ギリシャ史 (近現代):独立戦争から王政崩壊まで

 

学校で学ぶギリシャの歴史は、ヘレニズム時代以降、ほとんど書かれておらず、わずかに、「ギリシアはローマに征服された」という記述程度で終わり、それ後は、近代以降、ウィーン体制下で、ギリシャの独立という形で、歴史に再登場します。今回は、埋もれた中世ギリシャ史を掘り起こしつつ、前回投稿のギリシャ史(古代)と合わせて、西洋文明発祥の地・ギリシャの全史を概観します。

 

なお、古代のギリシャ史については、「ギリシャ史 (古代):エーゲ文明からローマ支配まで」を参照(赤字をクリック)

 

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<ローマからビザンツへ >

 

395年に、ローマ帝国が東西に分裂し、東西ローマは、さらに、1054年のキリスト教会の東西分裂によって、西のローマ=カトリック教会と東のギリシア正教会(東方正教会)とにも分離しました。この結果、中世ギリシャは、西ヨーロッパのキリスト教世界とは異なる、ギリシア正教会の東ローマ帝国(ビザンツ帝国)に属すことになりました。この時期、中世のギリシャ人は、ローマ帝国よりも古い古代ギリシャの血統を引き継ぐ、古代ギリシャの末裔とでもいうプライドを宿していたと言われています。

 

その理由としては、古代ギリシャ語が新約聖書の言語であったということがあげられるます。ギリシャ語は極めて古い言語で、ラテン語以前は国際語としては広く活用されました。アラム語というマイナーな言葉で始まったキリスト教は、イエスの弟子・パウロによってギリシャ語の新約聖書が書かれたことで、ヨーロッパ全土に広がりました。この意味では、ギリシャは地理的には東ヨーロッパですが、ヨーロッパ全体を作った存在とみられています。

 

また、東ローマ帝国は、ビザンツ帝国とも呼ばれますが、「ビザンツ」はギリシャ語であり、東ローマ帝国はギリシャの世界、「ギリシャ人の帝国」であるとの言い方もなされます。その帝国は、キリスト教の東西分裂後、東のギリシャ正教会が、ギリシャを拠点に、スラブ民族全体に拡大するなど、スラブ民族の文化にも大きな影響を与えました。たとえば、ロシア文字(キリル文字)は、ギリシャ文字からつくられ、ロシアはギリシャと文化的背景が似ています。

 

 

<十字軍時代>

 

しかし、そうした東ローマ帝国(ビザンツ帝国)も、7世紀にアラビアに登場したイスラム教に、エジプト、シリア、小アジアを次々と征服され、ビザンツ領はほぼギリシア本土のみとなってしまいました。

 

さらに、13世紀初めに、西欧キリスト教の十字軍に占拠・分割されてしまいました。もともと、イスラムの圧迫に苦しみビザンツ帝国の要請から始まった十字軍運動でしたが、やがて、聖地奪回よりも、商業的利益に左右されるようになると、第4回十字軍は、コンスタンティノープル商人と利害対立するベネチア商人の要求に応じて、事もあろうに、首都であるコンスタンティノープルを占領し、ラテン帝国を建てしまったのです。

 

ただし、この十字軍によって、キリスト教文明がイスラム文明と接触する機会ともなり、イスラムを介して、ヨーロッパに古代ギリシアの文献が伝えられ、後のルネサンスに繋がるきっかけを作りました。

 

 

<オスマン帝国の支配> 

 

ラテン帝国は一時的な支配でしたが、1453年、オスマン・トルコ(オスマン帝国)が東ローマ帝国に侵攻し、コンスタンティノープルを征服、ビザンツ帝国は滅亡しました。1456年には、オスマン・トルコは、アテネを占領、ギリシャはオスマン帝国の長い支配に入りました。

 

これによって、バルカン半島全体のイスラム化が始まり、古代ギリシア文明の栄光は次第に失われ、正教会の拠点もモスクワに移りました。民族意識も言語も大きく変貌し、オスマン帝国の支配下でさまざまな民族との混血も進み、イスラム教徒に改宗する人も出てきました。まさに、長きにわたって存在した「ギリシャ人の世界」は消えかけていきました。

 

 

<ギリシャの独立>

 

しかし、オスマン帝国の支配力が弱くなった17世紀末から、いわゆる東方問題が起こり、19世紀に本格化してくると、ギリシャに独立の気運が高まってきました。東方問題とは、オスマン帝国とその支配地域をめぐるヨーロッパ諸国の外交問題をいいます。ギリシャに関していえば、キリスト教徒(ギリシア正教徒)の自立で、これがオスマン帝国から独立を目指す運動につながったいったのです。

