを立て直したパウロス1世でしたが、1964年に崩御し、子のコンスタンティノス2世が即位しました。

 

 

◆ コンスタンティノス2世(1964~1967亡命1973)

軍事政権の誕生・王政廃止

 

コンスタンティノス2世は、在任中、国軍と緊張状態となり、政局が不安定化、1967年4月、ゲオルギオス・パパドプロス大佐らに率いられた軍の中級将校グループがクーデタを起こし、将校グループは軍事独裁政権を樹立しました。

 

国王コンスタンティノス2世は当初、クーデターを追認しましたが、後に否定し、同年12月、独裁政権打倒のための逆クーデタを起こそうとしましたが失敗し、家族を連れてローマに亡命しました。これにより、ギリシャではしばらく国王不在のまま、形だけの君主制が続きます。

 

1972年、軍事政権のパパドプロス大佐は、コンスタンティノス2世の廃位と共和制移行を宣言すると、1973年6月、大統領に就任しました。翌7月、君主制廃止の是非を問う国民投票が行われ、王制廃止が支持された結果、1974年に君主制は正式に廃止となり、ギリシャ王国は8代目国王コンスタンティノス2世で終止符を打ちました。

 

コンスタンティノス2世の生涯

コンスタンティノス2世は1940年6月、パウロス1世と旧ハノーファー王家出身のフリデリキ王妃の第2子として誕生しました。スペインのソフィア王妃(前国王フアン・カルロス1世の夫人・現国王フェリペ6世の母)の弟にあたり、イギリス国王チャールズ3世とは、ともにギリシャ王ゲオルギオス1世の曽孫という間柄で、ウィリアム王太子の名付け親になりました。

 

1964年にパウロス1世の崩御によって即位し、同年、デンマーク王フレゼリク9世とイングリット王妃の三女で、デンマークの女王であったマルグレーテ2世の妹にあたるアンナ=マリアと結婚しました。

 

コンスタンティノス2世は、1967年の亡命後、家族と一緒にロンドンで過ごしていましたが、2013年にはアテネに戻り、晩年はアテネで過ごした後、2023年1月10日にアテネにて82歳で崩御しました。コンスタンティノス2世の崩御により、長男(第二子)のパウロス王太子がギリシャ王室第9代当主の座に就きました(ギリシャの王位継承は男子優先制)。

 

 

◆ 現在のギリシャ王室

 

目下、ギリシャ共和国に、王室は存在しませんが、国外へ亡命した王室の成員は、現在も存命で、前国王夫妻の子供(3男2女)全員がギリシャ国外で暮らしています。彼らは、未婚の時代は母アンナ=マリア王妃ともに、ロンドンに居を定めていました。

 

コンスタンティノス2世の子ども達

アレクシア王女(長女)(1965年7月生)

パウロス王太子(長男)当主

ニコラオス王子(次男)(1969年10月生):自然災害救済のNGO活動家

セオドラ王女(次女)(1983年6月生):女優

フィリッポス王子(三男)(1986年4月生):金融家(NY)

 

パウロス王太子(1967年5月生)当主

1995年7月にアメリカ出身のマリー・シャンタルと結婚しました。彼女は、アメリカの富豪、空港の免税店で知られるDFSグループの創業者ロバート・W・ミラーの次女で、2000年、子ども服ブランド「マリー・シャンタル」を創業しています。

 

ミラー家の3姉妹は、1990年代を代表する社交界の華として脚光を浴びました。マリー・シャンタルの姉のピアはアメリカの石油王ジャン・ポール・ゲティの孫と結婚。妹のアレクサンドラは、デザイナーのダイアン・フォン・ファステンバーグの息子と結婚。ピアとアレクサンドラは離婚しましたが、ミラー家の3姉妹は、現在もセレブリティとして注目されています。

 

パウロス王太子とマリー・シャンタル王太子妃は、4男1女に恵まれ、なかでも、長女のマリア=オリンピア王女(1996年7月25日、ニューヨーク生)は、イギリス国王チャールズ3世が名付け親となり、2017年にモデルとしてデビュー。モデル、ソーシャライトなど、活躍が注目されています。

 

マリア=オリンピア(長女)

コンスタンティノス・アレクシオス(長男)

アキレアス=アンドレアス(次男)

オディッセアス=キモン(三男)

アリステイデ・スタウロス(四男)

 

ギリシャの王家の人々はギリシャ王族としての称号を名乗り続けていますが、ギリシャは共和制で、もはやギリシャ国家を代表する存在ではありません(君主制が廃止され、国王が他国へ亡命したことで、ギリシャ王室は存在しない)。

 

それでも、現在でもギリシャ国王の家系は存在するため、王族としてギリシャに復帰する(戻る)こともありえますが、その可能性は低いとされています。

 

むしろ、ギリシャ王家の人々は、「ティス・エラザス・ケ・ザニアス」(『ギリシャおよびデンマークの王子・王女』の意)の称号を持っているので、本家筋にあたるデンマーク王家の家長とデンマーク政府の承認があれば、デンマーク王族の列に連なる権利を有しています。

 

 

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ギリシャ史 (近現代):独立戦争から王政崩壊まで

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(参照)

ギリシャ王室は現在どうなっている?最後の国王コンスタンティノス2世や王室メンバーを一挙紹介!

(2023.03.17、POINT DE VUE JAPON)

デンマーク出身のゲオルギオス1世~独立したギリシャの王様になる

(2023/03/30、武将ジャパン)

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(2024.03.02, フィガロ)

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(2021/04/09、読売)

ギリシャ王国

(Wikipedia)

 

(2024年10月12日)