 

これは、当時のナポレオン戦争後のウィーン体制が保守反動となり、自由主義的(リベラル)な動きを抑え込んだことに対して、民族の独立を求めるナショナリズム(国民主義)が高まったことが背景にありました。また、西欧諸国で、「ギリシア愛護主義(フィルヘレニズム)」(ギリシアを西欧文明の起源の地として尊崇する運動)が盛んになったことも、ギリシャを支援する動きに連動していきました。

 

◆ ギリシャ独立戦争

 

ロシアを含む欧米諸国はギリシャを支援しますが、ギリシャは地中海に突き出た半島なので、地政学的にも重要な場所であることから、ロシア、イギリス、フランスなどのヨーロッパ列強が介入して、駆け引きが繰り広げられました。

 

不凍港を求めて「南下政策」を進めるロシアは、この場所に軍港をつくることを望み、19世紀以降、ギリシャを始めとした、バルカン半島の国々に介入を試みてきました。このロシアの干渉を嫌ったのがイギリスとフランスです。とくに、インドを植民地にしていたイギリスには、インドへ至る「地中海ルート」の安全を確保したいという思惑があり、ギリシャにロシア軍が進出してくることに反対しました。

 

こうした背景下、1821年、ギリシア独立戦争が始まりました。ギリシャは独立を宣言して戦闘を開始すると、1822年に憲法を発布して、暫定政府を設立しました。戦いは、1827年のナヴァリノ海戦(ギリシア・ナヴァリノ湾での、オスマン帝国艦隊と、実質的にはギリシャを支援する英仏露の連合艦隊の海戦)で優位を確定し、1829年のアドリアノープル条約によって自治国としての独立が認められました。

 

1830年に、ロンドン会議が開催され、列強間でギリシャの完全独立を規定したロンドン議定書が締結、最終的に、1832年6月のコンスタンティノープル条約でギリシャの独立は正式に承認されました。古代、マケドニア王国からオスマン帝国に支配されていた期間を考慮すれば、約2000年ぶりに国家が復活したことになります。

 

なお、ギリシャでは、独立宣言をした1821年3月25日を独立記念日とされていますが、歴史的には、1830年にギリシア共和国として独立してからが近代ギリシアと位置づけられています。

 

◆ ギリシャ共和国から王国へ

 

1830年に独立したギリシャは、当初は共和国として発足し、ギリシャのイオニア出身で、ロシアの外務大臣を務めていたイオアニス・カポディストリアス(ロシア外務省の招聘を受け、アレクサンドル1世のもとで外交官として働いていた)が、ギリシャ共和国初代大統領に就任しました。

 

しかし、カポディストリアスが1831年10月に暗殺されると、イギリス、フランス、ロシアの列強はギリシャを君主国とすることを決定しました。もともと欧州列強はギリシャを王制とすることを条件として支援していたことから、ヨーロッパの王家の中からドイツのバイエルン家(ヴィッテルスバッハ家)のオットー王子を、ギリシャ国王オトン王(オソン1世)として迎え、即位させました(オトンは、オットーのギリシア名)。

 

ギリシア王国・初代のオトン王は、ギリシアの伝統を無視してドイツ風の統治を行おうとしましたが失敗し、国内の支持基盤を確立することはできませんでした。後継者も不在のなか、オトン王は1862年の軍のクーデタによって退位を余儀なくされると、次の国王には、デンマーク王室のグリュックスブルク家から、デンマーク王クリスチャン9世の王子ヴィルヘルムが据えられました。

 

外国人の国王をあてがわれて独立を認められるという事例は、欧州ではめずらしいことでありません。そのため、当時のギリシャは欧州列強国の保護国の地位に甘んずることになりました。ヴィルヘルムはギリシャ正教に改宗して1863年、ギリシア風にゲオルギオス1世として戴冠しました。1896年には、第1回近代オリンピックがアテネで開催され、ギリシアがヨーロッパの源郷であるという意識の高まりに役立ちました。

 

大ギリシア主義

このギリシア王国は、ほぼペロポネソス半島とエーゲ海のいくつかの島々だけで現在のギリシアから見ればごく限られた地域を占めるだけで、マケドニアやクレタ島、小アジア西岸に多くのギリシア人が住んでいましが、彼らは依然としてオスマン帝国の支配を受けることとなっていました。そのため、ギリシア人の中かから、小アジアも含めてのギリシア人居住地域すべてをギリシアとして統合すべきであるという大ギリシア主義(メガリ・イデア)の考え方が起きてきました。

 

 

ギリシア語論争

言語の面では、民衆の使うギリシア語(ディモティキ)は、古典時代のギリシア語とは全く違ったものになってしまっていたが、ギリシア独立運動の中で、独立後のギリシアにおける公用語を、民衆に広く用いられていた民衆語(ディモティキ)か、古典ギリシア語を復活させた古典語(カサレヴサ)のいずれにするかで議論となりました。これを、ギリシア語論争といいます。

 

歴史に遡れば、インド=ヨーロッパ語系の古代のギリシア人は、いくつかの方言を分かれて使っていましたが、ヘレニズム時代にアテネを中心としたアッティカ語が、イオニア方言など各地の方言と混合してコイネー(共通語)が生まれ、それが「ギリシア語」として公用語とされました。

 

このコイネー(共通語)は、アレクサンダ―大王の東征を契機に、小アジア、パレスチナ、エジプトから、一時はインドにまで至る広大な地域で用いられたといわれ、ビザンツ帝国時代まで活用されました。しかし、オスマン帝国時代には公用語ではなくなり、古典時代のギリシア語は、ギリシア正教会の中の特殊な言葉として残っていたそうです。

 

19世紀に西欧諸国で、ギリシアを西欧文明の起源の地として尊崇するギリシア愛護主義が盛んになると、その影響を受けて、かつてのコイネーを古典語(カサレヴサ)として復活させ、公用語としようという動きが強まりました(ギリシア王国では学校教育の中で強要されることもあったと言われている)。

 

一方、民衆の中では長い時間と異文化の影響の中で大きく変化し、民衆語「ディモティキ」が形成されてきました。(両者は、文字は同じだが、文法や発音ではかなりの違いがある)。古典語「カサレヴサ」か民衆語「ディモティキ」かのギリシア語論争は、その後も続きましたが、1976年にようやく、ディモティキを公用語とすることが決まりました。

 

 

◆ バルカン戦争

 

さて、1821(1830)年に独立を果たしたギリシア王国は、はじめから外国の力を借りて独立したという弱みが続きました。前述したように、ギリシャは、古代からヨーロッパとアジアが出会う場所であり、そのために紛争が絶えることがなかったため、その後もヨーロッパ列強のバルカン半島政策に翻弄され、王政は安定せず政治的混乱が続きました。

 

独立後のギリシャは、ビザンティン帝国時代の領土回復をめざして、トルコ領土内に国土拡張政策をすすめました。ギリシア人にはトルコ(当時はまだオスマン帝国)領内のギリシア人居住地を統合しようという大ギリシア主義の考えが続いており、当時トルコ領であったクレタ島などで激しいギリシアとの統合を求める暴動が起こっていました。

 

オスマン帝国で1908年に青年トルコ革命が起こって動揺すると、ギリシアはそれに乗じて、セルビア、ブルガリアなどバルカン諸国とともにバルカン同盟を結成し、1912年10月、オスマン帝国に宣戦布告し、開戦しました(第1次バルカン戦争)。戦闘はバルカン同盟側の勝利に終わり、13年5月ロンドン条約による領土分割で、ギリシャは、オスマン帝国からクレタ島を獲得し、また、セルビア・ブルガリアとともに、かつてのアレクサンダ―大王の故国マケドニアを三分割しました。

 

その後、マケドニア分配をめぐって不満であったブルガリアが、1913年6月にセルビア・ギリシアに侵攻して戦争となりましたが(第2次バルカン戦争)、大国の介入もあってブルガリアの敗北で終わり、8月にブカレスト講和条約が締結されました。ギリシャは、ブルガリアから、テッサロニキを含むマケドニア南部を、またオスマン帝国からエーゲ海東岸の島々を獲得しました。

 

なお、現在のマケドニアは、この第2次バルカン戦争でギリシア領となった地域を併合する意欲を持っているとされ、また国名を巡っても、ギリシャとの対立の火種となっています。

 

 

<第一次世界大戦とその後>

 

第一次世界大戦が開始された当初、ギリシアは中立を宣言しましたが、イギリスはバルカン戦線の橋頭堡(きょうとうほ)としてギリシアのサロニカに上陸したことから、ドイツやトルコなどの同盟国側か、英仏露の連合国(協商国)側かの選択を迫られた結果、1917年6月、ギリシアは連合国(協商国)側に参戦しました。

 

これによって、第一次世界大戦の勝利者となったギリシアは、パリ講和会議に出席し、イギリス・フランスに対して参戦の見返りとして敗戦国トルコから領土を割譲することを主張しました。

 

◆ ギリシャ=トルコ戦争

 

しかし、ヴェルサイユ条約でギリシアの主張が認められなかったことから、ギリシア軍は1919年5月、オスマン帝国領の小アジア西岸・スミルナ(イズミル)に侵攻、ギリシア=トルコ戦争(~22)を起こしました。

 

ギリシア軍はイギリス軍の支援を受け、アンカラ近くまで進撃しましたが、逆に、トルコの民族運動に火をつける結果となり、のちにトルコ共和国初代大統領となるムスタファ=ケマル(ケマル=パシャ/ケマル=アタテュルク)の率いるトルコ国民軍が反撃に転じてたためギリシア軍は後退し、1922年に、トルコ軍によってスミルナを奪回され、敗北に終わりました。

 

ギリシャ軍がスミルナから撤退した後に残されたキリスト教徒、約3万人が、トルコ軍によって虐殺されたことや、多くのギリシア人避難民の溺死者を出しました。この事件は、現在に至るまでギリシアとの感情的な敵対意識を残すこととなりました。

 

1923年にギリシア=トルコ戦争の講和として成立したローザンヌ条約において、ギリシャとトルコの対立の要因を排除する目的で、互いの領内に居住している住民を交換することが定められました。住民交換の対象は、言語や民族ではなく「宗教」とされ、トルコ領内のギリシャ正教徒と、ギリシャ領内のイスラム教徒を交換することになりました。トルコ側からギリシアへ約110万のキリスト教徒(アナトリアのギリシャ人)が移住し、ギリシア側からトルコへ約38万のイスラム教徒(ギリシャ系イスラム教徒)が移住しました。実際は200万人が巻き込まれたとされ、その過程で多くの難民を出しました。

 

トルコ領内に居住する正教徒は「ギリシャ人」とみなされてギリシャへ追放、ギリシャ領内に居住するイスラム教徒は「トルコ人」とみなされてトルコ領内に追放され、事実上、故国から国籍を剥奪されました。この強制的な住民交換は、様々な悲劇を生み、双方の感情の悪化はさらに強まったと言われています。なお、イスタンブルのギリシア人はギリシア正教の総本山である世界総主教座と共に交換の対象にはされませんでした。

 

◆ 王政⇒共和制⇒王政、軍事独裁政権へ

 

この住民交換の混乱の中で、ギリシャは、1924年に王政から、一時共和制に移行し、28年から、ヴェニゼロス前首相が政権に復帰、トルコとの和解も図られました。ところが、1935年、ヴェニゼロス派の軍人のクーデタ未遂事件が起き、国政が混乱、事態収拾のため国民投票が行われた結果、ギリシャは再び王政が復古され、コンスタンティノス1世の子女であるゲオルギオス2世が即位しました。

 

その後に実施された1935年の総選挙において、当時の議会は、人民党(王政支持)と自由党(共和派=ヴェニゼロス派)が拮抗し、一方で共産党がキャスティングボートを握る状況となるなか、国王は、当時陸軍相であった反共主義者(陸軍の軍人で極右政党・自由言論党の指導者)のメタクサスを首相(在任1936~41)に任命しました。

 

同年6月になり国内の不安が広がっていくと、メタクサスは軍事クーデターを敢行、非常事態宣言を出し、議会の停止・憲法の無期限無効化を国王の承認の下で宣言し、1936年8月、軍事独裁政権を成立させました。

 

 

第二次世界大戦とその後>

 

第二次世界大戦の1940年、ギリシャは、イタリア軍の侵入を撃退しましたが、翌年、ナチス・ドイツがバルカン半島に進出してくると屈服、占領され、国王はカイロに亡命しました。

 

ギリシャの国土は、結果的にドイツ、イタリアなどに分割されると、国内ではレジスタンスが組織され(当初イギリスもソ連もレジスタンスを支援)、多くのギリシャ人がレジスタンス活動に身を投じ、その中でも、共産党の地下抵抗組織ELAS (民族解放戦線/ギリシア人民解放軍)が最も勢力を伸ばしました。

 

◆ ギリシャ内戦

 

第二次世界大戦末期の1944年、ドイツ軍が撤退すると、10月、イギリスのチャーチルと、ソ連のスターリンはパーセンテージ協定といわれる秘密協定を結び、ギリシアは戦後、イギリスの管理下に置かれました(ソ連はルーマニアを支配下においた)。

この協定に基づき、解放軍としてギリシアに入ったイギリスは、1946年に国王の帰国を実現させました。しかし、共産党勢力などが抵抗したため、1946~49年まで、共産党勢力と、イギリスに後押しされた、亡命先から戻ったギリシャ王を中心とする旧支配者層による新政府(国王派)とによる激しい内戦状態となりました。

 

その過程で、ギリシャ共産党を中核とする統一戦線的レジスタンス運動とイギリス軍との軍事衝突も発生するなど、内戦の泥沼化の懸念が高まるなか、内戦に手を焼いたイギリスは、1947年初め頃、戦後のイギリス本国の経済危機が深刻化したことから、ギリシアから撤退を開始しました。

 

その後、イギリスに代わり、アメリカが、1947年3月(5月)、トルーマン=ドクトリンを掲げて介入し、10数億ドルという巨額の経済援助をつぎこんで、国王派の新政府(軍事政権)を支援しました。アメリカが介入した理由は、第二次世界大戦後、東西冷戦が勃発し、東ヨーロッパ諸国が軒並みソ連圏となるなか、最後に残ったギリシャを共産主義の防波堤とするためでした。

 

アメリカの支援を受けた軍事政権によって、共産党勢力を徹底的に弾圧されました。左派は次第に追いつめられ、多くは東欧やソ連に亡命していった結果、1949年10月、内戦(内乱)は終結しました。

 

◆ 軍事独裁政権と王政廃止

 

ギリシャは、北にアルバニア、ユーゴスラヴィア、ブルガリアの共産圏に接しているため、その後もアメリカ軍はギリシャに駐留し続け、ギリシアはトルコとともに東ヨーロッパのソ連圏に対峙する最前線の西側国家としてNATOに加盟し、軍事体制の強化が続きました。

 

このため、内戦終結後、王政のもと立憲政治が行われていましたが、軍の発言権が増すと、親米・親ソ派同士による政党間の争いが厳しく政情は不安定となりました。その結果、1967年4月、陸軍将校による軍事クーデターが起こり、国王コンスタンティノス2世は国外に亡命,軍事独裁政府が成立しました。首相には、軍事政権の中心人物パパドプーロス大佐が就任しました。

 

ギリシャ軍事政権は1973年7月に、既に名目的な存在となっていた国王コンスタンティノス2世を廃位して共和制を宣言、国民投票を経て、8月、長く実質的な最高権力者の座にあったパパドプーロスが初代大統領に就任しました。しかし、行き過ぎた独裁は、国民の反発を招き、そのパパドプーロスも、同年 11月、民主化を求めるアテネの大学生のデモを契機(鎮圧に多数の死傷者を出した)に、強硬派のディミトリオス・イオアニディス准将による無血クーデターによって解任され、イオアニディスが政権を掌握しました(王政に復帰)。

 

その後、ギリシャは、74年7月、キプロスをめぐって、トルコと軍事衝突し敗北、トルコによるキプロス北部の占有を許したことで、国民の信望を失い、新軍事政権も崩壊しました。これを受け、パリ亡命中のコンスタンティノス・カラマンリス元首相が復帰し、民政政権を組織しました(王政崩壊)。アメリカの支援を受けて20年ほど続いたギリシャの軍事政権も、1970年代、庇護者であったアメリカに見捨てられて形となって、民政移管を認めざるをえなくなったのです。

 

1974年12月、国民投票の結果、ギリシャの王制が正式に廃止、ついに復活されませんでした。75年6月には、新憲法が制定、新大統領を選出して、ギリシャ共和国(共和制下の立憲体制の国)が誕生しました。

 

その後、ギリシャの内政は、大ギリシア主義を継承したカラマンリスの「新民主主義党(ND)」と、「ギリシア人のためのギリシア」を標榜した「全ギリシア社会主義運動(PASOK)」、の二大政党が、選挙で政権を取り合いながらの運営となりました(PASOKは後に「急進左翼進歩連合」(シリザ)に継承)。

 

現在のギリシャについては、「ギリシャ:西洋文明発祥の地の到達点」へ

 

 

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<参照>

ギリシャ(世界史の窓)

ギリシャとは(コトバンク)

ギリシャの歴史(Wikipedia)など

 

(2024年10月14日)